2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

瀨名と信康自害の回。
自害場所は、瀨名が浜松城近くの佐鳴湖。信康は、大久保忠世が治める二俣城。
舞台は、岡崎、浜松、安土、甲府、浜松市二俣

もくじ
●第25回「どこにいる家康」▼動静

●第25回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第25回「どこにいる家康」発展編(by(し)
  1.浜松と岡崎に築山御前の縁をたどる
  2.こんなにあった信康墓所・供養塔

●ギャラリー(岡崎、浜松、清水)

第25回「はるかに遠い夢」▼動静

▼00分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
瀬名と信康が庭を見ながら茶を飲む。
<回想>瀬名の謀の申告から勝頼の裏切り、信長に知られるまでの流れ>

ホントに歩く東海道 築山の庵
築山の庵跡

▼02分 鷹狩りの場所(どこ?)
雨の中待っていた信長に、家康は瀨名・信康の謀について土下座して謝る。
佐久間信盛「徳川殿が今回の築山の謀に加担したというのは、虚説でなければなりません」
信長は「徳川家中のこと、自分で決めろ」と家康に言い捨てて去る。

▼04分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼07分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
信康「私が腹を切ります」
家康「ならん。信長と手を切る」
信康「それこそ、徳川が滅ぶことに」
瀬名「五徳、信長殿に私と信康の悪行を記した文を書きなさい」
五徳「できません。私は仲間だから」
家康「そういうことにするんじゃ。信長を欺く」

▼11分 安土城(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)
酒井忠次は、五徳が記した書状を信長に届け、瀬名・信康には死んでもらうと報告。

▼11分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
服部半蔵は「瀬名と信康の姿に似た者を見つけました」と、家康に替え玉自害作戦を提案。

▼12分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
処罰を受けるために去る信康は、家臣に見送られる。
信康は五徳に「いつでも織田へ戻って良い」と言うと、五徳は「どこへ行っても「岡崎殿」と呼ばれたいのです」とお願いする。

▼13分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
久松夫妻、今川夫妻が瀬名にお別れに来る。
於大「家康が助け出すに決まっています」

▼14分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
服部半蔵は家康に、信康が替え玉作戦を拒否し、自害場所の堀江城にそのまま入ってしまったと報告。
家康は「大久保忠世のいる二俣城に移動させ、再チャレンジだ」。

▼15分 遠江・二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)
信康は、母上が逃げてからでないと自分も逃げない、と聞かない。

▼16分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
瀬名は服部党の大鼠などに連れられ、家康が彫った木彫りの兎を持って、築山の庵を出ていく。
石川数正「どうか、殿のお指図通りに」と念をおす。

▼17分 佐鳴(さなる)湖(小藪船着場跡付近。浜松市中区富塚町。浜松城の西約3㎞)
瀬名たちが処刑場所の湖に到着。

佐鳴湖
佐鳴湖

※浜松市の資料によると(HP「浜松市の維持及び向上すべき歴史的風致」2-2-2ページ)、
「家康はやむなく正室(瀨名)を浜松に呼び寄せることになり、岡崎城をあとにした築山御前は姫街道から三ヶ日に出て浜名湖を渡り、新川の舟運により佐鳴湖に入り、北東の湖岸の小藪に上陸した。そのほとりで待ち受けていたのは家康の家臣で、そこで築山御前は斬られて命を奪われたという伝説が残されている。」
とある。

岡崎から東海道を御油、姫街道本坂峠を越えて三ヶ日から舟に乗ったということになる。
2014年、『ホントに歩く東海道』第8集の取材で、佐鳴湖は訪れたものの(もちろん、築山御前が殺されたところかという認識で)、嫌われて殺されてしまった人ぐらいの印象しか無かったため、湖を見て満足し、すぐに犀ヶ崖に向かってしまったのは残念です。写真も湖と、トイレマップしか撮っていません。

佐鳴湖トイレマップ
佐鳴湖トイレマップ

浜松市資料2-2-2ページ(網がかかっていて見づらい。史跡も載っている。)

https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/133742/04dai2shou02_3.pdf

▼18分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
井伊直政、瀬名が富塚(佐鳴湖)に着いたと報告。

▼18分 佐鳴湖(小藪船着場跡付近。浜松市中区富塚町。浜松城の西約3㎞)
鳥居彦右衛門(元忠)が瀬名に「早く着替えて、替え玉と入れ替わって」とお願いすると、「信康は逃げたのか」と聞くと、替え玉の少女を逃がしてしまう。
瀬名は鳥居に「介錯を頼む」と言うと拒否。大鼠が瀬名を斬ろうとすると、鳥居が刀を取り上げる。
そこへ舟に乗った家康が登場。

