2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

「どうする家康」14回目は、越前朝倉攻め。
上落していた家康は、織田信長らと朝倉征伐のために北上し、金ケ崎に朝倉義景を追い詰めましたが、浅井長政に裏切られます。
信長の妹「お市」は、長政に嫁いでいましたが、そのお市に仕える「阿月」が走りまくって、スポットライトがあたる回でした。
オープニングの「どうする家康」のタイトルからも、あずきがこぼれていました。

舞台は、福井県敦賀市、美浜町、若狭町、越前・近江国境など、東海道、中山道からも離れており、「ホントに歩く」シリーズの出番はありません(涙)。

もくじ
●第14回「どこにいる家康」▼動静
●第14回「どうする家康」の舞台関連マップ
●第14回「どこにいる家康」発展編(by(し)
  1.家康の黒歴史? 奥浜名に残る戦禍の跡
  2.三井記念美術館のNHK大河ドラマ特別展「どうする家康」
●ギャラリー

第14回「金ケ崎でどうする!」▼動静

▼00分 敦賀・金ケ崎の浜(福井県敦賀市)
(回想シーン)浜で子どもがかけっこ。褒美は三方山盛りの干し柿。男子がスタートした後を追いかけていった女子が、今回のキーパーソン「阿月」。
かけっこでは阿月が一着になるも、父に「女が走るな」と連れて行かれ、多分干し柿はもらえない。

▼02 10年後(永禄13(1570))敦賀・金ケ崎の浜(福井県敦賀市)
漁民が、名物の越前ガニを振る舞う
渡辺守綱は、カニを化け物呼ばわり。平岩と鳥居もまずそうと言いながら食べて喜ぶ。

▼03分 ♪音楽「どうする家康メインテーマ~暁の空~」

▼06 金ケ崎 妙顕寺<信長軍本陣 福井県敦賀市元町>
金ヶ崎城、手筒山城を攻略し、その宴会。酒井忠次ぐが皆の前で「えびすくい」を披露。木下藤吉郎(豊臣秀吉)は「かにすくい」を踊る。
家康も、カニを持っておどける。

▼07 永禄13(1570)年4月27日 金ケ崎 妙顕寺<信長軍本陣 福井県敦賀市元町>
宴会の翌日。
家康の家臣たちは、なぜ自分達が朝倉攻めをしなくてはいけないのかと、不満をつのらせる。
(回想シーン)京都で、足利義昭にコンフェイトを食われてしまう。

▼09 北近江・小谷城<浅井氏居城 滋賀県長浜市小谷郡上町、湖北町伊部>
浅井長政がお市に、「兄上(信長)を裏切る」と告げる。
家康に長政の謀反を告げるため、お市は阿月に、小豆を詰めたお手玉に文を入れて、しのびに渡す。

▼11 金ケ崎 妙顕寺<信長軍本陣 福井県敦賀市元町>
 信長が、「唐の国が見える」と家康をからかう。
 作戦会議をしていると、朝倉義景が1万5千の兵を率いてこちらへ向かっているという知らせが入る。

▼13 近江・越前国境あたり<両国の国境は、東の三国岳から西の三国山まで>
 浅井軍が進軍中。
浅井軍は、長浜から塩津街道を進み、敦賀へ向かう道。深坂峠のあたりか。
東の三国岳は、越前・美濃・近江、西の三国山は、若狭・越前・近江の国境。

▼13 北近江・小谷城<浅井氏居城 滋賀県長浜市小谷郡上町、湖北町伊部>
しのびが浅井軍に捕まり、「おひき候へ いち」と書いた家康への手紙が見つかってしまう。
お市の思いを知った阿月は、金ヶ崎は故郷なので、自分が10里(40㎞)を走って家康へ知らせると言う。

▼16 金ケ崎 妙顕寺<信長軍本陣 福井県敦賀市元町>
家康たちは、万がいち、浅井が応援ではなく、攻めてきたらどうするのかと心配になる。
石川数正「なぜ信長はあのポンコツの将軍(足利義昭をあがめ奉るのか。それを浅井は見抜いているのでは」

