2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

前半は織田・徳川の甲州征伐で、武田勝頼が敗れ、自害。
後半は、武田に勝利した織田信長を、安土までの帰途、家康がもてなしながら、旅をする。
舞台は、浜松市、掛川市、甲斐、静岡東海道、総社市

もくじ
●第26回「どこにいる家康」▼動静

●第26回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第26回「どこにいる家康」発展編(by(し)

  1.高天神城・武田滅亡・穴山梅雪
  2.室町将軍も富士遊覧していた!

●信長・家康富士遊覧の旅「信長公記」でたどる

第26回「ぶらり富士遊覧」▼動静

00分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康が髪を剃られているところへ、井伊直政が「城を明け渡す」という高天神城からの矢文を届ける。

00分 高天神城(静岡県掛川市上土方嶺向3136)
天正9(1581)年春。徳川軍は東海一の要衝で、岡部元信が籠城する高天神城を包囲していた。
岡部元信、勝頼の助けを望めない今、自らの首と引き換えに兵を助けてほしいと、助命の矢文を家康に送った。

01分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康はその矢文を燃やし、「上様(織田信長)からの命令である。皆殺しにしろ」と言い捨てる。
家臣らは、戦う気がないものを殺せというのかと反発。家康は、高天神城を助けなければ、勝頼の評判は落ちる、と言う。

02分 高天神城(静岡県掛川市上土方嶺向3136)
徳川軍に攻められ、武田軍敗退。岡部元信も死亡。

03分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家臣らが集まり、「家康は変わった。信長の犬になった」と話し合う。

04分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康、薬研で薬をひく。

04分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

07分 鷹狩り狩り場
天正10(1582)年、秀吉が備中高松城(岡山県岡山市)を攻めているのさなか、瀬名と信康を失った家康を心配して訪ねてくる。
<回想>信康自害シーン、瀬名自害シーン。
秀吉は家康に「信長を恨んでいるのでは?」と聞くが、
家康は「まさか。全ては愚かなる妻と息子のせいだ」と答える。

09分 天正10年、織田軍と徳川軍を武田勝頼を撃つべく、甲府へ侵攻開始
<ナレーション>織田軍は長野から信長の長男の信忠が、徳川は駿河から甲斐へ向かう。

※どうやって行ったのだろう。
ドラマ「どうする家康」の時代考証者である平山優氏の『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)によると、
織田信忠は、岐阜城から中山道で、岐阜城、岩村城、伊那へ進み、高遠城、甲斐、と進む
徳川家康は、浜松城から東海道で、掛川、田中城(藤枝市)、駿府、蒲原城(静岡市)から富士川沿いに身延道で甲斐、
と進んだようです。

10分 躑躅ヶ崎館付近? 新府城?(甲府市・韮崎市)
山の中で武田勝頼は座っている。
穴山梅雪「家中の多くの者が逃げ出している」
勝頼「行きたい者はどこへでも行くがよい。おれは一人でも戦うぜ」

11分 甲斐どこか
徳川軍として出陣した本多忠勝と榊原康正は「勝頼の首は俺がとる」と気勢を上げている。
忠勝は、おじさん(本多忠真)のように酒を飲んでいる。

11分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
大久保忠世と井伊直政も、「ついに勝頼の首を取るときが来た」とはしゃいでいると、家康から留守番を命じられる。

13分 甲斐・天目山(山梨県甲州市)
3月、押し寄せる織田・徳川軍の前に、勝頼は落ち延びていった。(ナレーション)

14分 躑躅ヶ崎館(甲府市、武田神社)
家康らがやってくると、穴山梅雪が待っていて、「織田様と徳川様のために尽くします」と武田勝頼から寝返る。
鳥居元忠が「勝頼が織田勢に捕まりました」と報告。
勝頼は、上野岩櫃城(群馬県吾妻郡吾妻町)の真田昌幸を頼ろうとしたが、辿り着かなかった。
<回想シーン>甲斐・天目山。勝頼は残りの兵に逃げろというが、兵は「お供、お供」と叫ぶ。勝頼は「ここを死に場所に決めた」と攻めたが槍で刺された。
40人の兵とともに戦いを挑んだという話を聞き、穴山は泪を流す。
鳥居元忠が「我らの手で勝頼を討ち取れず無念」と言うと、「織田信忠様が功を上げたのはよいこと」と家康は応える。

