繁栄した荏田宿をめざして

みなさん、こんにちは。
とうとう梅雨入り、ジメジメといやぁな季節が到来です。
雨が続くのは農作物にとってもいいのですが、最近はやたらと大雨も多く、みなさんも充分に気をつけてくださいね。

では、スケッチ紀行 前回の続き5日目の行程その2。
ちょっと怖い名前の坂道を通って荏田宿へと向かいます。

*因みに、各スケッチはクリックすると拡大で見られますよ。

*ウォークマップ大山街道/四辻ー皆川園ーうとう坂ー馬頭観音の碑ー血流れ坂ー牢場谷ー横浜市営地下鉄高架線ー不動滝ー老婆鍛治山不動堂ー番小屋跡ー鍛冶橋と早渕川ー一里榎跡地(宿説明板)ー荏田下宿庚申堂ー真福寺ー布川橋ー荏田中宿常夜灯ー高札場跡(宿説明板)ー荏田城址ー小黒谷ー庚申供養塔ー地蔵堂ー江田駅

大山街道スケッチ紀行13-1

ちょっと怖い名前が続く・・・

楽しいキノコ樹たちと名残を惜しみながらですが、先へ進むとしましょう。
すると、小さな四辻があらわれます。そこを左側へ行くと、キノコ樹を育てている「皆川園」が見えてきます。ここには以前、大山街道の立場が置かれていたとか。
みかんの季節には、この前で袋詰めの採りたてみかんが並ぶのでしょうね。その時にもう一度訪ねてみたいものです。

大山街道スケッチ紀行13-3

ここから緩いカーブの坂道「うとう坂」
先へ行く前に、右手にある階段を下りますと一段下の道に「馬頭観音の碑」があります。
以前は坂の先にあった馬頭観音を集めて祀っていたようで、その跡らしき敷地もあるのですが、なんだか殺風景な感じで柵が残り、碑が建っているだけです。

大山街道スケッチ紀行13-2

結局馬頭観音はひとつもないわけですから・・・。
開発地土地区画整理事業のため、この地に移転安置とありますけれど・・・いろいろ疑問が残りますね。

碑をあとに、また元の「うとう坂」に戻って進むと、段々傾斜が急になっていきます。
その辺りはなんと「血流れ坂」という、ちょっと怖い名前がついています。
この坂を下った辺りは「牢場谷」と呼ばれた地区(「牢場谷」と書いてろうばやとと読みます)。
昔は犯罪人の牢屋があったところで、処刑の際に赤い血が流れたからだと言われています。
またその処刑を見た人が「うといものを見てしまった・・・」というのが「うとう坂」の起こりだとも伝えられているようです。つまり異様で恐ろしいものを目にしてしまった・・・ということですね。

大山街道スケッチ紀行13-4

本書『ホントに歩く大山街道』には、この辺りが鉄分を多く含んだ土地のため、雨などで融けて赤茶色の水が流れるためで血ではないとあります。
もちろんその方が安心で、当て字やシャレで地名に意味を持たせることもよくありますけれど、そんな呼び名があったということは事実ですね。

さぁ、どんどん道なりにその「牢場谷」を下っていきます。
途中には涼やかな葉音がする竹林(中はちょっとした遊歩道みたいな感じになっている)などもあって、昔は深い林になっていたのだと想像できます。

大山街道スケッチ紀行13-5

竹林を回りこんで進むと「横浜市営地下鉄3号線高架」が見えてきます。
そう言えば、横浜市営地下鉄は結構地上を走っていますよね(都筑区の辺りはほぼ地上)。
実は、“地下鉄”は通称に過ぎず、本来は「横浜市高速鉄道」というのが正式名称。鉄道をつくる際には地形や都市環境、振動、騒音のほか地下にある埋設物なども加味して路線を考えるのだそうですが、建設コストが膨大のため横浜市では地上の建設が可能な場所では地上に路線をつくるらしいです。なるほどね!

