2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。
家康は岡崎から浜松へ移ったが、信玄の根深い遠江への調略行動に悩まされる。
武田氏に人質に出した家康の義弟・源三郎を救い出す。
舞台は、浜松、甲府(武田信玄館)、時々上ノ郷。
もくじ ●第16回「どこにいる家康」▼動静 ●第16回「どうする家康」の舞台関連マップ ●第16回「どこにいる家康」発展編(by(し)) 1.反抗期真最中? 井伊虎松の登場 2.源三郎勝俊の再登場 3.幅広うどん ●ギャラリー |
第16回「信玄を怒らせるな」▼動静
▼00分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
武田信玄、岩に座って、富士山を眺める。腹を痛そうに押さえる。
▼01分 前回までのおさらい
姉川合戦を大勝利に納め、家康は浜松へ移った。
▼02分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
女装した井伊虎松(直政)に襲われた家康。
虎松は逃げるも、捕縛される。家康がなぜ自分を殺そうとしたのか問う。
虎松「今川を裏切り、遠江をかすめ取った。みんなおまえを恨んでいる」
夏目広次「今川様は力がない。誰かがこの地を治めねばならんだろう」
虎松「武田様がいる」
家康は、「この者は、遠江の民の姿そのものだろう」と、虎松を無罪放免とした。
家康と家臣たちは、武田による浜松の民の籠絡に頭を抱える。
家康「わしは何が信玄に及ばないのか」
石川数正「すべて」
夏目広次「信長様から、信玄を怒らせるなと言われていることを忘れないで」
▼09分 ♪音楽「どうする家康メインテーマ~暁の空~」
▼11分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
松長源三郎(勝俊、家康義弟)がボコボコにされ、牢に閉じ込められている。
▼12分 上ノ郷城<今川方。蒲郡市神ノ郷。東海道からは少し遠いがあえて言うなら、岡崎市舞木町の山中八幡宮(「ホントに歩く東海道」第10集 №38 mapA23)の約7㎞真南。
於大と久松長家は源三郎の手紙を読んで、服部半蔵を呼んだ。
18歳になる於大と久家の次男で、家康の義理の弟、源三郎(勝俊)は、武田信玄と結んだ盟約で、人質として預けられていた。
於大は半蔵に「手紙は源三郎の字ではない。ただちに源三郎を救い出してまいれ」と、命令する。
▼14分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
雪が降っている。忍びの服部半蔵と大鼠は、閉じ込められている源三郎の様子を見に行く。
▼16分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
服部半蔵は、家康に甲府の源三郎の様子を報告。「苦しくて、何度も逃げだそうとしたようだ」と伝えるが、家康は信玄との約束の手前、「書状のように息災だ」と母(於大)に伝えよと半蔵に命ずる。
(回想シーン) 幼い源三郎に、家康は人質として甲斐に行ってくれと頼むと、けなげに応じている。
▼18分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
歩き巫女の千代が信玄に耳打ちし、信玄が何かをたくらんでいる。
▼19分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
夏目広次が、奥三河の作手(つくで、現愛知県新城市)、田峯(だみね、愛知県北設楽郡設楽町)、長篠(現愛知県新城市)は、いずれも武田に通じている模様と、報告。
家康は「いつ武田が攻め込んでくるやもしれぬ」と怖れる。
大久保忠世「まるで今川氏真が家臣に見限られ、なすすべもなく駿河を失ったときのような……」
家康は、越後の上杉謙信に「手を組もう」と、書状を送ることにする。
▼20分 信濃の山
家康の謙信宛ての書状を持った遣いが、山道で歩き巫女千代の軍団に毒のいがぐりで襲われ、書状が奪われる。
▼21分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
千代は、信玄に奪いとった家康の書状を届ける。
▼21分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
夏目「信玄に、謙信宛ての書状が渡ったものと思われる。武田は殿(家康)をなじる手紙を方々へ送っているようです」
▼23分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
千代が信玄に耳打ちする。
源三郎の牢に信玄が現れ、「今宵、そなたを奪いに来るようじゃ」と告げる。
半蔵と大鼠が夜襲をかけ、源三郎を抱えて逃げる。大鼠は腕を矢で撃たれてしまい、捕まる?
