2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

家康は小牧長久手の戦いで大軍の秀吉軍に勝利するも、織田信雄が秀吉に屈してしまう。
そのような中、重臣の石川数正が秀吉の元へ出奔する。
舞台は、津市、浜松市、岡崎市、長野県木曽地方、大阪市、上田市

もくじ
●第33回「どこにいる家康」▼動静

●第33回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第33回「どこにいる家康」発展編(by(し)

  1.上田合戦
  2.石川数正の出奔

●ギャラリー(大阪城周辺)

第33回「裏切り者」▼動静

00分 (回想)
小牧長久手の戦いに大勝利を収めた家康だが、秀吉は織田信雄に的を絞り、その家臣を次々に調略、信雄の領国を執拗に攻撃し、追い詰め、降伏させた。
戸木城(三重県津市戸木町880)、川方城(三重県津市川方町)、牧城(三重県津市牧町)、木造城(三重県津市木造町)、松ヶ島城(三重県松阪市松ヶ島町)

伊勢・秀吉の陣
信雄降伏の宴が開かれていた。
でかい伊勢エビを食べながら、秀吉は信雄に「家康に家康の子どもを養子に出せと言え」と命ずる。

02分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康、信雄からの手紙を家臣たちと読む。
内容は、秀吉と信雄が和議を結んだ、秀吉が会いに来いと言っている
家臣たちは怒り、戦いを続けると気勢を上げるが、酒井忠次は「総大将の信雄が和睦したので、戦う大義がなくなった」と言う。
石川数正「殿は行ってはならん、養子も断れ。自分が話しに行ってくる」

04分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

06分 岡崎・石川数正の屋敷(岡崎城周辺?<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12付近>
秀吉との談判を終えて、数正が戻る。

▼07 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康に、「満足な結果を得られず、申し訳ない」とわびる数正。秀吉から土産として預かってきた金塊を差し出す。
本多正信「養子はどうする? 長丸(家康三男・秀忠)と福松(家康四男・松平忠吉)はまだ幼い」

▼08 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
お万の方は、家康との間にできた息子の於義伊(家康次男・結城秀康)を、秀吉の養子として差し出すことを快諾する。
お万の方「殿は、私との事は無用の事だったかもしれないが、このような形で於義伊が役に立ち、この世には無用のことなどいないのです」と勝ち誇る。
お万の方→どこにいる家康19「どうする家康 お手付きしてどうする!」参照。

09分 岡崎・石川数正の屋敷(岡崎城周辺?<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12付近>
数正は息子の勝千代を、人質となる於義伊の供として一緒に秀吉の所へ行かせる。

▼10分 信州・木曽山中
天正13(1585)年5月、真田昌幸を羽柴秀長が訪ねる。スモモを食べている。
昌幸「家康は自分の領地の沼田を勝手に北条に与えた。取り戻そうと越後の上杉と手を組もうとしたがだめだった」
秀長「秀吉が助ける」

<ナレーション>天正13(1585)年7月、羽柴秀吉が関白に任官される。

▼12 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
秀吉が関白になったと知り、驚く家康。

▼12 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
井伊直政、本多忠勝、榊原康政らがおしゃべり。
数正が秀吉に弱腰すぎると批判。「数正が秀吉から金をもらった」という噂もあると話す。

▼13分 大阪城(大阪府大阪市中央区大阪城)<『ホントに歩く東海道』第17集 №68 mapB>
数正が秀吉を訪ねると、秀吉は自分の家臣になれと誘う。
数正、断ると、「もう一戦交えるか」と脅す。
数正「関東の徳川と北条が手を結べば勝てる」。
秀吉、すももを食べながら、「真田がごねているみたいなだな」「家康はすぐにひざまづけ。そしてもう一人、人質を差し出せ。三河も遠江も火の海になるぞ」と重ねて脅す。
寧々が「百姓の出であることを忘れるな」と秀吉を注意すると、秀吉、おどける。
寧々は数正に、「奥方へ」と豪華な櫛をプレゼントする。

