2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」
2023年でドラマは終わりましたが、48話まで続けます。

ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』『ホントに歩く中山道』などで、その場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。ドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

混乱の朝鮮出兵のなか、いったん和睦を受け入れた豊臣秀吉だが、再び出兵(第二次朝鮮出兵)。
秀吉に死期が迫り、石田三成が「合議制」を提案。
秀吉に第二子、拾が生まれ、家康の腹心酒井忠次が死亡、秀吉も62歳で死亡。家康が天下を取れそうになる。
舞台は、大阪市、京都市伏見

もくじ
●第39回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(岡崎市・豊橋市)

●第39回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第39回「どこにいる家康」発展編(by(し))

  1.酒井忠次のルーツ―親氏は松平家の前に酒井家に婿入りしていた!
  2.成長いちじるしい秀忠と消えた弟、忠吉
  3.京都東山の太閤廟・耳塚

●ギャラリー(伏見)

第39回「太閤、くたばる」▼動静

00分 大阪城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
秀吉と茶々に第二子、拾(ひろい、後の秀頼)が生まれる。
<ナレーション>再び子が生まれたのは、唐入りを和議をもって終結すると決めた直後のことだった
秀吉「明国の天女を天子様(天皇)の妃にしろ」と和議にむちゃくちゃな条件をつける。

大阪城
大阪城

02分 家康の陣屋
石田三成が訪ねきて、秀吉が和議の条件として、「朝鮮の半分、唐の天子を人質にしろ」など無茶な条件を出し、明国が受け入れる訳がないと訴える。
家康「治部、前に話していた新たな政の仕組みとは?」
三成「力ではなく知恵。合議制の話し合いである。そのような政がしてみたい」
家康「夢を語っているだけでは、夢で終わりですぞ」

05分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

07分 京都・酒井忠次邸(京都府京都市上京区桜井町)
文禄4(1595)年冬。
家康と息子の秀忠、井伊直政は、京都の酒井忠次を訪ねる。忠次は目が見えなくなっている。
家「秀忠が祝言を挙げたので、その挨拶に寄らせてもらった。太閤(秀吉)の強い希望による婚儀である」
秀忠「茶々様の妹、江(ごう)という気の強い女です」
秀忠の希望で、忠次は最後となる「えびすくい」を踊り、みんなも加わる。

忠次「これで唐入りが終わるのでしょうか?」
家康「信長様が安寧な世を作るのは、乱世を治めるよりはるかに難しい、と言っていた」
忠次は、「ここまでよく耐えてきた」と家康をほめる。

15分 京都・酒井邸(京都府京都市上京区桜井町)
3ヶ月後の文禄4(1595)年12月。
忠次は「出陣の陣触れがあった」と、鎧を着て、息絶える。
※墓所は、京都市東山区先求院にある。

16分 大阪城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
文禄5(1596)年9月1日。
明国の使者がやって来て、秀吉の無茶な要望を受け入れたが、戦を終わらせるために小西行長らがでっち上げた偽物の使者だった。それがばれて、秀吉は逆上。
家康は小西らの助命を嘆願する。
秀吉「この戦で何も得られないことになる。戦いを続ける」
家康「我が軍勢は出さない」
秀吉は三成に朝鮮攻めの準備を命じ、慶長2(1597)年6月、第二次朝鮮出兵が開始される。
秀吉「刃向かう者は、老若男女僧俗問わず、なで切りにしろ」

20分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
桶を運んでいる兵士を見た秀忠が「あれは?」と問うと、
本多正信「戦地から送られてきた「鼻切り」の獲物でしょう。戦は外だけではなく、国内でも。確実に乱世に逆戻り」
家康「殿下は策はいくらでもあると言っていた。信じるのみ」

22分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
秀頼が羽根つきをし、その落ちた羽を拾おうとして、秀吉は縁側に落ちて、寝込む。
遺言をしたいという秀吉の元に石田三成が駆け付け、「合議制」を提案。
秀吉「わしの願いは世の安寧。それがいい。やってみよ」と三成の案を受け入れる。

26分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
三成は、家康と前田利家に、秀吉が合議制をOKしたと報告しに行く。二人には「諸大名の重し」になってほしいとお願いする。

