2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

「どうする家康」11回目は、三河を平定した家康が松平氏から徳川氏になりました。
しかし、武田信玄と今川領の切り取り合いになり、妻の瀨名の幼なじみのお田鶴(引間城主の妻→女城主)を討伐する、そんなことがあったのかという展開にびっくりしました。今回は「お田鶴回」の感じでした。
武田信玄が駿府を制圧し、焼ける碁盤の目の町を見下ろしていた山はどこなのか。甲府からどこを通って駿府へ至ったのか気になります。甲府からだと、身延道でしょうか。
 発展編では、徳川改姓のルーツや引間城主飯尾家のその後など、深掘りをしています。

もくじ
●第11回「どこにいる家康」▼動静
●第11回「どうする家康」の舞台関連マップ
●第11回「どこにいる家康」発展編(by(し)
  1.徳川改名と家康のルーツ
  2.引間城と遠江の椿姫
  3.信玄との密約
  4.団子
●ギャラリー

第11回「どこにいる家康」▼動静

▼00 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
「自分が源氏のはずはない」と腐ってる家康に、酒井忠次が朝廷からの官位を受けるよう勧める。

ホントに歩く東海道 第10集 №40 岡崎城
ホントに歩く東海道 岡崎城周辺

▼10 大樹寺(岡崎市)<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 コラム40>
大樹寺の僧侶たちが書類を探しまくっている。家康の祖父・清康が「世良田」姓を名乗っていて、それは源氏であること、また、ずーっと飛んで、「得川」という人も源氏の末裔だから、
登誉上人「源氏と言ってよいのではないかと思わんでもない」
家康「なろうと思えばなれるもんじゃな」
石川数正「わしは日本武尊の末流かもしれん」

▼03 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
名字を「徳川」に変えて、京都の公家に年間300貫払い、家康は「従五位下徳川三河守藤原家康」となる
岡崎城で叙任祝賀パーティを開く。

▼04 引間(ひくま)城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所
お田鶴、剃髪している。

ホントに歩く東海道 浜松宿と引間城

▼05 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼07 駿府 今川館<駿府城付近 第6集 №22 mapC18>
(回想)10年前、お田鶴と瀬名の仲良しシーン。椿が好きなお田鶴。

▼08 引間城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所
お田鶴、剃髪しながら、瀨名の手紙を読む。
夫の飯尾連龍(いのおつらたつ)が死に、お田鶴が引間城の女城主になった。

▼09 岡崎 築山の庵<「ホントに歩く東海道」第10集 №39 mapC36 籠田公園南、康生郵便局のあたり>
瀬名と家康、庭に椿を植える。

ホントに歩く東海道 築山の庵
築山の庵「ホントに歩く東海道」第10集 №39 

▼09 引間(ひくま)城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所
瀬名の手紙を燃やすお田鶴。「戦に備えよ」と命令。
今川と手を組み、家康と敵対することになる。

▼10 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
信長から鷹狩りに誘われ、鎧を着けて出かける家康。

▼11 どこか?鷹狩り場
信長「何だその格好は」
信長は、焼き鳥を食べながら、家康に「上洛する」と伝え、今川を見限った信玄と「談判しろ」と命ずる。

▼14 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
家康が、鷹狩りから戻る。
瀬名に、武田軍が今川を切り取りにかかると伝えると、瀬名はお田鶴に降伏をよびかける手紙を書く

▼15 躑躅ヶ先館(甲府市)
武田信玄が、穴山信君と山県昌景らとともに作戦会議をしていると、信長から「家康に会ってくれ」という手紙が届く。

▼16 信濃三河国境あたりの寺
山深い映像
家康たちが待っていると、信玄は来ないで、穴山と山県がやってくると聞く。家康は、「どなりつけてやるがよい」と石川数正と酒井忠次に言い捨て、逃げ出す。

会見場所はどこでしょう。信濃三河国境はけっこう長く、三河と信濃が接しているのは、西が三国山(美濃・信濃・三河)で、東が天竜川まで。国境は山岳地帯で、全部あてはまる気もします。現在は、国道151号153号が通っています。

