2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

瀬名と武田の間者の密会を知った五徳は、信長に報告。怒った信長は、家康の伯父・水野信元が武田と内通していると言いがかりをつけ、家康に処分を迫り、大樹寺で誅殺させる。
フラッシュバックで眠れなくなった家康は、侍女・於愛の笛で癒される。
設楽原の戦い以来、感情コントロールができなくなった信康は僧侶を斬り殺す。
舞台は、岡崎、浜松、岐阜、吉田町

もくじ
●第23回「どこにいる家康」▼動静
●第23回「どうする家康」の舞台関連マップ
●第23回「どこにいる家康」発展編(by(し)
  1.於葉の再登場と於愛の初登場
  2.水野信元の弟、忠重と加賀井事件
●ギャラリー(東海道安城から池鯉鮒、恵那市岩村付近)

第23回「瀨名、覚醒」▼動静

00分 長篠・設楽原(愛知県新城市竹広字信玄原)
 徳川信康、天正3年の戦いのシーンがフラッシュバック。

<ナレーション>長篠設楽原の戦いで勝利を収めたが、武田との戦いは続いていた。

01分 遠江・小山城(静岡県榛原郡吉田町片岡)武田本陣?
武田勝頼が岡部元信(瀨名、信康、亀姫、瀨名両親の関口家を人質交換に連れて行った今川の家臣。「どこにいる家康」第6回)に、「自分が仕えた今川の領地を取り戻せ!」と渇を入れる。

小山城は、大井川河口近くに位置する。東海道金谷宿の南東。
現在、城跡には天守閣型の「展望台小山城」がある。
吉田町HP「展望台小山城」
https://www.town.yoshida.shizuoka.jp/2350.htm

01分 遠江・小山城 家康本陣
家康が引き上げようとすると、信康は「戦わせろ」と槍を持って攻めていき、殿を務める。
石川数正が「信康様は、最近は気性のコントロールができないようで」と家康に報告する。

02分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
瀬名、カニ柄の着物を縫っている。
平岩親吉や山田八蔵が信康の武勇の噂話をすると、瀬名は総大将である家康の指示に信康が従わないのは問題だと言う。
それに対して信康の妻、五徳は、「それぐらいの方がよい」とお腹の子(登久姫)をさする。
<回想シーン>虫を見て泣く信康を見る瀬名。

03分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

06分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
かつての側室だった於葉(「どこにいる家康」第10回参照)に、肩をもんでもらう家康。
於葉(およう)が「そろそろ側女を迎えては」と提案すると、甘い物が食べたくなった家康。
※於葉については、発展編に詳しい。

07分 浜松城・台所
家康がイチジクをつまみ食いすると、女房の於愛(おあい)に叱られ、尻を叩かれる。
驚いた於葉が、「於愛は近視でよく見えていない」と謝る。

08分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
望月千代が瀬名を訪ねる。「武田との戦は終わらない」という花占いをする。
瀬名が、「武田が和睦を申し出れば終わるのに」と言うと、「和睦をしたいのは瀬名の方では」と千代が言う。聞き耳を立てる築山殿の門番。

12分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
築山殿の門番から報告を受け、褒美を授ける五徳。信長へ手紙を書く。

13分 美濃・岐阜城<「ホントに歩く中山道」第4集 №15 mapD>
五徳の手紙を見て怒る織田信長。「これは見過ごせない」と、佐久間信盛を呼ぶ。
佐久間信盛は、自分の管轄下の水野信元(家康の伯父、家康の母於大の兄)を呼びつけ、「織田が攻めている岩村城(岐阜県恵那市岩村町城山)にこっそり兵糧を送っていただろう」と糾弾する。信元はいいがかりであると反論するが聞かない。
信長は「追って沙汰する。岡崎で待っていろ」と言う。信元は「岡崎?」

岩村城跡。日本一標高の高い城。日本三大山城
岩村城跡。日本一標高の高い城。日本三大山城

岩村城は、江戸時代の城の中で日本一標高が高い。中山道大井宿のある恵那駅から明知鉄道で行ける。
女城主
『ホントに歩く中山道』第6集 コラム24「東濃の名物」参照。
恵那市公式観光サイトえ〜な恵那「岩村城跡」
https://www.kankou-ena.jp/455.php

