2023年のジョン・フォード没後50年に合わせ、ジョン・フォード関連の話題が多くなってきています。『ジョン・フォードを知らないなんて』(2010年、風人社)の著者、熱海鋼一さんにその魅力を語っていただきました。

今回は、その第15回目です。
※赤字「」は映画作品名

熱海鋼一 ジョン・ウェイン

フォード復活15  作家たちの評判3 戦後の復帰 フォードと小津

第二次世界大戦が始まり、ジョン・フォードはミッドウェイ海戦など戦場の記録に専念した。小津安二郎は軍の指令で派遣されたシンガポールで、英軍から接収したハリウッドの映画100本余を見続けて過ごした(ジョン・フォード復活13)。今回はその続きです。

フォードはOSS(戦略情報局、後のCIA)の野戦撮影隊にあって大佐に昇格、アメリカを信じ、戦場の記録こそ自分の任務と、ハリウッドからのオファーを拒否してきた。しかし、ハリウッドの映画会社大手のMGMは、フォードへ執拗にオファーを続けた。フォードは、かの史上最大の作戦、ノルマンディ上陸作戦で、魚雷艇の指揮を執るジョン・バルクリー大尉の船に5日間乗り、厳しい戦いを間近に見ると共に、もの静かだが威厳のあるバルクリーの人柄に惚れこんでいた。(『ジョン・フォード伝』)

映画の主人公は、そのバルクリーの3年前のフィリピンでの戦いを描いている。フォードは引き受けた。フィリピン戦線で魚雷艇は活躍するが、日本軍の猛攻に晒され、マッカーサー司令官もバルクリー大尉(映画ではブリックリー大尉)も現地を去り、兵士たちは残された。アメリカ軍の敗走を描いた「コレヒドール戦記:原題They Were Expendable.彼らは消耗品だった」、フランスでのタイトルは「Les Sacrifies・犠牲」(1945)であった。

コレヒドール戦記、犠牲

原題は意味深長なタイトルだ。Theyは、この映画で活躍する高速魚雷艇PTボートとも取れるが、戦う兵士たちを指しているところに大きな意味を持つ。フィリピンに残された多くの兵士たちは日本軍の捕虜となり、戦史に残る無残なバターン死の行進で、多くが命を落とした。映画のタイトルとしては、 “彼らは戦争における使い捨ての消耗品だった“のかと問いかけ、否、尊い犠牲を払った兵士を称えるという反語的な意味が込められたものだ。アメリカという戦勝国の誇りと余裕があるから、その問いかけが成立したと思う。しかし、その問いは、今、戦乱が続く世界で、いっそうに重い。戦う兵隊たちは、確かに戦争を起こした権力の使い捨ての消耗品でしかないのが見て取れるからだ。

この映画「They Were Expendable」はアメリカ軍の敗走という内容のため、アメリカは日本での上映を禁止、日本が独立した2年後の1954年、制作から9年後の日本公開となった。当時の日本では、旧日本軍の残虐非道を告発する文学や映画が作られていた。飢えのため人肉を食う欲望に晒される敗残兵の無残な姿『野火』(1951 大岡昇平)、軍内部の残酷な非人間性を暴く「真空地帯」(1952 山本薩夫 原作野間宏)、沖縄の学徒隊が集団自決に追い込まれる、あってはならない悲劇「ひめゆりの塔」(1953 今井正)が作られた。

兵士たちの戦死では、餓死者が一番多い。まさに兵士たちは皇国日本の使い捨ての消耗品、者でなく物でしかなかった。ずばり日本軍批判にもなりかねないこのタイトルでは、題名だけが一人歩きしてしまう。しかし、フランスでのタイトル”犠牲“は、映画の内容をよく表しているが、客受けしない。アメリカ軍のコレヒドール島での戦いを”戦記”としたのは、単に勇壮を連想させない響きを持つ題名になったと思う。

「コレヒドール戦記」には、フォードの野戦撮影隊での戦争体験が大きく反映されている。戦場は決して英雄的でも勇壮でもない。敗北でも、そこにある栄光を、無名の戦士たちへの鎮魂歌のように見つめ、抑制が効いた演出が惹きつける。

