どこにいる家康 ロゴ画像

関ヶ原決戦直前。家康が上杉討伐のため東北へ向かっている途中、三成挙兵の報が届く。
小山評定が行われ、家康たちの結束が高まる。
その間、鳥井元忠が守る伏見城が落城する。
関ヶ原前夜で、各地での武将の動きを伝えているため、いろいろな場所が舞台となっている。
舞台は、小山市、沼田市、大阪市、京都市、東京都千代田区、金沢市、亀岡市、大垣市、岐阜市、小諸市。

もくじ
●第42回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(京都・伏見)

●第42回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第42回「どこにいる家康」発展編(by(し))

  1.鳥居家の人々 元忠⇒忠政⇒忠恒⇒忠春⇒忠則⇒忠英⇒忠瞭⇒・・・
  2.伏見城だけじゃなかった籠城戦 関ヶ原前哨戦に散った人生き延びた人
  3.山内一豊

●ギャラリー(伏見城周辺)

第42回「天下分け目」▼動静

▼00分
<回想>慶長5(1600)年、石田三成、挙兵。

▼02分 下野小山・徳川本陣(小山市役所、小山市中央町1-1-1)
家康は、上杉景勝征伐のため会津へ向かう途上で、小山で石田三成の挙兵を聞いた。
三成軍には、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長など、次々と大名が加わっていった。
阿茶から家康に届いた書状によると、大阪は三成に包囲されたが、阿茶は北政所に助けられたという。

上杉景勝
上杉謙信の養子。鶴ヶ城(福島県会津若松市追手町1−1)には、蒲生秀行が宇都宮へ去った後、慶長3(1598)年、景勝が越後から会津へ120万石で入封。慶長5(1600)年に鶴ヶ城近くに神指城(会津若松市神指町)を築城し始めた(未完)ことが、家康の上杉討伐につながったとされる。

家康「今はわれらの味方である福島、藤堂、黒田、真田も信用できない。三成憎しといえども、豊臣の臣下だ」
本多正信「誰か一人、褒美をちらつかせてこちらへ抱き込みましょう。殿は皆の心を一つにしてください」

▼05分 下野小山?
秀忠のもとへ真田信幸(本多忠勝の娘、稲の夫)がはせ参じて、秀忠は喜ぶ。
本多忠勝「父昌幸と兄の信繁はどうした?」
信幸「二人は信濃に帰りました。三成につくものと存じます」
忠勝「婿殿(信幸)もわれらに気を遣わなくてよい。わしの娘(稲)を捨てたければ捨てろ」

井伊直政「真田と上杉に取り囲まれると、やっかいだ」
忠勝「婿殿には、しっかり働いてもらう」

▼07分 上野・沼田城(真田信幸の城、群馬県沼田市西倉内町594)
真田昌幸が門の前に立って「三成がやらかしたので、真田は一つになって事に当たらないといけない。入るぞ」と叫ぶ。
稲「この城のあるじは、我が夫信幸」銃を構えさせ、昌幸を入らせない。
昌幸「さすが忠勝の娘。この城をのっとるのはやめじゃ」と諦める「でも、孫の顔は見せろ」とお願いする。
孫「じいじ〜」

▼10分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼12分 下野小山・徳川本陣(小山市役所、栃木県小山市中央町1-1-1)
慶長5(1600)年7月25日、黒田、福島、藤堂ら、豊臣の諸将が集められ、小山評定が行われる。

家康「石田三成が挙兵したので、上杉討伐をやめ、西へ引き返す。ここにいる多くの者が大坂に妻子を捕らわれている。このようなこととなり申し訳ない。わしに従えぬ者は出ていってよい」「わしは一人でも、戦なき世をつくるために戦う」と家康は大演説をした。
福島正則(買収されたやつ)があおる。山内一豊がすぐに「わしも従います」とあおる。
平岩親吉が、感極まって泣く。

