2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

武田軍と徳川軍が戦っている裏で、こんなことが起こっていたのかとびっくりする回でした。
今回のキーパーソンは、大岡弥四郎、誰?
舞台は、浜松、岡崎、吉田(豊橋)、岐阜、甲府

もくじ
●第20回「どこにいる家康」▼動静
●第20回「どうする家康」の舞台関連マップ
●第20回「どこにいる家康」発展編(by(し)
  1.大岡弥四郎事件
  2.井伊虎松、家臣団入り
●ギャラリー

第20回「岡崎クーデター」▼動静

▼00分 美濃・岐阜城<「ホントに歩く中山道」第4集 №15 mapD>
山の麓の居館。天正元年1573雷鳴とどろく中、ワインを飲む織田信長。酌をする明智光秀。

▼01分 天正2(1574)年
どこかの戦い(犬居城?=浜松市天竜区春野町)で武田軍にやられる家康軍。

▼02分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
「武田軍が諏訪原城(島田市金谷、『ホントに歩く東海道』第7集 №26 mapB32)まで来ている、高天神城(静岡県掛川市上土方嶺向3136)が落ちた」と報告を受ける家康。

▼03分 躑躅ヶ崎館(甲府市)
天正3(1575)年
瞑想する勝頼。「父上の三回忌を終えた。岡崎をとる」

▼03分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
「岡崎東方之衆」と書かれた血判状を囲む岡崎徳川家の家臣たち。

▼04分 ♪音楽「どうする家康メインテーマ~暁の空~」

▼07分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
武田が岡崎に向かっているという報告を受ける、家康。高熱を出す。

▼08分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
戦の準備で慌ただしい城内。
信康と五徳が、互いの義父を罵り合う。
信康は足助城を攻めに行く。山田八蔵が先鋒に、大岡弥四郎は岡崎の留守番を命じられる。
大岡弥四郎に関しては、発展編を参照。

▼11分 岡崎城下<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC>
武田側の間者・望月千代が、地蔵に干し柿を供える。

▼12分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
負傷者が運び込まれ、看病する瀬名と亀姫。
山田八蔵の傷口に薬をつける瀬名に、恩義を感じる八蔵。
五徳が手伝わないので、瀬名が注意すると、「無礼者、吾は信長の娘ぞ」と言い返す。
大岡弥四郎が瀬名に、「岡崎城の造営は自分がやって万全だから安心して」と言うと、「心強いぞ」と瀬名答える。

▼15分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
熱で寝ている家康。「勝頼は恐ろしい」
岡崎への応援として、榊原小平太と本多忠勝、虎松(井伊直政)を送った。

▼17分 岡崎城下<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC>
望月千代が置いた地蔵の干し柿を弥四郎が見つける。食べて、柿の下にあった文を読む。

▼18分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
夜、山田八蔵がうろうろしている。侍女たちが、「八蔵は瀬名に手当てされて、変な気を持ったみたいだから」と促され、部屋へ行く瀬名。
瀬名と亀姫が寝る。
血判状を前に集まり、クーデター決起する岡崎城家臣たち。武田勝頼からの指示を伝える大岡弥四郎。
「今夜、信康と瀬名を殺し、岡崎城をのっとり、勝頼を迎える」

▼22分 岡崎城 クーデターを決行。
大岡弥四郎たちが信康を殺そうとするも、榊原小平太と本多忠勝が守る。
瀬名と亀姫の寝所には、虎松が潜んでいた。
<回想シーン>部屋に行こうとしていた瀬名は、八蔵がすすり泣いているのに気がつき、八蔵からクーデター計画を聞き出す。

▼28分 岡崎城 つかまった大岡弥四郎たち。
牢に入れられた弥四郎ら。「クーデターを起こしたのは、戦がいやだから。家康が信長についていく限り、戦は終わらない。
聞いていた五徳は、「しかと信長につたえる信康どのは厳重に処罰せよ」と。

