2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

石川数正が徳川家を出奔し、秀吉に仕える。
秀吉の妹が、家康の正室として徳川家に輿入れしてくる。
舞台は、浜松市、岡崎市、大阪市

もくじ
●第34回「どこにいる家康」▼動・紀行(松本市)

●第34回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第34回「どこにいる家康」発展編(by(し)

  1.旭の前夫・旭の墓所
  2.その後の織田信雄(第31回の続き)

●ギャラリー(松本城周辺)

第34回「豊臣の花嫁」▼動静

▼00分 大阪・石川数正の屋敷
石川数正の妻、鍋、花を生ける。
天正13(1585)年、秀吉は公家の最高位である関白に就任。
石川数正が秀吉の元へ出奔し、家康の家中は衝撃を受けた。
<回想>数正は秀吉に「自分に仕えなければ、三河と遠江は火の海にする」と言われる。

▼01分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
数正がいなくなり、荒れる家臣たち。
本多正信「秀吉の元へ行ったということは、こちら側の裏の裏まですべてバレている。秀吉は今度こそ攻めてくるだろう」
家康は井伊直政に、自軍を立て直すよう命じる。
数正が出ていき、不機嫌な家康。側室の於愛が持っていた数正の仏像を捨てろと命じる。数正が書いた「秀吉是天下人也」の紙を火鉢で燃やす。
<ナレーション>上洛か戦か。決断を迫られておりました。

岡崎城
岡崎城

▼04分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼07分 浜松城?
家康の夢の中に数正と秀吉が現れ、うなされる。

▼09分 天正13年11月29日夜半、天正地震
岡崎城では地震の後片付け。於愛、数正が残していった仏像を持っているのを家康に見つかる。
於愛、仏像の横にあった箱から何かを見つける。

▼10分 大阪城(大阪府大阪市中央区大阪城)<『ホントに歩く東海道』第17集 №68 mapB>
天正地震は、岡崎より畿内一帯の被害が甚大だった。
秀長「徳川との戦に備えていた大垣城も地震で燃えた」
寧々「今は戦どころではない、民を救うのが先」
秀吉「家康はつくづく運のいい男だ」

大阪城
大阪城

12分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
織田信雄が家康を訪ねてくる。
信雄「秀吉は兵を差し向ける寸前だったが地震が起きたため、家康は命拾いをした。上洛するなら今しかない」
酒井忠次「我らは関白様を信用していない。上洛すれば殿が殺されるかも」
信雄「では、秀吉が人質を出せば上洛するのだな」

13分 大阪城(大阪府大阪市中央区大阪城)<『ホントに歩く東海道』第17集 №68 mapB>
家康への人質として、秀吉は自分の妹の旭に旦那と別れさせ、家康の正室として輿入れさせることにする。

14分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
天正14(1586)年5月、旭姫が家康に正室として輿入れしてきた。
旭姫の奔放な様子に、みな驚く。

18分 浜松城
於愛と家康の母・於大が、旭姫と仲良くなる。
家康と家臣たちは豆腐田楽を食べている。本多正信が大阪の数正の様子を探りに行き、何もしていないようだと報告。

19分 大阪・石川数正の屋敷
鍋が花を生けている。あじさいか。

20分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
榊原康政、本多忠勝、井伊直政らが、数正の大阪での不遇を聞き、「あの方が好きではなかった(嫌いだった)」と話す。
家康は数正のことを思い出す。

21分 大阪城(大阪府大阪市中央区大阪城)<『ホントに歩く東海道』第17集 №68 mapB>
妹を輿入れさせたのに家康が上洛しないので、秀吉は母の大政所を家康の元へ送ることにする。

22分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
旭と於大が話していると、於愛が「大政所様が浜松へ来る」と旭に知らせる。

23分 浜松城
評定に向かおうとする家康に、於愛が「秀吉は、妹に加え母も人質として送ってくるのに、戦をするのか」と言い、家康と言い合いになる。
於大「女子は男の駆け引きの道具ではない」
家康「母上らしくない物言い。さんざんそのような目に遭ってきたのに」
於大「だからこそ、ないがしろにされた者を思いやるべき心を忘れるな」
於愛「旭の離縁させられた旦那は行方知れずと聞きました」
家康は、評定の間へ向かう途中で、泣いている旭を見る。

26分 浜松城
評定の場。秀吉の使者が岡崎へ向かってくるとの報告。
家康は「自分が戦のない世の中をつくる」と主張。
於愛が数正が残していった仏像を持ってきて、「戦のない世の中を作るのは他の誰かでもよいのでは?」と言うと、
忠次「数正は、自分が出奔すれば、殿は戦ができないとわかっていたから出奔した」
正信「数正は、一人ですべてを背負った」
於愛は、数正が残していった箱の中の押し花を家康と家臣らに見せる。皆、築山(瀬名)のことを思い出して泣く。
家康「秀吉にひざまずいてもよいか」と聞くと、「数正のせいだ、裏切り者、あほたわけ」、と家臣はみな泣きながら罵る。