小山評定
徳川家康は、慶長5(1600)年7月24日、上杉景勝討伐のために会津へ向かっていた。途上の下野国小山に本陣を置いた。その時、「三成挙兵」の報が入った。家康は翌25日、急遽本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転、西上して石田を討つべきか」と質した。諸将には、大坂で妻子が人質になっている者も多く、家康は「どちらに味方するかは、各自の判断に任せる」とも述べた。すると、福島正則が家康のためなら命を投げ出しますと言い出す。続いて、掛川城主の山内一豊が、城を明け渡して家康に提供する申し出た。この発言が諸将の気持を動かし、家康支持で結束し、関ヶ原の戦いで勝利を収める原動力となったという。

現在、小山市はこの出来事を「江戸幕府の成立に栄光の道筋を付けた「開運」のまち」と捉え、「『小山評定』は、小山市の最大の『ブランド』です」と誇っている。
小山評定に関しては、その有無をめぐっては論争があるようだ。
小山市役所前に、小山評定跡碑が建つ。
https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/648626

▼18分
 <ナレ>井伊直政は、福島等と東海道を西へ向かった。
真田のおさえに、徳川秀忠+本多正信+榊原康政。
上杉のおさえに、結城秀康+平岩親吉が配置された。
家康は戦に備え、江戸へ戻った。

▼18分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
三成「家康が動き出しました」
茶々「秀頼を戦に出す用意がある。必ず家康の首をとれ」
毛利輝元「あとのことは、まかせろ」

▼19分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27周辺>
慶長5(1600)年7月29日
<ナレ>2千人の兵で守る伏見城に、25000の三成の兵が押し寄せ、銃撃戦となる。
鳥居元忠(彦右衛門)や千代らは城に立て籠もり、銃や弓矢で応戦する。

▼19分 伏見・三成の陣<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27伏見城天守閣南。治部池のあたりが邸宅跡>
(鳥居元忠らがしぶとく応戦していることを受けて)
三成「鳥居元忠は桶狭間(永禄3=1560年、40年前)を戦ったと聞く」
宇喜多秀家「古っ!」
三成「元忠らは降伏しないだろう」
大谷吉継「(殺すのは)おしい」

小早川秀秋が着陣した。小早川は北政所の甥で、筑前35万石を有する若い大名。
大谷「小早川15000が加わり、わが方は40000となった」と喜ぶ。

慶長5(1600)年8月1日、鳥居元忠が撃たれる。鳥井元忠は、兜に鳥居をつけている。
千代は、嶋左近に撃たれる。

伏見城の周辺
伏見は、豊臣秀吉が交通の要衝として目をつけた土地。秀吉は伏見城を建てた。
文禄元(1592)年に築城を開始し、4年後に完成した。京阪宇治線観月橋駅の近く、伏見区桃山町泰長老で「指月城」と呼ばれている。しかし、慶長元(1596)年に地震で倒壊。北側、桃山丘陵の上方の木幡山に移転して伏見城が作られ、もとの指月城のあった場所には大名屋敷が作られた。慶長2(1597)年に城は完成したが、その1年後の慶長3(1598)年に秀吉が伏見城で死亡。死後、息子の秀頼は大坂城へ移り、代わりに家康が伏見城へ入った。
現在、模擬天守が建てられているところが、木幡山の伏見城跡。元和5(1619)年に廃城となった。
周辺には当時の名残を感じられる町名が多く残る。
「桃山町治部少丸」「治部池」(池は今も残る。入れない)「桃山町百件長屋」「桃山町板倉周防」「桃山町駿河」「桃山町三河」「桃山町伊賀」「桃山町根来」「桃山町丹後」「桃山町和泉」「桃山町島津」「桃山町下野」「桃山毛利長門町」「桃山福島大夫南町」「桃山筑前●町」「桃山超松平筑前」「桃山町立売」「桃山羽柴長吉東町」「桃山町本多上野」
そんな場所に、明治天皇陵があるのも不思議だ。
桃山の名は、廃城後、桃の木が植えられたことによる。

