戸部良也 著
発行:風人社
仕様:四六判 上製本312頁
定価:本体2,500円+税
2005年2月25日発行
ISBN9784-938643-20-1 C0075
★日本図書館協会選定図書
ヘミングウェイが魅せられたカリブ海の美しい国、キューバ。 日本のプロ野球はもちろん、ドミニカなど中南米、台湾、韓国の野球を取材し続けてきた第一人者の著者が、十数年の取材で見てきたキューバの国民生活、スポーツ学校、そしてオリンピック金メダルの野球を語る。 キューバへ行きたくなる本。
著者紹介
戸部良也(とべ・よしなり)
1934年石川県生まれ。 ノンフィクション作家。 日本やアメリカはもちろん、キューバ、ドミニカなど中南米から台湾、韓国、中国などの野球を中心としたスポーツを取材。日本文芸家協会会員、アメリカ野球学会会員、中華職業棒球(台湾プロ野球)顧問。 主な著書は『堤義明は何を考えているか』『白球の星を追え』『村田兆治・男のマウンド』『燦いた男たち プロ野球戦後人物史』『熱将 星野仙一』『怪物伝説 松井秀喜』など多数。 ベストセラー『遙かなる甲子園』は映画、舞台公演、劇画化され、海外で中国語、韓国語訳も出版されている。
本書の目次
はじめに キューバという国
第1章 快楽のスポーツ主義
- スポーツ広場の週末
- あふれるスポーツ主義
- スポーツ主義への入口
第2章 これがスポーツ学校だ
- スポーツ学校はこうして生まれた
- スポーツ科学の実践現場
- 選抜テストとスポーツママ
- デスパイネの夢
第3章 史上最強の野球軍団
- キューバ野球の強さの秘密
- 頂点を究める先進システム
- ナショナル・チームの一年
第4章 金メダル選手の作り方
- 日本最大の敵・キューバ野球の内情
- 野球少年たちの夢
- スーパースター、オマール・リナレス
第5章 キューバ野球と日本
- 狙われるキューバの選手たち
- クーバ・デポルテ
- 野球場の午後
- 動き出した日本球界
- 急変を続けるキューバ球界
第6章 カストロが行く
- 社会主義嫌いのカストロ・フリーク
- 魅力的なカストロ流
- アメリカの影
第7章 美しく魅惑的なキューバ
- マリーナ・ヘミングウェイ
- ハバナの朝
- 躍動するキューバ
- キューバ人の生活
- ヘミングウェイの海
- ツーリスト・イン・キューバ
あとがき
本書の紹介 <はじめに>より
この項を書いているいまは、アテネ五輪(二〇〇四年夏)が終了した直後である。このように日付を記入するのも、キューバ共和国という国が激しく揺れ動いているからである。僕がはじめて足を踏み入れたのは十二年前の一九九二年五月だったが、以後、年に二度、三度も訪れるほど、この美しいスポーツ主義の国にはまり込んでしまった。
しかし訪れるたびに変化していて、変わらないのはきれいな海と、オールド・ハバナのしっとりとした欧風のたたずまい、そして音楽、ヘミングウェイが通ったという店ぐらい。いや、キューバ人のスポーツ好きと、国技であるベースボールのプレーヤーの熱心さ、ファンの多さも変わらない。だが、そのスポーツ界も米国に渡れば大金が稼げる野球を中心に、さまざまな種目のスポーツ選手が亡命を続発させている。それでも次から次と若い選手が台頭してきて、スポーツ大国を維持している。
市民の生活は、一九五九年の社会主義政権樹立の頃から、当初は生活用品すべてを配給に頼っていた。が、ソ連の崩壊で最大の援助国を失ってからは、極度のエネルギー不足で首都ハバナ市とその周辺では、バスもほとんどストップしてしまい、延々と行列を作って、いつやってくるとも知れないバスを待つ人や、道を歩く人たちであふれていた。僕が取材用に支給された車で通ると、ワーッと群がってきて便乗をせがまれた。 ?軍人が手を挙げたら乗せてあげなくてはならないことになっている」
運転手のEさんはこう説明して、何人かの兵士を乗せたことがあった。車を持っている人でもガソリンが買えず、僕が取材証明書とパスポートを提示して満タンにしているのを、うらやましそうに見つめられるのには閉口したことも度々であった。
やがて、観光客も増え、ホテルの前にタクシーが並ぶように変わってきた。しかも米ドルがキューバ人でも使えるようになり、それまで外国人専用だった店がキューバ人にも開放された。