37分 大阪・石川数正の屋敷
鍋と数正は茶を飲んでいる。
鍋「私はあなたとのんびりできて嬉しい」

38分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康、旭に対して「気を遣って明るく振る舞ってくれたのに申し訳ない」と謝り、上洛する決意をする。

41分 浜松城
天正14年10月。
木彫りの兎をしまう家康。「関白を操り、この世を極楽にする」と於愛に言う。

42分 大阪城(大阪府大阪市中央区大阪城)<『ホントに歩く東海道』第17集 №68 mapB>
秀吉、家康が上洛するという手紙を読む。

「紀行潤礼」松本市

松本城(松本市丸の内4−1)
天正18(1590)年、石川数正は秀吉に命じられ松本城の築城を始める。
資材不足だったので、神社などから集めた柱も使用した。
数正は、城の完成を見ずに亡くなった。
数正の死亡後は、息子の康長が跡を継ぎ、松本城の普請を進めた。
天守は国宝に指定。

松本城天守閣
松本城天守閣

中町通り(松本市中央)
松本は城下町として繁栄。なまこ壁の土蔵を利用した店が多く、観光客にも人気。

松本 仲町通り
松本 仲町通り

天白神社(長野県松本市北深志3丁目4)
松本城鬼門。
善光寺街道すぐそば。

兎川寺(松本市里山辺2940)
松本城の東の山裾にある。数正は、衰退していた兎川寺の再興のため領地を保障する文書を送った。
境内に、数正と妻鍋の供養塔がある。

(こ)記録

第34回「どうする家康」の舞台関連マップ

どこにいる家康33 ホントに歩く東海道 関連map

『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉〜高麗橋)


どこにいる家康34 発展編(by(し)

秀吉の実妹、旭(朝日)姫が家康の継室として輿入れする話は、これまでいくつもの大河ドラマで、政略結婚の悲劇として描かれてきた。最も力が入っていたのは、昨年再放送された1981年の橋田壽賀子作「おんな太閤記」で、本能寺よりも関ヶ原よりも詳しく、ドラマ全体の中でも最重要のエピソードとなっていた。
戦国時代、政略結婚のために離縁・再縁を重ねることは珍しくなく、そのためにいろいろな悲劇もあったことだろうが、信長の妹於市のような支配層の姫とは違い、一庶民の感覚で生きてきた女性のささやかな幸せが権力闘争のために犠牲にされる点が、特に涙を誘ったのだと思われる。
「どうする家康」では、そうした流れを踏襲しつつも、あえて旭の夫は登場させず、德川家に入った後の旭のみを描き、その哀しみを十二分に表していた。恨みつらみは飲み込んで、教養も美貌も縁遠い自分でも役に立てることがあるならと必死になっている姿、その努力もむなしく老いた母まで巻き込むことになって号泣する姿には、単なる同情を越えた共感を多くの視聴者が持ち、新しい旭像を作り出すのに成功したと思う。

1.旭の前夫・旭の墓所 

旭と離縁させられた夫については「佐治日向守」説と「副田甚兵衛吉成」説があり、山岡荘八の家康では佐治日向守で、山岡原作の1983年大河ドラマもそれに従っている。佐治は天下が治まるためならと旭を離縁することを受け入れるが、自分が生きていると良くないこともあるだろうと自害してしまう。しかし佐治についての詳細は不明で、史跡なども見当たらず、実在が疑われる人物とも言われている。
副田甚兵衛吉成のほうは尾張烏森の出身とされ、その子孫や縁の寺も実在している。旭は副田家に嫁す前にも一度結婚しており、最初の夫は戦で亡くしていたという説もある。副田甚兵衛は、旭と別れた後は放浪生活の後、故郷烏森に隠棲したと言われている。山岡荘八原作以外の大河ドラマ「おんな太閤記」(1981)・「秀吉」(1996)・「功名が辻」(2006)・「江~姫たちの戦国」(2011)はいずれも副田甚兵衛説を採っており、いろいろな俳優によって演じられている。「おんな太閤記」でせんだみつお氏の演じた甚兵衛は、旭の再縁の邪魔にならないように身を引く形で行方をくらまし(「どうする家康」でも、「前の旦那様は行方知れずだそうで」と囁かれていたが)、遊芸人の一座に入って諸国を流れつつ遠くから旭の幸せを祈っているというドラマチックな脚色で、旭の死後も意外な所で姿を見せていた。役者としては最もやりがいのある甚兵衛だったに違いない。