27分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
秀吉の容態が悪化し、家康駆け付ける。
秀吉「秀頼をたのむ。お前の孫の千姫とくっつけてくれ」
家康「そんなことの前に、天下人としての責任を取れ」
秀吉「知ったことか。秀頼が幸せならなんでもいい。どうせ天下はお前が取るのだろう」
家康「そんなことはない。治部殿の政(まつりごと)を支える」
秀吉「白ウサギがタヌキになったか。知恵を出して話し合いだと? うまくいくもんか。豊臣家はどうせわし一代だ」
家康「唐・朝鮮の怒りを買い、秀次を死に追いやり、諸国大名の心は離れ、民は怒っている。こんなめちゃくちゃにして放り出すのか」
秀吉「あとはたのむ」

38分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
血を吐いて苦しむ秀吉に、茶々は「秀頼はあなたの子ではなく、私の子。天下は渡さない、サル」と言い放つと、秀吉が死ぬ。

伏見城

▼40分 家康の陣屋
夜、家康は自分の部屋で自問自答。信長も秀吉もできなかった天下を取ることができるのか、と。
石田三成の「力ではなく知恵。合議制の話し合いである。そのような政がしてみたい」の話を思い出す。
酒井忠次の「戦が嫌いな殿だからこそできるのです」の発言を思いだす。

潤礼紀行 愛知県岡崎市・豊橋市

回向院(岡崎市鴨田町広元10−1)
松平家の菩提寺、大樹寺の近く。酒井家の菩提寺。酒井家は、代々松平家を支えた。
寺には、酒井家初代から忠次の父の6代までの墓がある。

井田城跡(岡崎市井田町城山)大樹寺の南
酒井忠次の出生地。

福谷(うきがい)城跡(みよし市福谷町市場)
酒井忠次が初めて活躍した戦。
家康が今川家にいた頃、攻めてきた織田軍を追い払い、松平家を守った。
※みよし市のHPにドラマ収録の様子も含め、福谷城の解説があります。
https://www.city.aichi-miyoshi.lg.jp/shiryoukan/ukigaijyoato.html

豊橋市吉田城(「ホントに歩く東海道」第9集 №36 mapA12)
酒井忠次が城主となり、吉田の町を整備した。

吉田城 「ホントに歩く東海道」第9集 Map36 A-15
吉田城 「ホントに歩く東海道」第9集 Map36 A-15

見附の陣太鼓(磐田市見付2452 旧見付学校 「ホントに歩く東海道」第8集 №29 mapC35)
三方原の戦いで打ち鳴らした太鼓が展示されている。
「どこにいる家康」3回(3.徳川四天王・酒井忠次)で紹介している。
https://www.fujinsha.co.jp/doko-ie03/

伝酒井の太鼓「ホントに歩く東海道」第8集 Map29 C-35
伝酒井の太鼓(見付学校内)「ホントに歩く東海道」第8集 Map29 C-35

(こ)記録

第39回「どうする家康」の舞台関連マップ

どこにいる家康39回 マップ

『ホントに歩く東海道』第16集(京街道 追分~樟葉、奈良街道)←伏見
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉~高麗橋)←大阪


どこにいる家康39 発展編(by(し)

サブタイトルの通り秀吉の死がメインテーマだったが、徳川四天王の筆頭として家康と苦楽を共にしてきた酒井忠次の死もきめ細かく描かれ、対照的な二人の死が印象深かった。その2人がそれぞれに家康の天下取りを予言する。
「どうせ天下はお前に取られる、何もかも放り投げてわしはくたばるから後は何とかせえ」
「殿だからこそできるのでござる、嫌われなされ、天下をお取りなされ」
家康が今後、対峙する相手として、信長・秀吉・茶々に比べると石田三成がやや薄味なのが気になるが、秀吉の死をきっかけに存在感を増してほしい。

1.酒井忠次のルーツ―親氏は松平家の前に酒井家に婿入りしていた!