しかし、映画が封切りされる前に第二次世界大戦は終了、戦勝に湧くアメリカで、いまさら敗退するアメリカ軍の話など見たくもなかったのだろう。評価も観客動員も芳しくなかったが、近年スピルバーグやマイケル・チミノなどは高く評価し、その作品価値は見直されるようになった。

一方、小津安二郎は、1945年8月15日の敗戦をシンガポールで迎え、民間人捕虜収容所に抑留され、半年後に帰国した。

長屋紳士録、小津安二郎、東京物語

小津は、1年休養した後で「長屋紳士録」(1947)を撮る。たとえ懐古趣味といわれても、そこには小津らしさがあった。アメリカに占領された日本は、軍国主義を全否定され自由な民主主義の体制に変わった。映画界もその変化に呼応し、戦時下では出来なかったテーマの作品が多く作られた。例えば、黒澤明の戦後第一作は「わが青春に悔いなし」(1946)。実際にあった京都大学の滝川教授への思想弾圧とゾルゲ事件をテーマにし、裏切りへの弾劾と自由への賛歌を描いた。若き黒澤自身が解放された歓びを体現したような力強い作品だ。

しかし、小津は違った。戦地に招集される前の「一人息子」(1936)「戸田家の兄弟」(1941)「父ありき」(1942)で、家族崩壊、庶民的な親子の人情を描いていた戦前の立ち位置に戻り、同じ目線で「長屋紳士録」をつくり、自分を確かめた。戦災孤児を預かる長屋の住人の人情話だが、小津らしい戦後へのウォーミングアップ、心境映画への準備運動にも見えた。

しかし、復帰2作目は、戦争の悲劇を見つめる「風の中の牝鶏(めんどり)」(1948)だった。戦後、夫の復員を待つ妻が困窮し、病気の子供を医者にみせるために、売春をしてしまう。帰還した夫はそれを許せず、妻を階段から突き落とす。小津にはめったに見られない激しい描写だが、敗戦後の家族の苦悩と対峙するために、必要な通過点だったのだろう。

小津は戦時中、シンガポールでフォードの「怒りの葡萄」などを見ていたが、1947年に日本で公開された「荒野の決闘」を見て、心境を映し出す余裕がある演出に大いに感心した(ジョン・フォード復活13)。

小津はその後、前作「風の中の牝鶏」と打って変わって、親子の情、崩壊する家族の心境をしみじみと描く、「晩春」(1949)、「麦秋」(1951)、「東京物語」(1953)、をつくり、世界でも希有な表現となる小津調を確立、芳醇自在な作品を生んでゆく。

小津が世界で広く評価を得るようになるのは、現役中に評価を受けた溝口健二(復活14)とは違い、死後半世紀も経ってからだった。今でも海外に小津ファンは多い。その代表格のヴィム・ベンダースは「PERFECT DAYS パーフェクト・デイズ」(2023)を、アキ・カウリスマキは「枯れ葉」(2024)を作っている。

パーフェクトデイズ、枯れ葉

小津のドキュメンタリー映画「東京画」(1985)を作ったヴィム・ヴェンダースは、「PERFECT DAYS」のインタビューで「たしかにちょっと理想化しすぎているかな、と思うところもありますが、これは敬愛する小津安二郎監督の影響が大きいかもしれません。平山という名前は『東京物語』での笠智衆さんの役名なんです。それだけでなく、小津の遺作『秋刀魚の味』での役名も平山です。ある種、彼らのレガシーを引き継ぐ思いも込めました」と語っている。静かに淡々とした繰り返しの佇まい、映画には小津を思わせるしみじみとした感触がある。

ヴェンダースは、また大のフォードファンでもあり、「都会のアリス」(1974)のワンシーンにフォードの死亡記事を載せ、「ことの次第」(1982)では映画館にフォードの傑作『捜索者』の看板を取り付けているシーンがある。