▼27分 上ノ郷城<今川方。蒲郡市神ノ郷。東海道からは少し遠いがあえて言うなら、岡崎市舞木町の山中八幡宮(「ホントに歩く東海道」第10集 №38 mapA23)の約7㎞真南。
半蔵は源三郎を連れて戻ったが、源三郎の足の指は寒さで凍傷にかかっていた。
源三郎「お役目を果たせず、恥ずかしゅうございます」と謝る。
家康が「人質にこんな仕打ちをする信玄は、外道だな」と言うと、
源三郎「それは間違いでございます。甲斐の若い侍は、みな同じ鍛錬をしています。彼らは化け物でございます。勝てるわけがありません」と言い、信玄からの言づてを伝えた。
▼32分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
負傷した大鼠が戻ってきて、半蔵が助ける。
富士山に向かって槍の訓練をする信玄。
▼32分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家臣を集め、信玄の言づてを発表する家康。
「弱気主君は害悪なり。滅ぶが民のためなり。生き延びたければ我が家臣となれ。手を差し伸べるのは一度だけだ」
家康は家臣に、「おのおのが決めて良い」と言う。
酒井忠次「うちの殿は、この通り情けない」
本多忠勝「十に九つは負ける。その一つをやり遂げたのが信長」
夏目広次「我ら家臣がいます」
家臣に励まされ、泣く家康。
▼38分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
信玄は息子の勝頼に、「山に囲まれた国に生まれたのを恨んだ。もし田畑があれば、海が、湊があれば、もっと早く世を平らかにした。そなたにそれを託す」と言う。
信玄「敵は織田信長、都へ向かう。浜松を目指し、家康を討つ」
▼41分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康「今こそわれらが桶狭間をなすときぞ」と、雄叫びを上げる。
「紀行潤礼」甲府市・身延町
●武田神社(山梨県甲府市古府中町2611、JR中央本線甲府駅)
武田信玄を祀る。信玄の父(信虎)から三代が暮らした躑躅が崎館跡に、1919(大正8)年に創建された。境内には濠、土塁、石垣、古井戸などが残る。
武田神社HP
http://www.takedajinja.or.jp/
●ほうとう
山に囲まれ、米作りに適さなかった甲斐国。「ほうとう」は米に代わり、主食として人々に親しまれた。信玄が陣中食にもしたと伝わる。「ほうとうめん」を打つことは、嫁入り修行ともされていたそうです。
「やまなしの食データベース」
https://www.pref.yamanashi.jp/shokuhin-st/shokuiku/yamanashinoshoku/houtou.html
●甲斐黄金村・湯之奥金山博物館(山梨県南巨摩郡身延町上之平1787番地先。JR身延線・下部温泉駅)
甲州に点在した金山。甲州金は敵の武将の調略にも用いられた。湯之奥金山博物館では砂金とりを体験できるそうです。
https://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/
信玄がぼとぼと床に落としていた金のつぶてみたいのは、「碁石金」と言うらしい。
https://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/tenji/ko-syukin.html
(こ)記録
第16回「どうする家康」の舞台関連マップ
今回の特に関連マップ。前回(第15回)と同じです。
『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く東海道 別冊姫街道(本坂通)』(御油~見付、安間道、浜松道、吉田道)
どこにいる家康16 発展編(by(し))
今週は、武田の人質となっていた家康の異父弟、源三郎勝俊を中心に、甲斐との関係が緊張感を増していく経緯が描かれた。まだ誰にも気づかれてはいないようだが、信玄の体調は悪化している。
そして先週「どうなる!」という所で終わっていた、井伊直政(といっても今はまだ、小学校中学年くらいであるはずの虎松)による家康暗殺未遂。もちろん、脚本オリジナルのフィクションだが、これも武田が、遠江の人民をアンチ徳川に洗脳しようとする策略の一環として描かれていたようだ。
1.反抗期真最中? 井伊虎松の登場
井伊虎松といえば、6年前の大河ドラマ「おんな城主直虎」の記憶もまだ新しいが、今回の虎松は、預けられていた寺を脱走し、浜松の城下町で半グレ集団に入ってフラフラしているうち、歩き巫女たちの影響を受けたという設定なのかもしれない。それにしても虎松の名を聞いても何の反応も無い徳川家中、情報力は武田にだいぶ劣っているのではないだろうか?
