2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。
瀬名と信康が築山の庵で政治活動。
家康は止めに入ろうとするも、武田側の使者、家康や家臣、五徳まで瀨名の「大経済圏構想計画」に心酔。徳川・武田両者で信長にばれないよう進めていたのに、勝頼が家康側の裏切りを利用するためにばらす。
舞台は、岡崎、浜松、安土、甲府、掛川市
もくじ ●第24「どこにいる家康」▼動静 ●第24回「どうする家康」の舞台関連マップ ●第24回「どこにいる家康」発展編(by(し)) 1.穴山信君(梅雪)と江尻 2.諏訪原城と今川氏真 ●ギャラリー(安土城を含む、中山道守山〜愛荘町へ) |
第24回「築山へ集え!」▼動静
▼00分 瀬名の回想
いろんな人が現れる。今川に処刑される前の母(巴)、家康の側室お万の方、大岡弥四郎、僧侶を殺した後の信康、望月千代。
▼01分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
望月千代と唐人医師滅敬に分した穴山信君が訪ねてくる。
▼02分 躑躅ヶ崎館(甲府市、武田神社)
穴山と千代は、武田勝頼に、築山殿と信康に対する調略が成功したと報告。また、築山殿は不思議なことを申す人物であるとも報告。
▼03分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
平岩親吉 五徳に信康様は築山へ言っていると報告。五徳は私も行きたいと言うと、私も入れてもらえないと親吉。
▼04分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」
▼07分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家臣と会議。信康が築山の庵に入り浸っている。築山からの密書が飛び交っている。変な連中が築山に集っている。それは武田の間者ではないのか。信長に知られる前になんとかしないと、と話していると、織田信長から鷹狩りの誘いが来る。
▼09分 鷹狩りの場所(どこ?)
薪を割る信長。「五徳がいろいろ申しておる。岡崎は大丈夫か。水野信元のようなこと(誅殺)はあれで最後にしたいものだ」と言って去って行く。
酒井忠次は家康に「手を打ちましょう」と促す。
▼10分 甲府?
家康の義弟・久松源三郎勝俊の奪還作戦で負傷した伊賀者の大鼠は手が不自由。訪ねてきた服部半蔵に「仕事をよこせ」と言う。
半蔵は、「女子の幸せは男にかわいがってもらうことだろう」と花を差し出すと、大鼠はその花を食べながら「殺すぞ」とすごむ鼠。
▼12分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
大鼠が築山の庵の縁の下に潜み、諜報活動。
▼13分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
半蔵が築山の瀨名と信康の様子を報告。大鼠が1ヶ月潜んでいる間に沢山の人が来た。滅敬という武田の位の高い者。家康の母於大と義父久松俊勝、今川氏真と妻の糸などが来た。
▼15分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
穴山と千代が訪問中、千代が床下の大鼠を察知。大鼠逃げる。
▼16分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
半蔵の報告を受けた家康は、瀬名と信康に気づかれないように兵を集めさせ、築山の庵の北に位置する大樹寺に待機させる。
無邪気な於愛は、家康が築山へ行くと聞き、「「伊勢物語」をお方様(瀨名)に届けて」と井伊万千代(直政)に頼む。
▼17分 大樹寺<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 コラム40「家康と岡崎 徳川家菩提寺の大樹寺>
兵とともに大樹寺で待機する家康たち。滅敬が築山に来たとの報告を受け、石川数正と酒井忠次の3人で築山へ向かおうとすると、五徳が現れ、自分も連れて行ってくれと頼む。
▼19分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
家康ら乗り込む。唐人に変装した穴山信君を見て瀨名に、「武田のやつから離れろ」と伐ろうとする。
穴山「お方様をたぶらかそうと思ったら、たぶらかされた」
瀬名は、家康はじめ、五徳、数正、忠次に持論を展開「奪い合うのではなく与え合うのです」。
信康は、「私はもう殺したくない。戦はやめましょう」。
五徳は、「父信長は許さないだろう。でも、信康をお慕いもうしている(いつの間に)」
<回想シーン>
於大と久松、今川氏真と糸が築山の庵に来て会談。三河・遠江・駿河・甲斐・信濃・相模・越後・奥州の大東国連合。
肝心なのは銭。同じ通貨経済圏構想。織田は手出しできないし、そのうち加わるだろう。日本が一つの国になる。
▼29分 大樹寺<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 コラム40「家康と岡崎 徳川家菩提寺の大樹寺>
家臣たちが話し合う。瀬名の話に感動している。
▼30分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