▼32分 岡崎城が見える山・丘 どこ?
岡崎城を見ていた武田勝頼は、岡崎城からクーデター決行ののろしが上がらないので、浜松へ行くことにした。
武田軍は、足助城(愛知県豊田市足助町)から岡崎へ向かってきたとすると、足助街道沿いの山? 大樹寺の近くの山か? 大樹寺からは岡崎城が見える。岡崎は平地だと思い込んでいたのですが、それは矢作川のそばだけでした。現在の地図だと住宅や建物で等高線が目立ちませんが、明治時代の地図で見ると、等高線が込んでいる山っぽいところがけっこうありました(「勝頼の丘?」)。勝頼はどこから見ていたのでしょう。
岡崎城は25.5m、大樹寺は26mとほぼ標高が同じなのが意外でした。「勝頼の丘?」としたところは、それより高く40-70mです。
<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 コラム40「家康と岡崎 徳川家菩提寺の大樹寺」>

岡崎城と大樹寺、足助街道
岡崎城と大樹寺、足助街道
大樹寺から真南に岡崎城が見える
大樹寺から真南に岡崎城が見える

岡崎城信濃門跡が、足助街道の岡崎起点だと知った。また、塩の道の起点としても重要な拠点だったそうです。門跡を示す石標もあるそうで、そんなものがあったのかと思っていたら、『ホントに歩く東海道』に「信濃門跡」の表記がありました。27曲りのすぐそばです。会社のマップを見たら、増刷に備えてのメモ(これも自分が書いたが)「伊那街道入れる」が貼ってありました。

『ホントに歩く東海道』第10集map№40 信濃門跡は27曲りのすぐ横
『ホントに歩く東海道』第10集map№40 信濃門跡は27曲りのすぐ横

▼33分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
大岡弥四郎がクーデターの首謀者と聞き、驚く家康。
武田軍が岡崎から浜松へ向かっているとの報告を受け、三河吉田城(豊橋市)へ向かうことにした。
虎松を呼び、なぜ武田ではなく自分を選んだのかと聞くと、「殿の話をするときは、民はみな楽しそうだから」と言うと、刀を与え、自分に仕えるようにと命ずる。

▼38分 三河・吉田城<「ホントに歩く東海道」第9集 №36 mapA12>
武田軍が吉田城に攻めてきて、戦う家康。

▼39分 岡崎城下<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC>
瀬名が八蔵に文を託し、城下の地蔵のところに置かせる。千代が回収。

▼40分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
望月千代が訪ねてくる。「お友達になりましょう」と瀬名が誘う。

「紀行潤礼」浜松市井伊谷

<「ホントに歩く東海道」別冊姫街道 №4 mapC56「気賀四ツ角交差点」北 マップ外>

井伊谷城跡<静岡県浜松市北区引佐町井伊谷306>
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/naotora/toha/05kyojyo.html

井伊家初代・共保公出世の井戸< 静岡県 浜松市 北区引佐町井伊谷1989(龍潭寺門前)>

井伊家初代・共保公出世の井戸
井伊家初代・共保公出世の井戸
井伊家初代・共保公出世の井戸
井伊家初代・共保公出世の井戸

龍潭寺(りょうたんじ)<静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989>
井伊家の菩提寺。境内に、虎松(23代直政)の成長を願って母が植えたと伝わるご神木(なぎの木)がある。

龍譚寺
龍譚寺
龍譚寺 井伊家の墓 直政の墓は切れている
龍譚寺 井伊家の墓 直政の墓は写真では切れている

(こ)記録

第20回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。

どこにいる家康20マップ ホントに歩く東海道

『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第9集(舞坂~御油<小田渕>)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)


どこにいる家康20 発展編(by(し))

