2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

「どうする家康」12回目は、今川氏真。

武田信玄に攻め込まれた今川氏真は、武田に調略された家臣たちにも、見限られました。
妻・糸は実家の北条家に逃れるよう勧めたが、氏真は聞かず、駿河を捨て、掛川城に落ち延びました。
家康は、兄弟同然に育った氏真と戦うこととなり、苦戦します。
氏真やその妻糸も含めた、回想シーンが多めの回でした。

もくじ
●第12回「どこにいる家康」▼動静
●第12回「どうする家康」の舞台関連マップ
●第12回「どこにいる家康」発展編(by(し)
  1.三国同盟が生んだ三組のカップルの明暗
  2.薩埵峠
  3.掛川(懸川)城と秋葉街道
●ギャラリー

第12回「氏真」▼動静

▼00分 駿府 今川館<駿府城付近 第6集 №22 mapC18>
(回想シーン)家臣に見捨てられた今川氏真岡部元信に武田軍が来る前に自刃をと勧められるが、やめる。
岡部元信は、「桶狭間の戦い」で討たれた今川義元の首を取り返した。他の家臣が氏真のもとを去っても、最期まで残った人。

▼04分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼06分 駿府 今川館<駿府城付近 第6集 №22 mapC18>
武田信玄は、氏真が逃げたことを知り、怒る。

▼07分 引間城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所)>
落城させた引間城で、家康たちは作戦会議。氏真の行方を気にする。

▼09分 どこかの山の中
氏真一行が逃げている。足の悪い妻の糸が遅れる。

▼10分 駿府 今川館<駿府城付近 第6集 №22 mapC18>
(回想シーン)氏真は、瀬名を嫁にほしがるも、三国同盟で北条の娘を娶ることになる。それが
糸が嫁に来ても、冷たく当たる氏真。
夜中に寝床を抜け出し、勉強したり、剣術に励む努力家の氏真。

▼14分 引間城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所)>
服部半蔵「氏真は掛川城にいる」と伝える。
信玄から家康へ「氏真を討て」との手紙が来る。

▼15分 掛川城<「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE44(大手門)一帯>
氏真は、掛川城に立てこもる。実家(北条家)へ駿府から逃げてきたのに、「逃げるなど、ありえん」と糸に強弁し、戦う。

掛川城。明治2年に廃城になり、木造再建された
掛川城。明治2年に廃城になり、木造再建された

▼16分 引間城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26浜松城の東(日本橋〜267km標示の下に隠れた所)>
かつての恩人である氏真を討てずに葛藤する家康に対し、鳥居元忠と岡部親吉が「氏真の家康たちや瀨名に対する仕打ちを、思い出せ」と言われ、「掛川城を10日で落とす」と気勢を上げる。

▼18分 掛川城<「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE44(大手門)一帯>
家康軍が掛川城を攻めるも、楯で塞がれて追い返される。

▼19分 家康本陣(天王山砦 龍尾神社「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE龍華院の北。マップ外)
目の前に掛川城が見える。
(回想シーン)今川義元が「元康(家康)はずっと人質だったので、人の顔色をうかがうくせがしみついている。許してやれ」と氏真を諭す。

天王山。家康本陣
天王山。今は龍華院。家康本陣はこの北1㎞ぐらい
掛川宿の特徴、七曲がり
掛川宿の特徴、七曲がり
掛川城と家康本陣

家康は、掛川城を囲む形でたくさんの砦を配置し、自身は、龍尾神社(外天王山)に本陣を置いた。
残念ながら、『ホントに歩く東海道』編集時(2014年)は全く知らず、マップ外です。
氏真が立てこもったのは新しい掛川城で、それ以前には、今川氏の重臣朝比奈氏により築かれた掛川城がありました(明応年間、1492年頃)。現在、龍華院があるあたりはその本曲輪の場所だそうです。

マップに載っている龍華院は、徳川家光の位牌を祀る御霊屋があります。
1656年(明暦2年)に、当時の掛川城主・北条氏重が、掛川古城跡に3代将軍・徳川家光(法号=大猷院)の位牌を祀る「天王山龍華院・大猷院殿霊廟」を建立した。氏重には嫡子がなく、家康が掛川城を攻め落とす時に本陣を置いた徳川家ゆかりの場所に家光の霊廟を建立することで、幕府や将軍家に好印象を与えようとしていたともされます。