▼18 北近江・小谷城<浅井氏居城 滋賀県長浜市小谷郡上町、湖北町伊部>
(回想シーン)長政はお市に、「信長のしていることは恐ろしいことだ」と言う。

▼18 金ケ崎 妙顕寺<信長軍本陣 福井県敦賀市元町>
石川数正「信長がやろうとしていることは、将軍(足利義昭)を操って天下を我が物にすることだ」

▼19 北近江・小谷城<浅井氏居城 滋賀県長浜市小谷郡上町、湖北町伊部>
阿月が小谷を脱出しようとすると、浅井の家臣に見つかる。
「お市様の乳の出が悪いのでもらい乳に」とかわすも、後をつけられて、川に落とされる。
(小谷城跡近くに大日川というのが流れているが、その川か)

▼21 敦賀・疋田城(疋壇城)<敦賀市疋田>
浅井軍通過。
朝倉氏の城。近江・越前国境守備の役割を担っていたそうです。

▼21 金ケ崎 妙顕寺<信長軍本陣 福井県敦賀市元町>
作戦会議。明智光秀が信長に「浅井は疋田城に、朝倉は浅水に入った様子」と報告。
家康が、「ここは危ないのでいったん引いた方がよい」と進言し、信長を怒らせてしまう。
「どうしてもっと早く止めてくれないのか」と家康は家臣をなじる。
柴田勝家が、「徳川様がいるときは信長様は機嫌がいいので、お供して」と頼みに来る。

▼28 永禄13(1570)年4月28日 敦賀・疋田城(疋壇城)<敦賀市疋田>
浅井軍、疋田城を出発。
ヤブに潜んでいた阿月は、見つかりそうになる。

▼30 阿月走るシーン+回想シーン
阿月、両足を紐で縛られ、歩く練習をさせられてる。
父親に、300文で通りがかりの男に売られてしまう。
逃げ出して、浅井氏のどこかの台所で大根を盗み、捕まったところをお市に助けられ、侍女にしてもらう。

▼34 北近江・小谷城<浅井氏居城 滋賀県長浜市小谷郡上町、湖北町伊部>
お市、いなくなった阿月を心配する。

▼34 金ケ崎<福井県敦賀市>
走り続ける阿月、金ケ崎に到達し、浜を見下ろす場所で、朝日を見て泣く。
浜で平岩親吉に出会い、家康のところに連れて行かれる。
阿月は「おひきそうらえ」と家康に告げ、息絶える。
家康は、信長にお市からの伝言だと伝え、逃げろと促す。
信長は、藤吉郎(秀吉)に「殿(しんがり)を務めろ」と言って去っていく。
藤吉郎は泣き叫び、家康に助けないと浅井と手を組んで信長を裏切ろうとしていると言いふらしてやると言う。

▼41 金ケ崎<福井県敦賀市>
浅井・朝倉軍2万5千人が金ヶ崎に到着。

「紀行潤礼」福井県敦賀市

熊川宿(福井県 三方上中郡若狭町熊川)
京都と越前を結ぶ若狭街道(日本海の鯖を京都へ運んだので鯖街道とも)にある宿場町。信長や家康は、朝倉攻めに向かう道中、この地で体を休めたという。

得法寺(福井県三方上中郡若狭町熊川)
家康が一泊し、腰掛けた松の根元が「家康腰掛けの松」として残る。

妙顕寺(福井県敦賀市元町)
金ヶ崎城攻めの際の信長本陣。

月見御殿(金ケ崎城跡) (福井県敦賀市泉)
日本海が一望できる。ここから信長は家康に「唐が見えるだろう」と言ったのだろうか。
現在は、すぐ横に夏緑発電所とセメント工場がある。

越前がに
福井の冬の味覚の代表。皇室に献上されている唯一の蟹という。
「越前がに」は、品種名ではなく、「福井県で水揚げされたオスのズワイガニ」という地域ブランド名。山陰地方では「松葉ガニ」、石川県では「加能ガニ」などとも呼ばれ、地域で名前が違う。
ちなみに、メスは「せいこがに」と呼ぶそうです。

