2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

お手付きとは、主人が侍女などに手をつけることだそうです。
今回のキーパーソンは、その「お万の方」。
舞台は、浜松、岡崎、長野、北近江、京都、甲府

もくじ
●第19回「どこにいる家康」▼動静
●第19回「どうする家康」の舞台関連マップ
●第19回「どこにいる家康」発展編(by(し)
  1.長勝院お万の方
  2.養珠院お万の方
  3.清源院お万の方
●ギャラリー

第19回「お手付きしてどうする!」▼動静

00分 どこ?
武田信玄、木にもたれて、「黄泉にて見守る〜〜〜〜〜〜〜〜〜」と言って、死ぬ。
武田信玄は、元亀4(1573)年5月13日、野田城(愛知県新城市)の戦いのさなか病に倒れ、甲斐への帰国の途上で亡くなった。その場所は駒場(長野県阿智村)とされる。

03分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康たちは武田信玄の死を知る。
家康、三方原の戦いの悪夢を思い出す。

05分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12
瀬名が亀姫に、花の生け方を指導。

06分 ♪音楽「どうする家康メインテーマ~暁の空~」

08分 京都山城、槇島城(京都府宇治市槇島町)<あえていえば、「ホントに歩く東海道」第16集(京街道)№64 mapD京阪宇治線六地蔵駅から南へ約5㎞>
武田信玄が死んだ噂が瞬く間に広がる。
織田信長は自分を裏切り、武田信玄に乗り換えた足利義昭を、京都から追放。

ホントに歩く東海道 第16集 奈良街道伏見
伏見には、多くの大名や旧国名の町名が残る

伏見桃山地区(京都市伏見区)には、旧国名や武将名が多い。「桃山町三河」「桃山町駿河」「桃山町島津」など。秀吉が伏見城を築き政治の中枢となったのにともない、多くの大名屋敷や、全国から商工業者が集められ地名に残る。今回のドラマとは関係ないが、『ホントに歩く東海道 第16集』マップ№64は、伏見を歩き回るにはよいマップです。

どこにいる家康19 ホントに歩く東海道 第16集 山科追分〜伏見
奈良街道経由伏見。ルート線は山科追分〜伏見。

槇島は、かつて巨椋池に浮かぶ島で、真木島氏が城郭を築いた。
信長に挙兵した義昭は、真木島氏を頼り、槇島城へ籠城していた。現在、巨椋池は埋め立てられている。

10分 北近江・小谷城<浅井氏居城 滋賀県長浜市小谷郡上町、湖北町伊部>
天正元年(1573)7月、信長に包囲された浅井長政は、9月に自害。
羽柴秀吉が来る。妻のお市(信長の妹)と三人の娘は、信長に引き取られる。

12分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
城の庭で素振りをしている。<いななきと歓声のフラッシュバック>三方原の戦いを思い出して苦しむ家康。
風呂に入る家康。
下女のお万に、髪を解いてもらう。汗をふいてもらう。
お万については、「発展編19」を参照してください。

16分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
別の日。風呂場の前でうかつ者を演じる、お万。
風呂に入る家康。お万に、髪を解いてもらう。お万は、わざとらしくやけどをする。汗をふいてもらう。

19分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12
信康の妻、五徳(信長の娘)が、母上(瀬名)は家康と離ればなれで寂しいだろうから、浜松へ行ってはどうかと提案。
さらに「よからぬ虫が殿につくかも」と言うと、亀姫が「浜松は虫が多いのですか?」と尋ね、みんながワハハと笑う。

22分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康が風呂に入る。お万が来る。音楽♪(お手付き中)

