2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

織田信雄を助けるために秀吉と戦うことにした家康。
小牧長久手の戦いで大軍の秀吉軍に勝利する。
城砦工事と、家康が家臣団に慕われるいい人を演出する回。
舞台は、小牧市、犬山市、岡崎市、尾張旭市、長久手市

もくじ
●第32回「どこにいる家康」▼動静

●第32回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第32回「どこにいる家康」発展編(by(し)

  1.明治の浮世絵師、楊洲周延が描いた三方原と小牧山の合戦
  2.池田恒興・輝政父子
  3.ここも小牧長久手戦場だった! 妻籠城址と木曽家・山村家の明暗

●ギャラリー(小牧・長久手)

第32回「小牧長久手の激闘」▼動静

▼00分 小牧山城<小牧市堀の内一丁目1番地>
天正12年(1584)3月。
家康が陣を構えた小牧山城は、信長が築いた城。家康は榊原康政に命じて、小牧山城を堅牢な要塞に作り替えた。

天正期小牧城想像図(れきしるこまきの展示)
天正期小牧城想像図(れきしるこまきの展示)

※織田信長が小牧山に城を築いたのは、永禄6(1563)年。永禄10年には、信長は岐阜に移転している。
小牧市教育委員会発行の『織田信長と小牧』によると、家康が歴史的な勝利を収めた小牧山城は、江戸時代は尾張徳川家の管理となり、番が置かれ、立ち入り禁止などもしていたため近年にいたるまで長い間保護された。その結果、昭和2年に小牧長久手合戦地としての国指定史跡となり、徳川家との関係が強調され、信長が築いた城という印象は薄れてしまったという。また、実際に信長が居城として使用したのも4年間と短かった。

『織田信長と小牧』小牧市教育委員会
『織田信長と小牧』小牧市教育委員会

近年の発掘調査などから、小牧は山城というよりも、城下町として整備されたことがわかってきて、小牧市としては、信長が全国統一をめざして最初に設計した城下町であることを訴えている。
名鉄犬山線小牧駅から、小牧山城跡までの道には、「信長公 夢・チャレンジ街道」として、信長誕生から小牧山に城を築くまでの出来事やエピソードをイラストとともに紹介している。

信長公 夢・チャレンジ街道(小牧市)
信長公 夢・チャレンジ街道(小牧市)

01分 楽田城<愛知県犬山市字城山>
小牧山城から一里半(約6キロ)の楽田城に、羽柴秀吉は陣を構えた。8〜10万とも言われる大軍勢。

小牧長久手合戦関係地図(れきしるこまきの展示)
小牧長久手合戦関係地図(れきしるこまきの展示)

01分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

04分 小牧山城 織田・徳川本陣<小牧市堀の内一丁目1番地>
信雄は秀吉の大軍がいる楽田城の方を見ながら不安になる。
石川数正「あれだけの人数を食わせるのは大変。長引けば、我らに有利な和議を結べる」
本多忠勝、井伊直政、榊原康政は「和議?」と数正にいっせいに反発。
本多正信は、秀吉の悪口を書き連ねて怒りを誘う、「悪口作戦」を提案。

06分 楽田城<愛知県犬山市字城山>
池田恒興が、秀吉の悪口が書かれた札を秀吉に届ける。
「それ羽柴筑前守秀吉は、野人の子なり。もともと馬前の走卒に過ぎず、信長公の寵愛を受け将帥に上げられるも、そのご恩を忘れ、その子らをないがしろにし、国家を奪わんとする八逆罪の者なり。悪逆非道の秀吉め」
と書かれていたのを読み上げる弟の秀長。

11分 小牧山城<小牧市堀の内一丁目1番地>
夜、作戦会議。翌日からさらに小牧山の要塞を強固にする作業を開始。

13分 楽田城<愛知県犬山市字城山>
物見担当の福島正則と加藤清正は小牧山の方を見て、「まだ堀を掘っている」。
池田恒興と森長可は、なかなか攻めてこない家康を城から引っ張り出すために、三河・岡崎を責める「中入り」を提案。
秀吉は「中入りは本軍の数が減るので、よい策ではない」と消極的。
恒興「織田家家臣がついてきているのは、(織田生え抜きの)俺がいるからということを忘れるなよ」と圧をかける。