家康、これまでのいろいろな修羅場を回想。
▼33分 躑躅ヶ崎館(甲府市、武田神社)
穴山と千代、勝頼を瀬名構想で説得しようとする。
▼33分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
徳川と武田が密約を結んだ。
▼34分 高天神城(静岡県掛川市上土方嶺向3136)
密約に従い、信長を欺くために、武田と徳川両軍が戦っているふりをする。
両軍、戦わずに引き上げる。
▼36分 安土城(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)
天正7(1579)年、家康がいつまで経っても武田勝頼を倒せないことにいらだつ信長は、佐久間信盛を呼び出し、「家康の監督者はお前だ」と念押しする。
▼37分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
家康、前回(23回目28分頃)瀬名が縫っていたカニ柄の着物を着て、信康と語らう。
▼38分 躑躅ヶ崎館(甲府市、武田神社)
勝頼、穴山と千代を呼び出す。
「そろそろよい頃合いだ。徳川が織田をだまして武田と裏で手を結んでいると噂を流せ」
「女のままごとのように手を取り合うのは無理、わしは戦で死ぬ」
「信長と徳川の仲が壊れれば、武田はまだ戦える。築山の謀略を世にぶちまけろ」
▼41分 安土城(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)
佐久間信盛「あああ」。信長「申せ、申せ」。
※安土城=岐阜城から移り、天正4年(1576年)から約3年の歳月をかけて完成。
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/831/
安土城は、中山道「武佐宿」の北約5㎞。『ホントに歩く中山道』第2集 №6 mapB
▼41分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
信康が駆け込んでくる。
▼42分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
酒井忠次「漏れました。築山の謀(はかりごと)、世に知れ渡っております」
「紀行潤礼」掛川市
信康と井伊万千代が出演。
●高天神城(静岡県掛川市上土方嶺向3136)
武田に取られたこの城を取り返すため、家康は城のまわりに20もの砦を築き、武田軍の補給路を断つため、環視を続けた。
武田軍も城の守りを強化。金山の採掘技術を使って井戸を掘る。
掛川市HP 高天神城
https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kanko/spot-list/takatenjinjyoato.html
(こ)記録
第24回「どうする家康」の舞台関連マップ
今回の特に関連マップ。
『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く東海道』別冊 姫街道(御油~見附)
『ホントに歩く中山道』第2集(守山~高宮)
どこにいる家康24 発展編(by(し)
ツイッターなどでも評価の分かれる回だったようで、「あまりにもファンタジーに過ぎる」「史実としてあり得ない」などの批判も多かったようだ。しかし、今年の大河ドラマは、そもそも企画・配役発表の段階から相当な独特路線を走っており、ここまで視聴を続けた大河ドラマファンとしては、ツッコミ所はあるにせよ、おおむね「こういうのもアリ」という結論に落ち着いているようだ。
WEBに見られた反応の中で面白かったのは、江戸・明治時代を舞台に多くの小説を書いておられ、家康と築山殿を扱った作品もある植松三十里氏のコメント。当然、今回の大河ドラマとは異なる視点であるが、家康の異父弟、久松家の源三郎勝俊の墓(第16回に登場)が、西来院の築山殿の墓の隣にあることにも触れられているのが興味深い。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f2683700e3deb462635eacff9000c28a352b0060
また、東大史料編纂所教授の本郷和人氏は「ヤボは承知でひとこと言わせてもらえば」として、中世日本には、戦国大名に代表される世俗の権力とは無縁の、庶民による平和を尊重するコミュニティが実在したという学生時代の師の説を紹介、ドラマの中で瀬名たちが目指していた構想とほぼ一致すると述べる。しかし「研究者としては、師の論を乗り越えるのが悲願であるから、今回のドラマの視点は自分は支持しない」と。大河ドラマ考証経験者らしい絶妙なオチだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/aae115b66b40c57b8890d5f41f739eb0a9a8c872
1.穴山信君(梅雪)と江尻
家康大河なので仕方ないが、武田側には山形昌景(武闘派?)と穴山信君(知略派?)プラス望月千代(歩き巫女として各地で調略活動)しか登場せず、ドラマでは穴山が変装してまで岡崎を訪れる真意がよくわからなかった。穴山信君は、母が信玄の姉、妻は信玄の娘(見性院)という、武田家とは深く結ばれた重臣であるのに、なぜこのような行為に走ったのか?
