2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

武田軍に包囲された奥三河・長篠城から岡崎まで、徳川と織田に援軍を求めて走った、鳥居強右衛門の大活躍の回。
強右衛門が往復した岡崎と長篠のルートは、ぜひたどってみたい。
舞台は、岡崎、長篠
もくじ ●第21回「どこにいる家康」▼動静 ●第21回「どうする家康」の舞台関連マップ ●第21回「どこにいる家康」発展編(by(し)) 1.鳥居強右衛門と奥平信昌 2.山家三方衆と德川家康 3.亀姫と加納城 ●ギャラリー(岐阜市を中心に) |
第21回「長篠をどうする」▼動静
▼00分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
地蔵の置き文を見た望月千代が、築山の瀨名を訪ねてくる。
千代「武田は、築山殿(瀨名)と信康様をいつでも受け入れます」
瀬名「私とあなたが手を結べばもっと大きなことができるはず」
千代が去ると娘の亀姫がやってきて、「クマと思って石をぶつけたら人だった行き倒れが、腹が減ったと言っている」と言ってきたので、飯を食わせた。
▼05分 奥三河・長篠城(愛知県新城市長篠字市場)
天正3年(1575)5月、武田を裏切り織田・家康側についた奥平信昌。攻めてくる武田軍に対し籠城するが、長篠城は、落城寸前。再三、徳川家康に援軍を要請しているし、家康の娘の亀姫との政略結婚も決まったのに、援軍がなかなか来ない。
足軽の鳥居強右衛門(すねえもん)が「徳川の姫がこんな田舎にくるはずがない」と言うと、
信昌「私は徳川氏を信じるしかない」。
強右衛門「では、私が助けを呼んでまいります」。
▼07分 豊川(寒狭川)
(5月14日?)強右衛門、武田に囲まれている城を抜け出し、約65㎞の道のりを岡崎へ向かう。
※「長篠合戦のぼりまつり」では、強右衛門にちなんだ、「戦国街道ラン」も行われたという。
「東愛知新聞」2023年5月6日「4年ぶりに武者行列 新城で「長篠合戦のぼりまつり」」
https://www.higashiaichi.co.jp/news/detail/11421
▼07分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
強右衛門の持ってきた書状を見て、家康や家臣たちが相談。
▼08分 ♪音楽「どうする家康メインテーマ~暁の空~」
▼11分 岡崎城
(5月15日?)家康、家臣と長篠の救い方を相談。
万千代(直政)が、小姓のくせに会議に口を出して怒られる。
▼12分 岡崎城
(5月16日?)翌日、家康は伯父の水野信元と佐久間信盛に、信長に助けをすぐよこすよう伝えろと言うと、それどころではないだろうとつれないので、「今すぐ助けに来なければ織田と手を切る」と信長に伝えよと切れる。
▼13分 岡崎城
織田の大軍勢がやってっくる。
喜んだ強右衛門は亀姫に、「うちの殿(奥平信昌)を末永く宜しく」と頼むが、なんのことかわからない亀姫は「?」となる。
信長は、家康の家族みんなに挨拶。
信長は亀姫に、「長篠が持ちこたえているのは、ひとえに姫のおかげ」と言う。
▼18分 岡崎城
台所で宴会の準備をする女たち。亀姫は「私は奥平に輿入れするのか?」と聞くと、瀬名も「わからない」と言う。
評定後、瀬名が家康に「亀姫は奥平に輿入れするのか?」と聞くと、「信長が勝手に決めただけ」と答える。それを盗み聞きする強右衛門。
▼21分 岡崎城・宴会
信康が信長に、妹の奥平への婚姻を撤回しろと要求すると、信長は「徳川との清須以来の盟約」をおしまいにするという。
秀吉「信長の臣下に下ることです」
数正「臣下に下らなければ?」
秀吉「敵。すぐ撤退しますし、攻撃するかもしれない」
家康「なにゆえ今さらおまえの家臣にならなくてはいけないのか」
信長家康一触即発。
▼29分 岡崎城・宴会終了
去ろうとする信長に、潜んでいた強右衛門が「長篠を助けてくだせえ」と泣きつく。
見かねた亀姫が、「奥平家に輿入れするので、怒りを収めてください」と、わびをいれる。
信長「むろん長篠は助ける」
▼33分 山道(岡崎と長篠の間)と川(豊川)、長篠
織田・徳川の助けが来ることを長篠の仲間に伝えるべく、走る強右衛門。武田の守りを抜く、泳ぐ。
しかし、長篠に着くと、城の手前で武田軍につかまる。
▼34分 長篠城近く(愛知県新城市長篠字市場)
武田勝頼は強右衛門に、「徳川は長篠を見捨てたと奥平に伝えろ、そうすれば私が召し抱える」と迫る。
