2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

「どうする家康」13回目は、家康上洛の回。舞台はほぼ京都です。
将軍足利義昭に召し出され、苦労して手に入れたコンフェイトを食べられてしまいました。
謁見会場となった二条城は、現在の場所より東、京都御所のすぐ近くにあったそうです。
明智光秀や浅井長政との出会いがありました。

もくじ
●第13回「どこにいる家康」▼動静
●第13回「どうする家康」の舞台関連マップ
●第13回「どこにいる家康」発展編(by(し)
  1.徳川家康と明智光秀の対面
  2.茶屋四郎次郎
●ギャラリー

第13回「家康、都へ行く」▼動静

▼00分 掛川城<「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE44(大手門)一帯>
(回想シーンで)今川氏真が去り際に、「おまえは、まだまだ苦しめ」と家康に言う。
家康の家臣たちは、北条と組めば武田を挟み撃ちにできると心はやるも、家康は左衛門尉に「わびを入れてくれ」と頼む。

掛川宿の特徴、七曲がり

02 ♪音楽「どうする家康メインテーマ~暁の空~」

▼05分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
永禄13(1570)年、織田の傀儡で将軍になった足利第15代将軍義昭が、各地の大名に上洛を命じ、家康も上洛することになった。

ホントに歩く東海道 第10集 №40 岡崎城

▼07分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
信長の娘五徳姫(徳姫)と長男信康。幼くして結婚した2人の仲が悪いのが悩みの種、と瀬名が家康に訴える。
信康を叩いたことを責められると「父上(信長)に言おうかな」と、いびる父親譲りの娘。
家康が京土産を買ってきてやろうと言うと、「コンフェイト(金平糖)」がほしいと言われ、家族の分を買うと約束する。

ホントに歩く東海道 築山の庵
築山の庵「ホントに歩く東海道」第10集 №39 

▼10分 京都での家康滞在場所
家康は、木下藤吉郎、公家、坊主など、いろいろな人と会い、疲れる。

▼11分 二条城<旧二条城、京都市上京区五町目町、平安女学院大学。あえていえば、「ホントに歩く東海道」第15集№59C40(三条大橋)の北西>
明智光秀に、「将軍へのお目通りは明日かもしれぬし、10日後かもしれないが、いつでも会える準備をしておくこと」と言われる。

二条城は、現在の城以外に、3つあったと知りました。
現存する二条城は、徳川家康が慶長8(1603)年に築城したもので、足利義昭がいたところとは違うそうです。

古二条城=足利義昭の居城。現在の京都御所の西隣
二条御所=織田信長が正親町天皇の皇子に進呈。現在の京都国際マンガミュージアム西側
(『ホントに歩く中山道』第1集 №1 mapA、烏丸御池駅の北側まで地図は収載しているが、残念ながらマンガミュージアムの記載はない。300mほど南へ行くと❹京都市道路元標がある)
妙顕寺城=豊臣秀吉が天正11~14年(1583-87)まで、聚楽第を造るまで京都の政庁とした。現西福寺(上京区押小路小川西入)

「城びと」HPに詳しい解説がありました。
超入門! お城セミナー「第68回【歴史】京都の二条城はいくつもあったってどういうこと?」
https://shirobito.jp/article/809

どこにいる家康 京都 二条城(二条古城)

▼12分 京都での家康滞在場所
家康は、腹が痛くて寝ている。
元三河武士の茶屋四郎次郎は、京都で商人になっていた。家康を訪ねてきたので、家康は「コンフェイト=金平糖」を見つけてほしいと頼む。
茶屋四郎次郎「一粒を買うのに、山城が1つとも2つとも必要なほどレアもの」と答える。
聞いていた石川数正は、「なんと馬鹿げた菓子じゃ」。そう思う。

