2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

安土城に招かれた家康たち。
家康は、信長を討つべく、光秀が出した鯉料理に難癖をつける。
信長は怒り、光秀を殴る蹴る。
舞台は、浜松市、京都市、近江八幡市、岡山市

もくじ
●第27回「どこにいる家康」▼動静

●第27回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第27回「どこにいる家康」発展編(by(し)

  1.いつのまにか誕生していた秀忠と忠吉
  2.信長の城の変遷
  3.安土城と木曽の檜

●ギャラリー(安土から五個荘)

第27回「安土城の決闘」▼動静

▼00分 安土城<近江八幡市安土町下豊浦。あえて言えば、『ホントに歩く中山道』第2集 №6 mapB武佐宿の北5㎞>
天正10(1582)年、信長は白い着物を着て寝ている。襲われる夢を見る。

▼02分 回想
富士の旅に満足する信長は、「今度は安土へ来い」と家康を招待する。

▼03分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康は、家臣たちに信長を殺すことを打ち明ける。
本多忠勝「どうやって? 安土では無理だろう」
家康「信長は京都へ必ず行く。服部党をしのばせている。いつも本能寺に泊まっていて、そこは茶屋四郎次郎の屋敷のそば。計画を進めている。信長を本能寺で討つ」。
石川数正「秀吉は毛利攻め、柴田は北国。力のある者は近くにいない。唯一面倒なのが明智光秀」
家康「明智を遠ざける策も考えている」

▼05分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼08分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家臣たちは、家康が信長を討ちにいって、逆に安土で殺されると心配するが、最終的に家康を守ることで一致。

▼12分 安土城<近江八幡市安土町下豊浦。あえて言えば、『ホントに歩く中山道』第2集 №6 mapB武佐宿の北5㎞>
天正10(1582)年5月。 
家康たちは、安土城に着く。穴山梅雪も一緒。
信長、家康らは摠見寺で、能を見ながら食事をする。
淀の鯉のあらいが出され、家康がにおいをかぐ。
明智光秀「天下一の淀の鯉、くさみはございません」
信長「におうならやめておけ」
明智は「におうはずがございません」と言うが、信長は明智をみんなの前で殴り蹴り、出ていけと言う。
明智は「三河の田舎者が」と言って出ていく。

※ちなみに、中山道の岩村田宿(長野県佐久市)は鯉料理が名物。今も「佐久鯉」として養殖されている。
天明年間(1781~88年)に呉服商の臼田丹右衛門が大坂から「淀鯉」を持ち帰ったのが、佐久での鯉の飼育のはじまりと言われている。(『ホントに歩く中山道』第12集 №46 裏面本文6頁)

佐久鯉 鯉太郎ミニ
佐久鯉 鯉太郎ミニ
佐久鯉の店 佐久市
佐久鯉の店 佐久市

▼18分 安土城<近江八幡市安土町下豊浦。あえて言えば、『ホントに歩く中山道』第2集 №6 mapB武佐宿の北5㎞>
明智が謝りにに来て、「上様は失敗を許さないので、腹を切るつもり」と言う。
信長に呼ばれ、一人で信長の部屋へ行く家康。
信長「本当に(鯉が)におったのか?」
家康「上様は一人でなんでもおできになる。私はできません」と説教、「今日はこのへんで。京都でまっています」
と言うと、
信長は、「京都で待ち伏せして俺を討つつもりか? お前には無理だ。俺はたくさん殺してきた。俺は誰かに殺される、誰よりも無残に」「戦の後が大変、やらねばならぬことがたくさんある。俺を支えろ」
家康は泣きながら「自分のやり方で世を治める」
信長「俺を討つ覚悟があるなら、やってみろ」
家康が出ていくと、子どもの頃を思い出す信長。
<回想>尾張名古屋城・父信秀に「身内も家臣も誰も信じるな。みんな敵」と言われる。

37分 京都市中<京都市中京区新町通蛸薬師東南角>
茶屋四郎次郎邸に家康たち到着。
服部半蔵は、京都市中に500名の伊賀者を配置したと報告。

38分 安土城<近江八幡市安土町下豊浦。あえて言えば、『ホントに歩く中山道』第2集 №6 mapB武佐宿の北5㎞>
信長、森乱(蘭丸)らとともに、少人数で京都へ向けて出発。