▼36分 長篠城(愛知県新城市長篠字市場)
強右衛門が帰ってきた! と沸き立つ城内。
豊川の向こう側から強右衛門が「徳川はわしらを見捨てた」と叫ぶと、城内にすすり泣きが起こる。
しかし、亀姫のことを思い出した強右衛門は「徳川は織田の大軍を連れて助けに来る、持ちこたえろ〜」と叫ぶ。
▼39分 長篠城の向かい(愛知県新城市有海岩城)
磔にされた強右衛門。槍で突かれて死ぬ。
※磔にされたと伝わる場所に鳥居強右衛門磔死之碑が立つ。
▼41分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
評定で、織田信長が長篠戦の策を述べる。
▼42分 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
誰も来ない庭を眺める瀬名。
「紀行潤礼」愛知県新城市
●長篠城址(愛知県新城市長篠字市場22番地1)
https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/nagashinojyoshi/goannai.html
上記新城市のHPには、周辺の史跡マップも掲載されています。
●長篠城址史跡保存館(愛知県新城市長篠字市場22番地1)
https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/nagashinojyoshi/goannai.html
●甘和寺(新城市作手鴨ヶ谷字門前23)
鳥居強右衛門勝商の墓、推定樹齢は600年以上のコウヤマキがある。
https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/dobutsu-syokubutsu/koyamaki.html
●新昌寺(新城市有海字稲場2)
鳥居強右衛門の墓がある。
(こ)記録
第21回「どうする家康」の舞台関連マップ
今回の特に関連マップ。

『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
どこにいる家康21 発展編(by(し))
第14回(姉川合戦)は阿月マラソン回、今回は鳥居強右衛門トライアスロン回。そして、さりげなく亀姫回でもあった。表向きは固い絆で結ばれていると見える織田・德川同盟軍だが、岡崎クーデター鎮圧後も、水面下で不協和音が続いている様子。今後の展開が気になる。
1.鳥居強右衛門と奥平信昌
今回の奥平信昌も前回の大岡弥四郎と同様、突然の登場だったが、あちらにつきこちらにつきしなければ生き延びられない小国の領主としての苦悩が、少ない台詞の中に感じられた。武田の人質となっていた信昌の妻や弟が、奥平氏の德川方への寝返りのために処刑された悲劇は省略されていたが、「今更武田に戻ることはできぬ!」という悲痛な叫びに思いが込められていたようだ。
とはいえ、苦渋のすえ德川への臣従を決める奥平家の家族会議みたいなのを、前回にちらとでも出してほしかった気はする。そうすれば瀬名や亀姫たちが知らない間に政略結婚が進められる経緯も、わかりやすかったと思う。
紀行にも登場した鳥居強右衛門磔刑の背旗図は、三井記念美術館の展示でも目にした。三井の図は久能山東照宮のものだが、東京大学史料編纂所所蔵や新城市の設楽原歴史資料館の図など、いくつかのバージョンがあるようだ。
https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/shitaragahara/torii-suneemon.html
この背旗を作った落合左平次は武田軍の武将で、敵ながらあっぱれと感銘を受け自分の背旗図にしたというのが通説で、上記の資料館の説明にもそう書いてある。ところがドラマのラストでこの旗を掲げていたのが奥平信昌たちだったので、「えっ武田の方じゃなかったの?」とびっくりしたが、「時代考証のつぶやき」ツイートに、落合左平次は実は德川家臣だったとあり、さらにびっくり。
新城市には今もいたるところにこの絵があり、場合によっては小学生が絵に描いたりしているらしい。「すねえもんマラソン」もあるそうで、新城市の子供たちは、メンタル・フィジカルともに強く成長していそうだ。
▼設楽原歴史資料館
新城市竹広字信玄原552 JR飯田線「三河東郷」駅より徒歩15分
▼長篠城跡
新城市長篠市場22ー1 JR飯田線「長篠城」駅より徒歩8分
