2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

織田信長亡き後の織田家の後継者を決める清須会議、お市と柴田勝家の結婚、賤ヶ岳の戦い・北ノ庄城の戦い、敗れた柴田勝家とお市の自害。
舞台は、浜松市、清須市、小田原市、韮崎市、笛吹市、京都市、長浜市、福井市

もくじ
●第30回「どこにいる家康」▼動静

●第30回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第30回「どこにいる家康」発展編(by(し)

  1.天正壬午の乱
  2.家康と北条一族
  3.甲斐と駿河を結ぶ道

●ギャラリー(藤枝と四日市)

第30回「新たなる覇者」▼動静

00分 <回想>本能寺の変が起こり、家康は明智光秀を討とうと思っていたのに、羽柴秀吉に先を越されてしまう。

▼01分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼04分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康は酒井忠次に、「秀吉の動きから目を離すな」と命令する。

05分 尾張・清洲城<「ホントに歩く東海道」別冊美濃路 №6 mapB29>
天正10(1582)年9月、織田家の家臣たちが信長の後継者を決めるために集まった清須会議。
信長の孫の三法師が成長するまで、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が政を行うことになる。
池田恒興「筑前の言う通りでよい」と秀吉寄り。
柴田勝家が、秀吉にお市と結婚したことを報告。

写真

▼07分 清須 柴田家?
お市親子のところに秀吉が現れ、おめでとうを言いにくる。

▼08分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
石川数正、家康家臣団の前で手紙を読む。お市様と柴田が結婚することになった。
秀吉の好きにさせないために、お市様がしたことだろうと噂する。
「柴田と羽柴がぶつかることになったら、どっちにつくのか? もちろん織田家の柴田だろう」と家康に迫る家臣たち。
家康は「武田なき後、織田のものになった上野、甲斐、信濃の三国を北条より早く手に入れる。秀吉はお市様に任せよう」

▼12分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
本多正信、鷹を逃がしてしまう。
<ナレーション>小田原を居城に、相模、伊豆、武蔵、下野、下総、上総を領する大国。北条家。

▼13分 小田原<小田原城「ホントに歩く東海道」第3集 №11 mapA5>
北条氏政と氏直親子、お茶漬けを食べる。小田原から出陣。

※旧武田領の甲斐・信濃に侵攻した北条・上杉らの紛争(天正壬午の乱)を平定。

▼14分 甲斐・新府城<山梨県韮崎市中田町中條4787>
甲斐新府城に徳川勢は布陣。
正信は家康に「鳥居元忠に、黒駒辺りで待ち伏せさせては」と提案。
家康は、井伊直政に元武田軍の兵を任せる。

新府城は、武田勝頼が七里岩の台地に1581年に築城した。
韮崎市観光協会HP
https://www.nirasaki-kankou.jp/kankou_spot/jinjya_bukkaku_rekishi/meisho_kyuseki/6562.html

七里岩
七里岩

▼16分 甲斐・黒駒<山梨県笛吹市御坂町>
鳥居彦右衛門、北条軍を待ち伏せして奇襲。

▼17分 京都?
弟の秀長が「家康と北条が衝突した。助けを出さなくていいのか」と秀吉に聞くと、「今はそれどころではない」。
織田信雄がイライラしている。というのは、弟の信孝が三法師を連れて、柴田に泣きついたから。

▼18分 柴田家
秀吉が信雄をたらしこんだので、戦になるかも、と話し合う。

▼19分 甲斐・新府城<山梨県韮崎市中田町中條4787>
北条が和睦に応じた。条件は、上野一国をもらえれば、信濃と甲斐は手放す。
家康の娘を氏直の妻にほしいとリクエストする。

▼20分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
お葉(どこにいる家康10回、イノシシを鉈で仕留めた女性)の娘のおふう(督姫)が、氏直の妻として北条家に嫁ぐことになる。

▼22分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
天正10(1582)年12月。
酒井忠次「秀吉と勝家が戦いを始めた。秀吉が信雄をいただき、近江長浜城に攻め込んだ」と報告。
勝家は北ノ庄城に雪で足止めされていた。
そんななか、家康に贈り物が届く。
柴田家からは綿布→家臣の反応「お市様のように美しい布だ」
秀吉からは砂金→家臣の反応「なんと下品なことよ」