禅養寺 『ホントに歩く東海道』別冊佐屋街道 MapNo.1 mapB 32 写真32

佐屋街道 禅養寺
佐屋街道 禅養寺

名古屋市中川区と中村区の境にある近鉄烏森駅の西側、中村区烏森町の禅養寺は、副田家を檀家とする寺で、現在もこの近くに副田甚兵衛の子孫が住んでおられるという。甚兵衛は烏森に帰って出家し、隠斎と号して隠居した。その屋敷跡は大坪公園の辺りかとも言われているが、詳細は不明らしい。
旭姫は当初、駿府城に居住して駿河御前と呼ばれたが、その後京都に戻り、病を得て47才で死去した。わずか4年の結婚生活だったが、家康は上洛のたびに墓参に訪れたという。東福寺に葬られ法名は南明院殿光室宗王大禅尼。東福寺塔頭の南明院は家康が旭の菩提を弔うために建立したものである。南明院には旭の肖像画も所蔵されている。
https://tofukuji.jp/guide/#precincts

東福寺には、数多くの塔頭があるが、上記の東福寺HPの境内図の一番下の部分(最南端)に記載されている。2021年秋に初めて特別公開が行われた。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15087872.html

また、駿府の泰雲山瑞龍寺にも分骨された旭の墓がある。この寺は曹洞宗で、曹洞宗の法名は瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼。
https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/shizuoka/shizuoka-city/sz679/

2.その後の織田信雄(第31回の続き)

東照宮御実紀巻三には、小牧長久手戦で家康が勝利した後、「秀吉さまざまと手だてをかへて戦つれども、事ゆくべくも見えざれば、心中また謀を考へ出し」信雄を「すかしこしらへて」和議を結んだとある。「かかりしかば君も浜松へかへらせ給ひ、やがて石川数正を御使にて信雄へも秀吉へも和平を賀せられける」。
「すかしこしらへて」とは、おどしたりすかしたりの「すかし」であろうか。広辞苑には「だましいざなう」「おだてあげる」「慰めなだめる」の三つの意味が載っているが、ドラマでもほぼこんな感じで、秀吉の飴と鞭に手もなく押さえ込まれた信雄の一方的な和議により、梯子を外された形になった家康、勝っているのだから戦を続けると主張する血の気の多い家臣たちを「信雄様と秀吉が和議を結んだ以上、戦をする大義は失われた」と酒井忠次がいさめる様子が描かれた。
しかし、その後NHKの「歴史探偵」で紹介されたように、庄内で発見された信雄の書状から、信雄は秀吉に操られたのではなく、積極的に秀吉と家康の間をとりもって和平工作をしようとしていたという説が浮かび、信雄の「父に似ないボンクラ息子」のイメージも変ってきた(第31回参照)。家康自身も、通説よりは和議寄りの考え方だったのではないかという説も出てきているようだが、德川実紀では、あくまでも信雄のダメさをアピールすることで対比的に家康のイメージアップをはかっているのか、次のような記載も見られる。聚楽第で申楽が行われ、関白秀吉や織田常真(=信雄)、織田有楽斎が演じたが、とくに常真の龍田の舞が見事であった。家康は船弁慶の義経を演じたが、もともと舞などには熱意を持っていなかった家康は下手くそで人々の失笑を買った。後に秀吉はこのことを、「常真がごとく家国をうしなひ、能ばかりよくしても何の益かあらん、うつけものといふべし。德川殿は雑技に心を用ひられざるゆへ、当時弓矢取てその上に出る者なし」「小事に心付て大事にくらきは、これ又うつけ者といふべし」と評した(東照宮御実紀附録巻七)。