※「中入り」は、両軍にらみ合っているときに、思いもよらない場所を奇襲する作戦。敵の注意を正面の軍隊に集めておき、別働隊が別の地点を奇襲。成功すれば大打撃を与えられるが、本軍の兵力を減らしてしまリスクの高い作戦でもあるとそうです。

▼16分 小牧山城<小牧市堀の内一丁目1番地>
家康をいい人に印象づけるシーンが連続。
小牧山では、堀を作り続けている。
直政はサボって握り飯を食べている正信に「殿の命を狙ったのは本当か?」と聞く。
<回想>正信、家康を鉄砲で狙い、兜に当たる。追放される。
直政「私も、殿の命を狙った」
<回想>家康を襲って捉えられた直政、「お前なんか信玄にやられるに決まってる」と悪態をつく。

夜、「秀吉軍が中入りを開始しそうだが、どうする」という相談。
家康は、秀吉から丸見えの小牧城から兵を出すとバレるので、気づかれないように南側の堀を作り直せと榊原康政に命じる。

▼23分 楽田城<愛知県犬山市字城山>
天正12年4月、三河中入り決行。池田恒興、森長由、堀秀政。総大将は秀吉の甥の秀次(三好信吉)。
3万の兵で岡崎攻撃に出発。

▼25分 小牧山城<小牧市堀の内一丁目1番地>
家康側、中入り勢が楽田城から出発したことを認識。

小牧長久手の戦い関連場所図 東海道 中山道 美濃路

▼25分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
中入り勢が楽田城から岡崎へ向かっていると報告が入り、於愛や数正の妻らが、「守り通すぞ」と気合いを入れる。

▼26分 小牧山城<小牧市堀の内一丁目1番地> 
家康、決起の講話。今日はみんなよくしゃべる。
家康軍は康政が堀らせた秘密の通路を通って城を出て、岡崎方面へ向かう。

小牧山城復元堀
小牧山城復元堀
小牧山城の二重の土塁と堀
小牧山城の二重の土塁と堀

▼28分 楽田城<愛知県犬山市字城山>
秀吉たち、秘密の通路を通った家康たちの出発に気がつかない。

▼29分 池田の陣 
池田と森、お茶漬けを食べている。
堀秀政と秀次が、白山林(尾張旭市南新町)で奇襲を受けたとの報告。

▼30分 白山林(尾張旭市南新町)
康政が一番槍を務め、小牧長久手の戦いで活躍。

▼31分 場所?
直政、赤備えのしたくをしている。<回想>母が出てきて、「井伊家の再興はお前にかかっています」。
徳川本軍出陣。

▼32分 長久手<長久手市武蔵塚204>
池田軍と徳川軍ぶつかる。池田軍は井伊の赤備えを見て、武田軍が来たと恐れる。

▼33分 楽田城<愛知県犬山市字城山>
中入り勢が家康軍に襲われたと知り、驚く。
秀吉は軍勢を率いて長久手へ向けて出発。

▼34分 場所?
本多忠勝。秀吉本軍を槍で食い止める。

▼36分 秀吉本陣(長久手)<長久手市武蔵塚204>
家康軍はすでに退却した後。池田と森が討ち死にしたとの報告を受け、秀吉軍も引き揚げる。

▼36分 小牧山城<小牧市堀の内一丁目1番地>
勝ちどきを上げる家康軍。

▼36分 楽田城?<愛知県犬山市字城山>
秀吉、秀長に「中入りは、自分の策ではねえ」と言いふらせ、と命ずる。

▼39分 小牧山城<小牧市堀の内一丁目1番地>
「我らの天下じゃ」と喜ぶ信雄。
酒井忠次の「天下すくい」をみんなで踊る。
騒ぎの輪から外れる数正は、「秀吉には勝てない」と家康に言う。

小牧市HPの「小牧・長久手の合戦」関連年表が詳しいです。本能寺の変から伊勢で秀吉・信雄の和睦まで。
https://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/9161.html

「紀行潤礼」愛知県小牧市・長久手市

小牧山城<小牧市堀の内一丁目1番地>
家康は城を囲むように大きな土塁を作らせた。高さは最大8m。たった5日で作り上げた。
土塁の間は外側からは見えないため、三河の中入り勢をたたくために通ったとされる土塁と土塁の間の堀が残る。
現在は史跡公園になっていて、麓に史跡情報館、山頂に小牧山歴史館がある。

