2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

徳川軍が大敗した三方原の戦いの詳細。
今回のキーパーソンは夏目広次。
舞台は、浜松、三方原、岡崎、岐阜、京都、潮見坂?

もくじ
●第18回「どこにいる家康」▼動静
●第18回「どうする家康」の舞台関連マップ
●第18回「どこにいる家康」発展編(by(し)
  1.三方原の戦死者
  2.犀ヶ崖資料館
  3.明治維新後の三方原
●ギャラリー

第18回「真・三方ヶ原合戦」▼動静

▼00分 ♪音楽「どうする家康メインテーマ~暁の空~」

▼02分 三方原<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6>
武田軍のときの声。家康の首が運ばれているのを虎松(井伊直政)が見ている

▼03分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
家康の訃報を聞く瀬名、信康、亀姫、五徳姫。

▼04分 岐阜城<「ホントに歩く中山道」第4集 №15 mapD>
信長と秀吉は、家康が三方原で死んだと聞く。

岐阜城
岐阜城

岐阜城は、かつて稲葉山と呼ばれた金華山(標高392m)にある。織田信長が斉藤達興を滅ぼした後、その父・斎藤道三の居城、稲葉山城を壊し、「井ノ口」の地名を「岐阜」と改め、新たに築城した。ロープウェイ麓の「岐阜城千畳敷遺跡」が信長の居館跡。山頂には、1956年(昭和31年)に建てられた模擬天守がある。(コラム15 中山道「国盗り物語」で解説)

岐阜城。中山道の北 ホントに歩く中山道
岐阜城。中山道の北

▼05分 京都・二条城<旧二条城、京都市上京区五町目町、平安女学院大学。あえていえば、「ホントに歩く東海道」第15集№59C40(三条大橋)の北西>どこにいる家康13」参照。
足利義昭が家康の死を聞き、織田と手を切ると明智光秀に言う。

▼05分 三方原<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6>
家臣が運んできた家康の首が別人であることに気がつく武田信玄。

▼06分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
三方ヶ原の戦いを、半日ほど遡って解説。
武田軍が浜松城を素通りして、三方原方面へ向かう。後ろから挟み撃ちにするという作戦を思いついて、得意になる家康たち。「どこにいる家康17回」31分参照。
家康は、久松長家と夏目広次に、城での留守番を命ずる。
家康は、夏目広次の名をいつも間違えてしまうことに、いらだつ。

▼09分 浜松城〜三方原の間<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 map,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6、7、8>
武田を追いかける家康軍。三方原で追いつくと、待ち構えている武田軍。
逃げる家康軍は、武田軍にボコボコにされる。

▼11分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
夏目広次と久松長家、家康たちがやられているとの報告を受ける。

▼12分 三方原<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6>
織田からの援軍、水野信元と佐久間信盛は、「戦っても無理」と岐阜へ引き上げる。

▼14分 三方原<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6>
本田忠真が甥の忠勝を大好きな殿を守れと叱る。
榊原小平太と忠勝は逃げ、忠真は討ち死に。

▼17分 浜松城城門付近<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
負傷した兵が、浜松城へ次々と運ばれてくる。家康は消息不明。

浜松城
浜松城

▼18分 三方原<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6>
武田勢から逃げている家康。榊原小平太と本多忠勝が合流。
農家の床下に隠れる家康。
夏目広次が馬に乗って助けに来た。

▼23分 (回想シーン)岡崎城?<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
館の下に隠れている竹千代(家康)を見つけ出す夏目吉信(広次)。

▼25分 三方原<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6>
夏目広次、二度も家康の命を守れなかった、と悔いる。

▼26分 (回想シーン)どこかの浜辺、潮見坂?<ホントに歩く東海道」第9集 №34 mapA11>
今川家に人質として送られる家康が、夏目広次の目の前で、戸田康光に連れ去られる。
岡崎に戻った広次は、家康の父・松平広忠に切腹して詫びようとすると、「名を変えてやり直せ」と諭される。

当時、織田氏に攻められていた広忠は、今川氏に協力を仰ぐため、人質として家康を駿府に送ることにした。蒲郡あたりから船で渥美半島に上陸、陸路駿府に向かわせていた。ところが、今川に送り届ける役目だったはずの戸田康光(田原城主)が家康を連れ去り、尾張・名古屋の織田信秀(信長の父)に送り届けてしまう。
このときの竹千代誘拐現場が、潮見坂(静岡県湖西市)とする説がある。
戸田康光は、家康を生んだ母・於大と離別した松平広忠に自分の娘を嫁がせ、その立場を利用して家康を誘拐したという。

