2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

「どうする家康」10回目は、三河一向一揆を収めた家康が三河支配を安定的に進め、また、家康の母・於大と妻・瀨名が側室選びをするという穏やかな感じの進行でした。
側室選びという性質上、女性の登場が多かったと想います。
岡崎城と築山の庵(瀨名の別邸)が主な舞台でした。しかも築山の庵は、「ホントに歩く東海道」第10集のマップ内でありながら、まったく触れていません。
発展編では、「ホントに歩く東海道」では手薄な家康の母と妻を掘り下げています。

もくじ
●第10回「どこにいる家康」▼動静
●第10回「どうする家康」の舞台関連マップ
●第10回「どこにいる家康」発展編(by(し)
  1.戦国の正室・側室たち
  2.督姫の生母 西郡の局
  3.築山稲荷
  4.引間城主飯尾連龍
●ギャラリー

第10回「どこにいる家康」▼動静

▼00分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
 城の下働きをしているお葉(=西郡の局、鵜殿長持の娘)が廊下の掃除をしている。

ホントに歩く東海道 第10集 №40 岡崎城
ホントに歩く東海道 岡崎城周辺

▼01分 引間(ひくま)城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所
 家康、引間城主の飯尾連龍(いのお・つらたつ)を訪ねる。連龍は「家康と今川氏との間を取り持ちたい」。
 連龍の妻お田鶴(おたづ・鵜殿長照の妹)は、風邪を引いたと仮病を使って出てこない。

ホントに歩く東海道 浜松宿と引間城

▼03分 上ノ郷城<今川方。蒲郡市神ノ郷。東海道からは少し遠いがあえて言うなら、岡崎市舞木町の山中八幡宮(「ホントに歩く東海道」第10集 №38 mapA23)の約7㎞真南。
 回想シーン。鵜殿長照の最期。

▼04分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼07分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
 家康、瀬名がつくった「精がつく薬湯」を飲む。
 於大、登場「これからは築山殿とお呼びしましょう」
 「おなごとしてしまいです。子を産まなくなったら御用済み」
 「側室を置いて松平家を盤石にしろ」
 側室を置くことに瀬名も賛成する。

ホントに歩く東海道 築山の庵
築山の庵「ホントに歩く東海道」第10集 №39 

▼12分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
 台所で、酒井忠次の妻登与「よい女子を知らぬか」と触れ回る。
 その後、多くの女性が城を訪れ、側室選びの面接をする。

▼15分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
 登与「今日はしし汁でございます」。
 捕獲されたイノシシが運び込まれ、お葉(西郡の方、鵜殿長照の分家の娘)が小さな鉈のようなもので一発で仕留め、さばく。

▼17分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
 瀬名と登与が、お葉のイノシシなどの武勇伝とともに、お葉の侍女での評判を報告。
 於大「そういう女子(おなご)はできる女子です」
 瀬名がお葉に頼み込み、
 お葉「謹んでお受けいたします」
 於大・登与「よしっ」

▼22分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
 夜 雨。
 家康、血抜きでぶら下がっているイノシシを見て怖くなる。
 於大、登与、瀬名、お葉に家康の手玉の取り方を指南する。
 お葉家康の寝所を訪ね、羽交い締めにする。

▼28分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
 木下藤吉郎が訪れ、信長の妹お市が浅井長政に嫁ぐ、と家康に報告。

▼28分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
 お葉、家康の身の回りの世話、よく気がつく。
 湯を持ってくる、新しい草履を持ってくる、お菓子を持ってくる、肩をもむ。

▼31分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
 10ヶ月後、家康と側室お葉の子、「おふう(督姫)」が生まれる。
 瀬名、寂しい顔をする。

▼32分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
 瀬名を訪ねてきた家康、精のつく薬湯をおかわりする。

▼33分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
 お葉、家康を訪ね「好きな相手ができたので、側室をやめたい」
 「相手は誰じゃ」と怒る家康、連れてきた美代を見て、二人とも手討ちにできず。

▼37分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
 家康「全てわしの胸に」とお葉のことを瀬名に報告。
 薬湯を飲む。

▼38分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
 掃除をするお葉と美代。

▼45分 尾張 小牧山城(愛知県小牧市堀の内1)
 信長、肩をむき出しにして弓を射ていると、柴田勝家が来て、「将軍(足利義輝)お討ち死に」の報告を受ける。

小牧山城は、名古屋城と犬山城の南北ラインの中間ぐらい。小牧山城でなくて、あまり参考になりませんが、マップ図版です。
名古屋城「ホントに歩く東海道」別冊美濃路 №7 mapBの右上四分の一、コラム8「尾張名古屋は城でもつ)