大岡弥四郎事件がシンプルに描かれ、さらにこの事件が“Z世代新入社員”井伊虎松のインターンシップとしても活用されていた。従来は、家康夫婦の不和と嫁姑の確執につけこみ、弥四郎が築山御前を誘惑して武田内通計画に参入させるというような展開が主流だったと思うが、これまでの家康と瀬名の描き方から見て、今年はこの路線は無いなというのは予想できた。大岡弥四郎のクーデター計画は、あっという間に鎮圧されたが、弥四郎とは関係なく、水面下で動いている瀬名の動向が不穏である。

1.大岡弥四郎事件

今回の大河ドラマでは「大岡」弥四郎だったが、1983年の山岡荘八原作大河ドラマ「德川家康」や、90年代に何度か民放で放映された家康ドラマでは、いずれも「大賀」弥四郎となっている。
正しくは「大岡弥四郎」で、岡崎町奉行を務めていた人物であり、後に名奉行大岡越前守忠相を輩出する大岡一族の一人だった。長らく「大賀」弥四郎と呼ばれてきたのは、三河物語にそう記載されているためだが、これは、三河物語の作者大久保忠教(彦左衛門、忠世の弟)が、譜代の忠臣である大岡氏を慮り、名前を変えたといわれる。さらに大久保忠教は弥四郎の身分についても、もっと低い身分であったかのように書き換えている。(平山優『德川家康と武田勝頼』幻冬舎新書)

大岡氏は、三河国八名郡大岡郷(現・愛知県新城市黒田字大岡)を拠点とし、初代の大岡忠勝が松平広忠の臣下となり、その後代々德川家に仕えた。大岡忠相(越前守)は八代将軍徳川吉宗の時代に江戸南町奉行を長く務め、西大平藩1万石の大名に取り立てられた。また大岡忠光(出雲守)は九代将軍家重の言葉を唯一聞き取れる人物として信任を得、岩槻藩2万3000石を領した。西大平藩大岡家、岩槻藩大岡家のいずれもが明治維新まで続き、維新後は両家とも子爵家に列した。

ちなみに、何度も主が替わった掛川城の城主たちの一人北条氏重は、徳川家康の異父妹多却姫(久松三兄弟の妹)が保科正直に再嫁して産んだ息子だが、彼の娘が大岡忠高に嫁ぎ、忠相の母となった。つまり北条氏重は忠相の母方の祖父で、忠相の曾祖母は家康の異父妹だったということになる。

こうした栄光ある一族の先祖に謀反人がいたという事実は、やはり伏せておこうとする力が働いていたのかもしれない。

岡崎に蔓延しつつある浜松衆へのやっかみ・織田信長の圧力に対する嫌悪・家康の統率力への不安などを利用して、不満分子を抱き込み、一発逆転武田への寝返りで勝ち組になろうと狙っていた大岡弥四郎だったが、仲間の翻心により、あえなく計画は挫折する。
捕らえられた弥四郎は岡崎から浜松に連行され、浜松城下を引き回された後、岡崎に戻って処刑されたが、浜松への途中、根石原で、妻子が磔刑に処せられるのを見せられた。この根石原という所は、弥四郎が「家康・信康父子の首級をとったら念じ原(根石原)にかけてやろう」と企んでいたところだった。この「念じ原」ってどこでしょうと、考証の平山氏が、昨年8月にTwitterで質問し、地元の方が答えていた。

根石原には、信康が初陣の時に祈願して軍功を上げたという観音堂がある。

根石原観音堂『ホントに歩く東海道』第10集 MapNo.39 mapC28 写真28

根石原観音堂
根石原観音堂
根石寺 観音堂の由来
根石寺観音堂の由来

西大平藩陣屋跡 『ホントに歩く東海道』第10集 mapB18 写真18

西大平藩陣屋跡
西大平藩陣屋跡

2.井伊虎松、家臣団入り

どういういきさつがあったのかわからないが、井伊虎松は、浜松から急遽、岡崎へ駆けつけたクーデター鎮圧軍団の中にいて、事情もあまりわかっていないまま、本多忠勝や榊原康政と共に奮戦していた。
6年前の大河ドラマ「おんな城主直虎」はじめ通説では、虎松は三河の鳳来寺に預けられ保護されていたが、天正2年(1574)、龍潭寺での父井伊直親の13回忌法要をきっかけに浜松に戻り、母が再嫁していた松下家の養子を経て、德川家に士官したとされる。
したがって、天正3年の岡崎クーデターでインターンシップをやっていたというのも時期的に符合しないわけではないが、今回のドラマでは、その前から鳳来寺を抜け出し、浜松で半グレ集団(?)に入っていたように見える。