(こ)記録

第14回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップはなし。
でも、ご関心あれば、東海道をご覧ください。

『ホントに歩く中山道』第1集(京都~守山)


どこにいる家康14 発展編(by(し))

今回の金ケ崎の「退き戦」、信長・秀吉・家康が登場する大河ドラマでは、これまで何度も描かれてきた部分ですが、東海道・中山道とはほとんど接点がなく、「発展しない発展編」に・・・次回以降の予習あるいは6年前の大河ドラマ「おんな城主直虎」の復習としての家康の遠江侵攻と、4月15日にオープンした三井記念美術館の大河ドラマ特別展「どうする家康」(6月11日まで)のご紹介でお茶を濁すことにします。

1.家康の黒歴史? 奥浜名に残る戦禍の跡

永禄12年(1569)、家康は駿府から逃れ懸川(掛川)城に籠もった今川氏真を包囲し、開城と引き換えに氏真夫妻を小田原へ逃がすことに成功した。この経緯は第12回で、駿府時代の氏真・家康と今川義元、またこの一回だけ登場した氏真夫人との関係などが綿々と描かれ、美談に終わっていたのだが、実はこの時期、家康は氏真だけを相手にしていたわけではなかった。

遠江侵攻にあたり、家康は三河との境界の井伊谷で調略を行い、近藤康用・菅沼忠久・鈴木重時の「井伊谷三人衆」を味方につけて、遠江侵攻の案内役とする。井伊谷の城主は次郎法師井伊直虎であったが、幼い嫡子と女城主を残して井伊家の男子が死に絶えていたことから、今川の威を借りた家老小野政次に乗っ取られていた(2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」では、小野はわざと悪役を演じ、自己犠牲によって井伊家を存続させたことになっていた)。

懸川城攻めの前年永禄11年、家康はまず、姫街道の気賀関所から2kmほど東にある刑部(おさかべ)城を攻め落とした。落城の際、城主庵原忠良の姫が池に身を投じ、金襴の蛇に変じたという伝説があるそうだ(東京の石神井公園にも姫の身投げ伝説があるが、これは明治以降に出来た話だという)。

その後、懸川城攻めと同時進行で、浜名湖岸舘山寺の堀江城を攻略。堀江城を守る今川の家臣、大沢基胤は、井伊谷三人衆の一人鈴木重時を討ち取るなど奮戦するも、最終的には本領安堵と引き換えに家康に帰順する。

しかし、堀江城の支城であった気賀の堀川城の抵抗は頑強で、周辺の土豪や農民ら老若男女が武装して城にたてこもり、徹底抗戦を続けた。しかし干潮時に堀を刈草で埋め大軍で猛攻をかけた徳川軍の前に、ついに落城。抗戦の主導者たちは「男女共になで切り」にされ、首を都田川の土手に並べて晒された。姫街道沿いに供養碑のたつ「獄門畷」が今も惨禍を伝えている。

この堀川城攻めには、四天王の一人榊原康政や、「色男殿」大久保忠世の嫡男の忠隣なども参加していたという。

「ハローナビしずおか 静岡県観光情報」
https://hellonavi.jp/detail/page/detail/32671

上記サイトに堀川城の解説があるが、「家康の若き日の汚点」と書かれている。武士ではない老若男女地元民に対し残虐な処刑を行ったのは、今回のドラマには全く出てこないが、史実である。

ただ、家康にとっては、土着の農民たちの抵抗のほうが、敵の将兵よりもずっと不気味で恐ろしかったのではないだろうか。寺社勢力も共に抗戦していたということで、三河一向一揆の苦い記憶も蘇ったかもしれない。城主領主や武士階級であれば、本領安堵・扶持を条件に交渉も出来るが、見知らぬ土地の民が、老若男女の別なく憎しみをこめて向かってくることには恐怖感が大きかった事だろう。現代でもベトナムや中東における米軍の残虐行動が度々ニュースになったが、これも決して優越感ではなく、恐怖がなせるわざと思う。

