2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。
武田勝頼と織田・徳川軍が戦う「長篠の戦い(設楽原の戦い)」。
長篠の戦いは聞いたことがある有名な合戦だが、愛知県だったことが驚きでした。また、布陣場所や位置関係を確認できてよかったです。
舞台は、岡崎、長篠
もくじ ●第22回「どこにいる家康」▼動静 ●第22回「どうする家康」の舞台関連マップ ●第22回「どこにいる家康」発展編(by(し)) 1.酒井忠次、決死の別働作戦 2.エビすくい 3.酒井忠次の息子、中山道の本庄で藩主となる ●ギャラリー(埼玉県本庄を中心に) |
第22回「設楽原の戦い」▼動静
▼00分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
<回想シーン> 瀨名が亀と信康が子どもの頃を思い出す。
▼01分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
長篠へ向かう家康・信康、徳川の者たち。
▼02分 奥三河・長篠城(愛知県新城市長篠字市場)
天正3年(1575)5月、武田軍に囲まれている長篠城の奥平軍。織田・徳川の3万の軍勢が長篠へ向かっていると聞き、喜ぶ。
▼03分 設楽原(愛知県新城市竹広 字信玄原)
雨が降っている。織田本陣で信長の策が披露される。
武田騎馬軍対策の「馬防柵(ばぼうさく)」を、もくもくと作る兵士たち。
※馬防柵のための木材は、信長が岐阜から持ってきた。
キラッと 奥三河観光ナビ「馬防柵」
https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=516
上記「キラッと 奥三河観光ナビ」HPのほか、設楽原や長篠城については、新城市設楽原歴史資料館のHPに詳細な案内がある。特に設楽原案内図が詳しく、本陣や陣跡、長篠城との位置関係などよくわかる。
新城市長篠城址史跡保存館HP
https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/nagashinojyoshi/yokoso.html
新城市設楽原歴史資料館による設楽原案内図(PDF)https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/shitaragahara/yokoso.files/20160725-175305.pdf
新城市長篠城址史跡保存館による周辺の史跡見学ウォーキングコース
https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/nagashinojyoshi/map.files/20160608-141629.pdf
▼03分 設楽原 武田本陣
武田勝頼は、柵ばかり作る織田・徳川軍に対し、「なぜ攻めてこないのか」といらだつ。
▼04分 ♪音楽「どうする家康メインテーマ~暁の空~」
▼07分 設楽原 家康本陣
信長の作戦の意味がわからない家康たちは、一向に長篠城を救わないので、いらだつ。
しびれを切らした信康と家康と酒井忠次が織田本陣へ向かう。碁を打っている信長と秀吉に怒る家康。信長は鉄砲の威力を存分に発揮するために、武田軍にこちらへ近づいてほしい。
「武田が砦を築いている鳶ケ巣山(長篠城南東)を攻めれば、武田は出てくるだろう」と家康が進言すると、信長は「俺の家臣には危険すぎるが、家臣でない者が行くのはかまわない」と家康たちに押しつける。
酒井忠次が「これはわしの役目」と鳶ケ巣山攻めを引き受け、景気づけに「海老すくい」をみんなで踊る。意味が分からない井伊直政。
▼14分 設楽原 武田本陣
織田・徳川が「鳶ケ巣山を攻めるようです」と報告を受ける勝頼。
▼15分 長篠城 翌朝(天正3年5月21日)
鳶ケ巣山から銃声が聞こえる。
▼16分 設楽原 武田本陣
穴山信君(のぶただ)「鳶ケ巣砦がおちた。引くご指示を」
山形昌景「お父上の信玄公は勝ち目のない戦はしません」
勝頼「敵は3万、鉄砲は千丁。我が方は1万5000。しかし、信長と家康が首を並べているこの好機を逃す手はない」と家臣に向かい名スピーチをすると、虹が表れ「吉兆なり」と叫び、武田軍は「うお〜」と最高潮に盛り上がる。
▼20分 設楽原 武田本陣
勝頼が「御旗楯無しご照覧あれ〜(みはたたてなしごしょうらんあれ)」と叫んで軍配を振り、武田軍は織田軍に向かっていく。
※『NHK大河ドラマガイド どうする家康 後編』によると、「御旗=日の丸の旗」「楯無し=楯を必要としない頑丈な鎧」だそうだ。旗と鎧は源頼義が朝廷から下賜されたのもので、甲斐源氏の流れをくむ武田家の家宝となった。武田家の当主が「御旗楯無しご照覧あれ」と家宝に誓うと、家臣は反対することが許されない。無謀な戦いでも、家臣は止められなかった。
▼21分 設楽原 家康本陣
信長と秀吉がやってくる。
▼22分 長篠城(愛知県新城市長篠字市場)
