ウォークマップ
ホントに歩く中山道 第4集
垂井〜新加納(34.1km)
企画編集・制作・発行:風人社
仕様:4分冊 両面2色刷印刷 折りたたみ式
全コース縮尺1万分の1地形図と多くの現地写真で詳細案内
コース・史跡などの解説はマップごとに裏面掲載で、計40ページです。
価格:本体1180円+税
2019年1月23日発行
ISBN9784938643850 C0326
「美濃は日本の衢地(くち・辻)」(国盗り物語)である。
中山道、北国街道、伊勢街道、美濃路が入り込む。
戦国時代、四方の国々に通じ、ここから天下統一の道が延びた。
斎藤道三、織田信長の舞台を歩く。
輪中。
全巻ご予約受付中です。割引有り。お問い合わせください。
本書の目次
No.13垂井〜東赤坂(8.6km)
No.14 東赤坂〜美江寺(生津)(8.8km)
No.15 美江寺(生津)〜加納 (7.7km)
No.16 加納〜新加納(各務原)(9km)【コラム13】 皇女和宮の中山道の旅
【コラム14】 輪中—豊かな水と水害との闘い
【コラム15】 中山道「国盗り物語」
【コラム16】 おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな
☆第4集のかんたん内容
『ホントに歩く中山道』第4集は、江戸から57番目の垂井宿からです。
木曽三川の輪中地帯を抜けて行く道です。全体的にアップダウンが少なく、岐阜市に入ってしまうと電車も平行して街道に走っているため、安心して歩ける道です。電車が少なかったりなかったりする、大垣市、神戸町、瑞穂市域でも、ローカルな養老鉄道や樽見鉄道の他、バス網があります。
水田や畑、果樹園、ビニールハウスが広がり、肥沃な土地の農業王国を感じながらも、肥沃な土の元となった川の水の危険も、河川の巨大な堤防を見て感じます。平野なので、金華山と岐阜城がいろいろなところから遠望でき、励みになります。
垂井の追分で美濃路と分かれ、中山道は大垣市に入ります。青墓という東山道の駅で賑わった集落は、小栗判官と照手姫伝説の、照手姫がザルで水を汲まされるという、悪質ないじめを受けたと伝わる井土跡が残っております。
垂井宿については、『ホントに歩く中山道』第3集マップ№12をご覧ください。
56宿 赤坂宿(あかさか・大垣市)
垂井宿まで5.2km 美江寺宿まで8.7km
名物:温故焼、大理石工芸品、石灰、蛍、御茶屋屋敷牡丹園、明星倫寺虚空蔵菩薩
中山道の北側に見えてきたピラミッドのような岩山は金生山(きんしょうざん)の一部、市橋山という石灰岩の山です。美濃路を歩かれた方は不思議な山の形が印象に残っているのでは内でしょうか。良質な石灰岩を産出した金生山は江戸時代から採掘され続け、このような姿になりました。今も石灰を運ぶための西濃鉄道が一日三便走っていますが、いずれ掘り尽くされてしまうと言われています。
隣接する赤坂宿は、西国三十三ヶ所の結願寺、谷汲山(たにぐみやま)華厳寺へ向かう「谷汲道」が分岐し、賑わっていました。と同時に、杭瀬川を利用した水運も盛んでした。今は、落ち着いた佇まいを残す町並みです。
文久元(1861)年の皇女和宮の通行の時「お嫁入り普請」という見栄えをよくするために、実際は平屋だが通りからは2階建のように見える形式の家屋が今も残ります。また、徳川家康が上洛時に造らせた将軍専用の休憩所「御茶屋屋敷」が宿場の南にありました。建物は寛永年間に取り壊されましたが、土塁が残ります。今は牡丹園として開放され、春は多くの人が訪れています。
55宿 美江寺宿(みえじ・瑞穂市)
赤坂宿まで8.7km 河渡宿まで4.7km
名物:富有柿、マクワウリ、プチサボテン、小松菜、バラ、苺
大垣〜岐阜までの中山道は、輪中地帯を横断していきます。輪中は農業地帯で、大垣市や安八郡神戸町のあたりでは小松菜の栽培が盛んで、たくさんのビニールハウスが土手の上から見えます。
江戸から109里目の柳原一里塚跡は、川の向こう側にある珍しい一里塚跡です。古中山道がその前を通っていたそうです。
現在の揖斐川が改修工事で出来る前は、呂久(ろく)川の流れを呂久の渡しで越えていました。現在、記念公園が整備されています。
川の東側の美江寺宿は、寛永14(1673)年に開設されましたが、隣にある城下町の加納宿とそれほど離れておらず、小規模な宿場でした。