大阪城
大阪城

20分 
<ナレーション>その夏、真田が徳川から離叛、上田合戦が勃発。

※上田城は、天正11年(1583)真田昌幸によって築城された。二度にわたり徳川のの大軍を退けたことで知られている(天正13年(1585)の第一次上田合戦、慶長5年(1600)の第二次上田合戦)。(上田城の歴史より)

上田城の歴史
https://nagano-ueda.gr.jp/uedajo/history.html

▼20分 信濃・上田城(長野県上田市二の丸)
息子と碁を打つ真田昌幸。
<ナレ>武田勝頼滅亡後、謀略を働きながら二人の息子と乱世を生き抜いてきた真田昌幸。
上田城を攻めてきた徳川勢を滅ぼす。

21分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
戦に負けて鳥居元忠が戻ってくる。
石川数正「すべては秀吉の手のひらの上。家康に対して、人質をもう一人よこせと言っている」。
本多正信「次々と大名から領地を取り上げ、国替えを行っている」
家康は「人質は送らない。戦う」と数正の伝言を拒否。
数正が「秀吉の元へ参上したらどうか」と提案すると、「我らは小牧長久手の戦いに勝った」と、他の家臣が非難ごうごう。
数正「今の状態を見れば勝っていない。殿は化け物には敵いませぬ。秀吉の臣下に入るべき」と進言。
家康「それはできない、退治する。支度せよ」
数正「岡崎城代として、断る」
家康「ならば任を解く」と数正を罷免。

28分 岡崎・石川数正の屋敷(岡崎城周辺?<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12付近>
酒井忠次が訪ねてきて、家康と話せという。

31分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
数正、家康を訪ねる。
家康は「そなたがいないとだめだ」
数正「覚悟を決めた。私はどこまでも殿と一緒であることをお忘れなく」と去って行く。

38分 岡崎・石川数正の屋敷(岡崎城周辺?<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12付近>
数正の家族、家を出て行く。手紙と寧々からもらった櫛を置いていく。
数正がいなくなった家に、家康たちが訪ねてくる。

40分 大阪城(大阪府大阪市中央区大阪城)<『ホントに歩く東海道』第17集 №68 mapB>
数正は、秀吉に仕官する。
秀吉は数正に自分の一字をとって「出雲守吉輝」と名づける。

大阪城
大阪城

41分 岡崎・石川数正の屋敷(岡崎城周辺?<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12付近>
数正の置き手紙「関白殿下是天下人也」を見つける家康。

「紀行潤礼」大阪市

大阪城(大阪府大阪市中央区大阪城)
現在の城は2回の焼失を経て、昭和になって再建された。
秀吉時代の城は、地下にその名残がある。
『ホントに歩く東海道』第17集 №68 mapB、コラム68「大阪城」

大阪城
大阪城

追手門石垣ギャラリー
昭和59年?に発見された高さ6mの石垣の一般公開準備も進んでいる。
『ホントに歩く東海道』第17集 №68 mapB 19

大阪城の石垣(ドーンセンター)
大阪城の石垣(ドーンセンター)

竹生島(長浜市早崎町)
「琵琶湖に浮かぶ聖地、神様の棲む島「竹生島」。滋賀県長浜市の湖岸からおよそ6kmに位置し、大きさは周囲2km、面積0.14平方kmです。」
琵琶湖汽船「竹生島」
https://www.biwakokisen.co.jp/tourist_info/8768/

宝厳寺唐門(長浜市早崎町1666)
慶長7年、秀頼が命じて、大阪城の門が移された。
長浜は、秀吉が初めて自分の城を持った地。

宝厳寺「唐門」
https://www.chikubushima.jp/precincts/precincts1.html

(こ)記録

第33回「どうする家康」の舞台関連マップ

どこにいる家康33 ホントに歩く東海道 関連map

『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉〜高麗橋)