早渕川から布川へ、いよいよ荏田宿に入る

大山街道スケッチ紀行13-6

そして程なく進むと、緑に覆われた小さな滝が現れます。
これが「霊泉・不動滝」。雨乞いや病気(喘息や風邪など)に霊験があるらしく、汲みに来る人も多いそうです。“横浜の名水七選”にも選ばれていますが、溜まった湧水の池はあまりきれいな感じはせず、ちょっと残念。

その隣にある急な階段を上がると「老馬鍛治山不動堂」
元は約300年くらい前、大久保家の守り本尊として建てられたもので、後に老馬鍛治山に寄贈され集落の守神として現在も尚信仰されています。

大山街道スケッチ紀行13-7

そして、この先100mほどで早渕川に出ます。
この川を渡るのには、更に先の「鍛冶橋」まで行くのですが、昔はここに橋が架かっており、1862年(文久2)生麦事件がきっかけでつくられた「番小屋」があったようです。対岸の道の方が街道らしいので、橋を渡ってからそちらを歩きなおしてみました。

早渕川流域にはおもしろい伝説がたくさんあるそうで、先ほどの「霊泉・不動滝」早渕川に通じる流域伝説のひとつ。約30万年前に多摩丘陵が出来た際に、その丘陵に降った雨によって誕生したと言われる早渕川
単調な川と違い、早瀬や淵がある川にはいきものたちが暮らしやすいのだそうで、私たちが歩いている時にも、カルガモや魚たちが優雅に泳いでいました。

大山街道スケッチ紀行13 カルガモ

「鍛冶橋」を過ぎて引き続き街道の趣を味わいながら緩やかなカーブを曲がると「荏田下宿庚申堂」が見えてきます。宿の道標として親しまれ荏田下宿の女性たちが1793年(寛政5)に建てたと説明板にあります。この向かい側に「荏田宿」の目標となる「一里榎」があったようですが、残念ながら今 その姿を見ることはできません。遠くからでも目立ったでしょう。街道筋には所々に目印となるものがありますね。

さぁ、いよいよ「荏田宿」やって来ました。大山街道起点からは約24km。
多くの旅人が、江戸を旅だって最初に泊まるのがこの「荏田宿」だったと言います。江戸初期から宿駅に指定されていましたが、1821年(文政4)や1952年(明治27)の大火によって当時の面影が失われてしまったようです。
宿は西に向かい下宿、中宿、上宿に分かれ、1863年(文久3)頃往還筋には35軒の宿と店があったと言われています。店として今でも残っているようなこともありませんでした。

大山街道スケッチ紀行13-9

宿の面影はなくても、その趣はなんとなく感じられるこの街道あたりは、今や歩く旅人よりめっぽう車の往来が激しく歩道もないので、雰囲気を味わいつつ歩きはするものの ちょっと気をつけないといけません。

さて、ここで下宿の庚申塔から二つ目の十字路を左に入って布川「布川橋」で渡り「真福寺」へ立ち寄りますが、その前にその布川ほとりにある癒しのカフェに寄ってみましょう。

大山街道スケッチ紀行13-10

ログハウスで目立つそのカフェは「ぐらすうっど」
エントランス前の階段横には、地域の新鮮野菜を売っています。店内もぐるっと木の香りが温かい雰囲気を盛り上げていますし、1枚もののテーブルなどインテリアもなかなかGood!
しばし旅の疲れを癒します。

大山街道スケッチ紀行13-11

背の高い大きな樹が目印。「真福寺」は真言宗豊山派の寺院で、創建年代は不詳ですが法印定譽の墓があったことから江戸時代中期には創建していたといいます。山門脇には「地蔵尊と庚申塔」が立っています。本来は荏田上宿にありましたが、1921年(大正10)に観音堂のあった当地に移転したようです。

では、また街道・荏田宿へと戻りましょう。
そのまま進み中宿へ入ると、民家の中に「荏田宿常夜灯」。燈の中台には“秋葉山”、竿に“常夜燈”と刻まれています。
相変わらず狭くて歩きにくい街道が、先でR246にぶつかります。ここから先が荏田上宿
R246を渡り最初の四つ角に、JA近くで見た説明板が再び登場。ここには以前「高札場」があったそうです。
普段は車でよく通るR246の荏田。思わず「あぁ、ここか!」と唸りました。車でひょいと通るのとじっくり歩いて見るのとでは、全く違う景に出会いますね。