三河信濃国境
三河信濃国境

▼20 信濃三河国境あたりの寺近くの山の中
本多忠勝が「武田信玄は、猫のような貧相な小男かもしれません」と言うと、家康・榊原小平太「ニャー、ニャー」とふざける。
茶を持った信玄が現れ、「今川領を東(信玄)西(家康)両側から切り取ろう」と、団子を家康に無理矢理かじらせ、残りを全部自分で食べてしまう。

▼24 躑躅ヶ先館(甲府市)
永禄11(1568)年12月6日 武田信玄、駿河侵攻開始
信玄は、赤鬼みたいな格好をして、たくさんの兵士に出撃を命じる。

▼25 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
信玄の駿河侵攻を聞き、家康軍も引間城に向かう。

▼26 引間城付近
お田鶴柴田理恵さんが焼いた団子を食べる。

▼28 引間城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所)>
永禄11(1568)年12月10日、家康軍、引間城を包囲する。
鳥居元忠、城門でお田鶴側に降伏を促すと、鉄砲で撃たれ、逃げる。

▼29 <駿府城付近 第6集 №22 mapC18>
永禄11(1568)年12月13日、駿府を制圧
武田軍が攻め入り、阿鼻叫喚の様相。
信玄は、燃える駿府の町を見下ろしているこの見下ろしている山は、どこか。

ホントに歩く東海道 第6集 ケース裏
ホントに歩く東海道 第6集 ケース裏


第6集ケース裏の地図を見て、駿府の町にいちばん近い山は、浅間神社が麓にある賤機山と思いました。
「静岡・浜松・伊豆情報局」さんのHP「賤機山」のページに、賤機山城の記述と山からの写真が掲載されていました。
https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/shizuoka/shizuoka-city/sz674/

また、信玄の駿河攻めは、東海道にも史跡があります。

・永禄11年 信玄と今川氏真の薩埵山八幡平合戦<「ホントに歩く東海道」第5集 解説冊子16頁>

・永禄12年 信玄と北条氏の薩埵山興津川原合戦<「ホントに歩く東海道」第5集 解説冊子16頁>
 この合戦で蒲原城が落城<「ホントに歩く東海道」第5集 №18mapD33(マップ外)>
 蒲原城最期の城主、北条新三郎の墓<「ホントに歩く東海道」第5集 №18mapC25>

ホントに歩く東海道第5集 薩埵山信玄侵攻
薩埵山 信玄侵攻の記述

「ホントに歩く東海道」編集当時は、戦闘が多い地域ぐらいの認識しかなく、地元の専門家に蒲原城址も案内してもらいましたが、結構な山登りと眺めの良さの印象しか残っていないのが残念です。

▼30 引間城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所
家康は駿府が制圧されたと聞き、翌朝に引間城へ攻め込む覚悟を決める。
お田鶴、瀬名に手紙を書く。「今川のご恩を忘れ、我が夫(飯尾連龍)もそなたの夫(家康)も過ちを犯しました」

▼33 <駿府城付近 第6集 №22 mapC18>
(回想)町中で、お田鶴と瀬名、団子を食べる。
お田鶴は今川氏真が好きらしいことが瀨名にばれる。

▼35 引間城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所
お田鶴が手紙を書き終えると、夜が明ける。
家康軍が攻め込もうとすると、お田鶴が城に火をつけさせ、城門から甲冑姿で出てくる。
家康の降伏の呼びかけを遮り、馬上で撃たれて死ぬ。城が燃えて、瀬名に宛てた手紙も燃える。

「紀行潤礼」静岡県浜松市

浜松まつり会館<「ホントに歩く東海道」別冊姫街道 №7 B30和泉神社の凧置き場。解説面7頁に浜松まつりの解説>
大凧揚げは、飯尾連龍とお田鶴の嫡男誕生を祝ったのが起源と伝わる。凧揚げは、元は姫街道沿いの和地山公園<№7 B40>で行っていたが、戦後、海沿いの中田島で行われるようになった。

浜松市のマンホール 大凧
浜松市のマンホール 大凧

引間城・東照宮( 浜松市 中区元城町111-2)

