2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

柴田勝家を滅ぼした秀吉は信長の次男・信雄を安土城から追放し、天下人への道を進む。信雄は家康に泣きつき、家康は秀吉を倒す決意をした。
舞台は、浜松市、大阪市、岡崎市、清須市、大垣市、犬山市、小牧市

もくじ
●第31回「どこにいる家康」▼動静

●第31回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第31回「どこにいる家康」発展編(by(し)

  1.酒井忠次の死亡フラグ詐欺と庄内の大発見
  2.織田信雄のイメージチェンジ
  3.池田恒興と美濃大垣
  4.犬山城と小牧山城

●ギャラリー(中山道垂井の中山道・美濃路追分と犬山周辺)

第31回「史上最大の決戦」▼動静

00分 <回想>北ノ庄城落城

01分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

03分 
天正11(1583)年6月、家康は石川数正を、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り天下を取った秀吉に対して祝いの挨拶へ向かわせた。

04分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26、「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康は、髭を生やしている。
数正には、秀吉の祝の品として、初花肩衝(信長の形見の茶器)を持たせたと知り、家臣たち文句を言う。

浜松城
浜松城

06分 大阪城<大阪市中央区大阪城『ホントに歩く東海道』第17集№69 mapA コラム68「大阪城」>
数正は秀吉にお祝いを申し上げる。「そなたのような家臣がほしいのう」と秀吉に言い寄られる。
初花をもらった秀吉は、もったいないと涙を流す。

大阪城
大阪城

09分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
数正、秀吉の様子を家康に報告。「仲良くやろう」と言っていた。

09分 岡崎・石川数正の屋敷<愛知県岡崎市>
鍋という名前の妻に迎えられ、疲れている数正。

10分 大阪城<大阪市中央区大阪城『ホントに歩く東海道』第17集№69 mapA コラム68「大阪城」>
安土を秀吉の軍隊に追い出された織田信雄は、秀吉に文句を言いに来る。
秀吉は「伊勢、尾張、美濃の三国のみ治めろ」と言うと、信雄は怒って帰る。

12分 尾張・清須城<清洲城=『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 №6 mapB28>
家康、信雄に呼び出され「秀吉から天下を取り戻して」と泣きつかれる。
家康「信長公とはここ清須で、何をおいても織田・徳川は助け合うとの盟約を結びました。秀吉と差し違える覚悟はあるか?」
信雄「無論」

清洲城復元天守
清洲城復元天守

14分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
酒井忠次と石川数正、今、秀吉と戦うのはよくないと話し合う。

15分 浜松城
家康、薬を薬研でゴリゴリ引きながら、瀬名のことを思い出す。

15分 浜松城
家康、
井伊直政に、「武田軍を手なづけておけ」。
榊原康政に、地図を渡して「考えておけ」。
槍の練習をしている本多忠勝は、殿の天下取りを助けるのはこの上ない喜びと言う。

15分 浜松城での評定
本多正信、地図を前に説明する。
我ら5か国(信濃、甲斐、駿河、遠江、三河)
信雄様3カ国(伊賀、尾張、伊勢)
秀吉勢20カ国(越中<佐々>、飛騨<姉小路>、加賀<前田>、越前<丹羽>、美濃<池田>、近江、山城、河内、大和、和泉、摂津、若狭、丹後、但馬、因幡、伯耆、美作、備中、備前、播磨<羽柴>、丹波<羽柴>、讃岐<長宗我部>、阿波<長宗我部>
信長の家臣だった池田恒興を調略するのがよい。
家康、家臣に「秀吉と戦わないと自分らも潰される」と訴えると、家臣たちOK。

25分 清須城<清洲城=『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 №6 mapB28>
天正12(1584)2月、家康が報告に行くと、信雄喜ぶ。
家康は信雄に対し、「池田恒興を調略しろ」と念を押す。
<ナレーション>信雄は、秀吉に通じていた3人の家老を誅殺した。
長島城(三重県桑名市『ホントに歩く東海道』別冊佐屋街道 №4 mapD32)で津川義冬・岡田重孝・浅井長時を殺害。