18分 甲斐どこか? 徳川陣屋
家臣たちは、家康の信長への犬ぶりにいらついている。

18分 甲斐どこか? 信長陣屋
ワインを飲む信長に、家康が、武田勝頼を討ったことの祝を述べる。
森蘭丸が勝頼の首を持ってくると、明智光秀が「サアサアお待ちかね、徳川殿、蹴るなり踏みつけるなり気の済むまで。へっへっへ」と家康にからむ。
家康は「恨んでいない。死ねばみな仏かと」と答えると、
信長が「では他の誰かを恨んでいるのか?」と不穏な空気になる。
石川数正が「わが徳川に、武田を撃った織田様にお祝いをさせていただきたい」と言うと、
信長「やぶさかではない」と答える。

22分 富士浅間神社(静岡県富士宮市宮町)
信長を接待する準備に忙しい。
茶屋四郎次郎は、金銭面でも支援。
本多、鳥居、榊原、平岩は家康の態度に不信をつのらせる。
家康「上様は富士山をきちんと見たことがないので、街道の要衝でご覧になって頂く」
忠勝「何のために?」
家康「上様にお喜びになってもらうために決まっておるだろう」
於愛「道行きの手引き書をつくりました。各地の名所名物をあますところなく記しております」と絵入りの旅のしおりをもってくる。
みんなで「エイエイオー」と気勢を上げる。
<ナレーション>家康は街道の小石を拾い、道を広げ、休み処を各所に設け、連日連夜、酒と肴で信長をもてなした。

25分 本栖湖(山梨県南巨摩郡身延町)
信長、富士山を見て感動。すぐ「参ろう」とせっかち。
信長、お湯は嫌いなので、信玄隠し湯への行程がなくなる。

27分 信玄の隠し湯(下部温泉?南巨摩郡身延町 第16回、信玄の金山の紹介で出てきた)
平岩親吉と鳥居元忠が信長を迎える準備をしている。
https://shimobeonsen.jp/onsen/

27分 富士浅間神社(静岡県富士宮市宮町)
隠し湯をすっ飛ばされたため、慌てて準備をする於愛たち。
榊原康政が、「こんな犬みたいな殿を見ていられない、自害した瀬名と信康に申し訳ない」と言うと、
酒井忠次が「こんな殿でもわが殿である」となだめる。
信長がやってくる。
信長「「厭離穢土欣求浄土」の幟が気に入らん。陰気くさい」と険悪な雰囲気になる。
家康は「駿河は氏真に任せたい」とお願いして、信長に「たわけか?」と言われても、「ごもっとも」と殊勝な態度をとる。
明智光秀に「伊賀者も征伐しておくように」と言われ、家康「かしこまりました」と素直な態度。
場を盛り上げようと、酒井忠次が「えびすくい」を踊ろうとすると、家康自らが踊り出して家臣ら凍りつくも、最終的に家臣たちも一緒に踊る。

35分 信玄の隠し湯(下部温泉?南巨摩郡身延町)
富士浅間神社へ行ったとは知らず、平岩親吉と鳥居元忠が待っている「おそいな〜」。

36分 浮島が原<静岡県富士市中里 『ホントに歩く東海道』第4集 №16 mapB19)> 
信長と家康は乗馬を楽しむ。
富士山を見る。家康、茶を点てる。
信長が家康に、道中のもてなしに対する礼を言う「すぐに安土にこい、今度は俺がもてなす」。
明智光秀「私めが饗応役をつとめます」。

38分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
薬を薬研でひく家康。
服部半蔵が訪ねてきて、「信長に恨みを持つ伊賀者100名を匿っている」と報告。

39分 備中・高松(岡山県総社市。信長の命を受け、羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の城を攻める)
羽柴秀次が「武田が滅び、徳川様が信長殿をもてなしているようです」と言うと、
秀吉は「家康から目を離すな」。
※忍城(埼玉県行田市)、太田城(和歌山県和歌山市)とともに、備中高松城の戦いは「日本三大水攻め」の一つ。

40分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
薬にハマっている家康。<回想>瀬名に薬のつくり方を教わっている。
家臣らが入ってきて、「もう、ついていけない、何を考えているのか」と家康を問い詰める。
家康は「信長を殺して天下を取る」と告げる。
<ナレーション>本能寺の変まであと46日。