鳥居元忠や本多忠勝はともかく、事務方の才もあり堀川城攻めにも参加していたはずの榊原康政が「井伊? もしかして井伊谷の?」くらいピンと来てもいいような気がするが、これも武田との情報蒐集力の差か。
虎松は、井伊家が「徳川のせいでめちゃくちゃになった」「今川様を裏切り遠江をかすめ取った」と家康を罵っていたが、井伊家がそこまで今川家と一心同体であったとは思えないし、少なくとも、虎松の父を始めとする井伊家の男子が絶えてしまった原因は、第10回の引間城主飯尾連龍と同様、織田でも徳川でもなく今川による謀殺のはず。
通説では、一人残った虎松の安全をはかるためには徳川が一番と判断した井伊直虎らが就活(虎松の実母が徳川の家臣に再嫁するなど)を進め、家康の方も、三河の松平家と同じような立場で今川の圧のもとにあった井伊家にシンパシーを感じ、滅亡したと思っていた名家井伊家の嫡子が生き延びていたとは何よりと喜んで迎え入れるという、正反対の話だったと思う。もっとも、周囲の動きはそうであっても、反抗期の虎松自身は就活に反発していたという可能性は予想に難くはないが。
大河ドラマ考証者の一人柴裕之氏は、『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社2017)の中で、家康にとって、武田勢力と対抗するには、井伊谷において影響力を持つ井伊家の再興を支援することが重要だったと考察している。そうした状況の中で、天正三年(1575)2月、井伊虎松は徳川家臣として歩み出し後に井伊直政を名乗ることとなる。
井伊直政の家臣団入りでようやく四天王が全員そろうわけだが、井伊直虎や南渓和尚など懐かしい井伊谷の人々にも、チラッとでも登場してほしいものだ。
彦根藩の初代藩主となった井伊直政の墓所は、彦根城の南の萬年山長松院にある。直政は慶長7年(1602年)に病没(関ヶ原の戦で受けた戦傷が元の破傷風といわれる)、芹川の三角州で荼毘に付された跡地に創建されたのが長松院である。萬年山の「萬」は徳川家康の小姓時代の名「萬千代」から、また長松院の「松」は幼名「虎松」からとられたという。
▼萬年山長松院(彦根市中央町)
『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo.9 mapA6(写真6)と、近江鉄道鳥居本駅近くのmapB25(写真25)に彦根道道標がある。
mapA6の彦根道は、高宮道とも呼ばれ、高宮宿の北隣に位置する大堀村で中山道を西に折れ、七曲りを経て橋向町で朝鮮人街道に合流、彦根城外堀の高宮口御門に至る。
mapB25の分岐は、中山道と彦根城下をつなぐ道で、切通道・朝鮮人街道とも呼ばれた。江戸時代以前は佐和山の太鼓丸の堀切を経由して鳥居本側と彦根側をつなぐ城内の道であって一般の人々の往来はなかった。二代藩主直孝の時代に新道が造られ、彦根道として整備された。この彦根道道標は、制作年代が明確でほぼ原位置を留めており、また設置して4年後に描かれた宿絵図にも描かれるなど、滋賀県を代表する道標の1例として貴重。(彦根観光協会HPより)
龍潭寺にも直虎や直親と共に、井伊谷の井伊家24代当主としての直政の墓がある。
▼龍潭寺 『ホントに歩く東海道別冊姫街道』MapNo.4 mapC56気賀四つ角から井伊谷川に沿って北へ(解説p.9)
▼井伊赤備え発祥の地 浜松秋葉神社 『ホントに歩く東海道別冊姫街道』Map8「浜松道」mapB17
2.源三郎勝俊の再登場