伏見、伏見城に関しては、『ホントに歩く東海道 第16集』コラム64「豊臣秀吉の第土木事業 巨椋池と伏見城」もご覧ください。

伏見区 桃山町島津
伏見区 桃山町島津
「ホントに歩く東海道」16集№64
「ホントに歩く東海道」16集№64

▼28分 江戸城(千代田区千代田1−1)<『ホントに歩く東海道』第1集、『ホントに歩く中山道』第17集>
慶長5(1600)年8月7日 
伏見城が落ちて、鳥井元忠らが討ち死にしたとの報告がもたらされた。
渡辺守綱「直ちに敵を討とう!」
家康「おちつけ」
本多忠勝「私は直政と落ち合い、西へ進みます。殿は一通でも多く書状を書いてください」
家康「この戦は、どちらがより多くの味方をつけるかで決まる。腕が折れるまで書くぞ」

<ナレ>連日連夜、家康が書状を書いている頃、三成もまた大垣城に入り、家康を糾弾する書状を書きまくっていた。双方で合わせて数百通の書状が飛び交う熾烈な諜報戦が行われた。

▼32分 加賀(金沢城、金沢市丸の内1−1)
前田利長は、双方から届いた書状を前に思案している。「家康は気前がいい。三成は家康を断罪するばかり」

▼32分 丹波・小早川本陣(亀山城、京都府亀岡市荒塚町周辺)
小早川秀秋のところにも書状が届いた。「我らは三成につく。しかし、戦といえば徳川。どちらにも転べるようにしておけ」と家臣に命じた。

▼33分 大垣<「ホントに歩く東海道」別冊美濃路 №2 mapA 25大垣城>
小西行長「自分のところにも、家康から味方にならないかという書状が届いた」と三成に報告する。

▼33分 岐阜城<「ホントに歩く中山道」第4集 №15 mapD>
<ナレ>徳川の先陣である直政、忠勝、福島らは、怒濤の勢いで進撃していた。
福島正則は岐阜城を落として、大いばりしている。
そんな福島を見て、苦る本多忠勝。「張り切りすぎだ。殿の準備ができてないうちに、決戦が早まっては困る」

▼34分 江戸
家康に、福島正則が岐阜城を落としたとの報告が入る。
渡辺守綱「おめでとうございます!」
家康「めでたくない! わしと秀忠がいない間に決戦が決まれば、全て水の泡」
守綱「たしかに徳川抜きでは困る」
家康「だが、福島・黒田が徳川の味方だと世間に知らしめることができた。今こそ、我らも前に出るぞ!」「秀忠に、真田は放っておいて、急いで西へ向かい、9月9日に美濃赤坂へこいと伝えろ」

▼35分 信濃・徳川秀忠本陣(小諸城、長野県小諸市丁311)
<ナレ>家康が西へ向かっていた頃、秀忠は38000人の兵で真田に迫っていた。
真田昌幸は、降伏の使者を秀忠に送りながら、城から出てこなかった。
本多正信は、昌幸の息子の信幸に、「上田城を明け渡し、ここへ来るように伝えろ」と命じた。
<ナレ>しかし、真田は上田城にこもったまま出てこない。

秀忠「なぜ真田は来ないのだ!」
本多正信「稲刈りをしましょう。そうすれば、兵(農民兵)が自分たちの米を守るために出てくるはずです」

▼39分 信濃・徳川秀忠本陣(小諸城、小諸市丁311)
9月8日になって、大久保忠益が、家康からの書状を届けた。
書状には、「9月9日までに美濃赤坂へ来い」と書いてあった。
秀忠「なぜ早く届けなかったのだ!」
大久保「利根川を渡る際に、百姓に書状を奪われて……」
本多正信「真田のしわざだ」
榊原康政「真田の狙いは、我らを足止めさせることだろう」