「紀行潤礼」信長と家康の旅路(山梨県・静岡県)

武田を滅ぼした織田信長は、富士山を見る為に東海道を下って安土へ帰ったことが「信長公記」に書かれている。岡崎までの道中、家康は心を尽くしてもてなした。

本栖湖(湖岸は山梨県南都留郡富士河口湖町及び南巨摩郡身延町)
本栖湖越しの富士山は、千円札にも描かれている。
富士の国やまなし観光ネット
https://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_4614.html

富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市宮町)
金銀をあしらった豪華な宿所を建てた。信長は喜んで秘蔵の刀と馬を贈った。
富士山本宮浅間大社HP
http://fuji-hongu.or.jp/sengen/

人穴富士講遺跡(静岡県富士宮市人穴)
富士宮市HP
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/llti2b0000001br3.html

他にも番組では「信長公記」に記されている名所を紹介していた。
白糸の滝、浮島が原、久能山、三保の松原、今切など。

(こ)記録

第26回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。信長・家康富士遊覧を含めるとけっこうある。

どこにいる家康24回 関連マップ ホントに歩く東海道

『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く東海道』別冊 姫街道(御油~見附)
『ホントに歩く中山道』第2集(守山~高宮)


どこにいる家康26 発展編(by(し)

戦国史で最も重要な年の一つ天正10年(1582)に、織田信長が德川家康を安土城に招いてもてなしたことは、これまでNHK大河ドラマはもちろん、信長・家康が登場するドラマでは必ず描かれてきた。しかし、その前に家康が富士遊覧ツアーを企画して信長を接待しており、安土はこれに対する返礼であったということは、あまりドラマで見た記憶がない。
『東照宮御実紀』では、家康がもてなされる側だった安土の饗応については4~5行しか書かれていないが、富士遊覧にはその数倍以上の長さを費やし、いかに家康が心を砕いて信長をもてなしたかを詳述している。
現在の東海道にも関連史跡が残っており、接待の苦労というのは21世紀のサラリーマンにとっても身につまされる所が多いだろうと、興味深く見られた今回の「どうする家康」だったが、これに時間が取られたぶん、高天神城や、甲州での武田勝頼との最後の戦いが、あっという間に終わってしまったのは、物足りなさもあった回だった。

1.高天神城・武田滅亡・穴山梅雪

高天神城は16世紀初頭、今川氏の家臣の福島助春が城代として駐屯していたが、福島氏は天文5年(1536年)の今川家跡目争い「花倉の乱」で、今川義元に敵対し敗北。その後は松平家と同様に今川の傘下にあった国衆、小笠原信興(氏助)が守っており、今川氏真の逃亡後は、家康の遠江前線基地の一つとなっていた。
小笠原信興は、第22回で取り上げた、酒井忠次の三男の岳父となった小笠原信嶺と混同しやすいが、両者は甲斐源氏⇒信濃小笠原氏という共通の祖を持つが別族で、信嶺は代々武田氏の信濃先方衆を務めていたのに対し、信興はもともと今川に臣従していた。
武田勝頼が天正2年(1574)に高天神城を攻撃(第一次高天神城の戦い)した時、德川軍は他方面の武田別働隊の対処に手一杯で援軍を送れず、高天神城が武田軍に奪われるのを防げなかった。この時勝頼は、城を明け渡した小笠原信興を厚遇し、武田勝頼の度量の大きさに比べて、德川家康は織田の顔色ばかり窺って遠江の城も救えない小さい奴という印象が、遠江の領民に植え付けられてしまう。勝頼は奪取した高天神城を拡張整備、城代として、元今川家臣で武田に降った岡部元信を任命した。
しかし長篠・設楽原の戦いで武田・徳川の関係は逆転。家康は犬居・二俣などの城を奪い返すと共に、諏訪原城(第24回参照)を確保して大井川沿いの補給路を封じ、多数の砦を築いて高天神城を包囲した(第二次高天神城の戦い)。
相模の北条とも関係が悪化した武田勝頼は、東西に敵を抱え援軍を送ることができず、まさに6年前と真逆の事態となった。援軍を送れない武田は致命的に信頼を失い、木曽氏を始め国衆たちは次々と離反していった。
籠城する岡部元信の降伏の意思を信長・家康が無視したのは、意識的にこうした結果を狙ったといわれる。平山優『天正壬午の乱』(戎光祥出版)によると、高天神城の降伏を受諾するなという信長からの勧告を家康へ伝えたのは、水野信元の弟、忠重(第23回参照)であったという。
援軍の希望が砕かれたと知った高天神城将、岡部元信は、天正9年(1581)3月、全員討死の覚悟で城外に打って出て玉砕した。その一年後に、武田勝頼も天目山で自刃する。
『アンソロジーしずおか 戦国の城』(静岡新聞社)末尾の作品『老将』(秋山香乃)は岡部元信が主人公で、今川氏真・武田勝頼と、仕えた主君はいずれも敗れる側となるも、最期まで武人としての生き方を貫く元信の姿が描かれている。第6回に今川家臣としての岡部元信が登場し、ゆかりの東海道岡部宿にも触れたが、高天神城での再びの登場シーンが、もう少し長くてもよかったのにと思う。
高天神城については、掛川市の文化・スポーツ振興課による大変詳しいサイトがある。
https://takatenjinjyo.com/history/