椿姫観音(浜松市 中区元浜町 133)
お田鶴と侍女18人が葬られ、瀬名が100本の椿を植えた。

(こ)記録

第11回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。

どこにいる家康11回マップ

『ホントに歩く東海道』第5集(元吉原〜江尻<清水>)
『ホントに歩く東海道』第6集(江尻<清水>〜藤枝)
『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)
『ホントに歩く東海道』第10集(御油〜岡崎)
『ホントに歩く東海道』別冊姫街道<本坂通>(御油〜見付)


どこにいる家康11 発展編(by(し))

1.徳川改名と家康のルーツ

第2回の舞台だった岡崎の大樹寺と登譽上人が再登場。あれっきりという事はないと思ったが、なんと今度は「姓氏捏造」の場? こんなシーンは大河ドラマでも初めてではないかと思われるが、けっこうリアルっぽくて面白かったので、専門家の講評が楽しみだ。
登譽上人曰く「しかし金が要る」、言い換えれば「金さえあればごまかせる」。胡散臭さ満開であるが、「己の損得か、民の損得か」そして亡き今川義元の教えを思い出し、損得の得でなく「徳」川への改名。現代に置き換えれば、ブランドイメージ作りに腐心する企業の文化事業への投資などと共通性が感じられるだろうか? 同じ損得勘定でも、全くの私利私欲か、少しでも社会貢献への志があるかの差が、将来を分ける?

ところで、登譽上人が家系図の説明をしている時「こちらに飛んで、さらにこう」等と言いながら別紙を重ねていたが、ここは、2月の「ちゃらぽこ散歩会」軽野先生ガイドによる松平郷ウォーク( https://togetter.com/li/2079492 )に参加していなかったら、意味がわからなかった所だった。
実は「松平」のルーツは源氏でなく在原氏。そこに婿入りした(だから系図が別紙になっていた)親氏という人物を介して、世良田・得川という源氏につながる可能性があったのである。

松平系図と親氏像
松平系図と親氏像

三河の松平郷を開発したのは、業平で有名な在原家の在原信盛という人物で、賀茂神社の荘園を三河国松平郷に開き管理するため、14世紀の半ば頃に都から下ってこの地に居着き、嫡子信重と共に松平郷の経済や交通を開発して、領主松平太郎左衛門家となったが、信重は娘だけで息子には恵まれなかった。そこへ東国から諸国を放浪していた遊行僧の子で、文武に秀でていた親氏が婿入りし、松平太郎左衛門親氏を名乗ってさらに力をつけていった。
親氏の孫に信広・信光という兄弟がいて、弟信光の系統が家康につながる。信光は非常に子だくさんで、その子や孫たちから十八松平といわれる多くの分家が誕生した。さらに信光は伊勢家の被官となることで、中央にも繋がりを持ち勢力を伸ばした(このあたり、柴裕之『青年家康・松平元康の実像』に詳しい)。信光の子、松平親忠は、岡崎・安城を拠点に勢力を広げ、松平家の菩提寺として大樹寺を、氏神として伊賀八幡宮を創建して、晩年を岡崎で過ごした。親忠が安城に建て、家康の祖父清康が岡崎に移転した善立寺は第9回参照。清康は親忠の曾孫になる

しかし親氏を祖とする松平の宗家は、信光の兄信広の系統で続いた。江戸時代の宗家(松平郷松平家)は、身分は小身の旗本ながら特別な存在とみなされて存続した。今も松平郷では、家康ブームとはやや距離を置き、松平信広からつながる宗家を静かに守り続けている。

松平ルーツの松平郷は東海道とはかなり距離があり、岡崎の史跡もほとんどは清康以降だが、矢作川に近い光明寺には、松平親氏が納めた先祖の位牌が今も保管されているという。
松平親氏の祖といわれる世良田という名字は、源義重(八幡太郎義家の孫で新田義貞らを輩出する新田氏の祖)が、四男義季に譲った世良田郷(現在の群馬県太田市)で、得川も世良田郷の一部というが、国史大辞典(吉川弘文館)では「親氏の先祖を新田氏とするのは、今日では信用されていない」とバッサリ切り捨てている。宗家松平郷松平家に伝わる文書でも、親氏の新田源氏末裔説の主張は見られないと『青年家康』にある。