26分 大阪城<大阪市中央区大阪城『ホントに歩く東海道』第17集№69 mapA コラム68「大阪城」>
秀吉は、信雄が家康を頼ったことを知り、これでまとめて二人を滅ぼせると喜ぶ。

27分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
於愛と子どもがお絵かきしたまま床で寝ている。於愛は墨が顔についている。
家康は於愛の肩をもみ、戦になることを謝る。

29分 岡崎・石川数正屋敷<愛知県岡崎市>
数正、戦となることを鍋に伝える。

30分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
家康軍の決起集会。秀吉との戦に入る。
大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉は後ろを守る。
他の者たちは清須へ入る。
女たちは台所で「かてかてかて」と念じながら、おにぎりを作る。

岡崎城
岡崎城

31分 美濃・大垣城<『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 №2 mapA25>
池田恒興「秀吉は、家康の首を取れば、美濃に加えて尾張の他に三河もくれると言っている」
恒興の娘婿・森長可「どちらにつくのか?」
恒興「秀吉は好きではないが、家康と信雄より秀吉は気前がいい」と、織田を裏切る。

大垣城

32分 3月13日、池田恒興、大垣を出て、犬山城を落城させる。

犬山城
犬山城

33分 清須城<清洲城=『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 №6 mapB28>
犬山が池田恒興に落とされたと知り、裏切られた信雄はイライラする。恒興は楽田(愛知県犬山市字城山)を目指してさらに進軍中。
酒井忠次「羽黒で池田を叩いて時間を稼ぎます。この辺りがちょうど良い私の死に場所。」と羽黒へ向かう。

36分 羽黒・森長可の陣 八幡林古戦場<犬山市大字羽黒>
羽黒八幡林の戦い。忠次たちが急襲すると、森は槍で戦うも敗北。
犬山文化遺産ナビ「八幡林古戦場」
https://inuyama-tabi.com/point/detail/225/

38分 清須<清洲城=『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 №6 mapB28>
榊原康政「森長可は逃げました」と報告。
康政が小牧山城で秀吉を迎え撃つ提案をすると、「5日で準備しろ」と家康が命令。

40分 秀吉の10万の軍勢が移動。3月28日、犬山城に入ると、すぐに楽田城を制圧した。

41分 小牧山城<小牧市堀の内一丁目1番地>
康正は5日で織田信長が築いた小牧山城を強靱な山城にした。

小牧山城
小牧山城 小牧駅方面から

小牧市HPの「小牧・長久手の合戦」関連年表が詳しいです。本能寺の変から伊勢で秀吉・信雄の和睦まで。
https://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/9161.html

「紀行潤礼」愛知県犬山市

犬山城<犬山市犬山北古券65−2『ホントに歩く中山道』第5集№18 mapA 地図外、コラム18「犬山城」>
国宝犬山城。かつて信長が尾張統一や美濃責めの軍事拠点となった。
家康との主導権争いの戦いの際、秀吉は犬山城を拠点とした。際、持ち込んだ道具類が残る。
紀行では、犬山城から小牧山城がはっきり見えると、大久保忠世が感動していた。

犬山観光情報HP「犬山城」
https://inuyama.gr.jp/castle.html

岡崎城からの眺め。小牧山はわからない。
岡崎城からの眺め。小牧山は意識していなかったので、わからない。

楽田城址<犬山市城山48>
秀吉は、犬山城からさらに小牧山城に近い楽田城に陣を移した。
小高い丘の上で、現在は楽田小学校が建っている。
犬山文化遺産ナビ「楽田城跡」
https://inuyama-tabi.com/point/detail/232/