※瀨名が、舟で来るのはわかるが、家康が小舟で来るのは不思議でした。
浜松城から西へ3㎞と近く、舟に乗るには、浜名湖とは言わなくても新川に出るのも大変だと思うのだが、人目に付かないようにということかもしれません。

浜松城と小籔船着場跡 築山殿処刑場所

▼21分 遠江・二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)
無精髭の信康。服部半蔵、大久保忠世と平岩親吉が来て、「力ずくでも逃げさせろと殿に命令されている」と言うと、
信康は「母は逃げたのか?」と問う。
半蔵「とある村の古寺に身を寄せている」
信康「嘘が下手だな。自害したのだろう」
半蔵「全ては信康様に生き延びていただくため」
信康は平岩の刀を奪い、腹を切る。泣き叫ぶ平岩。
信康「この首を信長に届けろ。わしが徳川を救ったんじゃ」
半蔵、信康の首を切る。

二俣城址
二俣城址

▼26分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
放心状態の家康。近くで笛を吹く於愛。
井伊万千代が、信康自害の報告をすると、家康は倒れる。

▼28分 上ノ郷城<今川方。蒲郡市神ノ郷。東海道からは少し遠いがあえて言うなら、岡崎市舞木町の山中八幡宮(「ホントに歩く東海道」第10集 №38 mapA23)の約7㎞真南。
瀬名・信康自害の文が届く。於大、瀬名からもらった花を見て泣く。

▼28分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
瀬名・信康自害を知り、五徳と石川数正、泣く。

▼28分 今川家(浜松?)
瀬名・信康自害の文が届く。今川氏真と糸、泣く。

▼28分 躑躅ヶ崎館(甲府市、武田神社)
望月千代が勝頼と穴山信君に、瀬名・信康自害の報告。
勝頼「人でなしじゃな、家康は」(お前のせいだろ)

▼29分 安土城(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)
佐久間信盛が信長に瀬名と信康の顛末を報告。「これで織田家徳川家はより強固に結びつく。よかったよかった」と言うと、信長は佐久間に、「二度と顔を見せるな」。

▼30分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
伏せっている家康。
<回想 佐鳴湖。舟で家康が現れてから瀬名の自害まで>
<回想の回想 瀬名・信康、鵜殿兄弟との人質交換のシーン>
家康「そなたたちを守らせてくれ」
瀬名「両親から言われた、命をかけるときは今」
家康「世間は、そなたを悪辣な妻と語り継ぐだろう」
瀬名「かまいません。本当の私はあなたの心の中におります」

※なんという逆転ホームラン。瀬名の悪妻イメージ吹っ飛ぶ。

「瀬名は見守っております」と木彫りの兎を渡し、家康に浜松城へ帰るように促す。鼻水を流しながら去って行く家康。
家康<回想 瀬名との思い出の数々>
舟が岸から離れ、瀬名を振り返る家康。「こんなの間違っている」と舟を下りて岸に戻ろうとすると、瀬名は首を切って自害。
鳥居、鼻水をたらして泣く。
大鼠、介錯をする。
家康は「瀬名〜」と叫ぶ。

「紀行潤礼」浜松市佐鳴湖

出演 家康と瀬名

佐鳴湖 小籔船着場跡 (浜松市中区富塚町)

西来院 (発展編参照)
『ホントに歩く東海道』別冊 姫街道 MapNo.8 mapB14
自害した瀬名の遺体は、湖周辺に埋められたが、すぐに掘り起こされ、西来院に埋葬された。
これを命じたのは家康。

浜松城
「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯

(こ)記録

第25回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。前回24回と同じ。

どこにいる家康24回 関連マップ ホントに歩く東海道

『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く東海道』別冊 姫街道(御油~見附)
『ホントに歩く中山道』第2集(守山~高宮)


どこにいる家康25 発展編(by(し)