39分 備中高松<岡山市北区高松>
備中高松城攻めの最中の秀吉たち。宴会をする。
秀吉は「(信長が)そろそろいなくならないかな。すぐ帰れる用意だけはしておけよ」と弟の秀長に言う。

40分 京都市中・茶屋邸<京都市中京区新町通蛸薬師東南角>
鉄砲をいじっている家康に、半蔵が「信長が100名ほどの手勢とともに京都へ向かっている」と報告。
「やれます」

42分 京都市中・本能寺<京都市中京区元本能寺南町>
6月2日。燃えている本能寺。
地元の男「徳川様がやりよった。織田様の首を持って逃げている。家康の首を取ったものには褒美をとらせるそうだ」と触れ回っている。

「紀行潤礼」安土城 信長が家康を招待(滋賀県近江八幡市)

安土城跡(近江八幡市安土町下豊浦。JR安土駅)
地上6階、地下1階の天守があった。今は石垣が残る。
https://www.azuchi-nobunaga.com/

安土城考古博物館(近江八幡市安土町下豊浦6678。JR安土駅)
https://azuchi-museum.or.jp/

摠見寺(近江八幡市安土町下豊浦。JR安土駅)
ここから天守が望め、能を見たと「信長公記」に書かれている。

常浜水辺公園(滋賀県近江八幡市安土町常楽寺。JR安土駅)
安土城の西側の城下町にあった常楽寺港跡。琵琶湖の内湖、西の湖から琵琶湖へ出れる。
現在は講演として整備されている。

セミナリヨ跡(近江八幡市安土町下豊浦。JR安土駅)
日本最初のキリシタン神学校。本能寺の変後、安土城とともに焼失。
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/3707/

安土城天守 信長の館(近江八幡市安土町桑実寺800。JR安土駅)
明智光秀が家康たちをもてなすために用意した膳が再現された展示がある。
http://bungei.or.jp/publics/index/74/e.jp/nobu/

(こ)記録

第27回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。安土城と京都がメイン。マップの範囲外だが、東海道や中山道から歩いていけなくはない。

どこにいる家康 第27回 使用マップ

『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』別冊 姫街道(御油~見附)
『ホントに歩く中山道』第1集(京都~守山)
『ホントに歩く中山道』第2集(守山~高宮)


どこにいる家康27 発展編(by(し)

信長は自分が非業の最期をとげるのを悟っていた? というシーンで始まる「プレ本能寺」回。前回のラストで「信長を討つ。自分が天下を取る。」と覚醒した家康が、服部半蔵・伊賀の民衆・茶屋四郎次郎らを使って京都で仕込みをするところは、フィクションとわかっていてもなかなか興味深い。

その一方で、信長vs家康のシーンに尺を取り過ぎ(まぁ、このドラマの狙いがそもそも二人の関係性と言われればそれまでなのだが)、その時間を使って、もっと詳しくクーデター準備を見たい気がした。家臣団も心配していたが、たまたま一時的にガラ空きになった京都で首尾よく信長を討ち取れたとしても、その後はどうするのか? 必須と思われる朝廷工作も全くスルーされていたし、少なくとも近衛前久くらいは登場させてもよかったのではないか。近衛前久は最近、本能寺の黒幕容疑者として脚光を浴びているようだが、『東照宮御実紀』には、信長について甲斐に来ていた前久が、自分も富士遊覧ツアーに参加したかったのに、信長に「お前はさっさと木曽路で京へ帰れ」と追い払われたという逸話が載っている。

1.いつのまにか誕生していた秀忠と忠吉 

遠州鉄道の新浜松駅から二つ目の遠州病院前駅(といっても、遠鉄は新浜松からしばらく、短い距離で度々止まるので、浜松駅から徒歩でもすぐ)の駅裏に「秀忠誕生の井戸」がある。近くに遠江分器稲荷社・本多忠勝屋敷跡などもある。

家康の三男長松丸、後の二代将軍秀忠が産まれたのは、天正7年(1579)4月で、その5ヶ月後に長兄信康が切腹させられている。2017の大河ドラマ「おんな城主直虎」では、新たに男児が出生し跡継ぎの心配が不要になったので、もう信康は用済みと家康は考えているのではないかと井伊谷の人々が噂するシーンなど、駿府時代と違って野心と非情さを備えてきた家康の変貌が描かれていたように思う。
長松丸に続き、四男福松丸(後の松平忠吉)が天正9年に出生。二人とも生母は於愛の方である。秀忠は、よく知られているように、年上で三度目の再婚であったお江(淀殿の末妹)と結婚するが、弟の忠吉は、井伊直政の娘(清泉院)を正室に迎えた。つまり於愛が短命でなければ、井伊直政とは息子の嫁の父という関係になったわけで、万千代から直政になっても相変わらず、つまみ食いとナンパに精を出している不良新入社員(もう新入でもないが)と、顔を合わせるたびに口喧嘩をしているのは、将来の深い絆を暗示しているのかもしれない。