どこにいる家康33 発展編(by(し)

「戦のない世の中にするためには力を持たねばならない」というのは、これまでの大河ドラマでも共通するテーマだったが、「どうする家康」では、軍事力ではない方法を探るも実現成らず非業に倒れた瀬名、という新しい解釈が描かれた。そして今度は「自分以外の人間が強大な力を得て戦のない世の中を実現しようとしている時、自分は協力できるか」が描かれようとしている。これまで当然だった「自分の領土」という感覚を捨て、国家の一部として機能することを、平和の代償として受け入れられるか? 意外にこれまでの大河ドラマでは見過ごされてきた、単なる戦争vs平和でない、苦渋の選択を描こうとしている所は評価されてよいと思う。

1.上田合戦

家康自身は出陣しなかったからだろうが、戦いそのもののシーンはなく、真田軍に翻弄されて逃げ帰ってきた鳥居元忠らと家康の側近たちとのやりとりによる、上田合戦の描写だった。大河ドラマ考証のベテラン、小和田哲男教授監修による『地図で読み解く戦国合戦の真実』(小学館、2009)によれば、真田昌幸は、千曲川の段丘が険しい崖を形成する要害の地に築かれた、上田城の狭い曲輪に德川軍をおびき寄せ、背後から一気に襲うという作戦で、寡兵にもかかわらず德川軍を追い払ったという。
ドラマでは、秀吉が弟の秀長を密かに信州に派遣し、真田昌幸の「家康は北条の機嫌を取るために、我が領地である沼田を勝手に北条に与え、我々はないがしろにされた」という憤懣を受け、「それは德川様がいけませぬなあ」と、暗に秀吉が真田を支援することを匂わせていた。

「負けたのではなく一時兵を引いただけ」と強がっていた鳥居元忠も「背後で真田を助けている者がいる!」と憤慨、「結局すべては秀吉の掌の上か…」と石川数正は慨嘆する。
ナレーションで「信玄の権謀術数を最も受け継いだのがこの真田昌幸」と説明したり、「揉めれば揉めるほど、甘い木の実が落ちてくる。乱世を泳ぐは愉快なものよ」と独り言を言わせたりと、真田昌幸の「クセ者」感をおおいに盛り上げていたが、平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』(戎光祥出版、2011)によれば、家康のほうも、真田昌幸の暗殺を計画(しかし事前に計画が漏れて失敗)するなど、どっちもどっち的な動きをしていたようだ。また、真田昌幸と秀吉の接近は、真田が德川を撃破した後のことで、それも真田のほうから大坂城の秀吉に書状を送り、それに秀吉が応えて援助を約したとある。
家康の立場から見れば、いちおう代替地も用意するのだから、真田は沼田を譲ってしかるべき、となるのだろう。しかし真田家としては、自分たちが血と汗をもって得た土地はたやすく手放すことはできなかった。家康はこの後、岡崎も浜松も捨てて全く勝手のわからない関東に入府し、立派に江戸の街つくりをするのだから、筋が通っていないわけではない。しかし開放的な東海地方に育った家康と、山地の国衆として厳しい生活をしてきた真田とは、土地に対する感覚も相容れないものがあったのだろうか。前回に取り上げた妻籠城の戦いで奮戦した山村良勝は、木曽の領主となることは望まず、木曽の林の管理権だけを掌握して、幕末まで家を存続させた。木曽を追われた主家の没落を目の当たりにして学習したのかもしれない。土地を巡る感覚の違いは興味深い。

沼田城跡(沼田公園) JR上越線沼田駅から徒歩30分
 https://www.city.numata.gunma.jp/kanko/bunka/1001835.html