(こ)記録

第31回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。大阪が出てきました。

どこにいる家康31 map ホントに歩く東海道 中山道

『ホントに歩く東海道』第3集(大磯~箱根関所)
『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油〜岡崎)
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道・樟葉〜高麗橋)
『ホントに歩く東海道』別冊 美濃路(垂井~宮<熱田>)
『ホントに歩く中山道』第5集(新加納〜御嶽)


どこにいる家康31 発展編(by(し)

このところ、合戦やその後の講和を淡々と描く地味な回が続くように見えるが、こういうのこそが大河ドラマらしい面白さだと思う。実は最初、リアルタイムで見たときは、ただボケ~っと見流していたのだけれども、現地の小牧山城址のパンフ(自分で行ったのではなく、行って来た人に戴いたものだが)を手に録画を見直すと興味倍増。

1.酒井忠次の死亡フラグ詐欺と庄内の大発見 

藤沢周平の歴史小説の舞台としても有名な城下町、鶴岡の出羽庄内(荘内)藩は、酒井忠次の嫡孫、酒井忠勝が初代藩主である。

鶴ヶ丘城址
鶴ヶ丘城説明板
鶴ヶ丘城説明板

この縁で、「どうする家康」で酒井忠次を演じた大森南朋さんが鶴岡を訪れ、大歓迎されたことがニュースになっている。 
https://www.nhk.or.jp/yamagata/lreport/article/000/31/

酒井忠次といえば、長篠の戦での、鳶が巣砦の夜襲の時もそうだったが、今回もやたらに死亡フラグを立てまくっていたくせに、結果的には羽黒の夜戦で、鬼武蔵と恐れられる森長可軍を蹴散らし、意気揚々と凱旋「年季の違いを見せつけてやったわ」。
その後酒井忠次は老いて眼病を患うも、歴戦の功労者として恩恵を受け、京都で悠々自適の老後生活を送り天寿を全うするのに、この死亡フラグ詐欺(?)は何なのかと思うわけだが、もしかしたら石川数正との対比なのかもしれない。無理と思える難関を次々と、踏んだ場数で養った実践的戦闘力で乗り切る、老いても頼りになる筆頭家老。若手中堅・ベテランなどその場にいる面々を、抜群の調整力でまとめるのも忠次である。しかし忠次の力が発揮されるのは常に、今目の前にある難関。数正のように、俯瞰してものを見、将来的な展望のもとに情勢を分析する発想は彼にはない。現場の忠次と大局の数正という、対照的な重臣コンビの描写は、この大河ドラマの見所の一つだったが、この二人のツーショットを見られるのもあとわずかと思うと寂しい。
ところで今年4月に、酒井忠次ゆかりの鶴岡市から、歴史オタクを驚喜させるニュースが発信された。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/yamagata/20230412/6020017227.html
家康と秀吉の仲介役となっていた織田信雄が家康宛に送った書状が、酒井家家臣の家から発見され、10年ほど前に鶴岡市郷土資料館に寄託されていたが、このたび複数の専門家による分析の結果、真筆と認定され、対立の続いていた秀吉と家康の間を織田信雄が取り持っていたことがわかる貴重な史料ということで、致道博物館で一般に初公開されることになったという。
書状には「家康の家臣、石川数正を秀吉に参上させ、今後について相談することはとてもめでたい。秀吉も考えを承知し、慎重にことを進めるだろう」などと書かれており、小牧・長久手の戦いの後まもなく秀吉と和睦した信雄が、戦いの翌年に家康へ送り、秀吉と家康の合戦を回避させようと働き掛けたものとされる。この書状を受け取った家康は、いったんは秀吉との戦を決断していたものの、大地震の影響などもあり両者は和解へと進み、家康は最終的に秀吉への臣従を示した。

鶴岡市の致道博物館は、昭和25年に、旧庄内藩主16代にあたる酒井忠良氏が土地建物・伝来の文化財などを寄附して作った財団法人により、庄内藩校「致道館」から命名し、鶴ヶ岡城の三の丸のあった地に開設されたものである。