平山優『德川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)によれば、信玄時代に対德川外交で手腕をふるっていた穴山信君は、その後の関係悪化により、武田氏の外交から疎外されるようになっていたという。自分の腕をふるえる場所がなくなり悶々としていた穴山が、築山からの誘いに心が動いたというのは理解できる。
しかし千代はともかく、穴山が瀬名たちの大構想をそのまま支持したとは考えにくく、彼はあくまでも武田・德川の協調関係の復活という現実路線で、最終的な勝頼の反応(ちゃぶ台返し)も想定内だったのではないか。穴山と千代との反応にもう少し差があれば、メリハリが効いてリアル感も増したと思われる。今後の穴山の武田離反⇒織田・德川陣営入りは変えられない史実だが、どのように描かれるのか興味深い。
戦死した山形昌景に替わり穴山信君が城代となっていた江尻城があったのは、静岡市清水区の清水江尻小学校のあたりで、この近くの東海道沿いにも史跡が残る。
▼江尻城址・魚町稲荷 『ホントに歩く東海道』第6集 MapNo.21 mapA9 写真9
小学校の隣の魚町稲荷神社は、江尻城の鎮護のために穴山信君が建てた神社。現在は、大きなサッカーボールの形をした「日本少年サッカー発祥の碑」のある「サッカー神社」として有名である。1956年、江尻小学校に赴任した堀田哲爾という新人教師がサッカー指導を開始、1967年には清水市に、全国初の小学生リーグが結成された。
https://www.visit-shizuoka.com/spots/detail.php?kanko=557
▼上原延命子安地蔵 『ホントに歩く東海道』第6集 MapNo.21 mapB27
創建は明らかではないが、鎌倉時代またはそれ以前と言われている。永禄11年(1568)、武田信玄が駿河に侵攻し今川氏真と対戦した時、山形昌景の本隊がこのあたりに布陣したという記録があり、また、天正10年(1582)、德川家康が武田勝頼との最終決戦に先立ち、この地蔵堂で穴山信君と会見し、穴山は家康に降ったとの伝承が残る。
2.諏訪原城と今川氏真
第12回で「自分は修羅の世を卒業するけど、お前はまだまだやってろ」みたいな事を言い残して去った今川氏真だったが、突然、夫妻そろって再登場。彼らが今どういう状況にあるのか全く説明がないので、早川殿(ドラマでは「糸」)の実家の北条家で居候しているはずの氏真が、はるばる岡崎まで行ったり来たりしているのかと思ってしまいそうだが、実はこの時期、氏真は家康と密接な関係を復活させていたはずである。
氏真夫妻が掛川城を明け渡し、北条を頼って落ちのびたのが永禄12年(1569)、しかしその後まもなく氏真夫人の父北条氏康は病死、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した。岡部元信など、武田に臣従した旧今川家臣も多かったが、氏真は北条にも武田にも同調せず、浜松城の家康に接近し、さらには父義元の仇の信長にさえ、京で会見し蹴鞠を披露したりしている。
長篠・設楽原合戦にも後詰として家康に協力しており、戦とは無関係の文化人的たたずまいで築山に出没していたドラマの世界とはちょっと違うようだ。もっとも、氏真自身の軍事力はすでに失われており、久松長家といい、平和構想に賛同するのは現実的力を持たない層ばかり、強者にとっては平和とは夢の世界、ままごとに過ぎないというのは21世紀の今も同じで、現実の苦味があった。