ただ、親氏が、太郎左衛門家への婿入りにあたって、自分のルーツをアピールすることが全く無かったかといえば、そうも言い切れないと思う。もし親氏が新田ルーツをアピールしたとしたら、それは、吉良・今川など足利氏勢力が支配的であった三河で、「そっちが足利ならこっちは新田」という対抗意識のあらわれだったかもしれない、と軽野先生はおっしゃっていたが、大変うなずける説だと思った。
足利義兼(昨年の鎌倉殿では存在感が薄かったが)は、畠山や稲毛らと同様に北条時政の娘を妻とする頼朝の相婿だったが、本拠地が鎌倉から遠いためか北条執権に潰されることなく生き延び、嫡男義氏の代では承久の乱の功績により三河守護となって繁栄し、吉良・今川などに分流した。一向一揆の折、武田の間者が「本当ならば吉良様こそが三河の盟主」と煽っていたのも、そのような背景故と思われる。

大樹寺 第2回参照 https://www.fujinsha.co.jp/doko-ie02/

▼善立寺 第9回参照 https://www.fujinsha.co.jp/doko-ie09/

▼光明寺 『ホントに歩く東海道』第10集 MapNo.40 mapB(国道1号線矢作町加護畑交差点南側(番号なし 写真なし))
松平親氏が病に倒れた際、住職の介抱で救われたため、親氏が先祖の位牌を納め、現在も保管されている。

▼松平郷
名鉄本線豊橋駅(『ホントに歩く東海道』第9集 MapNo.36 mapA)から、八橋のかきつばたでおなじみの知立(第11集 MapNo.41 mapC, mapD)で名鉄三河線に乗り換え、豊田市駅からバスでさらに30分ほど、だんだん市街地を離れ田園地帯になってきたと思う所に松平郷バス停がある。大きく目立つ三つ葉葵の紋と「松平家発祥の地」の幟が迎えてくれるが、観光地の雰囲気はほとんどなく、「権現もち」「松平まんじゅう」などを売る店舗もずっと離れた所にしかない。しかし松平ルーツを堪能できる松平郷館、松平親氏立像、代々当主の産湯に用いられたという産湯の井戸のある松平東照宮、松平親氏らの墓所のある高月院など、他では見られない独自のスポットが満載である。

2.引間城と遠江の椿姫

前回に引き続き、主要な舞台となる引間城。城主の飯尾連龍は、今川と徳川を仲介して遠江に平和をもたらそうとした「良い人」だったのに、氏真の疑心のため殺されてしまって気の毒、みたいな印象だったが、実は、家康が一向一揆に苦戦している時期に今川に叛旗を翻し、他の国衆たちも次々と離反する「遠州錯乱」の元締めのような存在だったらしい(平山優『徳川家康と武田信玄』)。ある程度は自業自得ともいえるのか? もっとも国衆たちが、あっちにつきこっちにつきするのは、当時当たり前だったので、飯尾連龍としては、一時的に敵対はしたものの今は和睦したと思って駿府に出向いたのが仇になったという事だろうか。

ホテルコンコルド浜松前から見た元城古城址
ホテルコンコルド浜松前から見た元城古城址


飯尾連龍の墓は浜松市の東漸寺にあり、ここは東海道にも近いのに気づかず、せっかく浜松に行ったのにスルーしてしまった!(大反省)
写真をお借りしようと検索するが寺のHPはないようだ。いくつかの個人のブログで墓所の写真が見られる。

浜松宿 東漸寺の飯尾連龍墓
浜松宿 東漸寺の飯尾連龍墓

前回もご紹介した元城町の古城址は、再建された天守閣のある浜松城と少し離れた、静かな雰囲気のある一角であるが、元城東照宮は、明治になってから旧幕臣の手で建てられたものだという。
飯尾連龍の妻、田鶴を祀る椿姫観音は、紀行で言っていたように元城東照宮の近くだが、周囲の雰囲気は少し違って街中にあり、通りがかりの人々が親しげにお詣りして行くような、こじんまりとした祠である。