ところで、みなさん ここで荏田江田はどうなっている?のでしょう・・・って気になりませんか?
まもなく着く駅は「江田駅」、でも街の名前は「荏田」ですよね。
元々、駅名が決められた背景は、昔住んでいた豪族・江田小次郎によって辺りは江田と呼ばれていたらしいから。その後、地名が変遷する中で荏田に変わっていったそうですが、駅が出来た当時は、当用漢字に<荏>がなかったため旧名の「江田」を使ったそうです。

大山街道スケッチ紀行13-13

布引橋を渡ると、この辺りは「小黒谷」。大きな農家が軒を並べ街道の雰囲気もそこそこ感じられるその後にこんもりと緑いっぱいの台地があります。これが「荏田城址」

大山街道スケッチ紀行13-12

「荏田城」は平山城で別名「荏田城山」といい、古鎌倉街道矢倉沢往還(大山道)が交わる交通の要所にありました。
源義経の家来だった江田広基の居城(館)があったとされています。戦国時代には小田原城の北条氏の領地となっていて、茅ヶ崎城や榎下城などと小机城の支城に組み込まれていたとか。
現在は私有地のため立ち入り禁止になっていますが、周囲を観察すると堀や土塁のあとなどもわかります。東名高速の西側から高速を渡る橋があるので、近くまでは行かれます。
私含め城好きには、台地の周囲などを回ってみればそれなりの発見ができるので、おもしろいです。

大山街道スケッチ紀行13-14

「荏田城址」を右に仰ぎながら進むと、その先には「江田駅」です。この街道はなかなか趣があり、すぐ横をR246が走っていますけれど、しばしのんびりと旅人の気持になって歩みを進められます。
その前に、洋館がある大きな敷地にとある説明板を見つけました。
「横山医院跡」とあります。調べてみると、先祖代々続く医療家系として今なお病院の経営をしていて(現在5代目)、開業は1856年(安政3)横浜開港の年だそうです。
説明板には里親斡旋の地とありますが、社会貢献として初代の横山三省は「福田会」の委託を受け、里親委託事業を行っていたようです。説明板には、当時里親を見つけたいと願うたくさんの子ども達が写る写真もありました。
今は地域のかかりつけ医として多くの人たちの健康を見守っているとのこと。
大山街道を歩いて、こんな発見もあった刺激的な一日でした。

最後は田園都市線東名高速がぶつかる立体交差が空を覆いますが、その前R246にぶつかる所・・・それもフェンス内の草むらの中・・・に「庚申供養塔」があります。
そして、本日終点の「江田駅」。以前は駅前交差点に「地蔵堂」があったようですが、残念ながら現在はどこかに移されたのかその姿はありません。
さて無事に「江田駅」に着いたところで、今回は終わりましょう。
あぁ、今回もよく歩きました!!

次回スケッチ紀行は6日目のその1
「江田駅」から青葉台、田奈駅へと向かいます。大山も大分近づいてきましたよ。実際の大山街道歩きは既に伊勢原。大山の迫力も感じながら辿っています。
スケッチは時間がかかるので後追いですが、これからも、どうぞお楽しみに。 みなさんのご意見・ご感想もお待ちしています。

岡本和泉/Izumi Okamoto

さまざまな「デザイン」を通して、社会や地域、環境、食、観光、ものづくり、文化などをつなぎ 新たな展開をするプロデューサー&クリエイター。 2015年からは”暮らしのデザイン”の一部として、地域に密着し日々の楽しさを広げる 地域独自のイベントや企画、地域活動も手掛け、長年住む世田谷の文化や知的資源、 自然を活かした地域ツーリズムなども多く開催している。
http://www.imincosmos.com https://www.facebook.com/Setayui/

2022年8月、新たに合同会社Produce any Colour TaIZを設立。従来の企画デザインやプロデュース業などに加え、画像技術による画像処理分野に手を広げ、文化財や古い写真の修復・保存、天文写真再現、画像技術開発、講座なども展開する。
https://taiz.jp

【参考図書】
中平龍二郎著『ホントに歩く大山街道』(2007年、風人社)
改訂新版ウォークマップ『ホントに歩く大山街道』(2021年、風人社)
中平龍二郎+編集部著『キャーッ! 大山街道!!』(2011年、風人社)

ウォークマップ ホントに歩く大山街道
キャーッ! 大山街道!!