またJR掛川駅(『ホントに歩く東海道』第7集 MapNo.27 mapE46)からの城めぐりハイキングコースも紹介されており、城めぐりコースは4キロほどらしいが、駅からのバス便はかなり少ないようなので要注意である。
https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kanko/spot-list/takatenjinjyoato.html

勝頼の首実検の場で、明智光秀が家康をやたらに煽っていたシーンがあったが、『東照宮御実紀』では、信長が「汝が父信玄は毎度我等に難題をいひかけこまらせたり」と恨みを言って敵意をむき出しにしたのに対し、家康は勝頼の首を白木の台に載せて上段に直し、丁重に扱ったため、甲斐の国人たちが「この君ならずばとなづきしたひ奉る」と、わかりやすい家康アゲ記事になっている。
穴山梅雪が「武田家と甲斐の領民を守るため、自分は自分にできる役目を果たす」と決意表明。穴山梅雪は「信玄には重用されていたが、勝頼とはそりが合わずに離反した」と言われることも多いが、今回のドラマでは、勝頼も承知の上で、敗戦処理のために德川に出向したような感じで、築山構想に参加した所からの経緯も含め、納得のゆく展開だった。
(江尻城跡ほか穴山梅雪ゆかりの史跡については、第24回参照)

2.室町将軍も富士遊覧していた!

家康が、信長一行のもてなしのため、細心の注意を払って準備を進めたのは『東照宮御実紀』にも書かれており、ドラマのナレーションも、ほぼその記載のとおりだった。「道すがらの大石をのけ。大木をきりはらひ道橋をおさめられ。旅館茶亭を営み。」「大河にはみな舟橋を架けられしかば右府(=信長)ことに感ぜられ。その橋奉行にも禄あまたかづけらる。」
静岡市清水区の新蒲原駅前から西へ、広重の「蒲原夜之雪」記念碑を過ぎて少し行った所の高札場跡の向かいに、御殿道石という石柱があるが、これが、この時に家康が信長接待のために建てた御殿の跡だという。

また、三河との国境となる白須賀宿(静岡県湖西市)の南にある潮見坂は、遠州灘の眺望の名所で『ホントに歩く東海道』第9集のハイライトとしても紹介されているが、家康は潮見坂の上に茶亭を新築して信長をもてなした。明治天皇も江戸へ行幸の際にここで休息され、聖蹟記念碑が建っている。
ちなみに室町時代の足利将軍も、三代義満と六代義教が富士遊覧を行っている。といっても、富士遊覧は表向きで、実際には関東の人々に足利将軍の威勢を見せつけ、謀叛を抑えるのが目的だった。この接待の役目は駿河守護の今川氏で、三代義満をもてなしたのは今川泰範、六代義教は今川範政であった。今川範政(義元の高祖父)は将軍のために望嶽亭という迎賓館を建設し、ここから富士の絶景を見た義教は、「みずばいかで思ひしるべき 言の葉も 及ばぬ富士と兼て聞しを」と詠み、それに応えて今川範政が「君がみむけふの為にや昔より つもりはそめしふじの白雪」と返したと伝わる。
(静岡商工会議所報 2013年7月号 小和田哲男氏解説より)
https://scci.hatenablog.com/entry/41605905

