023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

信長を討ちに京へ行ったのに、堺でお市と会って。本能寺の変が起こり、逃げる。
信長と家康は友であるとの印象を深めさせる内容でした。

舞台は、京都市、名古屋市、堺市、近江八幡市、岡山市

もくじ
●第28回「どこにいる家康」▼動静

●第28回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第28回「どこにいる家康」発展編(by(し)

  1.ドラマには登場しない武田系の側室たち
  2.回想の信長父再び
  3.光秀、本能寺への進軍ルート

●ギャラリー(名古屋城近辺)

第28回「本能寺の変」▼動静

▼00分 尾張那古野城<現在の名古屋城二之丸付近『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 №7 mapB>
12歳の信長は勉強をしているが、突然切れて暴れまくる。

名古屋城HP
https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/history/zenshi/

▼02分 天正10年6月2日 本能寺の変
今回は、ここから時間を遡り、振り返っていくパターン。
信長、襲われて斬られる。
京の人々が燃える本能寺を見て、「家康がやったんだ」と噂する。
茶屋四郎次郎は、堺にいる家康の元まで走り?信長が討たれたことを知らせ、逃げるように促す。

▼03分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼06分 本能寺の変3日前(天正10年5月31日)安土・明智の屋敷
光秀は、信長が京都へ出発したと聞き、信長、長男の信忠、家康を一網打尽にできるかもしれないと、喜ぶ。

▼07分 京都市中・茶屋四郎次郎邸<京都市中京区新町通蛸薬師東南角>
家康は、「信長が供の者100名と安土を出発した」との報告を受ける。
服部半蔵は信長の供の人数の少なさに、「やれます」と信長暗殺を保障する。
<回想>安土で家康は、信長に「やれるんならやってみろ」と言われている。

家康は家臣を前に、「信長を討つ、天下を取る」と息巻く。
酒井忠次と石川数正は「そのあと、信長の息子はどうする? 天子様は? 公家は?」と心配する。
家康「だから。これから堺へ向かう」と堺へ出かけていく。

※家康は、京都から堺へ行くのに、京街道(「ホントに歩く東海道」16集、17集)を通っていったのか?

どこにいる家康28 堺へのルート 京街道
家康の堺へのルートは京街道?

▼09分 本能寺<京都市中京区元本能寺南町>
信長が京都に到着。お供の数は、天下人とは思えぬ異例の少なさ。

※現在の本能寺(京都市中京区寺町御池。『ホントに歩く中山道』第1集 No.1 mapA、『ホントに歩く東海道』第15集 No.59mapC 京都市役所南)ではなく、西南にあった。現在の本能寺には、信長の廟、本能寺の変戦死者供養塔、宝物館に信長の遺品などがある。

▼10分 <京都からは約60キロ> 6月1日
南蛮船が行き来する、日本最大の貿易都市・堺。堺の代官・松井友閑に堺を案内してもらう家康はいろいろな人と会う。
会合衆(えごうしゅう、かいごうしゅう。自治都市の運営にあたる上層町衆の指導者グループ)の津田宗及に茶を点ててもらう。

▼11分 堺 妙國寺<家康たちが宿泊していたとされる寺。大阪府堺市堺区材木町東4-1-4>
家臣たち、殿の信長を討つ計画を止めるべきでは?と話し合う。

※妙國寺については潤礼紀行参照

▼13分 本能寺<京都市中京区元本能寺南町>
信長、書き物をしている。

▼13分 
松井友閑に堺の町を案内してもらっている家康たちは、信長の妹、お市と出会い、家康の宿泊所の妙國寺で茶を飲む。
お市「堺へ来ていると聞いたので、ここら辺をそぞろ歩いておりました」
家康「正室をとるつもりはありません」
お市「あなたは兄(信長)を恨んでいるでしょう。私は恨んでいます。あなたは友なので、兄はあなたには手は出しません。兄は、あなた様に討たれたいと思っているのでしょう」と言って去って行く。

▼20分 本能寺<京都市中京区元本能寺南町>
<回想する信長>かぶき者になった信長は、父信秀に「俺はもうすぐ死ぬ、家督を継げ」と言われる。
「心を許していいのは一人だけ。殺されてもいいやつだ」

▼22分 
家康はお市と瀬名と信長のことを思い出す。「うあー」と叫ぶ。

▼24分 本能寺 6月2日
明け方、襲われる信長。「家康は?」と探す。背中を刺され、白い着物が血だらけになりながら戦う。

▼28分 
家康は「情けないが(信長を討つ)決断ができぬ。今のわしには到底成し遂げられぬ。すまぬ」と言って泣く。
後の徳川四天王に囲まれ、「いずれ天下を取りましょう」と慰められる。

▼31分 
穴山梅雪が「国へ戻ります」と挨拶にくる。
茶屋四郎次郎が走ってきて、「明智が手を下し、信長が討ち死にした。家康が下手人だと噂が立っているので、すぐ逃げて」と伝える。