鳶ケ巣(とびがす)山の武田軍を撤退させた酒井忠次がやってきて、奥平軍に合流。
▼22分 設楽原 家康本陣
信長は徳川信康に、「自分は長篠を救いにきたわけでもない、武田を滅ぼしにきた」と言う。
織田軍が馬防柵から鉄砲を構える。馬で攻めてくる武田軍を交代で鉄砲で攻撃。山形昌景が撃たれる。
秀吉「おもしれーようにみな死んでいくわ」
三千丁の鉄砲で武田への攻撃は続く。
▼28分 設楽原 家本康陣
信長と秀吉が去って行く。
信康は、武田軍の銃撃死骸を見て家康に「父上、これは戦ですか? これはなぶり殺しじゃ」と言う。
▼29分 設楽原
山形昌景死亡。設楽原の戦いが終結。
▼31分 設楽原 信長康陣? 宴会
信長が「これからの敵は誰だ?」と聞く。
娘の五徳のアゴをつかみ、「誰だ?」と聞く。
▼32分 設楽原 家康本陣
設楽原の戦いを見て、家康の家臣たちは信長の強さに圧倒された。ますます、信康の嫁である信長の娘、五徳が尊大になるかもと心配する。
家康は、信長の臣下に下ることを瀬名と信康に告げる。
▼35分 設楽原 信長康陣
家康と信康は、信長の家臣となる。信長から「勝頼を確実に滅ぼせ」と命令される。
▼36分 二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)
武田軍と戦う家康との信康。信康は、槍を持ってみずから戦う。
▼37分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
食事の際、二俣城での戦いにおける自らの戦功を自慢する信康。
乱暴者になった信康を心配する瀬名。
▼38分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
戦の悪夢にうなされる信康は寝室を出て行く。
横で寝ていた五徳、起きている。信長に言われたことを思い出す。「今後の敵は徳川。この家の連中をよく見張れ、決して見逃すな」
▼41分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
岡崎城を抜け出した信康がやってきて、庭でムカデを見て泣いている。
「紀行潤礼」愛知県新城市
●設楽原古戦場
長篠城から3㎞離れている。
https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=338
●織田信長本陣 茶臼山
https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=356
●家康物見塚
信長本陣の前方、八剣山。
https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=328
(こ)記録
第22回「どうする家康」の舞台関連マップ
今回の特に関連マップ。
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
どこにいる家康22 発展編(by(し))
「武田はなまじ騎馬の戦闘力が強かったために鉄砲を軽視し、信長に敗退した」というこれまでの通説は、最近では覆され、武田も充分に鉄砲の重要性を理解し装備していたが、弾薬などの物量において織田の経済力にかなわなかったとされている。「これからは強い兵じゃない、銭を持つ者が勝つ」という秀吉の台詞にも新説が反映されていた。
信長の力を見せつけられた家康は、ついに対等の同盟関係をあきらめ、信長に臣下の礼を取るが、もはや家康が「従順な白兎」ではないと気づいている信長が、今後どのような策に出てくるのか、不安が募る。
1.酒井忠次、決死の別働作戦
酒井忠次が立案実行したとされる、別働隊による鳶ヶ巣砦奇襲は、最初、信長が「田舎者の小細工」などと言ってしりぞけ、その後ひそかに「あの案を実行せよ」「敵をあざむくにはまず味方から。何処から漏れないとも限らないので軍議では却下のふりをした」という逸話が知られているが、今回のドラマでは「危険な策だから自分の家臣は出せない、德川だけでやれ」という信長の非情さ、前回から続く德川・織田間の不協和音がさらに強まった展開になっていた。
信長が「ついてこれない者は置いていく」と言っていたように、織田では完全なトップダウンで家臣は信長の意向と機嫌をうかがうのみ。対照的に、家臣が知恵を出し、言いたいことを言いながら主君を助ける德川家臣団を、信長が内心羨んでいるゆえの対応かとも思わせる。
肝心の奇襲についてはドラマでは描かれず、いきなり長篠城で奥平信昌と合流するシーンになって拍子抜け、という視聴者も多かったのではないかと思うが、ものたりない向きはぜひ、『けもの道』(砂原浩太朗)や、『弓組寄騎仁義:鳶ヶ巣砦の奇襲』(井原忠政)などの小説で脳内補完していただきたい。
講談社の決戦!シリーズの一つ『決戦!設楽原』中の一作である砂原作品は、案内役が実は女性だったというサプライズに加えて、まだ弱年の嫡子家次や、長篠籠城中の奥平信昌の父、定能を同行して危険な任務にのぞむ酒井忠次の心情を、詳細な行程と共に描いている。