小牧山山頂にある小牧歴史館
小牧山山頂にある小牧歴史館

長久手古戦場公園<長久手市武蔵塚204>最寄り駅「リニモ長久手古戦場駅」
家康軍と秀吉軍、両軍合わせて3000人の死者が出た。
国指定史跡。園内に長久手市郷土資料室があり、長久手合戦や民俗資料の展示がある。
園内に勝入塚=池田恒興の塚、公園西に武蔵塚=森長可の塚(武蔵は長可の官名)、
北西には、「長久手合戦図屏風」にも描かれた家康が馬標を建てた「御旗山」がある。

長久手古戦場公園
長久手古戦場公園

首塚<長久手市 岩作元門41>
近くの安昌寺の和尚が戦死者を集めて塚を築いた。
古戦場公園の北。

教圓寺<長久手市 岩作東島103>
首塚の南。家康が奉納した陣羽織がある

(こ)記録

第32回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の関連マップは、清須、岡崎です。

どこにいる家康32回 関連map

『ホントに歩く東海道』第10集(御油〜岡崎)
『ホントに歩く東海道』別冊 美濃路(垂井~宮<熱田>)


どこにいる家康32 発展編(by(し))

「古くて使い物にならないのでは?」と思われていた小牧山城を速攻で改築し、勝利に貢献した榊原康政の功績もすばらしいが、前回、家康が康政を密かに呼んで地図を渡していたシーンがあったのは、家康が早くからこの場所に目をつけていたこと、「こいつならやれる」と思っていたことなどを示唆する、きめ細かい伏線だった。
しかし戦国時代も終わりに近づき、個々の戦闘における勝利ではなく、情報力・外交力など総合プロデュース力こそが最終的勝利につながるという変化がおきていることを、石川数正以外の德川家臣団は理解していない。今回の勝利で自信をつけてしまった家臣団の中、数正の孤立が次回につながっていく。

1.明治の浮世絵師、楊洲周延が描いた三方原と小牧山の合戦 

10月7日から、町田市の国際版画美術館で「明治を描き尽くした浮世絵師・楊洲周延」という展示が開催されているが、その中に浜松の犀ヶ崖資料館(第18回で紹介)にも展示されていた「味方ヶ原合戦之図」があり、懐かしかった。これに描かれているのは本多忠勝・内藤信成・山県昌景で、厳密には三方原ではなく前哨戦の一言坂の戦いではないかと思われるが、旧幕府軍の一員として幕末の実戦に参加した経験のある楊洲周延は、德川への思い入れがあって、家康サイドが活躍したシーンを描きたかったのかもしれない。

史蹟犀ヶ崖
史蹟犀ヶ崖
味方ヶ原合戦之図
味方ヶ原合戦之図
榊原康政タクシー
榊原康政タクシー

この三方原合戦の絵は前期展示で、後期(11月8日より)は、「小牧山ニ康政秀吉ヲ追フ」という明治25年の作品が展示される予定である。明治というと、世の中は文明開化一筋だったようなイメージがあるが、実は明治20年代に入ると、一種の反動というか、江戸時代を懐かしむ風潮が強まり、德川将軍や家臣たちの活躍や大奥の栄華を描いた浮世絵がもてはやされたと展示の解説にあった。21世紀に入ってしばらくした頃に昭和30年代ブームが起ったのと似たようなものだろうか。
明治浮世絵の典型的な、博覧会や西南戦争・日清戦争などがテーマの絵と共に、雪中行軍をする佐々成政を描いたものや、德川将軍代々の御台所が一枚図に描かれているものなど、興味をひかれる作品が多数あり、お勧めの展示である。

2.池田恒興・輝政父子

「秀吉は嫌いだが家康より気前はよい」と恩賞狙いで羽柴軍に参戦した池田恒興(勝入)だったが、小牧山城に外から見えない堀を作り奇襲をかけた家康軍に不意をつかれ、あえなく討死。長男の元助、娘婿の森長可も共に戦死した。このため、池田家の家督は次男の輝政が継ぎ美濃大垣城主、その後岐阜城主となった。
輝政は秀吉に従い、紀州征伐や富山の佐々成政征伐、九州平定などに従軍するが、文禄3年(1594)、秀吉の仲介で徳川家康の次女督姫を正室に迎える。督姫(ドラマでは「おふう」)は、北条氏直に嫁ぎ德川・北条の仲立ちに務めたが、北条の秀吉臣従は実現せず小田原北条家は滅亡。氏直は家康との縁で切腹は免れ、高野山で謹慎していたが、若くして病死、督姫は後家になっていた。