小津を大師匠とたたえるアキ・カウリスマキは、小津のカラー映画で多くのカットに赤色のものがどこかにある不思議に惹かれている。「枯れ葉」では、小津作品の片隅にある赤いヤカンへのオマージュとして、赤い消火器を出したそうだ。しかし、小津と違い「カウリスマキは撮影ワンカット主義、本番一発勝負で、役者に本は読んでもあまり練習しないで来てといっている」(アルマ・ポウスティ主演女優インタビュー 朝日新聞)。

一方小津は、自分が気に入るまで仕草まで含めて何回もテストを繰り返したという。「テストを最低30回ぐらいやってらっしゃる。ベテランの方でもこんなにテストするんだと、テストテストでね、絞られました。小津先生の独特の美学と、独特のリズムがありますから。それにはまらないと、何回もテストして」と、小津の遺作「秋刀魚の味」(1962)に主演した岩下志麻は語っている。演出は相反しているが、醸す空気感は、両作品とも溶け合って見える。アートの奥行きの妙だろう。

フォードも撮影ワンカット主義で、必要最小限のカットしか撮らなかった。役者が演じる新鮮さを尊重したと言うが、それにはもう一つの大きな理由があった。当時ハリウッド大手会社のシステムでは、編集権はプロデューサーにあった。監督は同じシーンをアングルやサイズを変えて何カットも撮り、プロデューサーが編集を決めるのが当たり前だった。編集次第で映画は変わる。監督の意図など無視される。フォードがワンカット主義を貫いたのは、編集権がなかった監督としての戦いだった。他にカットがなければ、そのカットを使うしかないからだ。

荒野の決闘、逃亡者

フォードは戦争終結の翌年、自分のプロダクション、アゴシー社を設立。ハリウッドに君臨し、映画制作の全権を握るプロデューサーシステムには、ほとほと嫌気がさしたのだろう。
しかし、戦後二作目は、フォックス社との最後の契約荒野の決闘;原題My Darling Clementine・愛しのクレメンタイン」(1946)であった。フォードはディレクターズ・カット版を会社に納めるが、やはりというか、「怒りの葡萄」(1940)などで組んだプロデューサーのザナックは、フォードには無断で勝手に作品に手を入れ、ラストにキスシーンを足すなどした。

そういうことがあっても、「荒野の決闘」はフォードタッチに満ちた作品だ。静かに平和を希求するフロンティアの詩的な風情があり、フォードの傑作の1本との評価を得た。フォードは、決闘(争いごと)でなく愛しい人を愛せる時代の到来に、思いを馳せていたと僕は思う。原題通り、映画は「愛しのクレメンタイン」なのだ。この静謐な佇まいが、アリ・カウリスマキの「過去のない男」(2003)のシャイな感性のぬくもりと呼応しあっていると思うのは、僕だけだろうか?

フォードはザナックが仕上げた完成版を見もしないで、自分のプロダクションの第一作の準備に精力を注いだ。

その第一作は、映画「第三の男」の原作者として有名なグレアム・グリーンの『権力と栄光』。主人公である司祭の行動があまりに過激で、原作のままではセックス関係が映画コードに触れるため、大幅に修正、厳しいカトリック追放に晒された国に救世主が現れる象徴的な宗教映画「逃亡者」(1947)をつくる。大手では絶対に通らないこの企画を、自分のプロダクションの第一作に選んだ。

エミリオ・フェルナンデス

「逃亡者」は舞台となるメキシコのスタジオとロケで作られた。その制作を担当したのは、後に「ワイルドバンチ」(1969 サム・ペキンパー)のアパッチ将軍を演じたエミリオ・フェルナンデスで、フォードを崇拝していた。ロサンゼルスで行われたフォードの一周忌に、メキシコで「ガルシアの首」(1974)を撮影中だったが、ペキンパー監督と共に撮影を中断し出席したほどだ。

フェルナンデスは、当時「Maria Candelaria」(1943・日本未公開)でカンヌ映画祭のパルム・ドールを受賞したメキシコの大監督だった。その作品の主要メンバーが「逃亡者」に起用された。カメラマンはガブリエル・フィゲロア(後にルイス・ブニュエルのメキシコでの映画「ナサリン」(1959)、「皆殺しの天使」(1962)などを撮る)、主演女優のドロレス・デル・リオとペドロ・アルメデスを重要な役に抜擢、3人ともフォードのお気に入りとなった。