農家は供出以外の収穫品を青空市場で販売して収入を得られるようになり、ハバナではテーブル三卓までの条件つきで、家庭料理のレストランができた。
街にも活気が見え、歩き回っていても心地よかった。しかしその一方で、いぜんスポーツ選手、ことに国家代表チームの野球選手の亡命が続いた。
このような変化の激しさのために、僕が初めて訪れてからの十三年間のキューバの全てを書き綴ってゆくなかで、何度も書き直し、書き足してきた。
そして、五輪野球でキューバが金メダル国に復活した二〇〇四年、スポーツ主義の貧しき楽園を、いよいよまとめあげることができた。
キューバはアテネ五輪で、計画通りに野球で金メダルを獲得した。
キューバを訪れて、まず驚くのはどこに行っても野球のにおいがすることである。街角でも手製のボールを二、三人で投げて打って遊んでいる少年、広場では大声を張り上げてゲームをしている。もちろんハバナ市では、キューバの誇るナショナル・スタジアムは、早朝から一日中ベースボールが行われている。
少年野球からオールドプレーヤーのゲームまで、どの顔も実に楽しそうであり、「キューバの野球は世界一」と誇らし気である。
だがオリンピックのメンバーは少し違った。キューバ野球を世界一にしなくてはならない。我々は金メダルを獲得しなくてはならないのだ、といった緊張感で張りつめていた。キューバは一九九二年のバルセロナ(スペイン)五輪に久々に出場した。米ソ冷戦のために一九八〇年のモスクワ(ソ連)大会を西側がボイコットし、そのお返しとばかりに一九八四年のロサンゼルス(米国)大会はソ連、キューバなど東側がボイコットした。五輪の野球はこの一九八四年のロス大会から公開競技として認められた。実はこの五輪野球第一回で、キューバが欠場したため、アジアで補欠だった日本が出場権を得た。そして優勝してしまったのであった。
次の一九八八年のソウル(韓国)大会もキューバは欠場。
このソウル大会の後から、野球は正式種目となった。バルセロナ大会(一九九二年)からキューバは出場したが、圧倒的な強さで優勝を果たした。次のアトランタ(米国)もやはりキューバのものであった。この頃からキューバ選手の亡命が相次ぎ、国代表チームの有力メンバーが次から次と妻子や親をキューバに残したまま亡命していった。 彼らには亡命を手引きする人もいて、米国へ渡れば、即メジャーリーグのチームと数百万ドルもの契約を結び、メジャーでプレーできるという夢があって、海外遠征中に脱出したり、ときには漁船をチャーターしたり、手製のいかだで夜のメキシコ湾に漕ぎ出していったりであった。
こうして代表チームの主軸が欠けても、スポーツ主義を標榜する国らしく、後から後から若い凄い選手が出現してきて、世界大会になると全て優勝していったのであった。バルセロナで、このキューバの最大のライバルである米国(全員が学生のチーム)は、キューバに敗れたばかりか三位にも入れなかった。続いて、アトランタでもまたキューバに負けて銅メダル。さすがにアトランタは地元開催だけに、野球発祥の国の米国としてはこれはショックであった。
そして米国は、「学生チームでは、これからも野球を国技とし、国内のリーグ戦を戦う十六チームから選抜した、プロのようなアマ選手でチームを編成しているキューバには勝てない。国際野球連盟(IBAF)は、国際大会にプロでも出場できるようにすべき」と提案した。
これは野球の発展に多大な力を及ぼしている米国の意見だけに、すんなりと通った。そこで二〇〇〇年のシドニー(オーストラリア)五輪からはプロ選手も出場できることになった。
同時に、それまで使われていた金属バットが使用禁止となり、木製バット使用が義務づけられた。理由は、プロの選手の打球が速くて、金属バットだと投手や一、三塁手などは危険だということと、プロ選手が金属で打つと飛び過ぎてゲームがつまらなくなる、といったことであった。