德川秀忠誕生の井戸『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapB22

遠江分器稲荷・本多忠勝屋敷跡『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapB23

2.信長の城の変遷

【尾張那古屋城】 信長の回想の舞台として登場した那古屋城はもともと今川氏の城だったが、信長の父、織田信秀が奪取した。幼少時代の信長はここで、父のもと日々厳しい文武の鍛錬を受け、「周囲はみんな敵」「信じられるのは己ひとりのみ」という信念をたたき込まれたようだ。
素行のおさまらない若き日の信長を案じて諫死したと伝わる平手政秀も、今回のドラマでは、昔気質の忠義な家老という一般的イメージとは異なり、ものすごく怖いスパルタコーチみたいで、自分が諫死するより信長を討ち取りそうな雰囲気。平手政秀の墓所は、名古屋市の栄三丁目の政秀寺にある。名古屋城の南、白川公園や、味噌かつ「矢場とん」のある辺りだ。
父の死後、家督を相続した信長は、そのまま那古屋城を居城としていたが、4年後に拠点を清洲城へ移す。信長時代の那古屋城は、現在の名古屋城の二ノ丸から三ノ丸北部周辺がその中心であったと推定されている。

【清洲城】 第4回「清須でどうする」の回でCGが話題になった淸洲城。鎌倉往還と伊勢街道が合流する交通の要衝で、当時の尾張の中心であった。
永禄3年(1560)、信長はこの城から桶狭間の戦いに出陣。今川軍が丸根砦・鷲津砦に攻撃を開始したと知らせを受けた信長は、幸若舞『敦盛』を舞い、明け方に猛スピードで清洲城を出発して熱田の宮で戦勝祈願を行い、戦場へ赴いたと伝わる。織田・德川の「清洲同盟」、信長死後の「清州会議」など、家康による新しい名古屋城の築城まで、淸洲は戦国の政治の重要な舞台となってきた。

【小牧山城・岐阜城】 桶狭間での勝利の後、信長は、美濃攻略の拠点とした小牧山城(後に家康が小牧長久手の戦いの際、ここに本陣を置いた)を経て、居城を金華山の稲葉山城へ移し、名称を岐阜城と改めた。古代中国の王が岐山(きざん)を拠点に天下統一を成し遂げた事にちなんだと言われる。
岐阜城は、中山道からは少し寄り道となるが、金華山ロープウェイで山頂に上れば、長良川・木曽川と日本アルプスや木曽の山々などの素晴らしい眺望が楽しめる。

その後近江に進出した信長は、安土に革新的な城の建設を計画、岐阜城は嫡男の信忠に譲られる。本能寺の変で信長・信忠親子が共に死去した後は、嫡孫にあたる織田秀信が城主となり、岐阜中納言と称された。

清洲城 『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 MapNo.6 コラム6

名古屋城 『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 MapNo.8 コラム8

政秀寺(平手政秀の墓所) 『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 MapNo.7 mapC44 

岐阜城 『ホントに歩く中山道』第4集 Map No.15 コラム15

3.安土城と木曽の檜

安土城も中山道からは5kmほど離れているが、近江鉄道八日市線の武佐駅がまさに中山道武佐宿の通り道なので、そこから電車を利用して、近江八幡観光と安土城見学というプラスアルファの1日を加えるのも一案である。滋賀県の中山道周辺は、戦国時代に限らず史跡の宝庫で、街道を歩くだけではもったいないエリアである。中山道は安土を通らないが、江戸時代の朝鮮通信使が通った脇街道は安土・彦根を通った。