24分 浜松城
別の日。服部半蔵が家康に、お万が妊娠(後の結城秀康)していると報告。
石川数正が、瀬名が浜松に移りたいと言っていると家康に報告。

28分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12
「殿(家康)に虫がついた」と騒ぎに。

28分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康がお万に手をつけた事がバレる。家臣らはお万の身の上の噂話をする。「知立神社の永見家の娘。一時はお方様(瀬名)にも仕えたことがある」
瀬名が訪ねてきて、家康に怒りをぶちまける。「私だけでなく、信康や亀姫をもないがろしろにされたのです」
お万は、芝居を打つ。下女仲間に自らを縛らせて、追求しにきた瀬名に棒を渡して折檻してください、と。実家の父は戦で死に、社(知立神社)も火事で焼けてしまった」と身に降りかかった悲劇を語る。
瀬名は、「家康から金をたくさんもらって、子どもを育て、社も復興させればよい」と言うと、お万は瀬名に「女の戦い方の方がよほどいい」と、説教して去って行く。

36分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康は瀬名に詫び、そばにいてほしいと頼むが、断られる。
酒井忠次と石川数正が、遠江の民は殿(家康)を馬鹿にしていると報告。
 (回想シーン)小豆餅
餅売りの柴田理恵が「家康が戦(三方原の戦い)から逃げるときに、餅を全部食べて食い逃げしたので、追いかけてぜにをふんどってやった」とのエピソードを客に披露。

菓子店「あおい」の小豆餅・銭取看板
菓子店「あおい」の小豆餅・銭取看板

 (回想シーン)しかみ像
浜松の男「家康は信玄が恐ろしくて馬上でクソを漏らしたが、『焼き味噌だった』とごまかしたんだって」

岡崎城 家康しかみ像
岡崎城 家康しかみ像

41分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
武田勝頼は、岡崎を狙うと決意する。

42分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12
松平信康は槍の練習をしている。

42分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
武田勝頼は、「信康の母、築山殿も狙う」と望月千代に命令。

「紀行潤礼」山梨県甲州市

恵林寺(甲州市塩山小屋敷2280 最寄り:中央線塩山駅)
信玄の菩提寺。自らをモデルにした不動明王が本道に安置されている。
寺は、織田信長に燃やされるが、家康が江戸時代になって再建した。

甲州市HP https://www.city.koshu.yamanashi.jp/iju/54things/articles/no-139.html
恵林寺HP https://erinji.jp/

(こ)記録

第19回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。

どこにいる家康19 関連マップ ホントに歩く東海道

『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く東海道』第16集(京街道 追分〜樟葉、奈良街道)
『ホントに歩く東海道 別冊姫街道(本坂通)』(御油~見付、安間道、浜松道、吉田道)


どこにいる家康19 発展編(by(し))

4月15日~6月11日に開催された、国立公文書館の企画展「家康、波乱万丈!」に、「家康をとりまく女性たち」として、母於大および正室・側室たちのリストが出ていたが、その中に「お万の方」は二人いる。今回のヒロイン、後の結城秀康の母となる長勝院お万の方と、家康の晩年に、後の紀州頼宣・水戸頼房の二人の息子を産む養珠院お万の方である。

家康をとりまく女性たち
家康をとりまく女性たち

ところで、東海道の戸塚にある清源院というお寺も「お万の方ゆかりの寺」と言われており、どちらのお万だろうと思って調べると、どちらでもなく、なんと三人目の「お万」だった! 家康は数多くの側室を持ち、晩年まで多くの子供が産まれていたことは有名であるが、子供を産まなかった側室まで含めると、知られないままの存在も多いのだろう。今回はこの3人の「お万の方」について調べてみた。
「お万」は徳川家のラッキーネームだったようで、尼僧から異例の転身で三代家光の寵愛を受け、吉屋信子の小説のヒロインにもなった、京都六条家出身の永光院も「お万の方」であった。