ドラマでおふうの再婚を描くのかどうかは不明であるが、北条氏直に替わり家康の娘婿となった池田輝政は、その後おおいに出世する。関ヶ原では福島正則や加藤清正、黒田長政など、豊臣系の武断派諸将と共に東軍につき、信長の嫡孫織田秀信が守る岐阜城の攻略に戦功をたてた。これにより家康から播磨姫路52万石を与えられ、初代姫路藩主となって国持大名の地位を獲得。輝政は姫路城を大規模に改修し、加古川流域の改修や周辺の都市開発事業も行った。
督姫が産んだ輝政の息子たちにもそれぞれ所領が与えられ、池田家は西国一の大大名、西国将軍と呼ばれるようになり、督姫は播磨御前と称される。この栄誉を与えてくれた天下人の娘である妻に頭が上がらぬ輝政が、家康の期待に応えようと国作りに励む姿が、火坂雅志の短編『おさかべ姫』(文春文庫『壮心の夢』(2009)収録)に描かれている。

また、『甲子夜話』という江戸中期の肥前平戸藩主松浦静山の随筆集に、池田輝政と亡父恒興(勝入)に関する逸話がある。

池田輝政、神祖の御親緣となりて後、申上らるゝは麾下の士に永井傳八郎と申上らるゝは、某が父勝入を討候人に候。何卒對面いたし度と云。神祖さらば迚御許あり、因て初て對面す。此時人々思ふは、父を討たりし敵なれば、對面のうへ何がならんと思ひゐたるに、輝政先禮義を正くして申には、先年父勝入を長久手にて討玉ひしとき、某は年少にて、得と其樣體を辯ぜず候。冀くば父討死の有さま、委く語り聞せ玉へと云へば、永井承候とて、勝入其時の有さまを委く申述たれば、輝政落涙して承り、さても忝存候。始て分明に承り候とて別れぬ。夫より又、神祖え言上するには、永井へ其父討死の樣子承り候に、武道に恥ざる振舞に候を、かく討取候ことは、實によき武士にて候。其父の面目にも候へば、加祿し給り度と言上す。神祖肯じ玉ひて、萬石の列になし下されしとなり。それ迄は五千石許の采地にて有しとなん。

督姫を妻に迎えた輝政が小牧長久手戦で父を討った永井直勝(傳八郎)から父の最期の様子を聞くが、永井の石高が五千石と知り「たった五千石では我が亡き父の面目にもかかわる」と、家康に永井の加増を願って受け入れられたという話である。高校野球で自分たちに勝利したチームが次で負けると、仇を討ってもらったというよりは、悔しい!自分たちを負かしたチームに優勝まで行ってほしかった、という気持ちと似たようなものかと思えるが、父の仇の加増を舅に願って実現させるなど、単に妻のおかげで出世をつかんだだけとはいえない、したたかな政治力も持ち合せていた輝政だったように思える。
池田輝政は関ヶ原の本戦ではなく、岐阜城の抑えや後方待機担当だったため、その陣も一番東のはずれ、関ヶ原の隣の垂井にあり、関ヶ原古戦場めぐりのマップにも記載されていない。

『ホントに歩く中山道』マップでは、第3集MapNo.12、mapCの、朝倉口交差点の南、写真57に隠れているあたりである。

池田輝政の陣跡には、15世紀半ばに、室町幕府六代将軍足利義教と関東管領上杉憲実に対して反乱(永享の乱)を起こした関東公方、足利持氏の遺児で、父の遺志を継ごうとしてかなわず、垂井で処刑された春王・安王丸兄弟の墓もあり、合せて史跡となっている。

https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6868.html
https://sekigaharamap.com/haruou/embed/#?secret=N5jeABvLfq#?secret=bKbgM7PwKs