JR飯田線は、豊橋駅(『ホントに歩く東海道』第9集MapNo.36 mapA)または、豊川稲荷/豊川駅(『ホントに歩く東海道』別冊姫街道MapNo.1 mapB)から乗り換え。
2.山家三方衆と德川家康
「奥三河? 毛むくじゃらしかいない山奥」という五徳の言葉を聞いて、すっかりビビる亀姫だが、これは織田家のお姫様育ちの物知らずであって、信州・遠州との境の山間に位置する奥三河は、地形的にも戦略的にも重要な地点である上、塩の道や鉱山資源など、非常に価値の高い場所だった。今川・武田・德川に囲まれたこの地の小領主たちは、その時々の勢力に従いつつ生き延びる道を探っていた。奥平家には水野家から於大の叔母が嫁いでおり、奥平信昌は家康の又従兄弟にあたる。
長篠城はもともと菅沼氏の城で、田峯を拠点とするもう一つの菅沼氏と、作手亀山城の奥平氏が、山家三方衆といわれる土着勢力の三家だった。家康としてはどうしても、この三方衆を味方につけて、奥浜名における井伊谷三人衆のように、奥三河攻略の先鋒としたかったが、この時期彼らは、三方原合戦で圧倒的な力を見せつけた武田勢に取り込まれ、信玄没後も、德川とは三河・遠江各地の戦で敵対していた。離反させるのは困難で、唯一ずっと德川側についていた庶流菅沼氏の菅沼定盈も、拠点の野田城を武田勢に奪い取られたままであった。
山家三方衆の中にも微妙な温度差や利害の対立があるのに目をつけた家康は、天正元年(1573)夏ようやく、破格の条件をもって奥平定能・信昌父子を德川方に帰属させるのに成功した。破格の条件とは、奥平信昌と家康の長女亀姫の婚姻・奥平氏の現在の知行をすべて安堵する上、長篠・田峯の菅沼氏の所領も奥平氏に与える・織田信長とも話をつないで奥平氏の希望に添えるようにする、などである。(平山優『德川家康と武田勝頼』幻冬舎新書)
密かに作手亀山城を脱出した奥平父子は、離反に気づいた武田の追っ手を撃退しつつ岡崎に入った。奥平の離反は長篠・田峯の両菅沼家にも大きな打撃を与え、家康はついに長篠城を開城させた。この時、家康は籠城していた菅沼正貞を討ち取らず、助命して鳳来寺に退去させている。山家三方衆を大事にしたいという家康の気持ちが表れており、人質をすぐに処刑した武田勝頼との差が出ている。その後、家康は、奥平信昌を長篠城の城主に任命、信昌は城の大改修を行って要害堅固な城とし、家康の期待に応えようと奮戦することになる。
姫街道高町交差点の近くの浜松秋葉神社(第16回、井伊赤備え発祥の地の説明のあった神社)は、もともと奥平信昌の屋敷のあった所で、屋敷内に勧請されたものだという。
▼浜松秋葉神社 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』Map8「浜松道」mapB17



3.亀姫と加納城
今回の大河ドラマでは、瀬名が従来の悪女伝説とは真逆のキャラに描かれているのと同様、長女の亀姫も、德川家の威光のもとに嫁いできた気の強い姫というイメージとは異なり、ほんわりした天然妹キャラではあるが芯の強さも持ち合わせる女性となっている。今回、あわや織田・徳川が決裂という危機を救ったのは亀姫だった。
生涯、奥平信昌に一人も側室を置かせなかったというのも、亀姫が実家の権威で夫を尻に敷いていた証のように言われることが多いが、今回のような展開ならば、“毛むくじゃらのキューピッド”鳥居強右衛門の命をかけたメッセージが、夫妻の心に生涯響いていたのだと納得できる。
亀姫は信昌との間に、4人の男子と1女を産んだ。一人娘は後に大久保忠常(小手伸也さん演じる大久保忠世の嫡孫)に嫁ぐ。加納藩は三男忠政が継ぎ、嫡男家昌は下野宇都宮藩主となるが、二人とも、両親に先立って病死してしまう。
岐阜新聞のサイト https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/224846
にあるような、「気の強い亀姫伝説」(地元では今でも勝ち気な女性が「カメヒメサマ」と呼ばれたりするという)は、若死にした息子たちに替わり、まだ弱年の孫たちの後見をしなければならない立場が大きかったのではないだろうか。
加納城には、亀姫が12人の侍女を咎め一度に処刑したという謎の事件が伝わっているが、その理由は不明だという。また、長男の宇都宮藩や娘の嫁いだ大久保氏との関わりから、亀姫が黒幕となって本多正純を失脚させたという説も知られているが、真相はどうなのか。誰か、亀姫をヒロインに小説を書いてくれないだろうか?