▼気賀近藤氏墓所 『ホントに歩く東海道』別冊姫街道 MapNo.4 mapC 39
井伊谷三人衆の一人、近藤康用(やすもち)の孫、用可(もちよし)が祖となった気賀近藤家は、明治維新まで12代にわたり気賀を領地として関所を治めていた。

▼堀江城
遊園地「浜名湖パルパル」(浜松市西区舘山寺町)の、園内の大観覧車のあたりが、堀江城の本曲輪があった場所といわれている。
https://pal2.co.jp/topics/post-7.php

浜名湖パルパルは、マップの範囲外になるが、弁天島(第8集 MapNo.33 mapA )と、西気賀(別冊姫街道 MapNo.4 mapB )を結ぶ線上になる。

▼伝堀川城跡  『ホントに歩く東海道』別冊姫街道 MapNo.4 mapC 41 写真41
堀川城の遺構は残っておらず、正確な位置は不明だが、「堀川城跡・古戦場」の石碑と、小さな首塚が一基ある。

浜松市 堀川城址と首塚
浜松市 堀川城址と首塚

▼獄門畷 「堀川城将士最期の地」の碑 別冊姫街道 MapNo.4 mapC 40  写真40

獄門畷「堀川城将士最期之地」
獄門畷「堀川城将士最期之地」

2.三井記念美術館のNHK大河ドラマ特別展「どうする家康」

まずは家康が愛用していたというグッズのいろいろが興味深い。

茶道具や書画も多数あるが、家康の人となりを考えてみるに、それらは社交用であり、愛着を持っていたのは美術品よりも実用品だったように思われる。「家康は理系男子だったと考えられる」と解説にもあった。
洋時計や、「けひきばし」と呼ばれている「コンパス」。旅にも携帯していたといわれるコンパクトな黒柿硯箱も、いかにも使い込んだ実用品という趣。これらは前期のみの展示(5月14日まで)だが、後期はそれらに代わり、最初に鉛筆を使った日本人といわれる家康が所持していた鉛筆が出るらしい。

家康が健康オタク、薬草オタクだったというのも有名だが、薬剤の製法書や、乳棒と鉢なども展示されている。
鷹狩りを愛した家康の、鷹狩スケジュール表なども残っており、「忍」という地名が判読できて心躍る。中山道の北鴻巣から分かれ、忍城を経て館林へ至る道があり、日光裏街道とも呼ばれていたようだ。館林の藩主に任命されたのは、徳川四天王の一人榊原康政である。

屏風類も素晴らしいものがいろいろ出品されている。
中でもすごいのが圧倒的大きさの「津軽屏風」(重文)。関ヶ原合戦図屏風としては最古のものだそうである。家康の異父弟松平康元の娘、満天姫が家康の養女として津軽家に嫁ぐとき、家康に懇願して婚家に持っていったという。松平康元は、第3回でご紹介した「久松三兄弟」の一番上で、関宿の初代城主になり、母於大の菩提寺光岳寺を作った人。
後期はこれに代わって、大阪城天守閣の関ヶ原合戦図屏風が出品される。

「金陀美具足」も見ることができる。一般的な家康のイメージとはやや違い、シュッとしているというか、ほっそりした感じで、若いときは家康もスリムだったのかなと思わせる。松本潤主演が決まってから「イメージ合わない!」と言われ続けてきたが、配役を納得させるものとして、この具足がフィーチャーされているのかもしれない。

三井記念美術館HP
https://www.mitsui-museum.jp/

NHK大河ドラマ「どうする家康」展 2023年4月15日〜6月11日

三井記念美術館 どうする家康展 チラシ

どこにいる家康 第14回 ギャラリー

なんとなく姫街道

「ホントに歩く姫街道1」は、御油〜気賀。
「ホントに歩く姫街道2」は、気賀〜見付、三方原追分〜浜松、田〜和田です。