荘内日報社ニュースのサイトに、大河ドラマ時代考証担当の柴裕之氏の知見なども含め、より詳しい内容が掲載されている。
https://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/ad/day.cgi?p=2023:04:14

庄内藩は、酒井忠次の孫である初代藩主忠勝以来、幕末まで酒井家が藩主として続き、現在なお当主が鶴岡在住で、市民に「殿さん」と親しまれている。
https://www.tsuruokakanko.com/spot/4535

昨年(2022)は酒井家入部400年にあたり、記念事業が行われた。
https://sakai400th.jp/wp-content/uploads/2023/03/sakai400th.pdf

このように鶴岡と切っても切れない縁を持つ酒井家だが、天保年間に一度、庄内藩酒井家を越後長岡へ、川越藩松平家を出羽庄内へ、長岡藩牧野家を武蔵川越へ、という「三方領知替え」を、幕府が試みたことがあった。時の老中は「天保の改革」で名高い水野忠邦。しかしこの試みは、庄内の領民たちの強い結束と、藩の財政を支えた豪商本間家の後ろ盾もあって、最終的に撤回されることになる。このいきさつは、藤沢周平の『義民が駆ける』に詳しい。

2.織田信雄のイメージチェンジ

前項に記した織田信雄の書状について、10月18日のNHK「歴史探偵」で「本当はスゴい!織田信雄」と題する特集が組まれ、これまで「偉大な父に似ないボンクラ息子」のイメージが強かった信雄が、実は父の覇業を引き継く者として周囲にも認識され、家康に先んじて「内府」の官位を与えられていたこと、秀吉・家康の仲を取り持つことの出来る唯一無二の存在だったこと、彼の仲介が無ければ家康は天下を取れず「江戸時代」は無かったかもしれない、など、バカ殿イメージとはかけ離れた史実が次々と現れ、視聴者を釘付けにした。

これまで、信雄の粗忽さのエピソードとして語られることの多かった「三家老謀殺」が、今回の大河ドラマでは、秀吉と内応していた三家老を粛清することで家康側につく旗幟を鮮明にしたと描かれていたのが新鮮だったが、その後の秀吉との講和については「信雄が勝手に秀吉に降伏してしまったため、せっかくの小牧長久手戦での勝利がムダになった」という、家康家臣団視点の描写だった。「歴史探偵」ではドラマよりも信雄に寄り「信雄は秀吉と家康の講和が最重要と考えており、自分が先立って和平条約を結んだ」と説明していた。今後も、同じ史実であっても今までの通説とは異なる視点による、新しい解釈がいろいろと生まれそうである。

という訳で、東海道・中山道に、ちょっとでも織田信雄ゆかりの所が無いものかと必死で探したが、もともと信雄は伊勢方面の担当で、東海道からはちょっとはずれており、子孫が封じられた「柏原藩」も、中山道近江の柏原ではなく、丹波の柏原(読みも「かいばら」)で残念。ぜひ何か見つけたい。

3.池田恒興と美濃大垣 

「秀吉は嫌いだが、家康より気前がよい」と、秀吉側につく池田恒興と娘婿の森長可。しかし、織田の上級家臣の立場から長らく見下していた秀吉との連携は、うまく機能せず、恒興は長久手の戦場で不慮の死をとげる(長久手古戦場跡に恒興を弔う「勝入塚」がある)。しかしその後の池田家は、家康との縁によりおおいに繁栄するので、泉下の恒興も安心したことだろう。
池田恒興は信長の乳兄弟で、幼少の頃から小姓として仕え、数々の戦いに参戦して来た。信長の横死にあたり剃髪して長入と名乗る。森長可は、美濃出身の織田家臣、森可成の子で、信長の小姓、森乱(蘭丸)の兄にあたる。池田恒興の娘(安養院)を正室としていた。池田恒興は、清須会議では柴田勝家には与せず、丹羽長秀らと共に、三法師を擁立する秀吉側につき、賤ヶ岳の戦いで敗死した織田信孝の旧領、大垣城を預かる。