ホントに歩く東海道 美濃路と名古屋城


犬山城「ホントに歩く中山道」第5集 №18 mapA17犬山橋から木曽川左岸下流)

ホントに歩く中山道 鵜沼宿と犬山城

▼39分 躑躅ヶ先館(甲府市)
 武田信玄、金のおはじきみたいな奴をバラバラとばらまく。
 「今川氏真の家臣をことごとく調略しろ」と、穴山信君、山県昌景、千代に檄を飛ばす。

▼40分 駿府 今川館<駿府城付近 第6集 №22 mapC18>
 今川氏真「家康と通じておる」と飯尾連龍を誅殺
 飯尾連龍「誰がそんなことを」
 氏真「そなたの妻じゃ」

▼41分 引間(ひくま)城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所
 お田鶴が花を活けていて手を切る。

▼41分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
 武田から会いたいと手紙が来て、家康、慌てる。

「紀行潤礼」愛知県東浦町、刈谷市
潤礼ではなく「紀行於大」。

緒川城址(東浦町緒川字古城、JR武豊線緒川駅)
家康の生母於大の出生地。水野氏の居城。

東浦町観光協会HP
https://higashiura-kanko.com/history/odainokata/

於大公園(知多郡東浦町大字緒川字沙弥田2-1、JR武豊線緒川駅)

刈谷城址(亀城公園)(刈谷市城町1丁目1−1、最寄り駅名鉄三河線刈谷市駅)

椎ノ木屋敷跡(刈谷市銀座6-58-18、最寄り駅名鉄三河線刈谷市駅)
徳川家康の生母、於大の方が、家康の父・松平広忠から離縁された後、久松俊勝へ嫁ぐまでの間、移り住んだ。

楞厳寺(りょうごんじ)(刈谷市天王町6-7、最寄り駅名鉄三河線刈谷市駅)
於大の生家、水野家の菩提寺。水野信元や3代目・水野忠重の墓がある。

(こ)記録

第10回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。

ホントに歩く東海道 ホントに歩く中山道

『ホントに歩く東海道』第6集(江尻<清水>〜藤枝)
『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油〜岡崎)
『ホントに歩く東海道』別冊美濃路(垂井〜宮<熱田>)

『ホントに歩く中山道』第5集(新加納〜御嶽)


どこにいる家康10 発展編(by(し))

1.戦国の正室・側室たち

https://www.at-s.com/sp/news/article/shizuoka/1170788.html

上記は静岡新聞のWEBニュースサービスサイトの2014年7月の記事。令和の大河ドラマで主役に再び家康が登場することなど誰も知らなかった頃だが、「徳川家康の生涯に最も影響を与えた人かもしれない」として、家康の祖母源応尼の墓所である静岡市葵区の華陽院の解説を載せている。

源応尼については、実母於大に代わり駿府で竹千代が元服するまで養育した母方の祖母として、第3回の記事でも紹介したが、実は源応尼という女性は、家康と母方だけで繋がっているのではない。家康の父方の祖父、安城から岡崎に進出し十八松平と言われる松平一族の中でリーダー格に躍り出た松平清康の後妻でもあったのだ。

現代の私たちから見ると「母の母であるお祖母ちゃんが、いろいろあって母方の祖父とは離婚して、父の父と再婚し父方でも義理の祖母になった」という話は、かなり「キモい」感じがするかもしれないが、家と家との都合で複雑な家族関係が生まれるのは、この時代珍しいことではなかったようだ。

最初に嫁いだ水野家で於大を産んだ源応尼は(この時点ではまだ尼ではないが、複雑なので源応尼で通す)、水野・松平清康間の闘争と後の講和の条件として、水野家を離縁し清康に再婚させられたという。清康とは母子ほどの年の差があったにも関わらず、清康が惚れ込んで妻にしたとも言われている。それだけ魅力的な女性だったのだろうが、産んだ子供を置いて他家に再嫁せざるをえない運命は、後に娘の於大が辿ったのと同じだったわけで、後に孫の養育を強く願って駿府に移ったのも、自分の体験からの思いだったのかもしれない。

さらに驚くことには、源応尼が清康に再嫁して産んだ娘の碓井は、左衛門尉酒井忠次の妻になっている。ドラマに登場する酒井夫人は、築山で別居中の瀬名に代わり岡崎城の台所を取り仕切り、侍女たちの監督も怠りなく、有能で下々の事情にも明るい賄いのおばさん的雰囲気を醸し出しているが、実はお姫様育ちなのである。