▼33分 備中高松<岡山市北区高松>
秀吉は、信長が討たれたと聞く。「上様〜」と何度も叫んでから「徳川を討つ」と言う。弟の秀長から「やったのは明智」と聞いて驚く。「すぐ毛利と和議を結べ」と指示する。

▼34分 京? 丹波亀山城(京都府亀岡市)? 明智陣営
光秀は、信長の首を取ったと報告を受けるも、別人だった。
「家康を生け捕りにしろ」と命令。「腐った魚を食わせてやる」と敵意を燃やす。

※光秀はどこにいたのか。今回の発展編3で詳しく述べられています。
また、居城の丹波亀山城から本能寺まで向かったという説と、光秀自身は行かなかったという説があるようです。

「朝日新聞デジタル」明智光秀は本能寺に行かなかった? 家臣が実行、古文書に
https://www.asahi.com/articles/ASP136HT4NDZULZU009.html

亀岡市関連HP「丹波亀山城と本能寺の変」
https://www.kameokacci.or.jp/akechikamemaru/history/history2.html

マップルトラベルガイドHP【本能寺の変 明智行軍ルート】
※実際に歩いた記録が面白いです。
https://www.mapple.net/original/269315/

▼35分 堺からどこかの山の中
逃げる家康たち。
回想と実際が入り交じる。
(家康の心の声「信長、信長」)
武装農民に襲われ、素手で戦う家康。
(信長の回想「どこにいる、家康」と刺されて血だらけの信長が探し回る。明智が襲ったとわかり、「何だお前か」と言って燃える本能寺へ入っていく。)
家康は、信長に少年時代しごかれているのを思い出しながら、農民の首を絞め、殺す。

「紀行潤礼」大阪府堺市

室町時代から堺は南蛮貿易で栄えた。

堺市博物館(堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁)
堺では、ポルトガルから伝わった鉄砲の量産化にも成功、その技術は自転車産業に受け継がれている。
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/

シマノ自転車博物館(堺市堺区南向陽町2-2-1)
https://www.bikemuse.jp/

開口(あぐち)神社<堺市堺区甲斐町東2丁1-29 >
当寺の堺は、会合衆と呼ばれる豪商によって収められた板。その会合衆の集会の場として利用されていた。
https://aguchi.jp/

妙國寺(堺市堺区材木町東4-1-4)
堺を訪れていた家康たちの宿泊所とされる。
境内のソテツ(国天然記念物)は、信長が安土城に移植させたが、毎夜「堺に帰りたい」と泣いたので、信長は激怒してソテツを切り倒させると、切り口から鮮血を流し大蛇のごとく悶絶し、恐れをなした信長は再び妙國寺に返したという伝説が伝わる。

堺観光ガイドHP 妙國寺
https://www.sakai-tcb.or.jp/spot/detail/153

堺観光ガイドHP ソテツの話、家康がソテツを詠んだ歌碑のことなど
https://www.sakai-tcb.or.jp/about-sakai/eetoko/08_4.html

(こ)記録

第28回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。安土城と京都がメイン。マップの範囲外だが、東海道や中山道から歩いていけなくはない。

どこにいる家康28 関連マップ

『ホントに歩く東海道』第15集(南草津〜三条大橋)
『ホントに歩く東海道』第16集 京街道(山科追分〜樟葉)
『ホントに歩く東海道』第17集 京街道(樟葉〜高麗橋)
『ホントに歩く東海道』別冊 美濃路(垂井~宮<熱田>)
『ホントに歩く中山道』第1集(京都~守山)


どこにいる家康28 発展編(by(し)

明智光秀の謀叛は、いくつもの要因が重なっていたはずであるが、ドラマでは安土饗応のパワハラ(家康が仕掛けた?)の他はほとんどわからなかった。これはたぶん家康の視点に絞った結果だろうが、そのぶん、茶屋四郎次郎には、もう少し活躍してほしかったし、堺の商人たちも一瞬の顔見せで終わってしまったのが残念。
現在の本能寺と当時の本能寺(元本能寺)、茶屋四郎次郎屋敷などについては、家康たちが京を訪れた第13回で触れたので、今回は省略する。

1.ドラマには登場しない武田系の側室たち

偶然堺で再会した於市(もちろんフィクション)と家康の会話
「その後ずっと一人?」
「側室が適当にやってくれてるし、正室はもう持たないつもり」
あまりにも令和の同窓会風味というか、「側室」「正室」という単語が浮きまくっているけれども、この配役では、あきらめるしかない。
ドラマには登場しないが、この時期、家康は複数の武田系の側室を迎えている。於万の回(第19回)で参照した、国立公文書館企画展「家康、波乱万丈!」展示の「家康をとりまく女性たち」リストをもう一度見てみると、武田旧家臣の娘とされる二人の女性に、それぞれ、娘と息子を産ませている。
武田への敵愾心をあらわに「今度甲州に攻いらんには国中の犬猫までも伐捨よと」命じた信長(『東照宮御実紀』巻三)とは対照的に、家康は出来るだけ遺恨を残さぬよう、武田遺臣のリユースとリサイクルに腐心したと言われるが、武田系側室たちも、その一環だろうか。