1.長勝院お万の方

「実家は社でしたが戦で焼け、父も亡くなり・・・」とお万は自分の生まれについて語っていたが、小説や解説書の多くも、お万の父は知立神社の神官で池鯉府(知立)城主でもあった永見志摩守貞英としている。
永見氏は、古代・中世において知立神社の神官としてだけでなく、武門の家系としても勢力を持っており、保元・平治の乱にも参戦したと伝えられている。今川義元の三河侵攻が本格化した天文年間、29代神主貞英は、刈谷城主水野家と姻戚関係を結ぶと共に、弟を松平清康に仕えさせるなど岡崎にも接近。こうした経緯があるので、お万も、永見家によって德川家との絆強化のため側室に送り込まれたという説もある。
しかし、西三河における今川・松平勢と織田・水野勢との戦いにまきこまれ、天文16(1547)年、知立神社は社殿を焼失、さらには永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田軍によって、当時今川の下にあった知立城も落城となってしまった。
お万の母については、安部龍太郎の『家康』には、水野忠政と源応尼の間に産まれた於大の同母妹と書かれている。つまり家康とは従兄妹の関係で、幼い竹千代を愛情豊かに育ててくれた源応尼の面影を、お万の中に見た家康が惹かれていくという設定だ。
これに対して、梓澤要『越前宰相秀康』では、お万の母は水野忠政の子ではあるが、身分の低い女性に産ませた娘で、於大とは異母妹としている。
家康の子を身籠ったお万が浜松城で出産せず、その後も家康と距離を置かれていたのは、築山御前に側室として承認されなかったからとか、家康が本当に自分の子なのかどうか疑っていたからとか、産まれたのが双子だったからとか言われるが、ともかくもお万が出産を迎えたのは、浜名湖畔、宇布見の代官中村家だった。中村氏はもともと浜名湖の軍船を支配する家柄で、中村家住宅は現在、国指定重要文化財として保存されている。
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/shitei/yuto/yuto/nakamurake.html

お万が無事出産するまでのあれこれを取り仕切ったのは、今回のドラマには登場していないが、「鬼作左」として人気の高い本多作左衛門重次。長篠の戦の中「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」と、手紙のお手本といわれる書状を書いたとされる人物である。
「お仙」は娘でなく息子仙千代、後の本多成重。この本多仙千代と、石川数正の息子勝千代が、お万の産んだ於義丸、後の結城秀康を両側から補佐し、三人組で数々の苦難を乗り越えていくという物語がある。また、於義丸を父家康と対面させるにあたり、岡崎の異母兄信康が仲介の労をとったという話もよく語られるが、「どうする家康」では今後、どのような展開になるのだろう。
本多作左が登場しなかったのは残念だが、「どうする家康」のお万は、浜松城で側室として安楽に暮らすことは望んでおらず、子供ぐるみ生まれ故郷へ帰り自身の生活基盤の立て直しが一番大事、瀬名もそれに共感という流れなので、本多作左の出る幕もなかったということだろう。でも、於義丸・仙千代・勝千代の三人組はやっぱり見てみたい。
結城秀康は剛毅な武将として知られ、中山道を江戸へ向かう道中、鉄砲持参のまま碓氷関所を通ろうとして、役人たちに制止されても聞かずに押し通ったという逸話がある。この一件を知った徳川秀忠も咎めることはせず、特別扱いが許される家柄として扱われていたことが分かる。
しかし秀康は父母に先立ち、30代の若さで病死してしまう。尼となったお万はその後、72歳まで生き、結城家の菩提寺孝顕寺に葬られた。永平寺にも分骨されている。

▼孝顕寺
https://t-koukenji.or.jp/about.html
先述の梓澤要『越前宰相秀康』の冒頭にも書かれているが、高野山奥の院参道に、慶長9(1604)年に結城秀康が建立した、母於万の方と、双子の弟で知立神社を継いだ永見貞愛の名が刻まれた石廟、そして秀康の嫡男忠直が建てた秀康の石廟があり、生前共に暮らすことのできなかった母子三人が並んでいる。そればかりでなく、本多作左衛門や築山御前の位牌も廟におさめられているという。お万が本多作左に感謝していたのは当然として、築山御前の位牌もあるというのは、二人の関係は案外、今回のドラマに近いものがあったのだろうか。

▼碓氷関所跡 『ホントに歩く中山道』第13集 MapNo.49 コラム49、MapNo.50 mapA5 写真5

▼中村家住宅(浜松市西区雄踏町宇布見)『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.32
マップ外になるが、mapB25の舞阪駅の北、新幹線線路の向こう側にしばらく行ったあたりである。