潮見坂 ホントに歩く東海道 地図

▼29分 (回想シーン)岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12
桶狭間の戦い後、岡崎に入城した家康と夏目広次との再会。
一向一揆で裏切る夏目広次。それを許す家康。

▼30分 三方原<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6>
夏目広次は家康の身代わりとなるため、家康の金色の具足と兜を身につける。
広次は、「殿が滅びなければ、徳川は大丈夫」と言って武田軍の中に飛び込んで行き、討ち死にした。

▼33分 浜松城城門付近<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
負傷した兵だらけの浜松城に、武田軍が迫る。
石川数正と酒井忠次は、城門を開け放ち、篝火をたかせた。怪しんだ武田勝頼たちは、三方原に引き上げた。

▼35分 三方原<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6>
浜松城は、諸葛孔明の「空城の計」を実際にやったのだろう、と話題になる。
信玄は家康を「許してやろう」、と浜松を出て、西を目指す。

▼37分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康は泣いている。
酒井と石川が、「彦(鳥井元忠)は女子どもを励ましている。平八郎(本多忠勝)は傷を負ったのに平気だと強がり、軍勢を立て直している。小平太(榊原康政)はわずかな手勢で南側の敵を追い払った。忠世(大久保)は、犀ヶ崖(さいががけ)の武田勢に夜討ちをかけた。それぞれ頑張っています」と報告。
家康は、「家康は生きていると言いふらせ」と命ずる。

岡崎城 家康しかみ像
岡崎城 家康しかみ像

敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、慢心の自戒として描かせた絵が有名だが、浜松ではなく岡崎公園にある。<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>

徳川家康「しかみ像」は慢心の戒めに描かせたのではなかった? 三方ケ原の負け戦とは無関係とする新説(東京新聞)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/152335

▼40分 岐阜城<「ホントに歩く中山道」第4集 №15 mapD>
信長、家臣との作戦会議。家康が生きていたこと、または信玄が西へではなく、甲府へ戻っているとの報告を受ける。

▼41分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
瀨名や信康のもとに、家康が生きていたとの一報が入る。

▼41分 浜松と岐阜の間のどこか
武田軍が行軍中。病で弱った信玄が輿に乗っている。

▼41分 京都・二条城<旧二条城、京都市上京区五町目町、平安女学院大学。あえていえば、「ホントに歩く東海道」第15集№59C40(三条大橋)の北西>
織田信長と縁を切った足利義昭が、「武田が来ない」と慌てている。

▼42分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康と家臣は、武田軍が、甲斐方面へ戻っているとの報告を受ける。

「紀行潤礼」浜松市

三方ヶ原古戦場碑(浜松市北区根洗町)

浜松八幡宮 雲立楠(くもたちのくす)(浜松市中区八幡町2)
三方原から逃げてきた家康が、この木の洞(ほら)に隠れた伝説がある。

浜松城 鎧かけの松(浜松市中区元城町100-2)

犀ヶ崖(浜松市中区鹿谷町25)
城の北側にある深い崖。

夏目広次の碑(さいが崖バス停横。浜松市中区布橋2丁目13)

本多肥後守忠真の碑(浜松市中区鹿谷町25)

若き日の徳川家康公の銅像(浜松市中区元城町100-2)
浜松城公園内。「勝草」と呼ばれたシダを持っている。

(こ)記録

第18回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。三方原に関しては『ホントに歩く東海道別冊姫街道』はけっこうカバーしています。

どこにいる家康18 関連マップ

『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第9集(舞坂~御油<小田渕>)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く東海道』第15集(南草津~三条大橋・伏見)
『ホントに歩く東海道 別冊姫街道(本坂通)』(御油~見付、安間道、浜松道、吉田道)
『ホントに歩く中山道』第4集(垂井~新加納)


どこにいる家康18 発展編(by(し))

「地の利を知っている自分たちが、有利な立場に立てるかも」という希望は、情報力と戦闘力を兼ね備えた武田の大軍によって完全に打ち砕かれ、「我らが桶狭間」を実現できなかった家康と家臣団。しかし彼らは、その後の長い年月を通して、三方原の苦い体験から多くを学ぶ。そして維新の世になった時、三方原は三河武士たちにとって、新しい挑戦の場となる。