碓井は最初、松平一族の長沢城主松平政忠に嫁いだが、家康と共に今川軍に従っていた政忠は、桶狭間の戦いで戦死。その後、家康が仲介して、酒井忠次に再嫁したという。ドラマでは、桶狭間のずっと前から酒井の妻だったような雰囲気だが・・・ドラマには登場しないようだが、碓井が松平政忠との間に産んだ息子康忠も、家康の側近となっている。

今回、瀬名・於大・碓井(ドラマでは「登与」)の三人組で家康の側室選びに励んでいたが、於大と碓井は共に源応尼を母とする異父姉妹なので、息も合っていたというわけだろうか。

政略結婚により、あちらからこちらへと嫁がされた戦国の女性たちは、自分自身の生き方を選べなかった悲劇の人々という見方が長い間なされて来たが、先日亡くなられた永井路子氏などは、決して悲劇の女性ではなく、外交官としての役割を担って生家と婚家を結ぼうとした意志も才もあるキャリアウーマンという解釈を、早い時期から主張されていた。

今回のドラマは、外交官的役割はともかくとして、どこに置かれようと、夫の尻をたたき子供を産み育て、パワフルに生き抜く強い戦国の女性たちの存在が印象的である。

▼華陽院(源応尼の墓所)『ホントに歩く東海道』第6集 Map22 B13

「どこにいる家康」第3回で紹介

▼長沢城跡 『ホントに歩く東海道』第10集 Map37 C41(写真なし) 

名電長沢駅のすぐそば、名鉄線路と国道1号線の間。旧道沿いの長沢小学校の角に長沢城と長沢御殿跡の説明板がある。長沢松平氏(碓井の夫だった松平政忠は七代目の長沢城主)の居城があった。その後三代将軍家光上洛の休憩所として長沢御殿が建設されるが、使用されぬまま取り壊しとなった。

2.督姫の生母 西郡の局

今回登場した、家康の最初の側室、西郡の局「お葉」もまた、戦国をたくましく生きる女性たちの一人である。彼女については、後に北条家に嫁ぐ家康の次女督姫の生母であること、慶長11年(1606)に伏見城で死去し京都本禅寺に葬られたことははっきりしているらしいが、他の側室たちに比べ、詳細は不明のようで、1983年版の大河ドラマ徳川家康の登場人物リストにも見当たらない。

督姫の誕生年についても、黒田基樹『戦国大名・北条氏直』(角川選書)によると、ドラマの永禄8年(1565)ではなく、10年遅い天正3年説のほうが妥当となっている。その根拠は、北条氏直の死後、池田輝政と再婚した督姫は、慶長元年~16年の間に五男二女を産んでおり、永禄8年生まれだと32歳から47歳までの間となって高齢すぎるのではないか、ということである。

黒田氏のこの本には、氏直の叔父北条氏規が、家康とは今川の人質「同期生」であり、共に駿府で少年時代を親しく過ごし、徳川と北条の外交関係にもキーマンとして、督姫と共に徳川幕府下での北条家の生き残りに尽力したということが書かれており、一昨年秋の神奈川県立歴史博物館早雲寺開基五百年記念展でも特集されていた河内狭山藩北条家の存在も思い起こされ興味深い。

督姫や北条氏直・氏規は今後登場するのか、するとしても最終回に近いあたりであろうが、期待したい。

ところで、西郡の局ゆかりのお寺は実は東京にもある。品川区小山の長應寺という寺院で、もともとは鵜殿氏が三河西郡に創設したが、戦乱の中で荒廃していたのを、江戸に幕府が出来てから、西郡の局が寄進し日比谷に再建したという。現在、昔を偲ばせるものは何もなく、説明板も現地にはないので残念であるが、ネット検索すると情報が得られた。

https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/ct/other000053900/59–4.pdf