柴裕之『清須会議 秀吉天下取りへの調略戦』(戎光祥出版、2018)によれば、小牧長久手戦は局地戦として見れば家康が秀吉に勝利したが、戦いの本質は「信長後継の天下人をめぐる織田権力内の対立が発展して生じたもの」で、「最終的に勝者となったのは秀吉だった。そして秀吉はこの戦争の勝利により、織田家当主の信雄との主従関係を逆転(下剋上)させ、織田家に代わる天下人として、その立場を固めていった」とある。もともと織田信長の正当な家督相続者は、信忠の長男で信長の嫡孫の三法師と決まっており、信雄は幼少の三法師が成人するまでの暫定的な織田家当主・三法師名代の立場であった。秀吉との和睦(実質的降伏)により、信雄は引き続き織田家当主として認められたものの、三法師の身柄は秀吉に押さえられ三法師名代としての立場は喪失、領土も縮小され、「秀吉に臣従する豊臣大名家の一つである織田家」になってしまった。
さらに北条氏降伏の後、関東移封を受け入れ江戸で新天地を開いた家康とは対照的に、信雄は関東移封を拒絶して改易となり、下野那須に追放される。この原因については直接的史料はまだ発見されていないそうで、元の主筋という意識にとらわれて現実を直視できなかった信雄の見識の低さが通説になっているが、柴裕之氏は、移封命令に対する領国内の反発を抑えることが出来なかったのが主因ではないかと述べている。関東移封については、家康家臣団の中にも相当な反発があったはずであるが、それはいずれドラマでも描かれるだろう。
那須へ配流となった時点で信雄は出家「常真」と称し、まだ十歳であった嫡男の秀雄(母は北畠具房の娘)に家督を譲る。織田信雄改め常真が政治的復権を果たすのは、朝鮮侵攻が始まった文禄元年(1592)のことで、肥前名護屋城に出頭した常真は秀吉の相伴衆として活動するようになり、息子の秀雄は越前大野に所領を与えられ、羽柴大野宰相(正四位下参議)となる。

ちなみに織田嫡流を継いだ三法師は成長して織田秀信となり、岐阜城主・岐阜中納言として関ヶ原では西軍に属すが、福島正則・池田輝政の攻撃に降伏、剃髪して高野山に入るが若くして病死する。
常真の家督を継いだ織田秀雄も西軍に与して敗軍となり、大野領を失い江戸浅草に隠棲するが、父常真に先立って死去、子女がなかったために家督は弟の信良が継ぎ、上野小幡藩主となる。この信良の娘が、徳川秀忠とお江の二番目の息子、忠長の正室となっているのが興味深い。同母兄弟でありながら深い確執のあった家光・忠長については、2000年の大河ドラマ「葵德川三代」でも描かれたが、春日局への反発から兄より弟を溺愛するお江が、伯父信長の「長」をとって忠長と名付け、織田家の姫を妻にと願う様子が描かれていた。

大信寺 駿河大納言墓所 『ホントに歩く中山道』第14集 MapNo.54 mapA 14 写真14

三代将軍德川家光の実弟、忠長は、両親の寵愛を受けて育ち、駿河の領主として駿河大納言と呼ばれるが、兄家光との長年の不和は両親の死後ますます悪化し、乱行に走って甲府蟄居を経て高崎藩に預けられ、高崎城に幽閉されるが、ついに寛永10(1633)年、28歳の若さで自害に至り、高崎の大信寺に葬られた。

高崎 大信寺
高崎 大信寺

また鎌倉扇谷の薬王寺には、織田信雄の孫娘にあたる、徳川忠長正室松孝院が建立した供養塔がある。
https://www.kamakura-yakuouji.com/about-tokugawa/

秀吉の死後も、常真は隠居の身でありながら大坂の陣にも出現し、秀頼から大坂籠城軍の大将にという密談があった、と先述の柴裕之氏の本にあるが、ドラマでもサプライズ再登場を期待したい。

尾張・伊勢方面に領地を有していた信雄に関連する史蹟は、東海道・中山道からは微妙にずれており、なかなか見つからなかったが、美濃路にようやく発見した。

「織田信勝が整備した串作の曲尺手」の記述
「織田信勝が整備した串作の曲尺手」の記述
串作 美濃路 稲沢市 
串作 美濃路 稲沢市 

串作の曲尺手(愛知県稲沢市萩原町串作)『ホントに歩く東海道 別冊美濃路』 MapNo.5 mapA

美濃路 織田信勝が整備した串作の曲尺手
美濃路 織田信勝が整備した串作の曲尺手

美濃路萩原宿(愛知県一宮市)に串作町という地名があるが、「串つくり村」の表記が、織田信雄の道路普請の文書の中にある。美濃路は、155線と交差する串作交差点から、右折・左折・右折とクランク状の道(曲尺手:かねんて)になっているが、これは信雄が計画した道作りと推測される。

総見院『ホントに歩く東海道 別冊美濃路』 MapNo.6 mapA 17 写真17

信長の菩提寺総見院
信長の菩提寺総見院

稲沢市と清須市の境近くにある総見院は、織田家の菩提寺として信雄が建立した。総見院は信長の法名。本能寺の焼け跡から探し出された、信長が着用したといわれる「焼け兜」がある。「清須越」(『ホントに歩く東海道 別冊美濃路』MapNo.6 コラム6)によって名古屋市大須に移転したが、初代尾張藩主德川義直が現在地に再建した。

どこにいる家康 第34回 ギャラリー

松本、北国街道