1.三方原の戦死者

「どうする家康」時代考証担当の平山優氏『新説 家康と三方原合戦』(NHK出版新書)に、三方原で討死を遂げた人々のリストが載っている。
今回、焦点を当てられていた、主君の恩義に報い我が身を犠牲にして家康を救う夏目次郎左衛門吉信(広次)や、本多平八郎忠勝の叔父、肥後守忠真のほか、鳥居元忠の弟で兄と共に徳川十六将の一人となっている鳥居四郎左衛門忠広、服部半蔵の兄の服部保正なども三方原で落命した。

井戸櫓を破壊されて落城した二俣城(第17回参照)の城主だった中根正照も、落城の責任を感じてか奮戦、討死。しかし高天神城を武田軍に明け渡した小笠原氏助は、勝頼の慰撫作戦によって城と領土を安堵され、武田軍に帰属している。二俣城も高天神城も台詞の中に一言出てきただけであるが、それぞれにドラマがある。
織田の援軍では、家康の伯父、水野信元のように、早々と逃走した者たちの一方で、平手甚左衛門汎秀のように、徳川軍と共に討死した武将もいる。汎秀は、若年時代の織田信長の奇行を憂えて諫死したとして名高い平手政秀の子または孫といわれている。旧東海道が県道62号と合流・分岐するあたり、グランドホテル浜松の隣に石碑がある。

前回も触れたように、三方原追分から西に、姫街道(県道磐田細江線)と金指街道(国道257)が分かれるが、分岐から2kmほどの両街道の中間地点にある、三寶山本乗寺という寺院に、三方原合戦の戦死者を葬った「精鎮塚」がある。本乗寺は三方原最古の寺。
もともとは、徳川の本陣があったと伝わる現在の姫街道の権七交差点近くの畑の中にあったらしいが、建立者その他、詳しいことはわかっていない。
本乗寺の境内に移されたのは大正時代になってからで、当時の住職が、三方原合戦の戦死者の子孫だった縁といわれる。浜松の発展に尽した金原明善(『ホントに歩く東海道』第8集で、たびたび目にする名前)も、たびたび参詣したという。

▼平手監物墳墓地碑 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapC32 写真32
三方原合戦に織田の援軍として参戦した平手汎秀が討死した地で、汎秀を祀った平手神社があった。このあたりは稲葉山と呼ばれる高台で、現在グランドホテル浜松がある。高台にのぼる坂の一つ「オルガン坂」は、明治20年頃、ヤマハが日本初のオルガンを製造したことに由来する。

▼本乗寺 精鎮塚 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.5 mapC40 写真40

▼精鎮塚跡(権七交差点近く) 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.5 mapC41 写真なし

▼三方原古戦場の碑
野戦が行われた場所は特定されていないが、国道257沿いの根洗町(第17回参照)の三方原霊園の前に、大きな三方原古戦場碑が建っている。

三方原古戦場碑説明
三方原古戦場碑説明
三方原古戦場碑
三方原古戦場碑

2.犀ヶ崖資料館

浜松北高校の向かいにある犀ヶ崖古戦場跡と資料館は、姫街道浜松道イチオシの立ち寄りポイントで、『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』第8集のコラムでも解説している。東海道ウォーカーにも是非、浜松泊りとして訪れてほしい所で、浜松城だけ見てそのまま先へ急ぐのはもったいない。浜松城から北へ姫街道を犀ヶ崖まで行き、帰りは姫街道に平行する軽便鉄道軌道跡の緑道を歩いて戻り、築山殿廟所・源三郎勝俊(家康の異父弟)の墓のある西来院(第16回参照)や、奥平信昌邸跡・井伊の赤備え発祥の秋葉神社(第16回・第21回参照)などを巡って東海道へ戻るコースがお勧めである。

本多忠真も夏目吉信も、犀ヶ崖古戦場に供養碑があるが、彼らはここで戦死したわけではない。考証担当者はじめ専門家が皆書いているように、三方原で野戦が行われた場所は特定できず、現在、史跡として残っているのは、局地戦で徳川方が一矢報いたところばかりである。前回触れた一言坂・桃燈野などであるが、犀ヶ崖もその一つ。
このあたりの町名「布橋」は、徳川軍が犀ヶ崖に大きな布を張り、橋が架かっているように見せかけて、付近に夜営していた武田軍(信玄がここで首実検をしたとも言われる)を大久保忠世らが背後から急襲、逃げ惑う武田兵らが多数崖の底に追ちたという言い伝えから来ている。本隊には実現できなかった「祝田の坂道で追い落とす」作戦が、ごく小規模ではあったが、犀ヶ崖で成功したわけである。