2018年秋に、滋賀県教育委員会の文化財保護課が「戦国の近江地域の魅力発信事業」として東京で行った「信長の近江支配」という講座があり、北近江の浅井氏を討った信長が近江に進出した経緯を学べた。信長は琵琶湖を取り囲むように、周辺要地に坂本城・長浜城などの城郭を築いて家臣たちに分割管理させ、中世近江にはなかった琵琶湖全体の統一支配を実現した。その集大成となる安土城は、当時の日本の技術・芸術の最高峰を極め、本能寺の変がなければ、戦国大名の拠点城郭を脱した天下人の居城として、存在し続けたと思われる。

山本兼一『火天の城』(2004,文藝春秋)は、この安土築城における技術責任者であった岡部又右衛門を主人公とした、いわばプロジェクトX小説である。又右衛門は熱田神宮の宮大工出身だが、信長に臣従して戦陣でも戦い、工兵部隊長的な役割をつとめていた。物語は、桶狭間に出陣する信長が熱田宮で又右衛門に、今川義元の首を載せて凱旋するための「首載せ輿」を作れと命ずる場面から始まる。
いよいよ安土城建設を命じられた又右衛門が、天下一の城に使うべき木材は、当時まだ宿敵武田の支配下にあった木曽上松の檜をおいて他にないと主張し、信長の木曽義昌調略の使いとして木曽に乗り込むシーンは、最も印象深い所である。思わしくない戦況に焦る武田勝頼から、膨大な木曽檜調達の命令を受けて不満をつのらせる木曽義昌は、武田を裏切るかどうか悩みの最中にある。そこを織田の威勢による脅しや、利で釣って寝返らせようというのでなく、ひたすら「天下一の城は天下一の檜で作りたい」と熱弁する又右衛門の意気に感じた義昌は、「檜も、そちのような大工にこそ使われたかろう」と心を決める。
木曽義昌の帰順は、信長をおおいに喜ばせ、義昌は豪華な太刀と黄金100枚を賜った上、木曽のほかに筑摩・安曇の信濃二郡を与えられ、「このたびの忠節は比類ないものである」と人々の前で賞賛を受けた(平山優『天正壬午の乱』)。

本能寺の変から小田原攻めを経て德川家康が関東移封となり、木曽の山林は豊臣秀吉のものとなるが、德川政権下では尾張藩の管理となる。
島崎藤村の『夜明け前』に登場する木曽の代官山村氏は、もともと木曽義昌の家臣で、小牧長久手の戦いでは秀吉側で家康軍と戦うが、関ヶ原では德川方につき、その功績により、木曽代官と共に木曽福島関所の関守の役目も拝命した。壮大な山村代官屋敷の一部は、木曽駒ヶ岳を借景とした築山泉水式の庭園と共に、史跡として保存されている。

安土城 中山道武佐宿の北約5㎞。
JR東海道本線安土駅から徒歩(約30分)。市民バス(あかこんバス)の便やレンタサイクルもある。
安土城へアクセス|電車・車の行き方紹介 (biwakore.com)
https://biwakore.com/access-azuchijo/

近江鉄道武佐駅 『ホントに歩く中山道』第2集 MapNo.6 mapB29 写真29
武佐宿は中山道と東海道を結ぶ八風街道の起終点で、中世からの宿駅。武佐から近江八幡へ近江鉄道で一駅、近江八幡で東海道線に乗り換え安土までまた一駅。中山道は、草津~野洲間は、ほぼJR東海道線に沿って歩くので、栗東・守山・野洲駅から安土への寄り道も出来る。

朝鮮人街道追分 『ホントに歩く中山道』第2集 MapNo.5 mapB12 写真12

中山道と朝鮮人街道の追分
中山道と朝鮮人街道の追分

彦根道追分 『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo.9 mapB25 写真25

朝鮮人街道は、家康が朝鮮との関係を修復した後、外交使節として来日した朝鮮通信使が通った道。中山道の野洲から鳥居本までの間、近江八幡・安土・能登川・彦根と、中山道と並行した脇街道を通った。400人もの通信使一行が宿泊可能な彦根の町を通るためだったと言われる。
鳥居本からの分岐は彦根道とも呼ばれ、「右彦根道・左中山道京いせ」の道標がある。

福島関所と山村代官家 『ホントに歩く中山道』第8集 MapNo.32 コラム32

木曽福島 山村代官屋敷 『ホントに歩く中山道』第8集 MapNo.32 mapB26

木曽福島 山村代官屋敷

どこにいる家康 第27回 ギャラリー

『ホントに歩く中山道』第2集の現調の時、JR東海道本線安土駅から五個荘に歩いた時に、安土城の横を通りました