▼40分 美濃・赤坂<「ホントに歩く中山道」第4集 №13 mapA 39岡山本陣跡、40安楽寺>
家康「秀忠が来ていない?」
直政「まだ信濃におられるようで」

▼40分 大垣<「ホントに歩く東海道」別冊美濃路 №2 mapA 25大垣城>
宇喜多「見事ぞ、三成! 秀忠は真田の蜘蛛の巣にかかったわけだ」
三成「これで家康には本軍なしだ。われらは秀頼様と毛利の本軍をお迎えします」
嶋左近「家康との兵力の差は歴然」みんな喜ぶ。
※大垣城は関ヶ原の戦いの際、西軍の根拠地となった。昭和11年(1936)に国宝に指定されたが、昭和20年(1945)に戦災で焼失。現在の天守は昭和34年(1959)年に再建されたもの。内部は資料館になっている。

▼41分 美濃・赤坂<「ホントに歩く中山道」第4集 №13 mapA 39岡山本陣跡、40安楽寺>
家康「おそらく三成の狙いは、われらを関ヶ原に誘い出すことだ」

潤礼紀行42 京都・伏見

伏見は、京都・大阪を結ぶ交通の要衝。秀吉が城下町を築き、晩年を過ごしたことによって栄えた。

伏見桃山陵(「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27)
明治天皇陵の奥に、伏見城本丸があった。今は復元天守閣がある。
秀吉の死後、伏見城は徳川の本拠となり、鳥居元忠が留守居を務めた。
三成が挙兵して2万5千の兵で囲まれ、10日以上の激戦の末、討ち死にした。

明治天皇桃山御陵
明治天皇桃山御陵

養源院(京都市東山区三十三間堂廻り656)(「ホントに歩く東海道」第15集 №60 mapB26三十三間堂の東、後白河天皇陵の文字の上あたり)
文禄3(1594)年、淀君(茶々)が父浅井長政のために創建。鳥居元忠らの血の跡が残る天上がはめ込まれている。

伏見桃山城運動公園(「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27周辺)
伏見桃山城キャッスルランドという遊園地があったが、閉園後に整備された。現在ある天守は、1939年に桃山観光開発が建てたもの。天守の中には入れない。
元和5(1619)年、伏見城は廃城となった。秀吉時代の伏見城の大手門が、御香宮神社(「ホントに歩く東海道」第16集№64 mapD41)に移築された(元和8(1622)年。重要文化財)。源空寺(「ホントに歩く東海道」第16集№64 mapD40)の山門、醍醐寺三宝院(「ホントに歩く東海道」第16集№64 mapB5)の唐門も伏見城の遺構(需要文化財)。東海道の近くにけっこうある。

伏見城

(こ)記録

第42回「どうする家康」の舞台関連マップ

どこにいる家康42回 マップ

『ホントに歩く東海道』第1集(日本橋~保土ヶ谷)←江戸
『ホントに歩く中山道』第17集(北浦和~日本橋)←江戸
『ホントに歩く東海道』第16集(京街道 追分~樟葉、奈良街道)←伏見
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉~高麗橋)←大阪
『ホントに歩く中山道』第4集(垂井~新加納)←美濃・赤坂、岐阜城
『ホントに歩く東海道』別冊美濃路(垂井~宮)←大垣、


どこにいる家康42 発展編(by(し)

いよいよ関ヶ原の戦いへ。夫の留守中の城を守る小松姫(稲)の武勇伝もきっちり描かれ、視聴者を喜ばせた。「ここから先は一歩も通さぬ」は、三方ヶ原に散った本多忠真から、忠勝・小松姫と、本多の血脈における決めゼリフになっている。実は小松姫と、伏見城で壮絶な死をとげた鳥居元忠とは、後述するように意外な縁がある。

「徳川抜きで勝たれては水の泡!」豊臣恩顧の武将たちには、こちらについてもらわなければ困る、しかしあまり大活躍してもらっても困る・・・という家康のジレンマ。身勝手といえば身勝手であるが、現代でも結構こういうジレンマはあるのではないかと思わせる。

1.鳥居家の人々 元忠⇒忠政⇒忠恒⇒忠春⇒忠則⇒忠英⇒忠瞭⇒・・・

「紀行潤礼」でも取り上げられた伏見城は、『ホントに歩く東海道』第16集 MapNo.64 コラムその他の解説をご覧いただきたい。鳥居元忠と千代の奮戦ぶりもドラマでかなりの時間を割いて描かれたので、ここではその後の鳥居家はどうなったのかを見てみたい。