▼知立古城跡・御殿跡 『ホントに歩く東海道』第11集 MapNo.41 mapD30
第15回でもちょっと触れたが、知立古城跡の説明板には、三井記念美術館の「どうする家康」特別展に展示された「大日本五道中図屏風」中の、知立の部分が使われている。

「大日本五道中図屏風」に描かれた知立古城址と御殿
「大日本五道中図屏風」に描かれた知立古城址と御殿

▼知立神社 『ホントに歩く東海道』第11集 mapD34 写真34
三嶋大社・熱田神宮と並び、東海道三社の一つといわれる。池鯉鮒大明神を祀り、マムシよけの護符が人気だった。「知立」に「池鯉鮒」の字があてられるのは、近くに殺生禁断の池(御手洗池)があり、鯉や鮒が多数棲息していたため。
https://chiryu-jinja.com/about.html

▼総持寺 『ホントに歩く東海道』第11集 mapD35
知立神社の別当寺院神宮寺として開かれ、江戸に寛永寺が出来るとその末寺となった。お万の方の生誕地とされている。
https://www.aichitabi.com/tiryu/soujiji.html

知立総持寺にある於萬之方誕生地碑
知立総持寺にある於萬之方誕生地碑

意外なことに、知立神社の公式HPは、お万にも永見氏にも全く触れておらず、知立市観光協会も、神社HPを要約した説明のみでお万の方は登場していないのは何故だろうか? 
詳しい解説が載っているのは、愛知教育文化振興会の「三河の文化を訪ねて人物史」の中にある「於万の方」の解説で、知立神社古文書・永見氏家譜に基づいた詳細な説明が書かれている。
於万の方 | (公財)愛知教育文化振興会 (bunsin.org)

2.養珠院お万の方

出生年・出自に関しては諸説あるが、駿河で育ち、文禄2年(1593)、三島で江川太郎左衛門英長の養女として徳川家康に目見え側室となり、慶長7年(1602)3月に家康の十男(後の初代紀州藩主頼宣)、同8年(1603)8月に十一男(後の初代水戸藩主頼房)を出産した。家康にとっては、還暦を過ぎてから出来た息子たちである。
お万の家は三浦義村(鎌倉殿の13人!)の子孫にあたり、兄の三浦為春は大坂の陣で武功をたて、妹の子である頼宣に従い紀州藩家老となった。
江川太郎左衛門は伊豆韮山代官代々の名乗りで、幕末に活躍した江川英龍が有名だが、もともと韮山を拠点として土着していた家柄であった。始め北条氏に仕えたが、德川家とも交流があり、小田原攻めに際し28代英長は家康側につき、北条氏直と家康次女督姫の婚儀についても働いた。「どうする家康」に江川太郎左衛門の登場はほとんど期待できないが、督姫の母、西郡の局は再登場するのか、北条家の人々はどのくらい出てくるのか、二代目お万と息子たちは?(2000年の大河ドラマ「葵徳川三代」では準レギュラー的な位置だった)などが気になる。
慶安2年(1649)の家康三十三回忌に、養珠院は、紀州和歌浦の妹背山に法華経を書写した経石を納めた石室を造り、その上に小堂を建てた。養珠院の没後、徳川頼宣がこれを二層の多宝塔に改築し、拝殿や唐門なども建立した。
平成16年(2004)、市民団体妹背山護持顕彰会が多宝塔下の石室内の調査を行ったところ、全国の大名や地元の庶民が記した経石15万個と共に、お万の方のものと考えられる遺髪が発見され、話題になった。
http://wakayamacity-bunkazai.jp/shitei/329/

▼江川太郎左衛門屋敷と鉄砲調練所 『ホントに歩く東海道』第1集 MapNo.1
mapB 右下の「ゆりかもめ」の「ゆ」の字のあたりに、江川家屋敷と鉄砲調練所があった。福沢諭吉の義弟が江川太郎左衛門の門弟であったことから、江川屋敷の一部が慶應義塾の塾舎として使われたこともあったという。