御殿道・御殿山 『ホントに歩く東海道』第5集 MapNo.18 mapD32、D34 写真32
御殿石の所から南へJR東海道線の「御殿踏切」を越えて下っていくと駿河湾で、水神社などがある。湾岸の富士由比バイパスはまさに海の縁を走る。逆に北へ上ると、東側に御殿山公園、西側奥は蒲原城跡で、どちらも桜の名所である。御殿山山上にはのろし場があり、見下ろすと富士川の川辺一帯に、桜海老干しがピンク一色に見えるという。

蒲原御殿跡の名残「御殿踏切」
蒲原御殿跡の名残「御殿踏切」

潮見坂 『ホントに歩く東海道』第9集 MapNo.34 mapA11 写真11
白須賀宿に入る手前(東側)にある火鎮(ほずめ)神社(mapA1)は、德川家康の崇敬厚く隆盛をきわめたという。白須賀宿はもともと、潮見坂の坂下にあったが、宝永4年(1707)の地震・津波で被害を受けて坂上に移転、坂下は「元白須賀」となった。潮見坂の名は、西国から江戸への道程で、ここで初めて太平洋を見るからだと言われる。

潮見坂 ホントに歩く東海道

野口公園・浜松八幡宮・ざざんざの松 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapA18 写真18
浜松駅の手前(東側)で、馬込川に沿って北へ右折したところにある野口公園のあたりは松林で、室町幕府六代将軍足利義教が富士遊覧の際に、松の木の下で「浜松の音はざざんざ」と謡い、酒宴を開いた。この松が「ざざんざの松」と呼ばれるようになり、浜松の名のもとにもなったという。現在は浜松八幡宮に移されている。

ざざんざの松 ホントに歩く東海道

増楽(ぞうら)の松 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapD44
JR東海道線の浜松と高塚の間、浜松市南区増楽町の威徳寺の前に、足利義教将軍がその大きさに驚いたという「増楽の松」の説明板がある。

紅葉寺 『ホントに歩く東海道』第9集 MapNo.33 mapC40
新居町駅(湖西市)から国道1号が鉄道と離れて南下し、さらに旧街道が1号線から分岐して少し進んだあたりに浜名旧街道の標柱があり、紅葉寺がある。足利義教が富士遊覧の際、立ち寄って紅葉を鑑賞したので紅葉寺と呼ばれるようになった。もともとは、源頼朝と恋仲になった女性が、頼朝の死後尼となり開いたといわれる。


どこにいる家康 第26回 信長・家康富士遊覧の旅
「信長公記」でたどる。by(こ)

図書館で「信長公記」を借りました。
「信長、甲斐から帰陣」の項に、その行程が記されていました。

天正10年4月10日から21日の間、甲府から安土までとけっこうな距離を11日間で移動していて、遊覧というより、行軍。けっこうハードな旅と感じました。
信長・家康についていったのは諸将らなので馬に乗ってだと思いますが、それ以外の大勢もいるはずなので、そういう人たちは走っていったのでしょうか。
ウォークマップをお持ちの方は、見ながらたどってみてください(甲斐などはない)。
「遊覧」だからと思いますが、東海道、美濃路、中山道を一緒に旅している気分になれました。