家康をとりまく女性たち
家康をとりまく女性たち

【振姫の母】 家康の三女となる振姫の生母、良雲院(生年不明~1637)の父は、市川昌永・穴山信君・秋山虎康など諸説あるが、いずれにしても武田の家臣で、振姫は天正8年(1580)に産まれており、この時まだ武田氏は滅亡していないので、武田「遺臣」の活用というより調略の一環だったのかも。
この振姫の生涯もなかなか波乱に富んでおり、豊臣政権時代に秀吉の命で蒲生氏郷の嫡男秀行に嫁ぐが、夫は若くして急死し、その後家中に内乱が起こる。今度は父家康によって、産んだ子を蒲生家に残したまま、和歌山藩主の浅野長晟に再嫁させられ、また子を生す。浅野長晟は、北政所寧々の妹婿だった浅野長政の次男。分家が忠臣蔵で有名になる浅野家だが、現代まで振姫の子孫が続いているという。

【武田信吉の母】 下山殿・秋山夫人・おつまの方などと呼ばれる側室(1564?~1591)は、武田一門の秋山虎康の娘で、穴山梅雪の養女となり、梅雪が武田を離反して織田・德川に臣従した際、家康の側室となった。天正11年(1583)、家康の五男にあたる万千代(信吉)を出産するが、その後20代の若さで病死してしまう。墓所は紫陽花寺で有名な下総小金の本土寺。信吉は幼少期に小金城主に封ぜられ、母子ともに小金で暮していたという。
家康は、梅雪の悲願であった武田の名跡を信吉に継がせようと考え、梅雪未亡人で信玄の娘でもある見性院を彼の後見人としていた。信吉は、関ヶ原の戦いでは江戸城西ノ丸にあって留守居役を務め、慶長7年(1602年)には、佐竹氏に替わり常陸水戸25万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣と共に武田氏を再興したが、生来病弱でもあり、翌年水戸で病没。子がなかったため武田の名跡は絶え、水戸は德川御三家の一つとなって、信吉が預かっていた武田の遺臣たちの多くは、そのまま水戸藩に仕えたという。

【阿茶局】 武田系の側室には、家康との子はないが、もう一人大物がいる。側室の枠を越え、家康の秘書官、江戸幕府の外交官としての役割も担った阿茶局(雲光院)だ。もしかしたら、歩き巫女の望月千代女が転身して阿茶局になるのでは?とSNSを賑わせていたが、新しいキャストが発表されたので、その案は却下だったようだ。ちなみに『戦国の忍び』(平山優、角川新書2020)には、望月千代は「ほぼ架空の人物と断じてよかろう」とある。

2.回想の信長父再び

織田信秀は嫡男信長に那古屋城を譲ると、自分は新しく築いた古渡城へ移動、さらに末森(盛)城に移り、天文21年(1552)にここで生涯を終える。
信長の同母弟、信行が、加賀の白山比咩神社から分霊を迎え、末森城中に神社を創建したのが、現在の城山八幡宮である。信行は兄に叛旗を翻して敗れ、母・土田御前の取りなしでいったんは赦免され、末森城も陥落を免れるが、淸洲城で謀殺される。(病と偽り弟を呼び寄せて討ち取るシーンは、ドラマでもよく描かれてきた)。
織田信秀の霊廟は最初、末森城の西北山麓にあったが、現在は末森城址と同じ千種区の桃巌寺内で、息子信行とともに供養されている。

東本願寺名古屋別院(古渡城跡)『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 MapNo.7 mapC53 写真53

古渡城趾
古渡城趾


末盛(森)城・桃巌寺織田信秀墓 

末森城本丸跡
末森城本丸跡
末森城跡説明板
織田信秀墓
織田信秀墓

3.光秀、本能寺への進軍ルート

ドラマには出てこなかったが、山城と丹波の境、老ノ坂峠は、備中へ向かうと見せかけた明智光秀が、「敵は本能寺にあり」と馬首を巡らした地点として有名である。
https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1263.html

老ノ坂の峠道は、古来より山陰道の要衝で、丹波の産物を京へ運ぶ人々で賑わったが、現在は峠の北を国道9号が通り、峠道は廃道になっている。

亀岡市のHP「光秀公のまち亀岡・光秀が理想を描いたまち」では、本能寺の変を、「謀叛」ではなく「歴史上最大の下克上」ととらえ、光秀の進軍ルートや日程を詳しく解説している。完全に「麒麟モード」な構成だが、亀岡の皆様は、今年の光秀にはどんな感想を持っておられるだろうか?
https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1267.html

また、小学館サライのサイトでは、丹波亀山城から本能寺まで、光秀の行軍の跡をたどってハイキングするルートが、多くの写真と共に載っていて興味深い。 
https://serai.jp/hobby/1015599

どこにいる家康 第28回 ギャラリー

名古屋城近辺