3.清源院お万の方

清源院については、「お万」と音は同じでも「お満の方」が正しいという説もあるが、戸塚の清源院や岡津の西林寺の標示に「於萬」「於万」とあるので、先の二人と同様に「お万の方」で統一した。
東海道戸塚宿の浄土宗寺院、清源院は、駅からも近く街道沿いにあるため、東海道ウォーカーは皆立ち寄ると思われるが、高台に設けられた墓所の一番上まで上ってみた人は少ないのではないだろうか。この片隅に「於萬の方火葬跡」がある。安政5年(1858)に建てられたもので、「當山開基清源院殿尊骸火葬之霊迹也」と石碑に刻まれている。

於萬の方火葬跡
於萬の方火葬跡
於萬の方火葬跡

清源院の前身は、源頼朝の家臣安達藤九郎盛長(またまた鎌倉殿の13人!)の草創による知恩院の末寺、長林寺であるが、戦国時代に廃絶していた。
徳川家康の晩年の側室だったお万は岡津村(現在の横浜市泉区岡津町、戸塚宿の助郷を務める村だった)の出身で、40歳を過ぎて大奥を辞し故郷に帰り、岡津代官彦坂小刑部元正のもとで隠棲していたが、駿府城で家康が病の床に伏しているとの知らせを受け見舞いに駆けつけた。
おおいに喜んだ家康は、後白河法皇勅願の阿弥陀如来像をお万の方に授けた。口をわずかに開けて上歯が見えるところから「歯吹阿弥陀如来像」と呼ばれる高さ66cmの立像である。この仏像安置のために戸塚に建てられ(廃寺をリニューアル?)、お万の方の法号から名付けられたのが清源院だという。小石川伝通院の住持、白誉が戒師として招かれた。
本堂の屋根や正面には三つ葉葵の御紋が使用され、大名行列の一行も寺院に向け、立てていた毛槍を横にして表敬したと言われる。
武蔵・相模の国境に接し、大山街道に沿った岡津には、中世に岡津城という城があった。阿久和川とその支流子易川の合流点北側の丘陵に築かれ、上杉定正の子上杉朝良が拠点としていたが、玉縄城に進出した後北条氏によって永正9年(1512)に攻略された。その後、関東に移封した徳川家康は、岡津を家臣彦坂元正の知行地とし、城跡に岡津陣屋を置いた。現在、横浜市立岡津小学校や岡津中学校の敷地となっており、鎮守三嶋神社がある。土塁や空堀などの遺構も一部残っている。市街地の中に取り残されたような、横浜市内とは思えないような雰囲気のある一画である。

さらに、愛読者の方よりツイッターでいただいた情報によれば、お万は岡津陣屋の向かいの草庵で暮らしていたが、戸塚に建てられた清源院に移住したあと、草庵の跡地に建てられたのが、亀鶴山一心院西林寺だという。枝垂れ桜が有名な寺院で、戸塚区観光協会による説明板もある。
桜の時期に訪れてみようと思っていたら、6月1日に西林寺が火事にあい、本堂が全焼し負傷者も出たということで驚いた。被災された方々の一日も早い全快と、本堂の復興を願う。

▼清源院 『ホントに歩く東海道』第2集 MapNo.6 18 写真18 
境内には、戸塚宿の遊女の心中事件の碑や、芭蕉句碑「世の人の見つけぬ花や 軒のくり」もある。

▼三嶋神社・西林寺 『キャーッ! 大山街道!!』pp.24-25
三嶋神社は大山祇命を祀る岡津村の鎮守で、「新編相模国風土記稿」によれば和銅六年(713)の創建という。戦国時代から多くの武士・農民の崇敬を受けてきた。岡津小学校ができる前は、現在の岡津小学校入口交差点からまっすぐ参道が通っていたが、今は迂回するようになっている。

岡津三島神社.
岡津三島神社.

西林寺境内には、道標を兼ねた出羽三山供養塔がある。「東 かまくら 江のしま えど」「西 八王子 あつぎ ほしのや道」と彫られている。「ほしのや道」は、座間の星谷寺へ向かう坂東三十三ヵ所観音霊場巡りの道。

どこにいる家康 第19回 ギャラリー

お万の方にちなみ、知立特集です。