▼23分 掛川城<「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE44(大手門)一帯>
(回想シーン)桶狭間へ向かう義元に、なぜ自分を戦に行かせてくれないのかと怒る氏真。義元は、「そなたに将としての才はない」と言う。

▼24分 掛川城<「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE44(大手門)一帯>
4ヶ月経ったが、家康軍は氏真が自ら矢や槍で奮戦し、楯で押し返され攻略できない。

▼24分 躑躅ヶ先館(甲府市)
信玄「夏の匂いがする」と言いながら、届いた首の入った桶を覗く。
信玄は、家康が氏真を討ち取らないのにいらつき、「遠江をつついてみよ」と命令。

▼25分 信濃遠江国境あたり
武田軍が遠江に攻め込んでくる。
遠江・信濃国境は、長野県・静岡県境の光岳(てかりだけ)から天竜川までのあたり。
国境線上に、秋葉街道の青崩峠があり、そのあたりか。
天竜川の近くには飯田線の秘境駅である小和田(こわだ)駅がある。

信濃駿河国境
信濃駿河国境。『旧国名で見る日本地図帳 お国アトラス』(平凡社)を改変

26 家康本陣(天王山砦 龍尾神社「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE龍華院の北。マップ外)
大久保忠世が「武田が国境に来た、早く氏真を討たないと」と言うと、駿府育ちの鳥居元忠と平岩親吉が、「殿と氏真の邪魔をするな」と怒る。 

▼27分 掛川城<「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE44(大手門)一帯>
家康軍、まだ楯で押し返される。
本多忠勝の槍が氏真をかすめる。
満点の星空の下、氏真は糸に「明日総攻撃で討ってでるので、女らをつれて北条へ逃げよ」と告げる。

29 家康本陣(天王山砦 龍尾神社「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE龍華院の北。マップ外)
榊原小平太が、掛川城から逃げ出した糸などを捕らえる。

▼30分 掛川城<「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE44(大手門)一帯>
鳥居と平岩とともに、家康が本丸へ攻め込む。
氏真と家康が槍で対決するも、すぐ敗れる氏真。
死のうとしていると、突如、糸が現れ、義元の思いを聞き、泣く。家康も泣いて氏真に謝る。
「北条に身を寄せたい」と、急に糸に優しくなって二人で城を出て行く。

▼41分 躑躅ヶ先館(甲府市)
家康が氏真を助けて北条へ逃したと聞くと、
「信玄はおおいに怒っておる」。

▼42分 掛川城<「ホントに歩く東海道」第7集 №27 mapE44(大手門)一帯>
信玄から手紙が来る。「武田と戦になる」と、家臣らが騒ぐ。

「紀行潤礼」静岡県掛川市

掛川市は、甲府へとつながる「秋葉街道と東海道がつながる交通の要衝」と紹介された。古くから今川氏の家臣が治めていた。

掛川の秋葉街道分岐。道標に御油宿までの距離
掛川の秋葉街道分岐。道標に御油宿までの距離

掛川城
堅牢な城を落とすために、家康はいくつもの砦を築いた。
その一つ天王山砦が現、龍尾神社。家康の本陣が置かれた。
落城後、家康は武田との戦いに備え、堀切三日月堀を築いたとされる。
(最寄り駅 JR掛川駅、遠州鉄道掛川駅)
掛川市HP
https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kanko/spot-list/kakegawajyo.html

手織り葛布
蹴鞠の時に着用する袴の生地としても利用された。
静岡県郷土工芸品振興会HP
http://www.shizuoka-kougei.jp/craft/kakegawa-kuzuhu/

葛は掛川の名産
葛は掛川の名産

(こ)記録

第12回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。

どこにいる家康12回「ホントに歩く」マップ

『ホントに歩く東海道』第6集(江尻<清水>〜藤枝)
『ホントに歩く東海道』第7集(藤枝〜袋井)
『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜舞坂)


どこにいる家康12 発展編(by(し))

