2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

徳川軍が大敗となる三方原の戦い。
舞台は、浜松、三方原、岡崎。『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』
もくじ ●第17回「どこにいる家康」▼動静 ●第17回「どうする家康」の舞台関連マップ ●第17回「どこにいる家康」発展編(by(し)) 1.武田信玄の猛攻 2.本多忠勝の奮戦 3.二俣城・鳥羽山城 4.決戦!三方原 ●ギャラリー |
第17回「三方ヶ原合戦」▼動静
▼00分 元亀3(1572)年10月3日 武田と徳川の戦直前。それぞれの場所を映す。
甲府 信玄の軍勢
浜松城 家康、守り本尊を見つめる
上ノ郷城 於大と久松長家
吉田城 酒井忠次の妻、登与はおいしそうなおにぎりをにぎっている。
浜松城下 本多忠勝と叔父の忠真
岡崎城 徳川信康一家
▼04分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康は、「今こそ我らが桶狭間を為すときぞ」と叫ぶ。

▼04分 ♪音楽「どうする家康メインテーマ~暁の空~」
▼07分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
元亀3(1572)年10月10日。
家康の領地である駿河・遠江は、田峯・作手・長篠・犬居・只来も武田軍の手に落ち、家康軍は苦戦。信玄はどこにいるかわからない。
駿河より高天神城(掛川市。東海道掛川宿の南)へ向かう軍勢あり、との一報が入る。
▼08分 駿河と高天神城の間(静岡市〜掛川市)
武田軍が進軍中。武田軍の侵攻開始からおよそ20日で高天神城が落ちた。
▼08分 見附城付近、一言坂<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№7 mapA22 付近一帯>
物見に出た本多忠勝らと武田の山形昌景の軍と戦う「一言坂の戦い」。

▼10分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
一言坂から本多忠勝と忠真が戻ってきた。忠勝は血だらけなのに「かすり傷一つありません」と強がる。侵攻から1か月で、浜松城は武田に包囲されてしまった。
▼11分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
元亀3(1572)年11月7日。見附城や匂坂城(さきさかじょう。静岡県磐田市匂坂中。池田の渡しの北方)も落ち、武田は浜松北方の二俣城(浜松市天竜区二俣町)へ向かう。
家康の叔父、水野信元が来て、織田信長は浅井・朝倉との戦いで手一杯で、援軍を送る余裕はないと伝えると、家康は「久しぶりに鷹狩りをしようと伝えよ」と返答。
▼13分 いつもの鷹狩りの場所(どこ?)
家康が待っていると信長がやってきて、「兵は3千人しか貸せない。おまえが信玄を食い止めろ、俺は必ず行くから」と言って去って行く。
▼17分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
家康は瀨名を訪ね、木の兎を彫っている。
瀬名「どうして戦はなくならぬのでしょう」
家康は「これはわしの弱い心じゃ」と彫り終えた兎を瀬名に渡して去って行く。
▼21分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
佐久間信盛(織田家筆頭家老)の軍勢と水野信元の軍勢が到着。
家康を中心に作戦会議が行われ、浜松に籠城することが決まる。
浜松城の家康を武田軍が攻めあぐねて疲れさせたところに、一か月後、信長が助けに来るという算段。
▼24分 天竜川付近
武田軍が進軍中。
(し)さんも紹介している『新説 家康と三方原合戦』(平山優著、NHK出版新書)によると、東海道・姫街道も利用する「池田の渡し」ではなく、天竜川上流、二俣城付近の「鹿島の渡し」や神増(磐田市)の浅瀬(静岡県道61号線浜北大橋近辺か?)を渡渉と書かれている。
▼24分 浜松城下<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
「信玄が攻めてきて戦になるぞ」と、民衆が逃げ惑う。
花をつけた女を侍らせた虎松(井伊直政)が柴田理恵に団子をくれと言って「アホウ」と言われる。
▼24分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康は、北方から武田軍が来るのを見ていたが、浜松城を通り過ぎて行った。
▼29分 浜松城下<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
逃げ惑う民衆。望月千代は「あわてて逃げることはない」「徳川は武田が怖くて、素通りさせたらしいよ」と言いふらす。それを聞いた柴田理恵「情けねえ殿だな」。
▼30分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
武田軍が浜松城を攻めずに通り過ぎていったことで、家康の家臣と織田勢が、籠城するかどうかでもめる。家康の家臣は、信玄に岡崎城が落とされるだろうと騒ぐ。
▼31分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
瀬名と亀姫が「勝て、勝て」と唱えながら握り飯を握る。
▼31分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康の家臣は、我らの岡崎を守らねばといきり立ち、織田勢は「野戦はしない」といい、板挟みになる家康。家康が、「我らが信玄に勝る点は、この地をよく知っていることだ」と言うと、夏目広次が「おおせの通り」と急に飛び出してくる。夏目は地図で示しながら、「信玄は欠下の坂道にさしかかる頃。坂を登りきった先は、三方原。さらにその先は、祝田(ほうだ)の崖道でございます」と臨場感溢れる道中中継。大久保忠世が「あそこは身動きが取れないぞ」と言うと、「後ろから突けば、かなりの兵を失わせることができる!」とみんな興奮する。
▼36分 浜松城〜三方原<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 map,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6、7、8>
家康たちが出陣。信玄を追いかける。ひたすら馬で走っているシーン。雪が降ってくる。