この前の家臣団さよなら大パーティに姿が見えず、寂しがられていた酒井忠次だったが、夫妻そろって最後の見せ場がしっかりあって、紀行にも登場したのは嬉しい。酒井忠次はこれまでの大河ドラマにも登場しなかったわけではないが、これほど焦点をあてられたのは初めてだろう。
大河ドラマに描かれる家康は人生後半が多く、傍らにいつもいるのは本多正信のイメージだが、家康を天下人にまで押し上げた功労者として酒井忠次の名を忘れるわけにはいかない。今回の紀行で紹介された三河の松平郷(現在の愛知県豊田市)は第11回で紹介したが、家康たち松平十八家のルーツであると共に、酒井家にも深い関わりを持っている。
第11回の徳川改名騒動の時、大樹寺の系図に登場した松平親氏は、新田氏の一族世良田氏を自称して東国から旅を続けていたが、京の在原氏の血を引く三河松平郷の領主、松平太郎左衛門の入り婿となり、家康ら松平一族の祖となった。しかし、実は松平家は親氏にとっては再縁で、その前に同じ三河国の酒井郷の領主、酒井家に婿入りしていたといわれる。『東照宮御実紀』によれば、酒井家の娘と親氏の間には息子が生まれたが、母親は間もなく病死。寡夫となった親氏に、松平郷の太郎左衛門が、自分の娘を娶せ家を譲ろうと持ちかける。親氏が「デキる奴」という評判が近辺に広がっていたのだろうか。親氏自身も「もとより大志おはしければ、かの酒井村にて設け給ひし忠広に酒井の家をゆづり」、自分は松平家に移って松平太郎左衛門の名を継いだという。
その後、酒井家を継いだ息子の忠広(広親)も親氏のもとへ来て松平家の家臣となり、その長男と次男が、それぞれ左衛門尉(さえもんのじょう)系と雅楽頭(うたのかみ)系の二つの酒井家の祖となった。「どうする家康」に登場したのは、左衛門尉家の忠次のみだったが、雅楽頭系酒井氏の人々も忠次と共に、家康の家臣として仕えていた。雅楽頭系は家康の死後に頭角をあらわし、中でも四代将軍家綱の時代に老中・大老となった酒井忠清は、下馬将軍といわれ権勢をふるった。1970年の大河ドラマ「樅の木は残った」(山本周五郎原作)では、伊達騒動を裏から操り、伊達家を取り潰そうとして主人公と対峙する、権謀術数の人物として描かれている。
酒井忠次は、家康が三河を統一すると吉田城主として東三河を統括し、数々の戦功を立てた後、京に隠棲して余生を過ごし、知恩院に葬られる。家康の関東移封後、忠次の嫡男、家次は、下総国臼井・上野国高崎などを経て越後高田藩10万石に移封された。その子(忠次の嫡孫)忠勝の時、改易された最上家に代わり、出羽庄内藩に加増移封され、戊辰戦争終結まで藩主を務めた。藤沢周平作品の舞台、鶴岡である。

2009年に朝日新聞が、「ニッポン人脈記 お殿様は、いま」という、各地の藩主たちの子孫の現在の生活を紹介する記事を連載したが、その中に、出羽庄内酒井家の18代当主、酒井忠久夫妻が登場する。1971年に東京から輿入れした忠久夫人は、町を歩くと夫があちこちから「殿はん」と親しげに声をかけられるのにびっくりしたという。明治維新を迎え、廃藩置県で全国の藩主たちは東京へ移住したが、酒井家だけはずっと国元を去らず、地元に密着する暮しを続けた。三百諸侯といわれる旧大名たちの中、今も「毎日がお殿様」生活を送る唯一の人、と朝日の記者は締めくくっている。ちなみに、大河ドラマ「どうする家康」放映にあたり徳川四天王の今の当主たちが集まった時、酒井忠久氏は「えびすくいについては酒井家の文書でも伝わっているが、具体的にどんな所作かわからないので、ぜひ大森南朋さんに教わりたい」と発言されている。

朝日新聞 2009年

酒井家の菩提寺、鶴岡市中新町の大督寺には広大な墓所があり、2004年に亡くなった17代当主まで、歴代藩主や妻たちの墓45基が並び、一番奥まったところに、忠次・家次・忠勝の三代の墓石がある。一般には非公開だったが、墓所の保存と一般公開に向けた計画が進んでいるという。
知恩院の忠次夫妻の墓所も、一般にはわかりづらい所にあるようだ。確かに、京都のメジャー観光スポットの一つである知恩院ではあるが、「知恩院に酒井忠次のお墓参りに行ってきました」という話はあまり聞かない。大河ドラマ考証ベテランの小和田哲男先生ですら、数年前に行ったがわからなかったとブログに記しておられる(その後、現地の方の案内で、無事にお墓参りができたとのこと)。
https://ameblo.jp/owashiro/entry-12297121361.html
墓石の石造宝塔には忠次の法名「先求院天誉高月縁心居士」、台座には酒井家の「丸に片喰紋」が彫られており、正室の碓井御前(ドラマでは登与)の墓石とされる五輪塔と並んでいる。また、智恩院の塔頭の一つ先生求院(せんぐいん)は酒井忠次が開創したもので、「酒井忠次公御廟所」の石標と位牌・肖像画があるという。