▼24分 賤ヶ岳の戦い<滋賀県長浜市木之本町大音/木之本町飯浦>
天正11年1月、柴田軍は秀吉の調略で総崩れ。
勝家、お市と3人の娘は北ノ庄城に逃れる。

賤ヶ岳古戦場
滋賀・びわ湖観光情報hP
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/3804/

▼26分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
お市から手紙が届くと、家臣たちはお市様を助けに行こうと家康に迫る。
本多正信は「前田をはじめ、織田勢は秀吉に調略されている。秀吉は民の心を掴む天才。勝った方に「おめでとう」と言いに行けばよいのでは」と提案。
家康は様子を見ることにする。
夜、お市との思い出を回想する家康。

▼31分 北ノ庄城<福井県福井市中央1丁目21>
秀吉宛の手紙を書くお市。
秀吉陣地では、秀吉が届けられた手紙を見て「ほしいのう、織田家の血筋」と言う。

▼33分 北ノ庄城<福井県福井市中央1丁目21>
お市、秀吉からの迎えに三人の娘を預ける。
長女の茶々は、「母の無念を晴らす、天下は茶々がとる」と言って去って行く。

▼38分 秀吉陣地
お市が自害することを知り、悔しがる。

▼40分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
直政「北ノ庄城落城、柴田勝家、お市ご夫妻ともの自害」と伝える。
家康は、「秀吉はわしが倒す」と意気込む。

「紀行潤礼」滋賀県長浜市、福井県福井市

余呉湖<長浜市余呉町>
賤ヶ岳の麓の湖。
滋賀・びわ湖観光情報HP
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/864/

北之庄城址<福井県福井市中央1丁目21>
北ノ庄城は9層の天守閣を持つ日本最大級の城。築城8年で秀吉軍に攻め落とされてしまう。
福井市北ノ庄城址・柴田公園HP
https://www.city.fukui.lg.jp/kankou/kankou/sisetu/kitanosyou.html

西光寺<福井市左内町8−21>
柴田勝家とお市の方の菩提寺。柴田勝家公資料館がある。
西光寺HP
https://saikouji-fukui.jp/temple-top

(こ)記録

第30回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。清洲城で美濃路。

ホントに歩く東海道 どこにいる家康マップ30

『ホントに歩く東海道』第3集(大磯~箱根関所)
『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』別冊 美濃路(垂井~宮<熱田>)


どこにいる家康30 発展編(by(し)

清須会議から北ノ庄落城まで、すごいスピードで片付けられていたが、家臣団に復帰した本多正信の軍師ぶりや、まだ姿を見せない真田家関連の予告、第10回で登場した最初の側室お葉とその娘、ますますモンスター化する羽柴秀吉と浅井三姉妹など、見所の多い回だった。
賤ヶ岳・北ノ庄の戦いの実質的な総大将が於市というのは、もちろんフィクションだが、家康と於市の初恋関係だけで引っ張るよりは面白みがあり、瀬名に続き新しい於市という女性像を造り出したと感じられた。
もし、あの時点で、織田息子たちと織田家臣たちが一致団結できていれば、家康も協力して秀吉封じ込めに成功、於市も死なずにすみ、その後の歴史は大きく変わっていたのだろうか? それとも、密かに経済力・調略力を着々とつけ、これ以上ないタイミングで明智を討ち、主君の仇を取った功績を独り占めした秀吉の実力には、誰も太刀打ちできなかったか? 家康の天下はまだ遠い。

1.天正壬午の乱

石川数正「甲斐・信濃・上野・・・主のいない国が三つ落ちておる」

「旧武田領国争奪戦は、上杉・北条・德川三氏による三つ巴の合戦へと突入した。これを総称して天正壬午の乱と呼んでいる」(平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望――天正壬午の乱から小田原合戦まで』(戎光祥出版2011)より)。
私たち団塊世代が学生時代に習った歴史を思い返すと、本能寺はもちろん、清須会議や賤ヶ岳の戦いは記憶にあるが、「天正壬午の乱」というのは聞いた覚えがない。
天正壬午の乱といわれる一連の戦いは、
◆甲斐の武田遺領をめぐる德川家康vs北条氏直の争い
◆上野へ侵攻した北条勢vs旧織田家臣・国衆の連合軍(神流川の戦いなど)
◆德川・北条それぞれの側につこうとする信濃国衆たちの局地戦
◆德川勢に味方するという名目のもとに勢力拡大をはかる真田昌幸の動き
などらしいが、この中で中山道と関係の深いのが、信長から上野支配を命じられていた滝川一益が、関東の国衆たちと共に北条軍と戦った「神流川の戦い」である。家康とは直接的な接点がないためドラマには登場しなかったが・・・。