「美江寺」の名は、この地にあった「美江寺観音」が由来ですが、斎藤道三が稲葉山城(岐阜城の前身)の裏鬼門として岐阜に移してしまいました。
美江寺宿のある瑞穂市は、富有柿発祥の地で、中山道沿いにも柿畑がいっぱいあります。秋には路上の無人販売の柿があちこちで売られています。
54宿 河渡宿(ごうど・岐阜市)
美江寺宿まで4.7km 加納宿まで5.9km
名物:だらり餅、干し大根、ちりめん、枝豆
「生津(なまず)畷」という一直線の道を進み、岐阜市に入ると河渡宿です。
河渡宿は、本陣1軒の小規模な宿場でしたが、長良川の渡船を控えていたため、川留になると大変賑わったそうです。しかし、昭和20(一九四五)年の岐阜空襲で焼けてしまい、今、宿場の面影はありません。
河渡の渡しは、明治になり橋が架けられて廃止されましたが、現在も現役の渡し船が少し北に残っています。「小紅の渡し」という江戸時代からの渡し船で、県道173号線の一部として無料で乗ることができます。岐阜市側には隣接して乙津寺(おっしんじ)という弘法大師縁の寺院があり、縁日の毎月21日は賑わいます。河渡橋からは金華山が見えます。
栄泉の木曽路69次「河渡」は鵜飼です。現在長良川の鵜飼いは、金華山麓の長良地区で行われていますが、かつては河渡のあたりでも行われていたそうです。
長良川を渡ると、いよいよ城下町加納です。
53宿 加納宿(かのう・岐阜市)
河渡宿まで5.9km 鵜沼宿まで16.8km
名物:和傘、提灯、鵜飼、鮎鮨
長良川を渡り、鏡島は乙津寺の門前町。追分で北東の岐阜方面への岐阜道と分かれ、家が建て込んできます。鏡島の南、西岐阜駅近くには、織田信長が足利義昭を迎え、義昭を奉じて京へ上った歴史上の重要な舞台となった立政寺があります。
岐阜市街も、河渡宿と同じく、空襲でほとんどが焼けてしまい、宿場の面影はありませんが、微かにカーブする道と家並の雰囲気がいいです。お茶壺道中の本陣になることを拒否した久運寺がああったり、元和元(1620)年創業の川魚料理店(元旅籠)の「二文字屋」には、彫刻家・左甚五郎の手による欄間が残っていたりします。街道の北方には岐阜駅があり、タワーマンションや高層ビルが聳えます。そのすぐ下に遊郭街があり、駅の北側には夜の町柳ヶ瀬や繊維問屋街など、いろいろなものが集まる街です。
宿場の中心部は、岐阜駅の南。宿場は城下町らしく何度も鉤型に折れ曲がります。加納城は、永井肥前守3.2万石の城。初代城主は徳川家康と築山御前の娘、亀姫の婿である奥平信昌です。明治時代になると城は取り壊され、現在、石垣が残るのみ。本丸は公園に、周囲の二の丸や三ノ丸は学校や気象台なっています。
長良川で捕れた鮎を加工した鮎鮨は、献上鮎鮨として江戸の将軍家へ運ばれていました。運んでいる間に熟成し5日後に江戸に到着する頃に食べ頃を迎えたそうです。その献上鮎鮨が通った道が「御鮨街道」で、加納宿の東から南へ向かう道が分岐しています。分岐点には鏡岩という力士が自信の悪い素行を反省するために、自身の木像をぶたせたという妙寿庵という寺があって、近くで旅人に茶をふるまったそうです。分岐点のある「茶所」という地名は、これに由来します。
間の宿 新加納(しんかのう・各務原市)
宿場を出ると名鉄各務原線と平行し、県道181号線をうねうねと進んで行きます。火祭が有名な手力雄神社を過ぎると、各務原市(「かかみがはら」と読みます)です。東海北陸自動車道をくぐると間の宿「新加納」。ここは、広大な各務原台地の西端にあたり、緩く坂道を登った上に新加納はあります。坪内氏が代官を務めていました。加納宿と隣の鵜沼宿の間は17キロと距離があり、間の宿として賑わっていたそうです。
焼き肉屋さんの前に「各務原キムチ」の幟があったり、「あげぱんキムチ」など、各務原ではキムチが目立っています。キムチは、各務原市と姉妹都市である韓国の春川市にちなみ、各務原の特産品になっています。春川市は、韓流ドラマで有名な「冬のソナタ」のロケ地で、姉妹都市だからということで、各務原市の公園「学びの森」にも「冬ソナストリート」という、いちょう並木が再現されています。
4集は各務原市役所までです。(最寄り駅名鉄各務原線「市役所前駅」)
写真でたどる中山道 第4集(垂井〜新加納)