3.ここも小牧長久手戦場だった! 妻籠城址と木曽家・山村家の明暗

家康自身が行ってはいないのでドラマには1ミリも出てこなかった妻籠城だが、小牧・長久手の戦いがこんな所まで及んでいたとは、『ホントに歩く中山道』マップがなかったら、一生知ることがなかったと思う。
木曽の檜を手土産に武田から織田へ寝返り、信長の賞讃を勝ち得て新しい領土も手にした木曽義昌(第27回参照)だったが、本能寺の変で運命は変転。天正壬午の乱に巻き込まれ、木曽谷へ撤退を余儀なくされる。その後、義昌は秀吉に恭順し、小牧長久手の戦いでは家康と戦うことになる。木曽義昌は代々の家臣である山村良勝に妻籠城を守らせ、德川軍を迎え撃つ拠点とした。山村良勝は妻籠城を守り、家康が派遣した菅沼定利・保科正直・諏訪頼忠らの攻勢を見事撃退した。この山村良勝の一族が、後に木曽の代官職と関所を預かり、島崎藤村の『夜明け前』にも登場する山村氏である。

天正14年(1586)、秀吉と家康の講和により、木曾氏を含めた信濃の諸将は家康の傘下に入るが、義昌は小田原攻めの時、病床にあって出陣できなかったこともあり、次第に影響力を失う。義昌は天正18年の家康の関東移封に伴い、下総国阿知戸(現在の千葉県旭市)1万石を与えられ、木曽谷を去った。山村氏・千村氏ら木曾氏の重臣も共に移住。木曾の地は太閤蔵入地となり、尾張犬山城主の石川貞清が代官を兼ねて支配した。
木曾義昌の没後、息子の義利が家督を継ぐが、不行状により家康から改易されてしまう。しかし家康は関ヶ原の戦いに先立ち、浪人となっていた山村良勝はじめ千村・馬場などの旧木曽家臣を召し出し、木曽谷を西軍の石川貞清から奪還すれば木曾旧領地を彼らに与えると約束した。東軍に加わった山村良勝たちは中山道の先導役を務め、甲斐・信濃に潜んでいた木曾の旧臣たちに檄を飛ばし東軍への参加を呼びかけた。旧家臣の中には、石川貞清の配下となって西軍にいた者もあったが、彼らも山村たちに内応して砦を突破し、木曽谷を豊臣から奪還して妻籠城を修築した。
この功により山村良勝は、恵那郡・土岐郡・可児郡など中山道沿いの美濃の村々を知行地として給され、木曽福島の山村代官屋敷を拠点として木曽全域の支配と関所の管理を任されるようになる。大坂の陣の後、木曾は尾張藩の所領となったため、山村家は代々尾張藩の重臣でもあり、関所を管理する德川幕府の旗本でもあった。この山村家の特殊な立場と木曽の二重支配については『夜明け前』にも詳述されている。

福島関所と山村代官家『ホントに歩く中山道』第8集 MapNo.32コラム

妻籠城址『ホントに歩く中山道』第7集 MapNo.27 mapA28 写真28

妻籠宿は馬籠宿ほど観光客はいないが、それでも観光地らしい趣があるのに比べ、それほど離れてはいないのに妻籠城址まで行こうとする人はほとんどおらず、入口の「熊に注意」が怖い。

妻籠城址入口
妻籠城址入口
妻籠城説明
妻籠城址説明
妻籠城址碑
妻籠城址碑

いっぽう息子の代で途絶えてしまった木曽家はどうなったのか? 木曽福島山村代官屋敷で売っている教育委員会編纂の冊子にも「やがて下総(今の千葉県)へ移された木曽氏は滅びました」の一行ですまされており、冷たい扱い。もっともこの冊子は、江戸中期に名代官といわれ『夜明け前』でも触れられている九代目山村蘇門(良由)の功績のアピールが目的の冊子なので仕方ないのだが・・・。

旭市HPによると「室町幕府滅亡後、当地を治めていた戦国武将・木曽義昌(朝日将軍・木曽義仲の19代子孫)は善政をしき、領民に慕われました。時は過ぎ1852年、京都の歌人・野々口隆正が当地を訪れ「信濃よりいづる旭をしたひ来て東のくにに跡とどめけむ」と、義昌公を偲んだ歌を詠み、これにちなんだとされています。」とある。短い治世ではあったが、移封先でも善政をしき領民に慕われていたようで、現在も銅像や史跡公園があるのは何よりである。

https://maruchiba.jp/spot/detail_10043.html

関東・首都圏の住民でも「旭市ってどこ? 千葉なの? ああ東金の近く? ゴルフ場とかあるところだよね~」で終わってしまい、ほとんど木曽との縁を知られていない旭市であるが、もっとアピールしなければと思った。

どこにいる家康 第32回 ギャラリー

「どうする家康」32回の放送日に、小牧と長久手を訪れました。