15分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
佐久間信盛が浜松へやって来て、「水野信元は岡崎にいるので、しかとご成敗せよ」と家康に信長の命令を伝える。

15分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
家康らが岡崎城を訪ねると、信元は大樹寺へ行っていなかった。
信康は、「父上は何でもかんでも信長様の言いなり。伯父をだまし討ちのように殺すのは卑怯者」と言って、父子つかみ合いになっているところに、瀬名と五徳が現れる。

17分 大樹寺<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 コラム40「家康と岡崎 徳川家菩提寺の大樹寺>
久松俊勝(長家)が仏像に祈っていると信元がやってきて、すぐに家康とその側近らに囲まれる。
信元は「俺はお前(家康)への見せしめ。気をつけろよ、信長は全てをお見通しだ」
介錯を頼んでおいた俊勝を羽交い締めにして逆に人質とすると、平岩親吉に刺される。信元は「があ」と言って死ぬ。

22分 上ノ郷城<今川方。蒲郡市神ノ郷。東海道からは少し遠いがあえて言うなら、岡崎市舞木町の山中八幡宮(「ホントに歩く東海道」第10集 №38 mapA23)の約7㎞真南。
大樹寺から久松俊勝帰ってくる。
於大「ハマグリをいただいたのよ♪」
俊勝「わしは隠居する」。(家康に信元だまし討ちの片棒を担がされていやになった俊勝)

23分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
五徳が瀬名に「我が父は裏切りを決して許しません。我らも気をつけなくては」と言う。

25分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
夜、家康は伯父信元に「側近の者が裏切っている」、信康に「卑怯者」と言われたことを思い出し、
眠れないでいると、お葉が於愛をつれてくる。お葉が横笛を吹き、へたくそ。子どもの頃は上手かったと言い訳をする。

28分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
瀬名、カニ柄の着物を縫う。誰の着物なのか。
武田家の手下、望月千代は築山の庵近くの地蔵のところに行くも、合図の花がない。

29分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
天正4(1576)年。瀬名は亀姫と生け花をする。
奥平に嫁入りする亀姫は「母上、長い間お世話になりました」と挨拶する。

31分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
於愛が、於葉と鳥居元忠に連れられ、側室としての挨拶に瀬名の元を訪れる。
西郷の家の出で身元はたしか。「源氏物語」の話で瀬名と盛り上がる。
みんなが帰った後、瀬名は家康からもらった木彫りの兎を見て感傷に浸っていると、山田八蔵が駆け込んでくる。

35分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
スローモーション。鷹狩りに出かけた信康は、通りがかりの僧侶を斬り殺した。理由「狩りに坊主は縁起が悪いから」。
寝込む信康。「皆が強くなれと言うから強くなったら、自分ではなくなった。いつまで人を殺せばいいのか」
瀬名「ずっと胸に秘めてきた案がある」

39分 築山の庵近く
千代が地蔵の花を確認。

39分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
五徳は、築山の門番から「瀬名によって交代させられた」と報告を受ける。

40分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
山田八蔵が千代を連れてくると、瀬名は千代に「上の者を連れてまいれ」と命じる。

40分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
瀬名が「築山の侍女や門番を総入れ替えした」と石川数正が家康に報告。

41分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
望月千代と唐人医師・滅敬(めっけい、穴山信君(梅雪)が変装)が瀬名を訪ねる。

「紀行潤礼」岡崎市・豊田市

信康が出演。

大樹寺(岡崎市鴨田町広元)
松平家代々の墓がある神聖な寺で、水野信元は家康の命により討ち取られた。
水野信元の墓は(刈谷市楞厳寺)にある。

松平東照宮(豊田市松平町赤原13)
松平家初代親氏の館跡に建つ、松平家発祥の地。
境内の産湯の井戸の水は、家康誕生時にここから早馬で届けられたと伝わる。
http://www.matsudairagou.jp/about/toshogu.html