吉田城址 『ホントに歩く東海道』第9集 MapNo.36 mapA 12 写真12 (第3回参照

知恩院 『ホントに歩く東海道』第15集 MapNo.60 mapA 12

2.成長いちじるしい秀忠と消えた弟、忠吉

秀忠(長松)がいきなり大人っぽくなって登場、家康と共に京の酒井忠次邸を訪ね、結婚報告をしたり、「正調えびすくい」を伝授されたりというのは、大河ドラマあるあるだが、子供時代はいつも於愛の両側に二人でいたはずの、年子の弟が何故か消えてしまっていたのは残念。秀忠の弟、福松は、幼いうちから三河東条城・駿河沼津城などの城主の座を与えられていたが、家康の関東移封の後は武蔵忍城10万石の城主となり、元服して忠吉と名を改め、井伊直政の娘を正室とした。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いが忠吉の初陣で、本隊を率いて中山道を進む兄秀忠と別に、先発隊として西進。義父の井伊直政と共に、福島正則と先陣を争い、また薩摩の島津を追撃した逸話は有名である。しかしこの時、義父ともども負傷し、二人とも寿命を縮めてしまった。家康は尾張を忠吉に任せるつもりでいたが、忠吉が嫡子のないまま若死にしたため、のちに九男の義直が尾張藩主となった。

忍城 『ホントに歩く中山道』第15集 MapNo.60 mapB 1

関ヶ原の戦い・松平忠吉・井伊直政陣跡 『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo.12 mapB 22
関ヶ原の観光案内所では、関ヶ原古戦場全域マップと共に、「家康コース」「三成コース」「島津コース」など、何種類ものウォーキングコースマップが用意されているが、忠吉・直政陣跡は、駅のすぐ脇なので、どのコースでも通る。隣に東首塚(mapB 21)がある。

3.京都東山の太閤廟・耳塚

慶長3年(1598)8月、伏見城で薨じた秀吉は、阿弥陀ヶ峰に葬られた。阿弥陀ヶ峰は、粟田口と共に洛中と山科を繋ぐ重要地点であり、城郭が築かれていた。阿弥陀ヶ峰の頂上に豊国廟が、山麓には社殿が建立された。秀吉は後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われたが、大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、御神体は方広寺に移され、廟は改修されずに荒廃した。廟宇が再建されたのは、明治になってからのことだった。社殿は、方広寺の隣に豊国神社として再建された。
https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=250

方広寺 『ホントに歩く東海道』第15集 MapNo.60 MapB 22

方広寺の鐘
方広寺の鐘

後の大坂の陣のきっかけとなる、方広寺鐘銘事件の舞台としても有名な方広寺だが、もともとは秀吉が発願した大仏を安置する寺であった。秀吉は、奈良東大寺の大仏よりも大きな盧舎那仏を建立し、豊臣家の勢力を見せつけたが、完成の翌年、畿内を襲った大地震で倒壊してしまう。しかし「大仏」の町名はこの地域に今も残り、五条通から大和大路を南下すると「大仏殿石垣」の案内板がある。

豊国神社 『ホントに歩く東海道』第15集 MapNo.60 MapB 23

本殿正面の四脚唐門は、南禅寺金地院から移築されたもので、欄間や扉などに豪華な装飾が施されている。宝物館には、狩野内膳が豊国大明神祭礼を描いた六曲一双屏風「豊国祭礼図屏風」や、千利休の釜師であった辻與次郎實久作の鉄灯籠など、桃山時代の重要文化財が保管されている。

耳塚 『ホントに歩く東海道』第15集 MapNo.60 mapB 24 写真24

耳塚
耳塚

豊国神社から大和大路通を挟んで西側に小高い墳丘が作られ,その頂に五輪塔が立っている。朝鮮出兵の折、武将たちが朝鮮兵たちの首に替えて鼻や耳を戦利品として日本に持ち帰ったのを埋めて供養した塚。ドラマでは秀忠がその残虐さにショックを受ける様子も描かれていた。

どこにいる家康 第39回 ギャラリー  伏見など