元忠の次男(長男は早世)忠政は、父の跡を継ぎ、徳川譜代の大名として順調に生涯を送り、江戸の鳥居家菩提寺として、本郷追分の近くに江岸寺を開設した。父元忠と、側室の馬場信春の娘(元は歩き巫女千代、というのはドラマのオリジナルだが)の間に産まれた子も含めて数人いた忠政の弟たちは、それぞれ旗本として分家した。天保の改革で辣腕をふるい「妖怪」と怖れられた鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)は、この旗本鳥居家の一つに、大学頭林家から婿養子に入った人物である。

鳥居忠政は元和8年(1622)、最上氏が改易された後を受けて出羽山形22万石に加増移封され、東北諸大名の監視の任にあたった。忠政の娘は、小松姫が真田信之との間に産んだ息子たちの一人、信重の正室となり、夫妻の墓は、小松姫と同じ鴻巣の勝願寺(第36回参照)にある。鳥居元忠と歩き巫女千代のロマンスで覚醒した小松姫が真田に嫁ぐ決意をした、というのはドラマのフィクションに違いないが、この縁を見ると、武田家臣の娘ながら徳川家臣の側室となった女性の覚悟に、小松姫がリスペクトの念を抱いていたというようなことはあったのかもしれないなどと想像してしまう。

忠政の息子たちの代になると、嫡男忠恒は後継の男子に恵まれず、不仲だった異母弟の忠春とその子忠則が鳥居家を継承することになってしまった。この父子はそろって暗愚で暴政に走り、いろいろと不祥事を起こすが、伏見城における元忠の忠義の死のおかげで、鳥居家は取り潰しを免れたという。幸いにも、忠則の子、忠英は父に似ない名君で、元禄8年(1695)近江水口に1万石加増して移封され、正徳元年(1711)には若年寄に任じられた。翌年にはさらに1万石を加増され、下野壬生に移封された。壬生には、鳥居家の祖、鳥居元忠を祀る精忠神社がある。

https://tochinoichi.com/seichu-shrine/

忠英は殖産興業政策をすすめ、特に干瓢栽培を奨励し、藩校である学習館を創設するなど教育の普及にも尽力した。忠英の実子たちが早世したため、弟の忠瞭(ただあきら)が壬生藩二代藩主となった。この時期に江戸上屋敷に祀られていた鳥居稲荷は、今も日本橋兜町にある。

幕末・明治維新の時代となり、壬生藩江戸家老の子として産まれた鳥居忱(まこと)は、音楽取調掛(現在の東京芸術大学音楽学部)に学び、第一高等学校や東京音楽学校で教鞭をとった。「箱根八里」の作詞者(作曲は滝廉太郎)としても知られている。

江岸寺 『ホントに歩く中山道』第17集 MapNo.67 mapA

中山道沿いではなく、本郷追分で中山道から分かれる日光御成道の、駒込富士の向かいにある。江戸五色不動の一つ、目赤不動(南谷寺)や、八百屋お七・吉三郎の比翼塚のある吉祥寺なども、この通り沿いである。

https://x.com/fujinshako/status/1716816198833459451?t=4vRnqPPnlyg_RFqmI4kNpA&s=03

勝願寺 『ホントに歩く中山道』第16集 MapNo.61 mapB31 写真31

創建は鎌倉時代で関東十八檀林の一つ。德川家の庇護下で栄え、三葉葵紋を持つ。小松姫・真田信重夫妻の墓(写真)のほか、江戸の町づくりや関東の河川事業を担った伊奈忠次・忠治父子や、細川氏・京極氏の後を受けて明治維新まで丹後田辺城主となった牧野家一族の墓もある。 