▼16分 京都市中
都をうろつく家康の家臣たち。
平岩親吉と鳥居元忠は、南蛮人を見て驚く。
榊原小平太と本多忠勝は遊女に囲まれ、忠勝は人いきれで気分が悪くなる。
親吉と元忠の前に馬に乗った信長が現れ、女にからんでいた男の首をはねる。
信長は二人に、「近々宴席を設けると家康に伝えろ」と言う。

▼21分 京都での家康滞在場所
親吉と元忠が信長の噂を家康に報告し、静かにしておいた方がいいと話し合っていると、
小平太と忠勝が、浅井長政の家臣と喧嘩をして帰ってくる。

▼23分 二条城<旧二条城、京都市上京区五町目町、平安女学院大学。あえていえば、「ホントに歩く東海道」第15集№59 C40(三条大橋)の北西>
家康は信長に呼び出され二条城へ赴く。明智光秀と木下藤吉郎に、城下での家臣の喧嘩のことをいびられる。
浅井長政は、「家臣たちは喧嘩はしていない」と、家康をかばう。
信長は家康と長政を前に、地球儀を示しながら、「日ノ本の本来のありすがたを取り戻す」と持論を披露。
長政と家康の手を取り結び、「兄弟、力を貸せ」と迫る。

▼29分 京都での家康滞在場所
将軍謁見の日を迎えた家康は烏帽子姿。茶屋四郎次郎が、コンフェイトを手に入れ、届けに来た。お市(信長の妹)が娘(茶々)を連れて訪ねて来た。気を良くした家康は、コンフェイトをお市と娘にあげると言うと、お市は付き人の阿月(あづき)の口に入れてしまう。この場面を、家康を迎えに来た光秀に、目撃される。

▼34分 二条城<旧二条城、京都市上京区五町目町、平安女学院大学。あえていえば、「ホントに歩く東海道」第15集№59C40(三条大橋)の北西>
謁見会場に足利義昭が現れ、挨拶の途中で寝る。家康のことを「金で官位を買った田舎者」とののしった上、献上品を要求する。「馬を用意してきた」と言うと、馬はくさいからいらないと言い、コンフェイトを要求。渋々家康が差し出すと全部食べてしまう。ニヤリとする明智光秀。

▼39分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
瀬名と亀姫、五徳姫と信康、コンフェイトを楽しみにしている。

▼40分 北近江・小谷城<滋賀県長浜市小谷郡上町、湖北町伊部>
お市が、長政に京都へ連れて行ってもらったことへの礼を述べる。

▼40分 二条城<旧二条城、京都市上京区五町目町、平安女学院大学。あえていえば、「ホントに歩く東海道」第15集№59C40(三条大橋)の北西>
家康が信長に、将軍へのお目通りに関して礼を述べ、三河へ帰ろうとすると、朝倉義景が謁見に応じなかったので戦をするので、そのまま出陣しろと言われる。
信長「北国見物よ」。

▼42分 北近江・小谷城<滋賀県長浜市小谷郡上町、湖北町伊部>
浅井長政がお市に「織田信長を討つ」と告げる。

「紀行潤礼」滋賀県長浜市

浅井氏の拠点。浅井長政と結婚したお市は、茶々、初、江の三人の娘を長浜で生んだ。
小谷城近くの国友町は鉄砲の産地で、家康は大坂の陣の際、大量の鉄砲を造らせた。

小谷城跡(長浜市小谷郡上町、湖北町伊部)
小谷城戦国歴史資料館HP 小谷の歴史
https://www.eonet.ne.jp/~odanijou-s/azai.html

国友鉄砲ミュージアム(長浜市国友町534)
https://kunitomo-teppo.jp/

(こ)記録

第13回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。東海道以外の舞台が多く、関連マップと言いづらいが、近くを散策するのには役立つのではないか、役立つといいなと思います。

どこにいる家康13 関連マップ ホントに歩く東海道 中山道

『ホントに歩く東海道』第7集(藤枝~袋井)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く東海道』第15集(南草津~京都三条大橋・伏見)
『ホントに歩く中山道』第1集(京都~守山)