於市が「兄に恩義のある丹羽・池田・滝川・前田・佐々・・・」と点呼した中に一言出てきただけで、本人は登場しなかった滝川一益。織田四天王の一人ともいわれるが、柴田勝家や丹羽長秀のような代々の家臣ではなく、甲賀忍者出身という説もある。三谷幸喜の映画「清須会議」で、ひたすら走っていたが会議に間に合わず、盟友柴田勝家の役に立てなかった人物(演じたのは阿南健治さん)というと思い出す人も多いかもしれない。彼を清須会議に遅刻させた理由が神流川の戦いだった。
織田信長の横死により東国における織田軍の力が弱まったと見て上州に侵攻する北条軍を迎え撃った滝川一益は、金窪原(埼玉県上里町)での緒戦で北条氏邦軍を敗退させるが、その後、北条氏直の本軍とぶつかった神流川の戦いでは総崩れとなる。連合軍の国衆たちは、表向きは旧織田軍に従っていても皆自国ファースト、すでにこの世にいない信長のために自分たちの兵を犠牲にする気は毛頭なく、北条軍の追撃から逃れる滝川一益を黙って通過させるのがせいぜいで、一益自身もそのことをよく理解していた。

実力は充分持ちながら、周囲の状況のため表舞台から追いやられ、といっても別に非業の最期をとげたわけでもなく、キャラ的にもそれほど「映え」がないので一般的知名度は得られないままになっている、という点で、滝川一益は石川数正などともちょっと共通点があるような気がする。
滝川の前に於市に名前を呼ばれていた池田恒興(勝入)は、小牧長久手で家康と戦うことになるわけだが、次回・次々回で焦点が当てられるようだ。

冒頭で紹介した『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』は、巻末の年表がものすごくて、武田滅亡と本能寺の変の1582年から小田原城が開城する1590年まで、秀吉・家康・東国領主たちの動向が、30ページにわたり細かな字でびっしりと詳述されている。木曽義昌ほか、今まで名前も聞いたことのなかった武将たちが続々と登場して、誰もが知る歴史上の有名事件の陰に、無数のさまざまな動きがあったのだと改めて思わされる。街道を歩くと、全国的には知られていなくても、その地の人々には語り伝えられている歴史の動きを知る機会に恵まれる。神流川の合戦跡もその一つである。

神流川古戦場跡 『ホントに歩く中山道』第14集 コラム55

神流川の戦い説明板
神流川の戦い説明板

2.家康と北条一族

「秀吉のことはひとまず於市様にお任せして、我々は武田の遺領を北条より先に手に入れなければならない」
家康のこの発言のわりには、氏政・氏直親子の登場はほんの一瞬だった。氏政・氏直に時間をさく余裕がなければ、初期に長々と家康の駿府時代をやっていたのだから、駿河の今川家人質で家康とは“同期生”だった北条助五郎氏規が、家康の青春時代の友として、わずかでも顔出ししていればよかったのにと思われる。

北条氏規は家康や秀吉との交渉担当として活躍し、小田原攻めで北条家が敗北した後は、甥の氏直と共に高野山で蟄居。氏直が嫡子なく病死した後は、自分の息子を氏直の跡継ぎとし、河内狭山藩主として、小藩ながら北条家の血脈を存続せしめた功労者である。東照宮御実紀(巻三)にも、「北條美濃守氏規は君今川がもとにおはしたる時よりの御よしみありければ。氏規はかりて上州をば一円に北條へ渡され。甲信両国は御領とさだめられ。又姫君一所を氏直に賜はりなんことを約し。永く両家の御したしみをむすび。」と記載されている。
「鎌倉殿の13人」にちなんで後北条のトキューサとでも呼びたいような、この北条四代目兄弟の末弟(最近は、五男でなく四男だったとされているようだが)の活躍は、今村翔吾氏の歴史小説集『蹴れ、彦五郎』(祥伝社、令和4)中の『狐の城』に描かれている。

甲斐の武田遺領を織田信長から任されていたのは家臣の河尻秀隆だったが、本能寺の変を知って蜂起した甲斐の土豪らの一揆により殺害される。一揆勢は北条とも手を結んでいた。家康は一揆勢鎮圧の名目で甲斐に侵攻、新府城・能見城(韮崎市)を拠点として、若神子城(北杜市)を本陣とする北条氏直と対峙、黒駒の合戦において、狭い山道を利用して大軍を追い払うという、本多正信立案・鳥居元忠等実行の作戦に成功する(ドラマでは、この部分だけが描かれた)。三方原では、武田がとっくに予想していてボロ負けとなった作戦だったが、北条相手には成功したわけだ。
東照宮御実紀(附録巻四)の中に、徳川家が京から賜った九年母という珍しい木の実を北条家にお裾分けしたところ、北条では「なんだ橙か。小田原じゃ珍しくもない」と有難がらなかったので、家康が「かかる粗忽の心持にては家国の政事を執行ふにいかなる過誤し出さんもはかりがたし」と慨嘆したという逸話が載っているが、武田に比べて北条の情報力・対処力が劣っていたことを示すものだろうか。