大垣は古代より東西を結ぶ交通の要衝で、奈良時代には美濃国分寺が建立された所。戦国時代も織田氏と斎藤氏の間で争奪戦が繰り返された。
小牧長久手戦で池田恒興らが討死した翌年の天正13年(1586)、大垣城は天正大地震により全壊焼失する。大垣城を建て直したのは、豊臣秀次の家老職、一柳直末だったが天正18年の小田原攻めで戦死。城主を引き継いだ秀吉家臣の伊藤氏は関ヶ原で西軍に属し、大垣城には石田三成ら西軍の主力部隊が入城、関ヶ原へ進軍するまでの西軍の根拠地となった。
西軍の敗北で落城した大垣城に家康が配したのは、石川家成の長男、石川康通。石川家成は今回のドラマには登場しなかったが、德川家の中ではけっこう重要な人で、家康の母方の従兄(家成の母が於大の妹)、石川数正には父方の叔父にあたり、今川人質時代から家康の側に仕えた。その後、寛永期に美濃大垣藩主となった戸田氏鉄以降、大垣城は明治に至るまで大垣藩戸田家の居城となる。忠臣蔵に出てくる戸田采女正(戸田氏定)は四代目の藩主で、母方の従弟にあたる浅野内匠頭のため、幕府との間に立ち赤穂開城や浅野家再興に尽力した。

大垣城 『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 Map No.2 mapA25 写真25

大垣城の石垣
大垣城の石垣 明治29年の水害時の水の高さを示す


大垣市のサイトから、360度あらゆる角度から城内映像を楽しめる「VR映像大垣城」を見ることができる。
https://my.matterport.com/show/?m=ESo9W662Qz2&lang=jp&help=1&hl=1&st=6000&play=1&lp=1&ts=1

美濃国分寺跡 『ホントに歩く中山道』第4集 Map No.13 mapA9 写真9

美濃国分寺跡 後ろに現在の国分寺
美濃国分寺跡 後ろに現在の国分寺


美濃国分尼寺跡 『ホントに歩く中山道』第4集 Map No.13 mapA11
国分寺跡は史跡公園になっており、歴史民俗資料館・美濃国分寺史料館がある。

美濃国分尼寺入り口
美濃国分尼寺入り口

4.犬山城と小牧山城

美濃から進軍した池田恒興は、当時織田信雄の管理下にあった犬山城をあっという間に制圧し、羽柴軍の拠点とする。
犬山城の南約5kmの羽黒砦には娘婿の森長可が布陣。ここを酒井忠次らが急襲して森隊を敗走させるが、犬山まで深追いはせずに引き返した。(『地図で読み解く戦国合戦の真実』小和田哲男監修、小学館2009より)

国宝犬山城は、名古屋観光のついでに寄り道もしやすく、天守からの木曽川の眺めも素晴らしいが、小牧長久手の戦いとの関連を考えたことはなかった。今回の紀行で、犬山城から小牧山城が見渡せるということを知り目から鱗だった。

天保年間に、渓斎英泉と歌川広重によって描かれた「木曽海道六十九次」では、英泉が、鵜沼宿と合せて木曽川対岸の犬山城を描いている。鵜沼宿は現在の岐阜県各務原市。 名鉄犬山線が木曽川を渡る犬山橋の、各務原側のたもとが、犬山城遠望のビューポイントということである。
犬山城 『ホントに歩く中山道』第5集 MapNo.18 コラム

木曽川からの犬山城
木曽川からの犬山城

犬山城城主の変遷
https://inuyama-castle.jp/castle/history

どこにいる家康 第31回 ギャラリー

中山道垂井の中山道・美濃路追分と犬山周辺