どこにいる家康13 発展編(by(し))

1.徳川家康と明智光秀の対面

三年前の大河ドラマ「麒麟がくる」の爽やか過ぎた明智光秀とは真逆な、「青天を衝け」で渋沢栄一を苦しめた代官キャラの光秀が登場。本能寺の変はどのように描かれるのか、期待が増す。

本能寺は、『ホントに歩く東海道』第15集MapNo.59、mapC に載っているが、この本能寺は、信長の死後、秀吉が移転再建したもので、変のあった本能寺はマップ外(河原町通りを南下して、四条河原町の手前で右折、蛸薬師通りを、堀川通りのほうへ向かって数百m進んだ、「元本能寺町」に、本能寺跡の碑がある)。

明智光秀の「首塚」も、同じmapCの白川沿いにある。本能寺で信長を討った後、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れた光秀は、近江坂本城へ逃れる途中、地元の農民に襲われ落命。首を家来が埋めた所と言われる。傍らの和菓子店「餅寅」が祠を管理しており、桔梗の印のついた「光秀饅頭」のほか、わらび餅・麩饅頭・水無月など、京和菓子を販売している。

明智光秀首塚近くの和菓子屋

観光名所だらけの京都の中では、知る人ぞ知るひっそりとした史跡だが、大河ドラマ「麒麟がくる」をきっかけに、訪れる人が増えたようだ。

「胴塚」のほうは、山科勧修寺近くの山科川沿いにある。光秀が最期を遂げた「小栗栖」は、勧修寺から山科川を下って伏見区に入った所で、本経寺という寺院の領内に、「明智藪」がある。

明智光秀胴塚
明智光秀胴塚

そのほか「くろみつ大雄尊」と言われる光秀の黒坐像を祀る慈眼寺や、光秀の居城亀山城の一部を移築した嵯峨大覚寺の「明智門」など、京都の明智光秀関連史跡は、京都観光Navi「明智光秀 京都・ゆかりの地をめぐる」https://ja.kyoto.travel/akechi/ に詳しい。

▼本能寺 『ホントに歩く東海道』第15集 MapNo.59 mapC 左 番号写真なし

▼明智光秀首塚・和菓子店「餅寅」『ホントに歩く東海道』第15集 MapNo.59 mapC 36 写真36

▼明智光秀胴塚 『ホントに歩く東海道』第16集 MapNo.61 mapA 29 写真29

2.茶屋四郎次郎

茶屋家は、朱印船貿易や大堰川や高瀬川の舟運を行った角倉家、大判の鋳造を行った後藤四郎兵衛家と並んで「京の三長者」の一人で、当主は代々茶屋四郎次郎を名乗り、三代にわたって、呉服御用や御朱印船貿易など、徳川家康と深い関係を築いていた。
京都の茶屋四郎次郎屋敷跡は、中京区百足屋(むかでや)町にあり、上述の本能寺跡のすぐ近くである。

ところで、群馬県伊勢崎市に本拠を持ち、東京の池袋・王子にもキャンパスのある東京福祉大学の創設者中島恒雄氏が茶屋四郎次郎の子孫で、大学の法人名が「学校法人茶屋四郎次郎記念学園」、図書館にも茶屋四郎次郎の名前が冠せられている。

茶屋四郎次郎記念図書館
https://www.tokyo-fukushi.ac.jp/library/index.html

大学のサイトの中には、茶屋四郎次郎との関わりを説明するものは見つからないようで残念だが、1996年、日米両国の高齢者保健福祉発展に貢献するという趣旨で設立された日米高齢者保健福祉学会を母体とする「茶屋四郎次郎記念学術学会」というのもあるようだ。
http://s-chaya-msi.org/history.html

どこにいる家康 第13回 ギャラリー

なんとなく京都。三条大橋を中心に