中山道歩きで沼田に寄り道するには、JR高崎駅(『ホントに歩く中山道』第14集 MapNo.54, mapA)から沼田駅まで上越線で約50分。

2.石川数正の出奔

東照宮御実紀(附録巻四)には、数正の出奔を聞いても家康が全く動じなかったという記載がある。君にはいささか御心を悩し給う様も見えず。常よりも御けしきよくおはしませば。人々あやしき事に思ひ居たり。」
実は家康と打ち合わせ済みの行動だった・・・という説は、ここに由来すると思われる。家康の懐の大きさをアピールする狙いもあるのだろう。井原忠政「三河雑兵心得」シリーズも、ほぼこの説に沿っているようで、後に大坂に出向いた家康を、百姓姿にやつした数正が密かに見送るというシーンが盛り込まれている。
家康は出奔を知らなかった説のほうは、德川家臣団の中で孤立していた数正が德川を見限ったという解釈と、数正があくまでも德川に忠節であったからこその行動という解釈に分かれるようだ。
本郷和人氏は「単なるヘッドハンティング」という解釈で、忠臣蔵のような忠義は江戸時代になってから出来たものであり戦国時代はもっとドライ、德川家臣団の中では思うように仕事ができなくなったと思った石川数正が、自分を評価してくれる秀吉に従ったのは当然と断ずる。

本郷和人 石川数正が出奔した理由はズバリ「報酬」?『どうする家康』
https://news.yahoo.co.jp/articles/2424008d7f81c318cec5a089528ac903cf9b27e7

火坂雅志『毒まんじゅう』『常在戦場』収載)も、本郷説とほぼ同じ視点のようで、数正の密かな瀬名への慕情も描かれており、二人とも三河という風土にいまいちなじめず浮いていたという解釈がなされている。
ただ、ヘッドハンティングだとすると、秀吉側に走った数正が、その後あまり目立った活躍をしていないことに疑問がわく。もちろん、ヘッドハンティングに乗って転職してみたものの、最初の思惑とは違って、新しい職場でもうまく行かないということは、現代も多々あることだし、家康と引き離すことが秀吉の目的で、下手に使うよりは飼い殺しと考えていたとも考えられる。この場合は、数正が浅慮だったという結論になるだろうか。
しかし、8月30日に放映されたNHK「英雄達の選択」では、ゲストの専門家たちおよび司会者の全員が「德川を守るため」との解釈を取るという、珍しい結果になった。德川の軍事を知り尽くしている自分が秀吉に走れば戦いは避けざるをえなくなる、という究極の判断。ドラマもその方向で展開するようだ。
大坂で秀吉の経済力と人脈作りを実際に目にして来たのは石川数正だけ。賤ケ岳戦勝祝に茶器を持って行った数正・秀吉対面シーンは、今後の重要な伏線となっていた(この時、数正だけでなく、他にも何人か連れていき「大坂体験」をさせればよかったのに・・・)。

大坂城 『ホントに歩く東海道』第17集 MapNo.68 コラム68

基本的に三河軍団は忠誠心の強い勇猛な将兵はあふれているが、外交方面の人材が少なく、ほぼ数正ひとりが担当していたようだ。もっと早くから、知将の榊原康政などを数正につけて育てるべきだったのだろうが、今回その知力を秀吉の挑発や攻略に使ってしまった康政は、アンチ数正の急先鋒の一人になっている。前回の小牧長久手戦での勝利で、本多・榊原・井伊たちの活躍ぶりを描き、視聴者も好い気持ちになっていたのが、今回は完全に裏目に出ているわけで、脚本のうまさを感じる。
こうした流れは近現代も珍しくなく、日清・日露戦争の勝利の記憶が太平洋戦争の戦局を直視する妨げとなったことや、関東大震災の時に神田佐久間町・和泉町で住民が一致協力したバケツリレーの成功体験が、いつのまにか精神論にすりかわって「竹槍精神」になってしまったことなどを思い起こさせる。成功も失敗も、感情的に記憶するのでなく、その要因を科学的に分析して今後に活かすことの重要さを感じる。
いつの時代も、世論は主戦派が人気で、和平派は憎まれ孤立しやすい。太平洋戦争前も、実際に西欧を見た人の意見は世間に響かなかった。昭和初期にロンドン海軍軍縮条約を締結し、英米との協調外交を推進して暗殺された浜口雄幸の例を引くまでもなく、現在の中国・韓国寄りの政策に対するSNSの反応など見るだけでもわかる。日本に限ったことではない。9.11事件の後の米軍軍事侵攻に反対したのは、上院下院を通じてたった一人の女性議員だけで、彼女は激しい誹謗中傷にさらされ、生命の危機にまで及んだ。