戦いの後、犀ヶ崖の谷底から、人や馬のうめき声が聞こえると恐れられるようになり、死者の霊を慰め祟りを鎮めるために、「遠州大念仏」が行われるようになった。現在でも毎年7月15日に行われており、資料館のビデオでその様子が見られる。
「桶狭間のあたりはすっかり街中で、古戦場といわれてもへぇ~と思うだけだけれども、ここは雰囲気が残ってますね」と資料館スタッフの方に言ったら、「崖しかないですもんね~ハハハハ」と笑っておられた。

酒井忠次と石川数正が諸葛孔明に倣い、城門に篝火をたき敵の心理を混乱させた「空城の計」や、「酒井の太鼓」は、軍記物に語られてはいるが、「史実と認定することはできない」(平山優『新説 家康と三方原合戦』NHK出版新書)
浜松城が燃えていると見せかけるために火を放ったといわれる普済寺は史実だったのだろうか?

▼犀ヶ崖の戦い 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.8 コラム8

▼家康の影武者となって討死した夏目次郎左衛門の碑 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.8 浜松道 mapA3 写真3

夏目次郎左衛門の討死を記した『大三川志』(国立公文書館 展示資料より)
『大三川志』は、陸奥国守山藩主(水戸藩の支藩)松平頼寛(1703―63)が晩年に編纂した全100巻の徳川創業史。(竹橋の国立公文書館でやっていた企画展「家康、波乱万丈!」(令和5年4月15日〜6月11日)で、夏目次郎左衛門の討死について記した文書がありました)
「夏目は、身代わりを許さないという家康の言葉に従わず、家康の馬の首を浜松城へ向けさせ、尻を槍で叩いて走らせたあと、十文字槍をふるって戦い、敵二人を倒し、20人余りの家来と共に討死した」と最期の様子が具体的に書かれています。

夏目の記述(大三川志)

▼犀ヶ崖古戦場跡 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.8 浜松道 mapA4 写真4

▼本多忠真の碑

本多忠真碑と説明
本多忠真碑と説明

▼資料館内「味方ヶ原合戦之図」揚州周延

味方ヶ原合戦之図揚州周延
味方ヶ原合戦之図揚州周延

▼同 遠州大念仏ジオラマ

遠州大念仏
遠州大念仏

▼布橋の町名

布橋一丁目
布橋一丁目

▼普済寺 浜松城が燃えていると見せかけるため、火を放たれたと伝えられる『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.8 浜松道 mapB13 写真13>

3.明治維新後の三方原 

三方原は、家康や三河武士たちにとっては、思い出したくない地名であったであろうが、江戸幕府瓦解後に、この地で正念場を迎えた元幕臣たちがいた。

明治維新により、駿遠70万石に移封となった徳川家に従い、多くの幕臣たちが江戸から移転したことは知られているが、その中で浜松に移住した人々により、三方原台地で茶の栽培が始められた。もともと赤土と礫層のやせ地で、水はけも悪く、正徳年間に一度開墾が試みられていたが失敗に終わっており、農産物は期待できない土地であった。
挫折し土地を離れる者も多い中、苦境を救ったのは、浜松県令林厚徳による茶園造成の勧めと、引佐郡気賀の豪商、岩井林右衛門(気賀林:きがりん)の尽力だった。畳表の販売で富を築いていた林右衛門は、全力をあげて造成事業に協力、明治7年春に初めて三方原台地に蒔かれた茶の種は、大茶園「百里園」へ発展し、明治10年には製茶工場が建設された。
この地にとどまり、苦難を乗り越えた元幕臣たちは、三方原に東照宮をと願い、浜松城にあった東照宮が移転されて三方原神社となった。祭神は家康・秀忠・家光で、16代徳川家達お手植えの松もある。「東照宮」の扁額は勝海舟の筆による。

大正時代に入ると、農産物に向かないと思われていた三方原の土地が、海外から入って来た馬鈴薯の栽培には適していることが判明し、大規模な馬鈴薯栽培が行われるようになった。「三方原馬鈴薯」と、馬鈴薯を使ったポテトチップスなどの品は、現在も浜松名産品の一つとなっている。

▼「気賀林」岩井林右衛門 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』 MapNo.5 コラム5

▼気賀林屋敷跡 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』 MapNo.5 mapC37 写真37
林右衛門は、生活困窮者のための救貧院も設立した(救貧院跡 mapC36

▼三方原神社 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』 MapNo.5 mapC38 写真38
三方原開拓の碑などがある

三方原開拓の碑
三方原開拓の碑

▼茶園・製茶工場「百里園」跡

百里園製茶工場跡
百里園製茶工場跡

どこにいる家康 第18回 ギャラリー