武田信玄・勝頼や織田信長を相手に苦労の連続だった父を間近に見て育ち、悲運に斃れた母と兄の事件も衝撃だったであろう亀姫にしてみれば、「世の中はちょっとでも気を抜いたらやられる、やられる前にやらなければ」という主義で生きざるをえなかったとしても無理はない。
亀姫の墓所は光国寺(岐阜県岐阜市)・法蔵寺(愛知県岡崎市)・大善寺(愛知県新城市)の三ヵ所にある。
また加納城の西にある盛徳寺は奥平家の菩提寺で、岐阜市指定文化財の亀姫像がある。
https://www.rekihaku.gifu.gifu.jp/gmh/wp-content/uploads/2023/02/%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E3%81%9F%E3%82%99%E3%82%88%E3%82%8ANo.113.pdf
▼加納天満宮 『ホントに歩く中山道』第4集 No.16 mapA2 写真2
15世紀半ばに、加納城の前身、沓井城の守護神として勧請された。加納城築城の際に奥平信昌が現在の場所に移転した。

▼光国寺『ホントに歩く中山道』第4集 No.16 mapA6
亀姫が化粧用下屋敷として与えられていた3万1千坪の屋敷内に菩提寺として設けられ、五輪塔が建立された。寺号は加納藩2代藩主となり母に先立って死去した三男の奥平忠政の戒名「雄山宝永光国院」に因んだもので、京都にも同名の菩提寺が創建されている。
▼十二相祠堂跡『ホントに歩く中山道』第4集 No.16 mapA7 写真7
亀姫に処刑された12人の侍女を祀った十二相祠堂があった。

▼加納城跡『ホントに歩く中山道』第4集 No.16 mapA9 写真9
家康が関ヶ原の戦い直後に築城を命じた。本丸跡は史跡公園となっており石垣が残る。亀姫は「加納御前」と呼ばれ権勢をふるったといわれる。

▼盛徳寺『ホントに歩く中山道』第4集 No.16 mapA
亀姫の法号、盛徳院が寺号となっている。
▼法蔵寺『ホントに歩く東海道』第10集 No.38 mapB10 写真10
開祖は行基で、松平家の菩提寺となった。亀姫の墓所のほか、於大が輿入れする前に広忠の子として生まれた家康の異母兄、松平忠政の墓や、三方原で討死した家臣たちの供養塔がある。また家康の幼少時に手習いの紙を懸けた「御草紙懸松」や硯水を汲んだ「賀勝水」の井戸、新選組近藤勇の首塚など、見所の多い寺。
▼大善寺
JR飯田線新城駅より徒歩5分 大善寺前の道は「亀姫通り」と呼ばれる。山門や土塀に葵の紋が使用されている。亀姫の没後に四男の松平忠明が建立した五輪塔がある。6月11日に、ドラマで亀姫を演じている當真あみさんが大善寺を訪れている。
どこにいる家康 第21回 ギャラリー
岐阜市内を中心に