東照宮御実紀(附録巻四)に戻ると、数正の出奔を聞いても全く動じなかった家康であるが、その後直ちに、甲斐方面を担当していた鳥居元忠に命じて、信玄時代の軍法書・武器一切を集めて浜松城へ運ばせ、井伊の赤備えを始め、德川に臣従した旧武田家臣たちにヒヤリングも行い、本多・榊原・井伊の三人を惣督として、「当家の御軍法一時に武田が規に改かへられ、其旨下々まであまねく令せしめ」たという。深謀遠慮の数正はそれも織り込み済で(最終的に自分の出奔はデメリットとならず、むしろ德川の軍事力を刷新する)、当面の秀吉との戦いを回避させたのだと考えても矛盾はない。

石川数正の墓は、松本市の兎川寺(次回第34回の紀行で紹介)にあるが、長らく城代をつとめた岡崎の本宗寺(岡崎市美合町平地50)にもある。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~honsyuji/

http://www5d.biglobe.ne.jp/~honsyuji/keidai.htm

名鉄美合駅 『ホントに歩く東海道』第10集 MapNo.39 mapB 至美合駅

至る美合駅。 「ホントに歩く東海道」第10集No.39
至る美合駅。 「ホントに歩く東海道」第10集No.39

本宗寺は応仁2年(1468)、本願寺の蓮如上人により三河における真宗の拠点として土呂に創建された。しかし三河一向一揆の後、三河の本願寺派の主要な寺院と共に、本宗寺も断絶となる。天正11年(1583)、家康の叔母(於大の妹)にあたる芳春院妙西尼の再三にわたる懇請の結果、ようやく宗門再興の赦免状が発せられた。妙西尼は本願寺門主とも親交があり、折々に本願寺に三河の海産物などを届けていたと言われる。寺は慶長年間に現在の地に移転。平成14年(2002)には開基蓮如上人五百回遠忌法要が行われた。
本宗寺復興の恩人であるこの妙西尼(彼女の墓も境内にある)は、家康の叔母であると同時に、石川数正の祖父の妻にあたる。石川家はもともと熱心な一向宗信者で、数正の祖父、石川忠成(別名清兼、掛川城主・大垣城主などを歴任した石川家成の父)は、三河門徒団のリーダー的存在であったが、一向一揆の時はすでに老齢または死去していたといわれる。数正も門徒であったが、三河一向一揆が起こると、浄土宗に改宗して家康に尽したことはよく知られている。
妙西尼の最晩年の姿を描いた芳春院肖像画が岡崎市の専福寺に伝来する。妙西尼は秀吉没年と同年の慶長3年(1598)、84歳で死去し、本宗寺に葬られた。

https://mikawa-komachi.jp/history/hoshunin.html#group=nogroup&photo=0

専福寺 『ホントに歩く東海道』第10集 MapNo.39

https://okazaki-kanko.jp/point/518

専福寺は、名鉄東岡崎駅前から明代橋で乙川を渡る大通りに沿っており、家康お手植えの臥龍梅のある善立寺(第10集 MapNo.39,32)の向かいである。専福寺の和尚祐欽は、一向一揆の際、家康に和議を求めたが受け入れられず、岡崎を去った。その後専福寺も、妙西尼の懇請により大宗寺と共に復興された。

岡崎 専福寺(左)、善立寺(右)
岡崎 専福寺(左)、善立寺(右)

どこにいる家康 第33回 ギャラリー

大阪城周辺