勝願寺真田信重夫妻の墓

水口の干瓢栽培 『ホントに歩く東海道』第14集 MapNo.53 コラム53 

最近は家庭で干瓢を水で戻して煮付け、海苔巻きを作るということも少なくなったが、昭和半ばには、遠足や運動会の前日はどこの家からも干瓢を煮付ける甘辛い香りが流れてきたものだ。干瓢といえば栃木県の名産という印象が強いが、ルーツは滋賀県の水口にある。水口藩主時代に干瓢栽培を盛んにした鳥居忠英は、移封先の下野壬生に水口からユウガオの種を取り寄せ、下野も干瓢の名産地とした。干瓢はユウガオの実を細長くむいて乾燥させたもので、広重の東海道「水口」にはこの作業風景が描かれている。甲賀市の東海道沿いにある柏木公民館(MapNo.53 mapC44)の前には、人形が干瓢干しを演じる装置が置かれ、通る人が誰でも見られるようになっている。

正一位鳥居稲荷神社 

東海道マップの日本橋からも、中山道マップの日本橋からも、惜しいところではみ出している神社だが、『ホントに歩く中山道』第17集MapNo.67のmapB右端の兜神社・証券取引所から京橋方面へ行く道と、東海道起点から来て日本橋高島屋の先で左折する道が交差するあたりにある。享保年間にこの地にあった下野壬生藩主、鳥居丹波守忠瞭の上屋敷内に祀られ、祭神は倉稲魂命を主神に豊受姫神が合祀されたもの。享保6年(1721)の大火により、鳥居家上屋敷は移転し、跡地は町屋となったが、地元の人々によって神社は維持され、正一位鳥居稲荷神社と崇められた。昭和20年3月の東京大空襲で社殿は焼失したが、町内有志の尽力により鳥居稲荷神社崇敬会が発足し、昭和52年に社殿が改築されて現在に至る。

日本橋鳥居稲荷

2.伏見城だけじゃなかった籠城戦 関ヶ原前哨戦に散った人生き延びた人

関ヶ原前哨戦としての籠城戦は、鳥居元忠の伏見城だけではなかった。戦国一の文化人としても名高い細川幽斎(藤孝)は、嫡男の忠興が東軍の一員として主力を連れて出征した後、わずかの人数で丹後田辺城(現・京都府舞鶴市)に籠城、城を囲む西軍に対峙する。西軍の武将たちの中には幽斎に教えを受けた者も多く、攻撃するふりで空砲を撃っていたという言い伝えもある。開城・降伏の勧めを断り籠城戦を続ける幽斎であったが、幽斎がここで死んだら古今伝授が断絶すると怖れた後陽成天皇が勅命を出し、開城・和睦となった。

https://maizuru-kanko.net/archives/sightseeing/666

帝までが乗り出して幽斎を救ったことは、三成側のイメージダウンにつながっていく。『細川幽斎』(細川護貞、中公文庫1994)の「田辺籠城」の章に、当時の書状・家系図・城の見取り図などと共に詳細な記述がある。フィクションを楽しみたい向きは安部龍太郎『関ヶ原連判状』(集英社文庫2011)がお勧め。

琵琶湖に面した水運基地で、東海道・中山道の要衝でもある大津城には、茶々の妹で江の姉にあたるお初の夫、京極高次が籠城していた。

https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/875/

高次はもともと西軍として、大谷吉継と共に北陸平定を期待されていたが、密かに家康に通じており、弟・京極高知も東軍の将として関ヶ原に赴いた。西軍は毛利元康を大将とし、立花宗茂・筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした一万五千の軍勢で大津城を包囲攻撃。立花宗茂や、北政所の意を受けた孝蔵主らの説得により、高次は城を開き剃髪して園城寺に入ったが、大津城の開城は奇しくも関ヶ原戦の当日で、立花軍など西軍の精鋭が本戦に参加できなかったことが、西軍が一日で敗退する要因の一つとなった。この〃足止め〃効果が家康に評価され、京極高次は大名に復帰を許されて若狭一国を与えられ、弟の高知も丹後を与えられる。その後京極家は四国の丸亀藩・多度津藩の藩主となり、金比羅参りで繁栄した。米原市の清滝山の麓に、京極氏の菩提寺である徳源院がある。