高月院(愛知県豊田市松平町寒ケ入44番地)
松平家の菩提寺
http://www.matsudairagou.jp/about/kogetsuin.html

(こ)記録

第23回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。

どこにいる家康23 関連マップ

『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く中山道』第4集(垂井~新加納)
『ホントに歩く中山道』第6集(御嶽~大井<美乃坂本>)


どこにいる家康23 発展編(by(し)

長篠合戦が終わり、歴史を知っている我々は「これで武田は滅亡へと向かい、織田信長の天下に」と先走るのだが、家康たちはまだまだ、明日はどうなるかわからない混迷の中にいる。このままずっと織田と同盟を続けるのが正しい道なのか? 家臣団の中でも意見は割れる中、伯父の水野信元が粛清され、信元は「信長の目的は自分ではなく、家康への見せしめだ」と言い残して死ぬ。唯一の癒しは天然キャラの新しい側室、於愛で、先日の於万と違い、正室からも承認を得た存在。「今まで自分がやってきたことは於愛に引き継いでもらえる」と安心するような瀬名の表情が気になる。本能寺まであと6年。

1.於葉の再登場と於愛の初登場 

第10回で大活躍を見せた「特技:猪解体」の於葉が突然、浜松城内に再登場したのでびっくり。意外にも古参の側室らしい貫禄を見せ、新人於愛を抜擢し、岡崎に連れていって瀬名と面接させるなど、抜かりない仕切りをしていた。一回だけのゲスト出演かと思っていたが、新しいキャスト発表の中に北条氏直もいたので、於葉の娘の督姫輿入れなどで、また登場するのかもしれない。
第10回では、側室として仕えるのではなく、娘を育てながら同性パートナーとひっそり暮らすような結末だったような気がしていたのだが、勘違いだったか? ずっと浜松で側室だったならば、於万の騒動の時に全然出てこなかったのが不自然だが、岡崎にいたのかもしれない。あるいは、於万の騒動があったのをきっかけに、酒井忠次夫妻あたりが要請して、浜松城の奥の仕切りを於葉にやらせるようになったのかと思えば納得できる。

側室第一号の於葉は三河上之郷の鵜殿家の出身だった。於万は知立。後に西郷局と呼ばれる於愛の実家、三河西郷家は、三河・遠江の境の地域を拠点としている国衆で、今川家滅亡後は德川との縁を強化し、酒井忠次の妹が西郷家に嫁ぐなど姻戚関係も結んでいた。
於万の回で紹介した、家康晩年の側室では、二代目於万は駿河(伊豆?)、三代目於万は相模岡津村と、側室の出自もだんだん西から東に移動しているのが面白い。
山岡荘八版の家康では、駿府時代の家康の初恋の相手が、あの椿姫観音のお田鶴(吉良御前)で、於愛はお田鶴に瓜二つという設定、竹下景子さんが二役を演じていたらしいが、今回の大河ドラマでは、当然ながら全く無関係となっている。

於愛は家康と出会った時すでに戦争未亡人で、家康とは再婚であったが、家康との仲も家中の人々との関係も非常に良好で、後に二代将軍となる三男秀忠、尾張淸洲藩主となる四男松平忠吉の二人の男児を産む。家康の駿府入りに伴い於愛も駿府城に入るが、病に倒れ30代の若さで死去し人々をおおいに嘆かせたという。駿府の龍泉寺に葬られ、家康は父広忠から贈られた太刀などを寄進した。また秀忠が母の法要を行った寛永5年(1628)、勅使により西郷局に従一位の追贈があり、「宝台院殿一品大夫人」と戒名が改められ、寺名も宝台院となった。

静岡市葵区 宝台院(龍泉寺『ホントに歩く東海道』第6集 MapNo.22(番号なし) mapC mapDHP https://www.houdaiin.jp/history.html

正覚寺 『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 MapNo.6 mapC39 写真39
家康の四男で秀忠の弟、松平忠吉が、慶長8年(1603)母の菩提のために建立。清須越で名古屋に移転するが、跡地に新たに大雄山正覚寺が建立され、須ヶ口から道標や今川塚(首塚)が移されている。松平忠吉は尾張清須藩主であったが父に先立ち若死、嫡子がなかったため、異母弟のの義直が継いで、御三家筆頭尾張家となった。名古屋市の德川美術館には、忠吉の遺品も収蔵されている。