井原作品は人気の『三河雑兵心得』シリーズの一作で、足軽から騎乗に出世した植田茂兵衛が、相変わらずフォレスト・ガンプなみに歴史上の人物と絡み合い、鳥居強右衛門と出会ったかと思うと鳶ヶ巣砦夜襲にも参加する。
ちなみにこれら2編とも、信長が却下と見せかけて奇襲作戦を実行させたという説を踏襲している。
豊橋から豊川を経て飯田・伊那へ向かうJR飯田線沿線は、野田城・新城・茶臼山・鳥居・長篠城と、ドラマ関連の地名が目白押し。
鳶ヶ巣砦は現在、遺構も残っておらず史跡にはなっていないらしく、新城市観光協会サイトに載っていないが、設楽原歴史資料館が今年の大河ドラマを受けて新しく作ったらしいページ「しんしろ家康紀行」には詳しい解説がある。
https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/taiga/shinshiro/tobigasuyama.html
また、「奥三河観光ナビ」には、鳶ヶ巣砦説明板と「設楽原古戦場いろはかるた」の写真が載っている。
https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=355
その他、実際に鳶ヶ巣砦跡を訪れてみた個人のブログも多数見られる。金比羅神社や「天正の杉」があるらしい。
2.エビすくい
長篠の戦いを前にして、酒井忠次が「エビすくい」を演じたことは、「東武談叢」という史料に載っている。国立公文書館の企画展「家康、波乱万丈!」(2023年4月15日~6月11日)に展示されていたものによると、
「然レトモ、諸軍何トナク武田家ノ武勇ヲ称美シテ勇ム気色キキ故、酒宴ヲ仰付ラレ、酒井左エ門尉忠次ヲ召テ蝦スクヒノ狂言ヲ致セト仰ラルル故、忠次立テコレヲスルニ、元来上手故座中興ヲ催シ、トツト笑テ鬱ヲ開キ屈ヲ伸タリ」
武田軍の武勇の評判に押されて士気が落ちているのに気づいた家康が、酒宴を開き酒井忠次にエビすくいを命じたところ、おおいに盛り上がって皆笑い興じ、鬱気分が飛んでいったという話である。ドラマでは、危険な山中夜行の鳶ヶ巣砦奇襲に赴く忠次に対し皆が「死ぬな」と声をかけ、だんだん湿っぽくなってきた雰囲気をエビすくいで一変させ、ついでに新入社員万千代に三河の宴会芸の洗礼を受けさせるという、オリジナリティの加わった展開だった。「蝦スクヒノ狂言」とあるので、踊りだけでなく芝居的要素もあったのだろうか。現在の酒井家当主が、「忠次のエビすくいについては酒井家に古文書も伝わっているが、具体的にどんな踊りかは不明で、ぜひ大森南朋さんに伝授してほしい」と語っておられるのが面白い。
https://www.nhk.jp/p/ts/5MN78XKQYX/blog/bl/pE02pD9eDo/bp/pDp4ya4apD/
3. 酒井忠次の息子、中山道の本庄で藩主となる
ところで前回触れたように長篠城はもともと、武田に与していた山家三方衆の菅沼氏の城だったが、家康が作手の奥平氏を調略している頃、城主菅沼正貞と共に長篠城の守りについていた城将たちの一人に、小笠原信嶺という信州の国衆がいた。設楽原合戦で武田勝頼が敗退すると、小笠原信嶺は本拠の信濃に撤退した後、織田・德川軍に帰順し信長に旧領を安堵されるが、奥平氏と同様、武田の人質だった家族を処刑されている。
本能寺の変のあと、関東の領主たちを巻き込んだ天正壬午の乱では、信嶺は織田・德川軍の酒井忠次に従い北条軍を相手に各地を転戦、小牧長久手や、小田原北条攻めでも武功をあげた。天正18年(1590)家康の関東入部にあたり、武蔵児玉郡本庄に1万石を与えられ大名となる。娘婿の小笠原信之が養嗣子となって家督を継ぐが、この信之は酒井忠次の三男にあたる(長男と次男の生母は碓井御前(ドラマでは「登与」)だが、三男の信之は母が違うようだ)。
小笠原信之は十数年の間本庄を領していたが、慶長17年(1612)に古河へ加増移封され、本庄藩は廃藩となった。
▼本庄城址『ホントに歩く中山道』第15集 MapNo.57 mapA6 写真6
▼城山稲荷『ホントに歩く中山道』第15集 MapNo.57 mapA7
本庄城は、山内上杉氏に属していた本庄宮内少輔実忠が築いた城で、実忠はその後北条氏に帰属するが、秀吉の小田原征伐に際して本庄氏は滅亡、関東入封した徳川家康が小笠原信嶺を城主とした。もともとの城は城山稲荷神社のあたりで、鳥居の手前に城址碑が建てられている。市役所付近に土塁の跡が残る。現在城址とされている場所は小笠原信嶺が新たに築いたもの。城山稲荷は椿稲荷とも呼ばれており、本庄市指定文化財のヤブツバキが、参道の桜と競演する春の風景は一見の価値がある。
▼円心寺 『ホントに歩く中山道』第15集 MapNo.57 mapA4 写真4
本尊は阿弥陀三尊で、武州本庄七福神の福禄寿も祀られている。二代目本庄城主小笠原信之が慶長年間に三河より圓心房を招き建立した。天明年間に建てられたと伝えられる山門(市文化財)は、赤門と呼ばれ地元の人々に親しまれている。中山道を歩いていても、この赤い門がパッと目に入る。
どこにいる家康 第22回 ギャラリー
埼玉県本庄を中心に