大津城址(浜大津) 『ホントに歩く東海道』第15集 MapNo.58 mapC22

スペース的に東海道マップでは枠外となってしまった所も多いが、京阪電鉄の浜大津は、琵琶湖周航を始め三井寺・近江神宮・大津市歴史博物館・近江大津宮など、大津観光の玄関口である。秀吉が築いた大津城跡の碑が、浜大津駅に近い湖岸のあたりに立っており、このあたりが本丸だったという。関ヶ原の戦いの後、大津状は廃城となり、城は解体されたが、天守閣の資材の一部は、彦根城に移された。1980年に城郭の石垣と思われる遺構が発掘された。

※2024年5月15日発行の『ホントに歩く東海道』新訂 第15集には、大津城跡のポイントを入れました。ちょうど役立って嬉しい(編集部注)。

「ホントに歩く東海道」新訂15集№58 大津城跡
「ホントに歩く東海道」新訂15集№58 大津城跡

京極家墓所(徳源院)『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo.11 mapB13 写真13

京極氏は宇多天皇を祖とする近江源氏の一族。今年の大河ドラマ「光る君へ」に登場する藤原道長の妻、倫子の甥にあたる源成頼が、近江国佐々木庄の領主となったのが祖で、源平時代の佐々木四兄弟や、南北朝・室町時代のバサラ大名、京極高氏(佐々木道誉)を経て戦国時代の京極高次につながる。京極家の菩提寺徳源院は、中山道が出来る前の古代中世の東山道沿いにあり、京極家歴代当主の墓34基が並び、墓地全域が国重要文化財となっている。中山道からはやや寄り道となるが、せっかく近江を訪れたなら是非、訪れてみたい所の一つである。

京極氏墓
京極氏墓

伏見城で鳥居元忠と共に討死した面々には、丹波出身の武将で利休の弟子の茶人でもあり、茶筅を馬印としていたという上林政重や、清康・広忠の代から仕えてきた内藤家長・元長父子(5月2日の「日本経済新聞」文化面に、内藤氏のご子孫で学習院名誉院長の内藤政武氏による寄稿がある)がいる。また、〃瀬名奪還作戦〃(第5回第6回参照)の時に、瀬名と子供たちとの人質交換で命を救われ、今川滅亡の後は徳川に臣従していた鵜殿氏次(鵜殿長照の子)も伏見城で討死した。共に人質交換された兄の氏長は、その後大坂の陣などを経て、徳川政権下で旗本となっている。

これら伏見城落命組の中でも惜しまれるのが、『家忠日記』で有名な深溝(ふこうず)松平家の松平家忠で、今回の大河ドラマにちょっとでも出てきてほしかった人物の一人である。十八松平と言われる松平の分家たちは、ドラマの最初の頃に、桶狭間の混乱に乗じて元康を陥れようとしたり、三河一向一揆の側についたりと、厄介な存在として登場したまま、いつの間にか行方知れずとなっていたのが残念。家忠が登場していれば、その後の分家たちのイメージアップも出来たのにと思う。

天正5年(1577)から文禄3年(1594)に至る松平家忠自筆の日記は、同時代の史料として非常に貴重であり、戦いに明け暮れる日々の中、誰かに命じられたわけでもないのに記録を続けた家忠の人となりにも興味がわく。いわゆる三河家臣団とは少しずれた位置にいた家康の家臣たちを描いた『あるじは家康』(岩井三四二 PHP2012)の中の『親族(うから)者』という短編は、あまり小説やドラマに登場しない松平家忠が主人公の珍しい小説で、三河代々の親族という立場から、天下人に成上がった家康に向ける複雑な心情が活写されている。

現在、この家忠日記の原本が保管されているのは東京都世田谷区の駒澤大学で、関連の展示なども時々行われている(写真)。

駒澤大学家忠日記

https://www.komazawa-u.ac.jp/news/other/2019/0323-9048.html

井伊直虎が大河ドラマになった年に、井伊家との関連で家忠日記の企画展が行われた時の講演録がWEBで公開されており、家忠日記についても詳しく解説されている。

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/MD40138649/kzh003-11-kubota.pdf.pdf