坂を登り切ると、武田軍が待ち構えていた。びっくりする家康たち。
信玄「戦は勝ってから始めるものだ」
▼40分 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
瀬名、薬をひいている。
▼40分 浜松と三方原の間<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6、7、8>
虎松がどこかを走っている。
▼40分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
瀬名がかけつけると、家康が戦死したと騒いでいる。
▼40分 三方原<「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№5、6>
日が暮れると、徳川軍の死体だらけ。武田軍が勝利の雄叫び。戦死兵がたくさん倒れているなか、家康を探している。家康のものと思われる金の兜の首をぶら下げて、引き上げていく。それを見る虎松。
「紀行潤礼」浜松市
●二俣城址(静岡県浜松市天竜区二俣町) 発展編をご覧ください。
(こ)記録
第17回「どうする家康」の舞台関連マップ
今回の特に関連マップ。前回、前々回(第15、16回)と同じです。

『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)
『ホントに歩く東海道 別冊姫街道(本坂通)』(御油~見付、安間道、浜松道、吉田道)
どこにいる家康17 発展編(by(し))
5月20-21日に、ちゃらぽこ散歩会の家康遠征ツアー第2弾として「浜松 家康、陣頭の地を歩く」「二俣 家康、苦渋の地を歩く」が開催され、幸い好天に恵まれて、2週にわたり「どうする家康」で描かれたばかりの三方ヶ原合戦を現地で復習することができた。
ドラマの中では、ほんのちょっと台詞の一部に触れられていたような地名も含め、実際に訪れてみると、さまざまな発見があって興味が尽きなかった。
1.武田信玄の猛攻
「我らが桶狭間をなす時」と、悲壮な決意で出陣する徳川軍だが、信玄は3日に一つ城を落とすという勢いで侵攻してくる。おまけに信玄本人はどこにいるのかわからない。
三方原合戦については、その舞台がいったいどこなのか明確に指定できないと、どの研究者も述べているが、武田軍が三方原台地へ侵攻するにあたり、どの坂道を上ったかというのも諸説ある。
欠下坂、大菩薩坂、宇藤坂など、それらしい坂がいくつかあるが、大河ドラマ考証担当の平山優氏は『新説 家康と三方原合戦』の中で、信玄は、言われている以上に多くの複数の軍勢に分かれ、さまざまな経路をたどって移動していただろうと述べている。そして信玄本隊は、有玉から欠下坂で三方原台地に上がり追分へ至る古道(信玄街道と呼ばれ、碑が建っている)を進み、支隊が浜松方面を監視しつつ、大菩薩坂・宇藤坂を上って信玄本隊の後を追ったと考察している。
▼姫街道最古の道標 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.6 mapA 6(写真6)
天保3年(1832)建立 「右きが かなさし 左庄内道」と彫られている。ここから姫街道本道のゆるやかな坂(二重坂)を上っても三方原台地へ至る。
▼宇藤坂 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.6 mapA 8(写真なし)
▼大菩薩坂 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.6 mapA 10(写真10)
▼信玄街道の碑
信玄街道は、MapNo.6 mapAの範囲外で、東名高速を挟んで姫街道と反対側になる。