行程の日付
天正10年(1582)年
その日の行動
赤字は出発点、紫字は宿泊地、緑字は通過・寄った地名
備考1掲載マップ
『ホントに歩く東海道』『ホントに歩く中山道』
4月10日甲府出発、左右口(うばぐち、甲府市)宿泊。
左右口 https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/oukan.html
甲府では、武田信玄館跡(躑躅ヶ崎館)に仮御殿を建て滞在していた。
4月11日左右口出発、本栖湖宿泊。驚くばかりの宿泊所、将兵のための1000軒以上の小屋が建てられていて、家康の配慮がありがたかった。
4月12日本栖湖出発、浅間神社着。人穴を見物。浮島が原で乗馬を楽しみ、浅間神社に宿泊。浅間神社は、北条氏政が武田征伐の際に焼き払ったが、その境内に豪華な宿舎を建てて信長をもてなした。
4月13日浅間神社出発、浮島が原田子の浦富士川を越える。蒲原で休憩、由比清見関興津三保の松原江尻から久能城へ行き、江尻城に宿泊。『東海道』第4集(箱根関所〜元吉原)
『東海道』第5集(元吉原〜江尻)
4月14日江尻城出発、駿府で休憩、安倍川を渡る。宇津ノ谷峠入口で休憩、峠を越える。藤枝宿の入口に「偽之橋(いつわりのはし)」という名所、田中城に宿泊。偽り橋は悲しい話だ。こんなしめっぽい話を聞いて信長は喜ぶのか。
https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/kyodomuse/11/12/1445916487716.html
『東海道』第6集(江尻〜藤枝)
4月15日田中城出発、瀬戸川河原で休憩、瀬戸川を越えると瀬戸の名物・染飯を売る店を見る。島田大井川を人足渡しで越える。牧之原城を右に見て、諏訪之原を過ぎ、菊川小夜の中山で休憩、日坂を越え、掛川に宿泊。『東海道』第7集(藤枝〜袋井)
4月16日掛川出発、見附を過ぎ、鎌田ガ原三ケ野坂で休憩、池田宿から天竜川(大天竜・小天竜)を船橋で渡り、浜松に宿泊。天竜川の説明。川に橋を架けるだけでも大変。行く先々の休憩所、宿泊所の建設、警備などに信長が感激し喜んだことや言うまでもない、と書かれている。『東海道』第7集(藤枝〜袋井)
『東海道』第8集(袋井〜舞坂)
4月17日浜松出発、今切の渡しを舟で渡る。途中、浜名橋汐見坂で休憩、吉田に宿泊。『東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『東海道』第9集(舞坂〜御油)
4月18日吉田出発、吉田川を越える。御油で休憩、本坂・長沢(岩がごろごろしているのを今回のために地ならしした)を通り、宝蔵寺により、大平川を渡り、岡崎城下むつた川(乙川)矢作川には橋が架けてあった。池鯉鮒に宿泊(水野忠重が館を建て、もてなす)。岡崎以降は家康の接待ではない『東海道』第9集(舞坂〜御油)
『東海道』第10集(御油〜岡崎)
『東海道』第11集(岡崎〜桑名)
4月19日清須宿泊名古屋から美濃路へ入る。『東海道』第11集(岡崎〜桑名)
『東海道』別冊美濃路(垂井〜宮(熱田))
4月20日岐阜宿泊清須からは岐阜街道(御鮨街道)で岐阜か。『東海道』別冊美濃路(垂井〜宮(熱田))
『中山道』第4集(垂井〜新加納)
4月21日岐阜出発、呂久の渡し(稲葉一鉄が接待)、垂井で休憩(織田勝長が摂待)、今須で休憩(不破直光が摂待)、柏原で休憩(菅谷長頼が摂待)、佐和山で休憩(丹羽長秀が摂待)、山崎(近江山崎=彦根市)で休憩(山崎秀家が摂待)、安土到着。岐阜からは、中山道。東近江市と近江八幡市の境あたりの八幡道から、正観音寺城あたりを通って、安土か。
4月21日の信長への摂待攻めがすごい。
『中山道』第4集(垂井〜新加納)
『中山道』第3集(高宮〜垂井)
『中山道』第2集(守山〜高宮)
信長・家康遊覧の旅でたどったマップ。12冊
信長・家康遊覧の旅でたどったマップ。12冊
浮島が原。富士山は見えなかったが愛鷹山が見えた
4月12日・13日:浮島が原。富士山は見えなかったが愛鷹山が見えた
浮島が原。公園は木道が整備されている
浮島が原。公園は木道が整備されている
浮島が原。草の下は湿地帯
浮島が原。草の下は湿地帯
六本松(浄瑠璃松)蒲原宿
4月13日:六本松(浄瑠璃松)蒲原宿。義経と浄瑠璃姫の悲恋伝説。富士川渡航の目印にもなった
今切の渡し。ボートレース浜名湖
4月17日:今切の渡し。ボートレース浜名湖
舞坂宿のお好み焼きや。今切の渡し
4月17日:舞坂宿のお好み焼きや。今切の渡し
舞坂宿。Liquar hop SAKAI
4月17日:舞坂宿。船囲場跡の前。Liquar hop SAKAI かご盛、遠州花火の打ち上げ筒、新種新婚。いろいろ情報多く楽しい