渾身の映像づくりは印象的だが、仕上がりは堅苦しく、主演のヘンリー・フォンダは右往左往するだけで浮いていて、テーマが戦後に合ったかどうか僕は疑問に思う。結局、観客からそっぽを向かれ、おおこけ。プロダクションは多大な借金をかかえた。

意欲に満ちた「逃亡者」の興行的失敗に懲りてか、プロダクション二作目は利益を上げるため、得意分野の西部劇を選んだ。こうして作られた騎兵隊三部作の一作目「アパッチ砦」(1948)は大当たりとなった。(フォード復活11

アパッチ砦、黄色いリボン、三人の名付け親

しかし、「アパッチ砦」は、砦の日常を描きながらも、単に娯楽を狙った西部劇ではない。インディアンを蔑視し強引に戦いを挑み、隊を殲滅させてしまう騎兵隊指揮官を描く。ラストの戦いのシーンは、インディアンの正当性と誇りを描きこんで圧巻だ。騎兵隊三部作の中でも最も内容の濃い作品と思う。

「アパッチ砦」でアメリカ開拓がインディアンの大地を奪ったことを示したフォードは、二作目の「黄色いリボン」(1949)ではアメリカ建国の最前線を担う騎兵隊を郷愁たっぷりに美化した。三作目「リオグランデの砦」(1950)は、最も娯楽的でアクションも多いが、騎兵隊がインディアンを追って国境侵犯することを正当化した。このフォードの右傾化は、アメリカの戦後の在り方を反映しているように見える。一方で、砂漠で生まれた赤子を命がけで里親に届ける心温まる「三人の名付け親」(1948)、「幌馬車」(1950)では、ささやかな庶民たちのフロンティアの正義を詩情豊かに語った。いずれにせよ、娯楽映画ファンにとって、フォードが西部劇を連発してくれたのは嬉しいことだった。

捜索者、浮草、リバティバランス

小津はカラー映画になると、心境という独自のセンスを優雅に諦観にまで深めて表現した。「浮草」(1959)、「小早川家の秋」(1961)、「秋刀魚の味」(1962)など、情緒的な心の振幅に磨きをかけ、日本そのものを描いていった。

「僕は豆腐屋だからせいぜいガンモドキは作るけど、カレーだのトンカツつくれったって旨い物が出来るはずがない」“作品がいつも同じ”という批判に向けた小津の名言だ。

一方フォードは、「捜索者」(1956)、「バッファロー大隊」(1960)、「馬上の二人」(1961)、「リバティバランスを撃った男」(1962)、「シャイアン」(1964)などの西部劇で、フロンティア精神の闇にまで深く入り込み、アメリカそのものを描いていった。

「私の名はジョン・フォード、西部劇を作る男だ」(フォード復活5)。赤狩りに対抗したときの自己紹介である。

次回は、「フォード映画の楽しみ」です。

熱海鋼一(あつみ・こういち)

1939年生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。映画・テレビのドキュメンタリー編集・フリー。 「The Art of Killing 永遠なる武道」(マイアミ国際映画祭最優秀編集賞)、「矢沢永吉RUN & RUN」「E. YAZAWA ROCK」、「奈緒ちゃん」(文化庁優秀映画賞・毎日映画コンクール賞)、「浩は碧い空を見た」(国際赤十字賞)また「開高健モンゴル・巨大魚シリーズ」(郵政大臣賞、ギャラクシー賞)、「くじらびと」(日本映画批評家大賞)、ネイチャリング、ノンフィクション、BS・HD特集など、民放各局とNHKで数多くの受賞作品を手がける。

twitter(熱海 鋼一) @QxOVOr1ASOynX8n

熱海鋼一著『ジョン・フォードを知らないなんて シネマとアメリカと20世紀』(2010年、風人社、3000円+税)

もくじ
https://www.fujinsha.co.jp/hontoni/wp-content/uploads/2017/07/fordmokuji.pdf

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