椿姫観音
椿姫観音

田鶴の最期については諸説あるらしく、平山優『徳川家康と武田信玄』・黒田基樹『戦国「おんな家長」の群像』などによると、飯尾連龍の妻は、駿府に夫と同行しており、夫が討たれる時に侍女たちも共に抵抗して奮戦したという説のほうが可能性が大きいという。しかしドラマのように家康の浜松城攻めの時に討死したという史料も別にあるそうで、専門家の間でも定説が生まれるには至っていないようである。
前回の西郡の局「お葉」も、大河ドラマに登場する女性としては、かなり特異なキャラクターに描かれていたが、今回の田鶴も、夫亡き後の城を守って非業の最期を遂げる単なる貞女・烈女ではない。夫連龍との関係はごく薄く(夫妻のツーショットも結局なかった)瀬名との幼なじみという面が強く打ち出されていた。

『お家の大事』という作品集(近衛龍春、新潮社)に、田鶴がヒロインの『遠江の椿姫 飯尾連龍が妻田鶴』があるが、この小説では田鶴は瀬名よりも先に飯尾連龍と結婚して浜松に行ってしまっているので、「どうする家康」で描かれた瀬名奪回作戦への関与(妨害)などはなかったはずである。
夫の離反を今川に告げ口したというのも完全な脚本オリジナルと思われるが、駿府育ちの瀬名のほうが今川の没落を受け入れていて、家康と同様三河出身のはずの田鶴が、最後まで「美しい駿府」にこだわりそれに殉死したような展開は、武士出身ではない新選組が純粋な武士らしさにこだわりつつ滅んだ事など連想させ、なるほどと思わせる。通説では、今川の過去の栄光を忘れられず徳川家に溶け込めなかったのは築山御前なのだが、それを田鶴にスライドさせたようにも見える。

ところで、紀行で紹介されていた「飯尾連龍と田鶴の子供の誕生を祝って凧を揚げた」という、浜松まつりの大凧揚げについては、『ホントに歩く東海道』マップでも解説を載せているが、その凧揚げで祝われた飯尾家の子供はどうなったのだろうかと気になる。
WEB検索してみてもあまりよくわからないが、2012年2月に書かれた浜松の飯尾さんという方のブログに興味深いことが書いてあった。家康に浜松城を落とされた後、飯尾氏は関東へ逃れ、現在の原宿あたりに居住して、墓所が残っているというのだ。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=961086&id=67966257

さらに、原宿・表参道の路地裏ガイドというサイト(2007年7月)にも、その場所の案内が載っており、飯尾家の末裔は、家康の次男、結城秀康の家臣として存続したという。
http://uhphantom.blog104.fc2.com/?mode=m&no=44

かなり前の記録なので、現在もあるのかなと少々不安を覚えつつ、さっそく原宿に行ってみたら、ちゃんとありました! その上、度々訪れている太田記念浮世絵美術館の向かいの、ラフォーレ原宿の裏口に、「源氏山テラス」という表示があり、詳しい説明が出ている!! 飯尾連龍の次男がこの地に入植し、飯尾家は源氏の末裔であったことから「源氏山」と呼ばれるようになり、渋谷区が区になる前は「千駄ヶ谷町大字隠田字源氏山」であったと書いてある。よく知っているはずの所にも、知らない事がいろいろあるものだ。
飯尾家の墓所は、近くの路地の奥の柵に囲まれた一画にあり、知らなければ「こんな所にお墓? でも人の家の敷地だよね」と思って通り過ぎてしまうような所だが、のぞいて見ると説明板も貼ってあり、戸に鍵もかかっていないので、開けて入って拝観する。「旧蹟源氏山由来」と題された説明は、昭和64年に飯尾家の当主の方が書かれたもののようで、浜松から入植してこの地を開墾したのが浜松曳馬城の最後の城主飯尾連龍の次男であったことが説明され、連龍の子の誕生祝で始まった浜松の凧揚げについても言及がある。
それにしてもブログを書かれていた浜松の飯尾さんには、今年の大河ドラマに、どのような感想をお持ちか是非聞いてみたいものだ。

浜松城・浜松城公園 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapB26
 コラム31「浜松城は出世城」