2.本多忠勝の奮戦
三方原合戦の前哨戦的な戦いとして、木原畷(きはらなわて:袋井市木原)・三箇野(みかの:磐田市三ヶ野)・一言坂(ひとことざか:磐田市一言)・桃燈野(ちょうちんの:磐田市豊田町)などに古戦場跡が残る。
中でも、一言坂の戦いは、敗走でありながらも敵将を感心させ「家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八」と詠ませるほどの大活躍をした本多平八郎忠勝の逸話が名高い。
ドラマでは、平八郎の活躍シーンは省略され、戻って来て報告するだけだったが、血まみれなのに「すべて返り血」と言わせ、彼の「生涯無傷」伝説もさりげなくアピールしていた。
桃燈野合戦は、一言坂から天竜川へ向かう途中の万能という所で行われた戦闘で、日が暮れて暗くなり、徳川軍が桃燈(提灯)を掲げて待っていた所に武田軍が攻め込んだが、このあたりは「ゆるぎ」と呼ばれるぬかるみの深い田であったため、足を取られた武田兵たちが多数討死したという。万能蛍という大きな蛍が飛ぶのは、落命した武田兵たちの魂であるという伝承が残っている。
▼一言坂 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.7 mapA 20(写真20)
▼智音齊 一言観音 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.7 mapA 19(写真19)
一言観音は「一生に一度だけ願いをかなえてくれる観音」。武田軍に包囲された家康が、この観音に助けを乞うと、突然包囲網の一カ所が崩れて命拾いできたという逸話がある。
▼一言坂合戦跡碑

▼桃燈野合戦石碑 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.7 MapNo.7 mapA 23
国道沿いのパチンコ店の前に大きな石碑が建っている。


※『ホントに歩く東海道』第8集MapNo.30 mapB の、磐田から浜松への道の途中に、東海道から一言坂合戦跡・桃燈野合戦跡へそれぞれ至る道を示す道標がある。
▼かぶと塚公園 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.7 mapA 25
県内最大の円墳(直径80m、高さ8m)のある古墳公園。古墳の松の木に本多平八郎が兜をかけたといわれ「かぶと塚」の名になった。