家康の異父弟、久松三兄弟のまんなか源三郎勝俊は、第5回で家族全員引き連れて岡崎城へ押しかけた於大と共にいた子供たちのひとり、家康とちょっと言葉を交わしていたあの少年である。武田への人質となった経緯は、甲相駿三国同盟による氏真の結婚と同じく、回想シーンを利用してコンパクトにまとめられていた。
大河ドラマ「どうする家康」の特徴の一つとして、「人質」「側室」など、現代の我々の概念では誤解しやすい、あるいは誤解してきた部分を正しく解釈しなおそうという試みがあるようだ。
甲斐で源三郎が、虐待と思われるような激しい鍛錬を受けているシーンが何度も挿入されたが、これについては彼自身の口から「甲斐の若い侍は、皆きびしく鍛えられており、自分も皆と同様に扱われていただけ」と言わせている。さらに「中でも信玄の息子が最も厳しいしごきを受けており、勝てる者はいない。あれは化け物だ」と。信玄が、徳川の忍びたちによる源三郎奪還計画を知りながら黙って逃亡させたのも、人質自身にこうした情報を伝えさせる目的だったと考えられる。
家康の今川人質時代の描写からも、人質は決して囚人ではなく、留学生的ポジション、今川共栄圏・武田共栄圏における幹部育成の場という捉え方ができる。ただその教育が、今川では文化系重視で、武田は超スパルタ軍事教育という違いのようだ。
第5回https://fujinsha.co.jp/doko-ie05 でも触れたように、源三郎勝俊の墓は、姫街道浜松道の西来院、築山御前廟所の隣にある。
西来院は正長元年(1428年)に月窓義運禅師によって開創された曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏。長藤の寺として親しまれている。
▼西来院 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』Map8「浜松道」mapB14ホントに歩く東海道<br>別冊 姫街道(本坂通)(御油~見付)
3.幅広うどん
今回の紀行で、武田神社・躑躅ヶ崎館と共に紹介されていた、甲府名物「ホウトウ」。ナレーションの声を聞いて、「孤独のグルメ」井之頭五郎さんがホウトウを食べるシーンを、つい期待してしまった。
甲斐のホウトウより知名度は劣るかもしれないが、もっとすごい幅広うどんが埼玉県の中山道沿いにある。約8センチの幅のある鴻巣の「川幅うどん」だ。
平打ちうどんというよりも、餃子かシュウマイの皮が長くなっているという印象だが、これは武田軍の陣中食に始まったといわれるホウトウとは違い、平成21年に誕生した新しいご当地グルメである。鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川の川幅が日本一であることにちなんで誕生した。国土交通省が定める「川幅」とは、河川敷を含めた堤防間の距離となるため、荒川の河口から上流62km地点の両堤防間の幅2,537mが日本最長となる。
唐辛子味やニンニク味の6種類の「川幅せんべい」や、大粒の栗と粒あんがぎっしり入っている「川幅どら焼き」もある。どら焼きの幅は、川幅2537mを1万分の1と2万分の1サイズ(それぞれ25㎝、12.5㎝)にしたものが売られている。
鴻巣は、6月発行予定の『ホントに歩く中山道』第16集の最初のエリア。東海道の帰路として西から歩いてきた中山道も、いよいよゴールが見えてきており、多くの方々に、マップ片手に埼玉県の風景と美味しいものを楽しんでいただきたい。
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