▼引間(曳馬)城址 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapB 宮(引間城跡)番号なし
 
▼東漸寺(飯尾連龍の墓) 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapB 番号なし写真なし

▼椿姫観音 『ホントに歩く東海道』別冊姫街道 MapNo.8 浜松道mapB
東照宮の東側に秋葉街道が南北に遠州鉄道と平行して走っているが、そのもう一つ東側(線路寄り)の道路を北上した、「⑲正福寺の道標」写真に隠れた辺り。
WEBからもダウンロードできる「家康の散歩道」マップが詳しい。
https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/walking.html

▼浜松まつりの凧置き場 『ホントに歩く東海道』別冊姫街道 MapNo.7 浜松道mapB 38和泉神社(写真38)
浜松まつりと凧揚げについては 解説p.9

3.信玄との密約 

もともと、瀬名が言っていたように、甲斐(武田信玄)・駿河(今川義元)・相模(北条氏康)の三国は同盟を結んでいた。駿河⇒甲斐、相模⇒駿河、甲斐⇒相模と、それぞれの家の娘をそれぞれの家の嫡子に嫁がせ、この三国は、お互いの領土には決して侵攻しないことになっていた。しかし、思いがけない今川義元の急死で三巨頭の一角が崩れると、機を狙う織田信長らの動きで、たちまち盟約も不安定になって行く。
そんな中で信長に煽られ、嫌々ながら信玄との交渉の場に臨むも徹頭徹尾貫禄負けという、家康と家臣団の右往左往ぶりがコメディタッチで描かれたが、信玄と家康の密約に関しては、何らかの形でなされたには違いないのだが、その場所や内容の詳細に関してはいまだに不明で、専門家の間でも諸説あるという。そこが脚本家にとっては腕のふるいどころだったようだ。

密約の内容、「信玄⇒駿河、家康⇒遠江」という分け方についても、その具体的な境界についてどのような話し合いがなされたのか、普通に駿河と遠江の境といえば大井川であるが、家康は大井川と思っていたのに、信玄は天竜川まで手を伸ばしてきたのが後々の争いになったとか、いちおう「川切」という提示はあったが曖昧だったとか、そもそも境界設定も行われず実力次第で切り取ったもの勝ち!みたいなことだったとか、このあたりも今後の研究の成が待たれるところだ。(平山優『新説 家康と三方原合戦』NHK出版新書)

▼大井川 『ホントに歩く東海道』第7集 MapNo.26 mapA 「川留め文化」の発展 史跡多数

▼天竜川 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.30 mapC 磐田市と浜松市の境界になっている

4.団子

ところで、第11回は、なぜか「団子」が、キーワードならぬキーイメージになっていた。信玄が家康に差し出したのは、団子が二つ並んだ串団子。片方が駿河、片方が遠江をあらわしているのなら、おそるおそる一口かじる家康と、残りの一つ半をがぶりと一口にする信玄の対比が、今後の展開を示しているということかもしれない。
また、田鶴が城下を見回って団子売りの老婆から団子を買う場面。領民に慕われている様子を描く目的なら、田畑の作物の様子を見回るなどが普通だと思うが、なぜ団子? 

浜松で団子⇒老婆と来れば、数年後の三方原合戦の「銭取りの老婆の逸話」を思い出す。団子ではなく小豆餅だが・・・武田軍の攻撃を受けて敗走する家康が、空腹のあまり小豆餅を食い逃げして、老婆に追いかけられ、代金を徴収(銭取)されたというエピソードである。小豆餅も銭取も、町名やバス停の名前に残っており(町名設定記念碑まである!)戦の中でもたくましく生きる庶民の様子が伺えて面白い。三方原合戦の回で、団子売りの老婆の再登場が期待される・・・と、放映後にツイートしたら、同じことを考えた人はたくさんいたようで、「小豆餅」「銭取」で #どうする家康 が大賑わいになっていた。

『ホントに歩く東海道』別冊姫街道 MapNo.7 浜松道 mapB の小豆餅・銭取関連史跡
32 御菓子司あおい(小豆餅)(写真32)

菓子店「あおい」の小豆餅・銭取看板
菓子店「あおい」の小豆餅・銭取看板

33 小豆餅神社(写真33)

34 小豆餅町名設定記念碑(写真34)

小豆餅説明
小豆餅説明

37 銭取饅頭跡標柱・銭取バス停(写真37)

銭取バス停
銭取バス停

どこにいる家康 第11回 ギャラリー