天正7年(1579)という年に德川家に起こった主な出来事は、
◆西郷局(於愛)が三男(後の秀忠)を出産
◆築山殿と信康が粛清される
◆相模の北条家と同盟を結ぶ。
『德川実紀』は、江戸時代の後半になってから書かれたものであり、当然、その内容イコール史実と判断はできないが、少なくとも德川側の視点からはどう考えられてきたのかを理解する材料にはなる。
『德川実紀』中の『東照宮御実紀巻三(天正六年~十六年)』に記載されている築山・信康事件は、その端緒が上杉謙信の死となっている。
天正6年(1578)3月、上杉謙信が春日山城で急死。謙信に実子はなく、跡目争い「御館の乱」が、甥の景勝と養子景虎の間に勃発した。この話は、2009年の大河ドラマ「天地人」に出て来たが、景虎は北条家からの養子で、北条氏康の七男であり、当主氏政の実弟。文武に秀で容姿もすぐれていたと伝わる。謙信の寵愛深かった景虎に対抗する景勝は、武田勝頼の妹を妻に迎え、財政的支援なども行って、武田の後ろ盾を得ようとする。『実紀』では「利にふける勝頼」「財貨に心まよひ」などと表現されている武田勝頼もそれに応じて、跡目争いは景勝の勝利に終わり、景虎は自刃。実の弟を殺された北条氏政はじめ北条家の人々は激怒した。武田勝頼の正室は北条家から嫁に出しており、もともと姻戚関係があったのはこっちなのに勝頼は裏切ったと、武田に対する北条の怒りは大きかった。
「いかにしてかこの怨を報ぜん」北条氏政、敵の敵は味方というわけで、德川・織田に急接近する。武田勝頼は「大に驚き」、「さまざま謀略をめぐらしける事ありし中に」目をつけられたのが、德川家康の正室でありながら別居生活を送っている築山殿で、「勝頼が詐謀にやかかりたまひけん」「よからぬことありて」落命にいたり、嫡男信康までが「これに連座せられて九月十五日二俣の城にて御腹めさる。」と実紀には記されている。
この後に続く「是皆織田右府の仰によるところとぞ聞えし。」の一文が、織田信長の圧力によって泣く泣く、忍び難きを忍んで妻子を見殺しにする家康・・・というイメージを長らく確立してきたわけだが、最近の研究では、粛清は家康自身の判断であったとされているらしい。
ドラマでは、前回に描かれた大胆な脚色「瀬名発案の関東東海大経済圏確立平和構想」に続き、「泣く泣く」の部分は嫌というほど盛り上げる一方で、信長自身は粛清を命令してはいなかったという解釈を取っていたようだ。というか、瀬名も信康も自ら覚悟して死にのぞみ、悲劇性がおおいに高まっていた。
前回も書いたように賛否両論あった瀬名の平和大構想であるが、このため、上杉も北条も全く存在が消えていたのは、ちょっと残念な気もする。

1. 浜松と岡崎に築山御前の縁をたどる

浜松市 築山御前の墓所「月窟廟」(西来院)『ホントに歩く東海道』別冊 姫街道 MapNo.8 mapB14 写真14

西来院 月窟
西来院 月窟
西来院月窟廟 築山御前説明

東からの東海道が大手門跡(mapB21)で左折する所をまっすぐ進む姫街道が、犀ヶ崖古戦場へ至る途中、浜松秋葉神社(mapB17、井伊赤備え発祥の地、奥平信昌屋敷跡)や、普済寺(mapB13、三方原の戦いで、浜松城が炎上したと勘違いさせるために燃やされたと伝わる)などの近くに、西来院がある。
正長元年(1428)に月窓義運禅師が開創。美しい景観の境内には、野鳥の楽園になっている森もある。
ここに「月窟廟」と名付けられた築山殿瀬名の墓所があり「数奇な運命のもとに散華した」「戦国乱世の悲劇の女性」と書かれている。
墓所の前の説明も「身に覚えなき謀反人の汚名を着せられ」「いかに戦国乱世とはいえ、余りの痛ましき、果かなきに涙を禁じ得ない」と全面的に築山殿に寄り添っており、この説明が書かれた頃は、山岡荘八バージョンの「嫉妬深い権高な悪妻」イメージがまだ強かっただろうことを思うと興味深い。今回のドラマの「瀬名の平和大構想」に、西来院の皆さんはどのような感想を持たれたのか、ぜひ伺ってみたい。
第16回で触れたが、月窟廟の隣には、家康の異父弟、武田に人質に出されて命がけの生還を果たした源三郎勝俊の墓所もある。

岡崎市 築山御前首塚(八柱神社)『ホントに歩く東海道』第10集 MapNo.39 mapC23 写真23
岡崎の二十七曲りが始まる東端のあたりから、北東の方向に数百メートル寄り道になる、なんとなく鬱蒼とした神社で、「首塚」にふさわしい?雰囲気がある。

築山御前首塚
築山御前首塚

浜松市 地蔵院 『ホントに歩く東海道』 第8集 MapNo.32 mapA6 写真6
JR東海道本線高塚駅近く、高札場跡(mapA5)からちょっと入ったところにある地蔵院の本尊は、築山御前が肌身離さず持っていた秘仏という。「そなたにも命をかける時が必ず来る」と言っていた母の形見?