長篠・設楽原合戦勝利の後、家康は精力的に、武田に奪われた遠江の各拠点の奪還に邁進する。要衝の二俣城・高天神城の包囲を進めつつ、天正3年(1575)夏には駿遠の国境、牧之原台地にある諏訪原城(現在の静岡県島田市金谷)を攻撃、落城させた。勝頼の援軍が得られないことを知った城代の今福友清や、城の守りについていた信濃の国衆たちは、夜陰に乗じて城を捨て逃走したと言われる。
諏訪原城は、天正元年(1573)、三方原合戦に勝利した武田勝頼が、遠江侵攻の拠点として、馬場信春を普請奉行に任じて築城したもので、城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と命名された。諏訪は四郎勝頼の生母の出身地である。諏訪原城を獲得した家康は、武田ゆかりの諏訪の名を直ちに捨て、牧野城と改めた。周の武王が、悪逆非道の殷の紂王を牧野(ぼくや)に破った古代中国の故事にちなんだものという。しかし現在、国指定文化財としての名称は、牧野城跡ではなく、築城時の諏訪原城跡となっている。ちなみに2023年は築城450年にあたる。
天正4年(1576)、家康はこの牧野城主に氏真を任命して、松平家忠(深溝松平家当主、『家忠日記』を書いた人)ほかの重臣たちに補佐させた。駿河の人々にとっては懐かしい今川の太守を、名目上とはいえトップに戴くことによって、德川には私心はなく今も駿河の主は今川だと思っており、今川家再興のため、遠江の安寧のために、侵略者武田と戦っているとアピールするのが目的であったろう。しかし氏真は数年後に牧野城主を解任され、駿河の太守に返り咲くことはなかった。彼自身が返り咲きを望んでいたかどうかはわからないが・・・。
いずれにしても、せっかく氏真が再登場したのに、諏訪原城が全く言及されず、紀行にもチラとも出なかったのは残念。
天正10年(1582)の武田氏滅亡後は、牧野城の存在意義も薄れ、家康の関東移封もあって、天正18年に廃城となった。明治維新を迎えると、徳川慶喜の後を慕って駿府まで随従した旧幕臣たちが、荒廃していた牧野城周辺に移住、開墾を進めて城址一帯は茶畑となったが、堀や曲輪などは現在も残っている。平成29年(2017)、「続日本100名城」(146番)に選定された。
諏訪原城島田市博物館のサイトに、築城450年の見出しと共に、多くの写真と詳しい解説がある。
https://www.city.shimada.shizuoka.jp/shimahaku/docs/kuni-01.html
静岡新聞社発行の『アンソロジーしずおか 戦国の城』の中の一編、『梅花の鏡』は、今月19日に選考が行われる直木賞の候補の一人、永井紗耶子氏の作品で、家康家臣の鳥居元忠が、負傷しながらも果敢に諏訪原城攻めを行い、城を築いた武田の猛将馬場信春の娘と数奇な縁で結ばれ、側室に迎えるまでの物語である。
▼諏訪原城跡 『ホントに歩く東海道』第7集 MapNo.26 mapB32 写真32
牧之原台地の北端部に立地する山城で、当時の大井川は牧之原台地に沿って流れていたことから、三方が断崖によって守られた堅固な城であった。現在、建築物は残っていないが、三日月堀と馬出がセットになった丸馬出や枡形虎口など、武田流築城の特徴が良好な形で残っており、戦国山城マニアにはたまらない城だという。令和2年に、落語芸術協会会長の春風亭昇太氏を隊長とする諏訪原城応援隊が結成され、諏訪原城を全国にPRする運動を行っている。
どこにいる家康 第24回 ギャラリー
今回登場したど派手な安土城。『ホントに歩く中山道』第2集用の地形図を購入した時に近江八幡市安土町で近づいたことを思い出し、そのときにめぐった役所を紹介しました。
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