3.二俣城・鳥羽山城
紀行で取り上げられていた二俣城は、三方原合戦で信玄に落とされた城の一つだが、天竜川と二俣川が合流する天然の要害、水運に恵まれた地に築かれた堅固な城だった。二俣川の流路は現在と異なり、もっと城をぐるりと取り巻くように流れていたという。
北の信濃の山間部からは遠州平野への入り口、南の道を気賀まで抜ければ東海道の脇往還である本坂通(姫街道)に出て、そこからさらに浜松道を下れば浜名湖の東側、浜松城下に出る。その他複数の秋葉道もあり、陸路でも街道上の要衝の位置にあった。
桶狭間で義元が討死した後、家康の進出に備えて今川氏が整備した城砦が現在の地の二俣城で、その後、徳川と武田の間に取ったり取られたりがあり、家康の関東移封後は、秀吉の家臣、堀尾氏が入城、石垣などの改修を行った。中世の土作りの山城と、近代的な石垣が導入された初期の姿が、良好に保存されているのが二俣城の特徴である。
元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて遠江に侵攻、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃した。城代中根正照以下必死に城を守ったが、籠城軍の水の補給が、天竜川河畔に築いた井戸櫓によることを発見した武田軍は、天竜川に大量の筏を流し井戸櫓を破壊。水の手を失った二俣城はついに落城した。破壊された井戸櫓は、清瀧寺に復元されている。
平山優『新説 家康と三方原合戦』によれば、信玄は早々と北遠江の国衆たちを取り込んでいたため、天竜川の筏や川舟も掌握していたという。
二俣城の付城とされた鳥羽山城は、天竜市教育委員会が昭和49年に大規模な発掘調査を行った結果、二俣城と同規模またはそれ以上の城郭があったことが判明した。各曲輪・枡形門跡・石垣・井戸・排水溝などの遺構に加えて、庭園それも安土桃山時代の形式の枯山水庭園があったことがわかり、青磁や白磁、天目茶碗、鉄釉仏飯器なども発見されて、城館として機能していた可能性が高いと考えられている。
現在は「二俣城跡及び鳥羽山城跡」として国の史跡に指定されている。浜松からは、遠州鉄道で新浜松から西鹿島、天竜浜名湖鉄道に乗り換えて次の駅の二俣本町駅から北に徒歩10分ほどである。
公園として整備された城跡は、緑あふれる市民の憩いの場となっており、子供たちも上れる石垣は格好の撮影スポットである。首都圏からは、浜松城周辺の観光には行っても、ここまで来る人は少ないが、二俣本町から徒歩10分ほどの隣駅、天竜二俣には、今も現役で活躍している転車台のある車両基地・鉄道歴史館があり、鉄道ファンには見逃せない。ぜひ合せての見学をお勧めする。
▼二俣城跡

▼鳥羽山城跡

▼清瀧寺の井戸櫓
清瀧寺の山号は「信康山清瀧寺(しんこうざんせいりゅうじ)」で、二俣城と共に、家康の長男、信康に深いゆかりのある史跡である。先の回でまた、ご紹介することになるだろう。

▼天竜浜名湖鉄道 天竜二俣駅の転車台
今は転車台による車両の方向変換は行われないが、車庫入れ(扇形車庫)に利用されている。

4.決戦!三方原
武田軍の脅威の中で、家康と家臣団が唯一の希望としていたのは「我らのほうが、浜松の地理をよく知っている」ということだった。「信玄は、欠下の坂道で三方原に上がってくるつもりだろう。三方原を進めば、その先は祝田(ほうだ)の崖道。この狭いところを下りていく武田軍を追って、後ろから突けば、大軍相手の不利は避けられる。いざ、祝田の坂で武田軍を追い落とせ!」
ところが、武田軍は、祝田で三方原台地を下りると見せかけて、実は台地上にとどまり、徳川軍を待ち構えていたのだった。こうして家康軍は、最も避けたかった大軍との野戦に突入せざるをえなくなった。浜松の地理など、武田軍はとっくにリサーチ済みだったのである。
徳川軍、あえなく三方原で全滅か?! 続きは次回「真・三方ヶ原合戦」へ・・・
▼三方原追分 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.5 mapC 42 写真42
▼追分一里塚 『ホントに歩く東海道 別冊姫街道』MapNo.5 mapC 44 (写真44)
▼江戸から66里、安間から2里目にあたり、塚が街道南側に残る。
▼祝田の坂(添付写真)
三方原追分は、浜松からの姫街道が、姫街道本ルート(本坂道)に合流する地点だが、金指街道(現在の国道257)が姫街道と分岐する所でもある。

金指街道が、MapNo.5のmapCからはみ出した先、三方原の北の外れが祝田坂で、「祝田坂への旧道」の碑と説明板がある。
▼根洗の松
祝田坂の碑の近くに、「根洗の松」と言われる松の木(現在の松は二代目)があり、信玄がこの近くに本陣を構えたと伝わっている。根洗とは、雨が降るたびに松の木の根が洗われたということから来ているそうだ。

どこにいる家康 第17回 ギャラリー










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