地蔵院

2.こんなにあった信康墓所・供養塔

浜松市天竜二俣 清瀧寺
信康が預けられ、自刃した二俣城については、第17回で石垣をはじめ城跡の写真をいくつか紹介した。城内に井戸がなく、天竜川から井戸櫓で取水していたのを、武田軍に井戸櫓を破壊されて落城した二俣城だったが、長篠・設楽原合戦勝利のあと、再び德川軍が奪取して、大久保忠世が城代となっていた。
現在、井戸櫓が復元されている清瀧寺に、立派な信康の墓所がある。

二俣清瀧寺 信康廟
二俣清瀧寺 信康廟
二俣清瀧寺 信康廟説明


清瀧寺と名付けられたのは信康が葬られた後で、家康が廟と位牌堂を建立し、境内に清涼な瀧があるのを見て清瀧寺としたと伝えられている。

岡崎市 若宮八幡宮首塚 『ホントに歩く東海道』第10集 MapNo.24
築山御前首塚のある八柱神社とは旧東海道・国道1号線を挟んで反対側になる。
信康の死後、岡崎城内に怪異現象が続いたため、岡崎城代の石川数正が、供養のために創建したという。

静岡市清水区 江浄寺 『ホントに歩く東海道』 第6集 MapNo.21 mapA6 写真6
JR東海道本線清水駅と巴川の間の街道沿いにある寺院で、前回(第24回)紹介の穴山梅雪が城代をつとめた江尻城跡・サッカー神社魚町稲荷の近くである。
永正元年(1509)、長蓮社観譽祐崇(ちょうれんじゃかんよゆうそう)上人が鎌倉光明寺から江尻に来て開山した。信康の死後、傅役だった平岩親吉と榊原清政が、信康の遺髪を譲り受け江浄寺へ納め、供養塔を建立した。榊原清政は四天王の一人榊原康政の兄で、病弱だったこともあり弟に比べ地味だが、後に家康から久能城城主に任命されている。
三代将軍徳川家光の代に、江浄寺の寺紋に「葵の御紋」の使用が許され、さらに地域の寺院頭となった。参勤交代で東海道を往復した大名たちは、必ず江浄寺に参詣したといわれる。

江浄寺の信康の墓
江浄寺の信康の墓

小田原市 萬松院 『ホントに歩く東海道』第2集 MapNo.11 mapB22 写真22 

小田原萬松院 徳川信康供養塔
小田原萬松院 徳川信康供養塔
小田原萬松院 徳川信康供養塔説明板

駅前が鈴廣かまぼこ博物館やレストラン群で賑わう、箱根登山鉄道風祭駅から、東海道をちょっと西へ進み、一里塚跡の道祖神(mapB21,写真21)の所を右折してしばらく北へ進むと萬松院がある。
二俣城城代だった大久保忠世は、家康の関東移封後は、北条氏が敗北した後の小田原に入り、代々大久保氏が小田原城主をつとめた。
大久保忠世は文禄元年(1592)、信康の供養のために萬松院を建立、山号を天竜二俣の信康の墓所、清瀧寺から取り清瀧山萬松院とした。
大久保忠世は生涯にわたり、主命とはいえ信康を切腹させたことを悔やんだといわれており、信康が自害した9月15日と同日の、文禄3年年9月15日に逝去したことから、追腹を切ったとの風説もある。
忠世はじめ大久保一族の墓は箱根板橋の大久寺にある。(同mapA9、写真9)

東京都新宿区 西念寺 岡崎三郎信康供養塔 服部半蔵墓

西念寺 岡崎三郎信康供養塔
西念寺 岡崎三郎信康供養塔
西念寺 服部半蔵墓
西念寺 服部半蔵墓

西念寺は、晩年に出家した服部半蔵が開山した寺で、文禄2年(1593)に半蔵は信康の菩提を弔うための供養塔を建立した。石碑正面に「清瀧寺殿」の文字が見える。西念寺には、服部半蔵の墓もあり、半蔵の槍も保存されているという。
信長の直接命令だったのか、家康の忖度または自主判断だったのかはともかく、これだけ各地に信康を供養した跡があり今も保存されている(探せば、まだまだありそうである)ということは、その後多くの男児が出生して德川家は安泰となったにも関わらず、長男の非業の死が德川家中の人々の心に、いつまでも大きな影を落としていたことがうかがわれるように思う。

どこにいる家康 第25回 ギャラリー

岡崎、浜松、清水。