虎松の登場は、15回の最後で突然、家康に飛びかかった一瞬を別にすると、5回目となる。
第16回では、現状に対する不満から短絡的にテロリズムにはまった少年。一方的に德川家に痛罵を浴びせていた。
第17回では、「戦見物してやるんだ♪」などと、現実を舐めくさった態度をとっていた。
第18回では、三方原合戦の戦場で凄惨な戦いの一部始終を目の当たりにし、家康と思われる遺体(実際には身代わりの夏目吉信だったのだが)が運ばれていく様子も目撃した。
第19回のラストでは、「団子の金を払わずに逃げ、追いかけられて銭を取られた」「恐怖のあまり、脱糞しながら逃げた」と、浜松の庶民たちにさんざんディスられる家康の噂を耳にしながら、複雑な表情を浮かべていた。
それぞれの登場時間は短いものだったが、こうして積み重ねられることによって、虎松の意識の変化と成長ぶりが視聴者にも伝わり、説得力があったと思う。この積み重ねの上に、「民に恐れられる主君より、民を笑顔にする主君のほうを選びたい」という、全く新しい価値観が提示された。

これまで、織田も武田も德川も、「主君は強くあるべし」が疑いの余地のない共通認識だった。「弱き主君は害悪、滅びるが民のため」という武田信玄の言葉、そして信玄を超えてさらに強くなろうとしている勝頼を脳裏に浮かべつつ「自分の弱い心はここに置いていく」と瀬名に伝え、家康は戦場に向かう。
本多忠勝・榊原康政ら若手家臣たちも、「弱く頼りない殿を自分たちが補佐して、少しでも強い主君に近づける」というスタンス。大岡弥四郎たちのクーデターの理由も、「民に恐れられる強い領主」という基準において、明らかに武田に劣る家康について行ってもメリットはなく見捨てるべき、というもの。忠臣も謀反人も、考え方は共通していたわけだ。
ひとり井伊虎松がその認識を飛び越え、令和時代にも通ずる、新しい主君と家来・領主と領民の関係を示してみせた。
強いことすなわち、人に恐れられることなのか? 
この疑問は、今後の武田・織田との関係を経て、家康が天下人に近づいていく中、様相を変えつつ何度も出てくると思われる。

さぬき屋敷公園 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.2 mapA8 写真8 
井伊虎松が預けられていた鳳来寺の門が残っている。

さぬき屋敷公園 鳳来寺の門
さぬき屋敷公園 鳳来寺の門

井伊虎松に比べると、大岡弥四郎の突然の登場と退場は、連続刑事ドラマの犯人役のようで、やや興ざめだった。
「どうする家康」は、通説を新工夫で処理(前回のお万の“折檻”セルフ演出や、浜松の民に拡散される銭取り・脱糞フェイクニュースなど)しつつ、最新の学説にも目配りしている所は良いのだが、一話完結のゲスト(氏真夫人・お葉・阿月・お万など)と、レギュラー陣とが、はっきり分かれてしまい、民放ドラマ臭が強いのが惜しい。
大岡弥四郎も、少なくとも前回には登場して、有能な家臣の仮面の下で、岡崎衆の不満を取り込み活動する様子をちらりとでも見せてほしかったし、奥三河の奥平氏らへの調略活動についても、多少は触れておいてほしかった。
いよいよ来週からは長篠合戦、そして築山御前・信康の事件がどのように描かれるのか、全く予想がつかず、目が離せない。

どこにいる家康 第20回 ギャラリー