1.三国同盟が生んだ三組のカップルの明暗

北条から嫁いだ氏真の正室、早川殿(ドラマでは「糸」)が初登場して、甲相駿三国同盟の締結から崩壊までがスピード描写された。これまで駿府の回想シーンはたびたびあったのに、糸さんが全然出てこなかったのはやや不自然ではあったが、正室を冷遇していた氏真が、家の滅亡と引き換えに初めて夫婦愛に目覚める展開は、強い印象を残した。
駿府の今川・相模の北条・甲斐の武田の三国は、北条家初代の伊勢宗瑞(北条早雲)の頃は、血縁関係のあった北条・今川が組んで武田と敵対していたが、その後、今川家に家督争いが起き、争いに勝利した義元が当主となると、義元の母寿桂尼(今回は登場しないが、これまでの大河ではおなじみ)は京都出身で北条家とは縁がないところ、武田信虎が娘(信玄の姉)を義元の正室に送り込み今川に接近。逆に北条は、家督を義元と争って負けた一族を取り込むなどして、今川・北条関係が悪化した。
こうして、三国のうち二国間が友好関係であとの一国と敵対、という状態が続いていたが、今川・織田の勢力争いなど周囲の情勢の変化により、甲相駿の安定がそれぞれ自国の利益につながるという利害の一致を見て、天文23年(1554年)、三国間の相互不可侵条約が締結された。この同盟を実現させた功労者は、これも今回は登場しないが、今川家の参謀・外交官で、氏真・家康等の師でもあった太原雪斎だった。
富士の麓の善得寺で行われたとされているこの会談は、1988年「武田信玄」、2007年「風林火山」などこれまでの大河ドラマでも見せ場の一つとなった。
ちなみに1988年の配役は、中井貴一(武田信玄)・中村勘九郎(今川義元)・杉良太郎(北条氏康)、2007年は市川亀治郎(信玄)・谷原章介(義元)・松井誠(氏康)と、いずれも見応えあるメンバーだった。
三国の当主が一カ所に集まり、富士を見ながら和平を誓い合う姿は、たいへんわかりやすく「映え」るシーンではあるが、現代の私たちがG7サミットのニュースなどから連想するこのような場面は、この時代にはあり得なかったらしい。
サミット会談の代りに実際に行われたのは、それぞれの家の娘が、それぞれの嫡子のもとに嫁ぐという三角トレードのような婚姻同盟だった。
2007年「風林火山」では、まだ幼い娘を手放すことになった信玄夫人が嘆きながら「それでも、相手があの今川の阿呆若殿ではなく北条家のほうでまだよかった」と言うシーンがあったが、その阿呆(?)に回されたのが北条家の糸さんということになる。
残る一組は今川義元の娘と信玄の嫡子武田義信のカップルだったが、よく知られているように、義信は父信玄と対立、自刃とも病死とも言われるが若死にして妻は里へ帰る。(このカップルについては、直木賞作家今村翔吾氏の『晴れのち月』(祥伝社『蹴れ、彦五郎』収載)が面白い)。
武田・北条カップルも三国同盟の崩壊と共に離縁となり、北条氏政夫人だった黄梅院は若くして病死、夫氏政も後の小田原征伐で切腹する。
一番貧乏くじを引いたと思われた糸さんが、夫と共に長寿を全うして穏やかな晩年を過ごしたのだから、人の幸不幸はわからないものである。甲相駿三国同盟は崩壊したが、氏真の父の今川系、母の武田系、妻の北条系と、この三国すべての血脈は、氏真夫妻の子供たちを通じて、長く保たれることになった。
今川氏真夫妻の意外な後半生については、NHKの歴史番組ほか、WEB上でもいろいろ取り上げられているので詳述しないが、杉並区の情報サイトに、今川家の菩提寺や所領について興味深い情報が載っている。
https://www.suginamigaku.org/2022/02/imagawa-place-name.html

善得寺跡『ホントに歩く東海道』第5集 MapNo.17 mapC 
マップ外となるが、本吉原駅から15分くらいの寄り道で行ける。東海道沿いの富士山関連商品販売店「表富士」(mapC 20)を西へ向かって右折し、県道172を北へ進んで、愛鷹神社の少し先を左に入ったあたりである。

善得寺。三国同盟の庭
善得寺。三国同盟の庭

▼氏真夫妻の墓所 観泉寺(東京都杉並区今川2丁目16-1(なんと町名も「今川」!)
青梅街道の荻窪八幡のある交差点を北へ入り上井草のほうへ向かってしばらく進んだ右手にある。中央大学付属杉並高校の向いで、静かで雰囲気の良いお寺。