正覚寺(清須市・美濃路)に移された今川塚
正覚寺(清須市・美濃路)に移された今川塚

2.水野信元の弟、忠重と加賀井事件

ドラマには登場しないが、水野信元には忠重という異母弟がいた。水野忠政の末っ子で、於大の弟にあたる。水野信元は、息子(養子)と共に粛清されたので、水野家の嫡流は絶えてしまったが、末弟の忠重は三河一向一揆の鎮圧や、姉川・三方原などの戦いで家康に協力しており、兄信元の死後も、高天神城攻めなどで軍功をたてた。

天正8年(1580)、忠重は、織田家を追放された佐久間信盛が城主をつとめていた三河刈谷城を信長より与えられた。刈谷城はもともと、水野信元の城で、信元が冤罪だったことを悔いた信長が忠重に与え、水野の城に戻したという説もある。
天正10年(1582)6月の本能寺の変では織田信忠に従って京にいたが、難を逃れて刈谷に戻った。小牧長久手戦では信雄方として従軍するが、その後、信雄が秀吉と単独講和して秀吉の臣下となったのに従い、忠重も秀吉に臣従、德川家を出奔した石川数正と共に、秀吉より武者奉行に任命される。このまま順風満帆の人生を閉じるかと思われた矢先の慶長5年(1600)7月、浜松から越前府中の新領に帰る堀尾吉晴を招いて知立で酒宴を催していた際、同席していた美濃加賀野井城主で石田三成家臣の、加賀井弥八郎重望に殺害された。享年60。

これも謎の事件で、喧嘩口論となって殺されたという説もあるが、地元では、石田三成に德川家康の暗殺を命じられていた加賀井が、家康は討てなかったが、德川方の水野忠重と堀尾吉晴を殺害しようとして、水野は討ったが堀尾は負傷させたにとどまり、自身が討ち取られたと説明されており、これは、『德川実紀』の記載に沿っている。
「然るに池鯉鮒の宿にて。大坂の家人加賀井弥八郎といへるもの争論して水野和泉守忠重を討。弥八郎また堀尾吉晴がためにうたれしが。吉晴も深手負しよし聞ゆ。これは大谷吉継がすすめにより。三成ひそかに弥八郎に命じ。秀頼より存問の使と称し江戸へ下し。君(=家康)御対面の席にて刺奉れとの事にて。弥八郎を江戸に下しける。然るに君いかで斯る詐謀に陥り給うべき。御対面なければ弥八郎むなしく帰るとて。道にて堀尾をあざむき忠重に会し。酒宴の席にて忠重を害し。堀尾をも討たんとして其身伐れしなり。」

『德川実紀』はこのあと、三成らによる京都伏見城攻め、鳥居元忠討死、小山評定と続いていくので、この事件も、関ヶ原の戦いの前哨戦的な事件といえるのかもしれない。
ちなみに、この事件で負傷した堀尾吉晴は、家康が駿府に移った後に浜松城に入り、近世城郭への改築を行ったとして、浜松城の説明に名前が載っている人である。

宝蔵寺 『ホントに歩く東海道』第11集 MapNo.41 mapD37 写真37
第19回で紹介した知立古城跡(mapD30)のすぐ近く。
水野忠重の家臣二人が、主を討たれた責任を取って切腹し、その供養塔である「追腹塚」がある。また、岡崎城主田中吉政が建てた加賀井弥八郎の墓もある。

おいばら塚
おいばら塚

浜松城と堀尾吉晴 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapB 25、26  写真25
天正18年(1590)の小田原征伐の功により、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江国浜松城主12万石に封じられ、10年間在城した。その間、浜松城の石垣・天守を築き、また二俣城や鳥羽山城も石垣を持つ城へ改修し、戦国の城から近世城郭へと変貌させた。

どこにいる家康 第23回 ギャラリー

東海道安城から池鯉鮒宿と岐阜県恵那市岩村付近