しかしこのバットの変更は、キューバ選手にとっては大変なことだった。それまで金属バットでしかプレーしていなかったから、木製の微妙なタッチを知らなかった。事実、金属だと少々つまっていても、当たれば飛ぶし、折れる心配もないから思い切り振れた。当時のキューバチームは豪快なホームラン打者がそろっており、全盛期のO・リナレス(04シーズンまで中日一塁手)などは、国内リーグ戦(百十五試合)で六十ホーマー以上、打率四割以上を何度か記録したほどであった。
だが木製になると、初めのうちは実によく折った。練習中に一人で一日に数本も折るといったことも珍しくなかった。これには悲鳴を上げた。金属バットは国内唯一のスポーツ用品製造工場「バトス」で作っていたし、日本、カナダなどから購入しても一度買えば長く使用できた。が、木製はそうはいかない。メジャーや日本のプロなどは選手ごとに一度に百本ほどずつ注文して、その中からバランスのいいもののみを試合で使っているほどで、バットはたくさん必要だ。金銭的なこともあって、これには当初は相当に困った。そうした中でプロも参加してのシドニー五輪になった。
プロ解禁にはなったが、メジャーリーグの選手会が出場を拒否したため、米国はAAA中心のマイナーの選手でチーム編成した。日本はプロとアマが半々という微妙なバランスをとったチームを編成し、結局四位になってしまったが、韓国はほとんどプロが主力であった。
これにひきかえキューバは、バットが木に代わって、長打力から俊足好打のチームに変えていたにもかかわらず、相当に戸惑っていた。
そして米国に敗れ、二位になってしまった。
キューバにとって野球の国際大会で優勝できないということは大変なことだ。シドニーから帰国後、すぐに監督をはじめ、チームの幹部のほとんどが更迭になった。同時に選手たちも、豪打で黄金時代を誇り、世界最強軍団といわれた主軸打者たちを「国家代表チーム卒業」というかたちではずし、思い切って若手を中心にしたチームを編成した。
かつての栄光を引っさげてプレーしてきたO・キンデラン、A・パチェーコ、O・リナレス、G・メサらの選手は、若いメンバーにまじって二○〇一年十一月に台湾で行われたW杯に出場したのが、新旧世代の交代の最後となった。
二〇〇二年からのキューバは、ナショナル・チームの監督にサンチアゴ・デ・クーバの監督であったイヒニオ・ベレスを起用し、捕手の三選手と内野の要の遊撃手のみは三十歳以上のベテランを残したが、前出の四人は思い切ってはずした。
こうして新チームを編成したが、この頃からまた、主軸選手の亡命が相次いだ。九六年にエルナンデス兄弟(さきに弟のL・エルナンデスが亡命し、九六年に兄のO・エルナンデスがJ・トカらとともに手製のいかだで亡命を果たした)。この頃に大量の亡命選手が出たが、その次は〇二年からであった。エースのJ・コントレラスが亡命したのをはじめ、若い四番打者のK・モラーレスは三度も企て、三度目に成功した。
しかし亡命騒動をものともせず、新チームは国際試合に五十戦四十九勝(予選で一敗したことがある)という成績を引っ下げて、アテネ五輪に乗り込んできた。 「何としても金メダルを奪回する」
を誓って、″赤い稲妻″と恐れられたキューバチームが復活し、巧みな走攻守をかみ合わせた野球に姿を変えて、見事に金を獲得したのであった。
いかにキューバが国技である野球に力を注いでいたかは、キューバチームのベンチにカストロ国家評議会議長の息子であるアントニオ・カストロ氏が入っていたことでわかると思う。まさに国を挙げて、スポーツ主義のシンボルである野球で優勝したのだった。
実際にキューバを訪れてみると、スポーツを国の柱にして教育、文化、また国民の生活の一部として活用していることが見えてくる。
スポーツと音楽と、とけ込んでしまいたくなるような美しいマリンブルーの海、そして明るい人たち。一度訪れると、もうたまらなくなって、成田に降りると、すぐにまた出かけたくなってしまう。
キューバは貧しい国である。初めに行った頃も、いまも貧しい。が、キューバの人たちを見ているとしあわせそうに見える。人間、裕福だからしあわせとは限らない、としみじみ感じさせる。それは子どもたちの明るい大きな声が、街角、どこに行っても響き渡っているせいかもしれない。
キューバにほれ込んで通い続けた男の話、そしてスポーツの凄さとだいご味を、ぜひ読んでいただきたい。
二〇〇四年九月 著者