駒澤大学 『ウォークマップホントに歩く大山街道』MapNo.1(2)mapB12

起源は文禄元年(1592)に江戸駿河台に創設された曹洞宗の学林、明暦3年(1657)の大火で吉祥寺駒込に移転(その後麻布を経て大正2年に現在の地、駒澤へ移転)するという古い歴史を持つ大学で、禅の実践と仏教の研究、漢学の振興を目的としていたが、大正14年の大学令で駒澤大学(旧制)となり寺院の子弟以外にも広く門戸を開放した。構内に禅文化歴史博物館があり、禅宗や歴史に関する展示を行っている。

3.山内一豊

2006年の大河ドラマ『功名が辻』では主人公だった山内一豊、今回のドラマでは福島正則の発言を一言フォローしただけで、あまり存在感が無かったが、ドラマでは省略された一豊の「城と兵糧まるごと提供」は、家康勝利に大きく貢献した。関ヶ原の戦場そのものではさしたる武功のなかった一豊が、この“功名”により幕末まで続く土佐一国を得たことは、多くの小説やドラマで描かれているが、実際にはもっと前の段階から一豊は家康に協力していたようだ。

出陣のため大坂から江戸に帰る家康の一行が、豊臣側に心を寄せる勢力の襲撃に備え、用心に用心を重ねつつ進んでいたことは、第40回で紹介したように、長束正家の招待を避け全速力で水口を後にした逸話からもうかがえる。長束家の他にも、招待を受けながら襲撃を恐れた家康が立ち寄らなかった所は多かったようだ。いちおう信用されていた田中吉政@岡崎、池田輝政@吉田、堀尾忠氏(吉晴の息子)@浜松などでは、もてなしは受けたものの、いずれも相手の城には入らず、付近の寺などを借りて宿にしたという。

そのような状況下、掛川城を預かっていた山内一豊は、城の門をすべて八の字に開かせ、城下の侍屋敷や寺院を開放して膳部を用意、行軍の食糧として米や大量のわらじも提供、さらに家来も連れず単身で家康を出迎えた一豊に「いつもながらご律儀なおふるまい」と家康は喜んで饗応を受けたと司馬遼太郎は『功名が辻』に書いている。もちろん小説では、いろいろなアイデアは全て一豊夫人の“内助の功”であるのだが。

自分の城を空にして備蓄された兵糧ごと德川軍に預けると宣言した山内一豊に、東海道筋の大名たちも追随し、家康は5つの城と百万石近い領地を得ることができた。「おそらく古来、これほどの功名はないだろう」「土佐一国はむしろ安い」。しかし幕末になった時、土佐が倒幕の一大勢力となるとは、一豊も予想だにしなかったことであろう。

久延寺『ホントに歩く東海道』第7集 MapNo.26 mapC41 写真41

小夜の中山峠の中腹に位置する古刹。山内一豊が、大坂から会津上杉征伐のため進軍する家康をもてなした茶亭の跡や水を汲んだ井戸、その返礼として家康が植えたとされる五葉松が残っている。また、夜泣き石伝説ゆかりのお寺としても有名で、この地に二つある「夜泣き石」のうち一つが境内にある。

東海道 小夜の中山 久延寺

https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/8024.html

関ヶ原・山内一豊の陣『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo.12 mapB35

戦場ではたいした働きが無かったといわれる一豊であるが、関ヶ原の家康の最初の陣地、桃配山から垂井方面へ続く松並木の一画に、三菱マークの元になった土佐三ツ柏の家紋がひるがえっている。

山内一豊陣跡。のぼりばた(Googleストリートビュー)
山内一豊陣跡。のぼりばた(Googleストリートビュー)
山内一豊陣跡
編集部撮影、山内一豊陣跡はのぼりばたが隠れている。2014年6月。上の2022年のGoogleストリートビューのものは、説明板も新しくなっている。
山内一豊陣跡
山内一豊陣跡説明板

どこにいる家康 第42回 ギャラリー  伏見城周辺(2024年5月)