観泉寺。今川氏真と糸の墓
観泉寺。今川氏真と糸の墓

2.薩埵峠

ドラマでは信玄がいきなり駿府に踏み込んで来たような印象だったが、実際には、氏真も頑張って武田軍と戦おうとしていたのである。その舞台は東海道でもおなじみの薩埵峠だった。氏真は清見寺を本陣として薩埵峠で武田軍を迎え撃つ用意を固め、また義父北条氏康にも信玄の背後を突くよう要請していた。予定通りに行けば、今川軍と北条の援軍とで武田を挟みうちにできるはずだった。
しかしドラマでも描かれていたように、信玄の調略は進んでおり、すでに武田に内通していた多数の今川重臣たちは戦線を離脱。氏真は清見寺から駿府に撤退せざるを得ず、今川軍は総崩れとなって、武田軍は薩埵峠を突破して駿府に突入した。(平山優『新説 家康と三方原合戦』NHK出版新書)

清見寺『ホントに歩く東海道』第5集 MapNo.20 mapB 33 (第8回参照)

▼薩埵峠『ホントに歩く東海道』第5集 解説冊子16頁 (第11回参照

3.掛川(懸川)城と秋葉街道

駿府を信玄に奪われた氏真は掛川城へ向かう。掛川城は、今川氏が家臣朝比奈氏に築城させ遠江支配の拠点としていた。氏真が逃れた時に掛川城を守っていた朝比奈泰朝は、桶狭間の戦いでは家康と共に大高城の救援にあたった。義元討死の後も今川を離反せず、最後まで武田の調略にも応じなかった人物である。
ドラマでは、家康と氏真の個人的関係の中であっという間に掛川城攻めが終わってしまったような印象だったが、実際には、掛川で氏真を包囲していた家康軍も、今川を蹴散らした後北条軍と対峙していた武田軍も、兵糧の補給に苦労し戦いは膠着状態に陥った。結局信玄は、せっかく侵攻した駿河を捨てて甲斐に戻り、北条氏政が駿河を制圧した。家康はこれを見届けて北条と和睦を結び、氏真夫妻を北条へ送り届けたという経緯だったが、このことが信玄を激怒させ、三方原合戦へとつながっていく。(平山優『新説 家康と三方原合戦』NHK出版新書)
司馬遼太郎原作の「功名が辻」が大河ドラマとなった2006年以来、掛川城といえばすっかり、山内一豊・千代夫妻の内助の功の出世城というイメージが強くなり、東海道を歩いていても「功名が辻」関連の看板や説明が目立つが、城内には「霧吹き井戸」という、家康軍による掛川城攻めのとき、井戸から立ちこめた霧がすっぽりと城を覆い隠して攻撃から守ったという伝説も残っている。
岡崎の二十七曲がりほどではないが、掛川も城下町特有のクランク状の道「七曲がり」があって、カクカクと小刻みに曲がっている。
この七曲がりの途中、東海道線線路に近いあたりにも「塩の道」の標柱があるが、古来「塩の道」と呼ばれる、沿岸部から内陸部へ塩や海産物、内陸からは沿岸へは木材や鉱物を運ぶ商業路は数多く出来ていた。中でも牧之原市相良から掛川市を抜けて新潟県糸魚川市へと続く道は、秋葉神社への信仰の道「秋葉街道」としても賑わっていた。
紀行で「掛川は東海道と秋葉街道が交わる交通の要衝」と言っていたが、今でも東海道を歩いて静岡県西部に入ると、至るところで目に入ってくる常夜燈に、火伏の神秋葉山の長い信仰の歴史を感じる。

掛川市観光情報サイトによる「塩の道」ウォーキングルート解説
https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kanko/docs/13107.html
「秋葉街道信遠ネットワーク」http://akihakaidou.eco-iida.jp/
現在の遠州・信州に生活する人々が、行政区を越えて、信仰と生活の道であった秋葉街道を蘇らせ、周辺地域の活性化を目指すネットワーク組織

塩の道標柱 ホントに歩く東海道』第7集 MapNo.27 mapD 39(写真39)

▼掛川城 ホントに歩く東海道』第7集 MapNo.27コラム
掛川城大手門 第7集 MapNo.27 mapE 44 (写真44)
掛川城公園・御殿・二の丸美術館ほか 第7集 MapNo.27 mapE

▼秋葉街道 ホントに歩く東海道』第7集 MapNo.28コラム
秋葉街道(塩の道)・秋葉山遙拝所 第7集 MapNo.28 mapB 11(写真11)

どこにいる家康 第12回 ギャラリー