とはいえ、黒駒合戦での大勝利がそのまま、北条に対する德川の圧倒的優位となったわけではなかったらしい(『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』)。
ともかく北条との講和は成立して、和平のために北条家に嫁ぐのが、「麗しくもたくましく」成長した、家康の次女督姫である。
第10回に登場した西郡局(お葉)の産んだ娘で、いかにもこの母の娘らしい豪胆さを持ち「両家のお役に立てるは至上の喜び」とやる気まんまん。昭和時代のドラマで描かれてきたような、男が始めた戦争のため自分の意志とは無関係にあちらこちらに嫁がされる流転の人生というのでなく、優秀な外交官がその手腕を見込まれて紛争地に派遣されるような感じでとても良い。督姫の活躍は、実は北条家では終わらない。

先述の北条氏規の所にも記載されていたように、領土に関する北条との講和条件は、上野は北条支配を認め、甲斐信濃は德川の領分とする、というものだった。しかしこれに納得しなかったのが真田で、上野の沼田は絶対に譲れないという。この沼田問題は後々まで尾を引き、真田との確執は今後、おおいに家康を苦しめることになる。

早雲寺(北条氏の菩提寺)『ホントに歩く東海道』第3集 mapNo.11 mapC33 写真33

東海道小田原 早雲寺山門
早雲寺山門

箱根町観光協会や小田急箱根ナビのサイトに、早雲寺の詳しい説明がある。

https://www.hakone.or.jp/529
https://www.hakonenavi.jp/feature/8163

3.甲斐と駿河を結ぶ道

「どこにいる家康」第26回の「信長・家康富士遊覧の旅『信長公記』でたどる」の、4月10日の項(一行が甲府を出発、右左口(うばぐち)に宿泊した日)からリンクする甲府市の観光サイトを見ると、「中道往還」という道が出てくる。
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/oukan.html

中道往還とは甲斐と駿河を結ぶ古代からの道の一つで、甲府から吉原に至る街道である。「中道」と呼ばれるのは、同じく甲斐・駿河を結ぶ古道、「河内路(注A)」と「若彦路(注B)」の中間に位置していたため。距離的にはこの中道往還が最短距離となる(約20里=約78km)。
右左口宿は中道往還の宿場町で、織田信長のために徳川家康が整備したといわれる。
甲斐をめぐる北条との戦いで家康が進軍したのもこの道だった。家康に忠節を尽くしていた佐久の国衆、依田信蕃が、中道往還の迦葉坂(甲府市)で武田遺臣たちの結集を呼びかけた(『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』)。家康が北条に勝利したのは、土地を知り尽くしている武田遺臣たちの働きも大きかったのである。その後家康は右左口の村民に関所の通行を許し、海産物の売買を免税する朱印状を発行し、商業活動を許可する特権を与える。
戦国時代は軍用道として活用された中道往還は、江戸時代になると、「魚の道」「塩の道」と呼ばれる物資の輸送路となった。

(A)河内路(=駿州往還/甲州往還)
甲府で甲州街道から分岐して南下。笛吹川を渡るルートと釜無川を渡るルートがあり、西島(南巨摩郡身延町)で合流、富士川の西岸を進み、興津または由比で東海道と合流する。

(B)若彦路
甲府盆地南端の奈良原(笛吹市)から鳥坂峠を経て芦川村に至り、さらに大石峠を越え富士北麓の大石村(富士河口湖町)を経て富士北西麓を富士郡上井出村(富士宮市)に達する。『吾妻鏡』では甲府盆地から「大石駅」に至る、『甲斐国志』ではさらに大石から駿河国井出に至る道とされている。

いずれも甲州街道と東海道を結ぶ道であるが、中道往還の「吉原に至る」というのは、吉原のどの辺りになるのだろうか? 『ホントに歩く東海道』第4集・第5集(MapNo.16, 17)を見てみるが、吉原のどこから北上するのか、よくわからない。
山梨県のハイキングの会のサイト https://ywa.jp/archives/389
の中に、中道往還を歩いた記録があり、国道139を通って旧東海道と合流するとあるので、MapNo.17の西木戸跡(mapC25)あたりが合流点だろうか。


どこにいる家康 第30回 ギャラリー

『ホントに歩く東海道』別冊美濃路、清須周辺。