火災・震災などで何度も移転を繰り返し、明治時代にはなんと北海道に移転して、その長應寺も現地で続いており、2015年5月に法要が行われ室町時代の絵曼荼羅が開帳されたそうだ。

https://www.hokkaido-np.co.jp/movies/detail/5293508464001

▼早雲寺 『ホントに歩く東海道』第3集 MapNo.11 mapC33 写真33

▼長應寺 中原街道から桐ヶ谷交差点で桐ヶ谷通りが北西に目黒不動のほうに分岐するが、桐ヶ谷通りを少し進んだ左手、桐ヶ谷斎場の向かいにある。

長應寺

※東海道と中原街道は、御田八幡・亀塚公園の所で接近する。海沿いを進む東海道と、山側の中原街道の高低差が体感できる場所である。中原街道は伊皿子坂を越えると、海岸沿いに進む東海道と離れて行き、二本榎の承教寺や幽霊地蔵の光福寺を経て五反田駅から中原口交差点、桐ヶ谷交差点と進む。旧道は、桐ヶ谷交差点から桐ヶ谷通りに入る所の信号を通る道で、子別れ地蔵がある。

3.築山稲荷

瀬名が岡崎城に入らず、築山の庵で別居したことについては、夫婦不和説や、織田家への忖度説がこれまでの主流だったが、一向一揆を機に、領民の生活を身近に知り寄り添いたいという、瀬名自身の希望だとする新しい解釈になっていた。

岡崎の地元街歩きサイト https://pokelocal.jp/article.php?article=98

によると、平安時代に宮中の皇女に祟っていた野狐を弓の名手が射殺したという事件が「築山」の発端だそうだ(今で言うストーカー事件のようなものだったのだろうか?)この弓の弦を祀ったのが岡崎天満宮、野狐の骸を埋葬し築山を築いて稲荷社を祀り、祟りを鎮めた所が築山稲荷となったという。

築山稲荷のあった場所は、康生通南三丁目、現在の岡崎康生郵便局の辺りとのこと。瀬名の住まいはこの一画で、岡崎城からは徒歩10分程度だったらしい。

ちなみにこのサイトは、3月12日のドラマ放映直後、アクセスが集中したせいか、一時サーバーが不具合になったとか。元々の由緒から家康との関係、現在の位置関係など、貴重な情報がわかりやすくまとめられている。

▼岡崎天満宮・築山稲荷(岡崎康生郵便局) 
『ホントに歩く東海道』第10集 MapNo.39 mapC

岡崎天満宮は、惜しい所でマップ外になっており、mapCの中ほど上にある「極楽寺」「真宗大谷派美川別院」の上の欄外のあたりである。名鉄東岡崎駅の観光案内所には、岡崎の街中散歩コースマップが数多く置いてあり、岡崎天満宮が入っているものも多いので参考にしてほしい。

mapCは、旧東海道の赤いラインが岡崎の二十七曲がりでくねくねと続いているが、35岡崎信用金庫資料館と、東惣門跡の角の間にある郵便局マーク〶が、築山稲荷の場所とされる岡崎康生郵便局である。

4.引間城主飯尾連龍 

浜松の旧名は引間(曳馬、引馬とも)で、曳馬坂もある。

お田鶴の夫飯尾連龍は、祖父の代に今川氏より与えられた遠江浜松荘と引間城主を継いだ。この時の引間城は、現在天守閣のある浜松城からは国道152を挟んで北東の位置にある一画である。東照宮・日限地蔵尊などがある。

桶狭間の戦い後、武田・織田・徳川らとの関係で駿遠の領主たちが騒然とする中、飯尾連龍は、疑心暗鬼となった今川氏真に謀反を疑われ、駿府城に呼び出されて殺害された。これは2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」で井伊家の当主たちが、次々と今川に謀殺されたのと同様の経緯と見られる。

「裏切られるリスクも含めて家臣を信じるか、少しでも謀反の疑いのある者は殺すか」という選択が、三河一向一揆の回で描かれたが、最終的に家臣を信じる道を選んだ家康と、周囲を信じることができなかった氏真とが対比されているようだ。

引間城は、引き続き次回第11回の舞台にもなるので、来週また取り上げたいと思う。

▼浜松城・浜松城公園 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapB26
コラム31「浜松城は出世城」

引間(曳馬)城址 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapB 宮(引間城跡)番号なし 
別冊姫街道 MapNo.8 浜松道mapB 東照宮(番号なし)

元城町東照宮
元城町東照宮
引間城本丸跡(曳馬城跡)
引間城本丸跡(曳馬城跡)
曳馬坂(正福寺前)
曳馬坂(正福寺前)
どこにいる家康 浜松市 元城町
元城町

「家康の散歩道」マップ(『ホントに歩く東海道』ではマップ外になっているものも入っており、浜松市内の家康関連史跡を巡るのに便利)

「家康の散歩道」マップ(『ホントに歩く東海道』ではマップ外になっているものも入っており、浜松市内の家康関連史跡を巡るのに便利)

どこにいる家康 第10回 ギャラリー