2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

家康が秀吉の召喚に応じ、上洛。
秀吉の妹に続き、母、大政所(仲)が人質として岡崎へ来ることになった。
家康は、16年間親しんだ浜松から駿府へ移る。
舞台は、浜松市、岡崎市、大阪市、静岡市

もくじ
●第35回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(上田市)

●第35回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第35回「どこにいる家康」発展編(by(し)

  1.家康上洛・石田三成登場
  2.秀吉の故郷、尾張中村
  3.浜松から駿府へ

●ギャラリー(名古屋の佐屋街道)

第35回「欲望の怪物」▼動静

▼00分 (回想) 
秀吉のいる大阪へ、浜松から上洛することになった家康。
秀吉の母、大政所(仲)が人質として岡崎へ来ることになった。

▼01分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
大政所は、迎えに出た大久保忠世には目もくれず、井伊直政に一目惚れする。

▼02分 大阪・豊臣秀長邸(大阪城西の丸庭園、大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
秀吉との会見前夜、家康が宿としたのは弟秀長の屋敷。
明日合うはずなのに、前日に秀吉が来る。

ホントに歩く東海道第17集 No.68 mapA
ホントに歩く東海道第17集 No.68 mapA 大阪城西の丸庭園

▼04分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼06分 大阪・豊臣秀長邸(大阪城西の丸庭園、大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
家康と秀長がしゃべっているところへ、秀吉が女をたくさん連れてきて大宴会となり、大はしゃぎ。
弟秀長によると、「秀吉は人を見る時は百姓言葉を使って下から見上げる。信用できると思っているのは織田様と徳川様」

▼11分 大阪城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
家康の上洛の儀式。家康は豊臣家の家臣たちの前で、「関白殿(秀吉)には二度と陣羽織は着せさせない」という芝居をさせられる。

▼14分 大阪・豊臣秀長邸(大阪城西の丸庭園、大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
酒井忠次、鳥居元忠、榊原康政らが話している。直政がいたら、家康の芝居を見て怒り狂っていたかもしれないと話す。

▼15分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
大政所は、お気に入りの直政をはべらせる。
直政は、大政所が滞在する屋敷の周りにたくさんの薪を積ませる。
直政「大阪の殿に何かあったら、これに火をつけて、ばあさんを焼き殺す」

▼16分 大阪城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
家康の上洛の行事が終了。
秀吉は、今回参加しなかった島津と北条をこらしめると言う。
酒井忠次「北条に与えた沼田領から真田がどきません」
秀吉「真田はそなたの与力、飼い慣らせ。真田は表裏比興(表と裏を使い分ける)の者だ」

▼17分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
家康から於愛の元に手紙が届く。
「正三位中大納言という位を朝廷からもらった」
本多忠勝の娘、稲が言うことを聞かない。

▼18分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
直政、大政所から団子を食べさせてもらう。
大久保忠世「上洛の儀が終わり、家康が戻ってくるので、大政所様も大阪へ帰ることができます」
大政所「大阪城の隅っこに小さな畑をあてがわれ、いらぬ大根や菜っ葉を作って、こんな時だけ人質になる。これは幸せなのか」

▼21分 大阪・豊臣秀長邸(大阪城西の丸庭園、大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
廊下を歩きながら於義伊(家康の次男、結城秀康)の噂をする家康と秀長。
石田三成が星を見ている。家康と語り合い「気が合いそうですね」となる。

▼26分 大阪城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
大阪を去る家康、秀吉においとまの挨拶。家康はお市の3人の娘の様子を聞き、「戦のない世にしましょう」、と去って行く。

▼27分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
大政所が大阪に帰る日。大政所、「帰りたくない」と言い出し、秀吉のことを語り出す。
「わしは何にもしつけていない。10歳やそこらで家を飛び出し、ひょっこり帰ってきたら織田様の足軽大将になっていて、それからあっという間に出世して、今は関白、あれは何者じゃ。
化け物を生んでしまった。誰かが首根っこを押さえてないと、とんでもないことが起こる。そう徳川様にお伝えして」

▼30分 大阪城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
秀吉「戦がなくなったら武士をどうやって食わせる。日本を統一しても、戦はなくならない。切り取れる国は、国外にまだまだある」とアジア大陸が描かれた金屏風を見る。

▼32分 浜松城<「ホントに歩く東海道」第8集 №31 mapB26,「ホントに歩く東海道 別冊姫街道」№8 mapB21(大手門跡)付近一帯>
駿府に移ることになり、家中はみな、城の片付けをしている。
「日記を盗み見たな」と於愛に尻を叩かれる家康。
浜松を離れることになり、市民に礼を言いに行くと、餅を配る家康たち。
柴田理恵が登場。「餅はもらえません」と固辞し、団子に石を入れたことを家康に詫びる。
他の市民も口々に謝りに来て、三方原の脱糞事件や無銭飲食など家康の黒歴史を暴露する。
家康は「少しもらしたかもしれない」とおどけて好感度を上げ、よい殿様となる。

▼35分 駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18,第6集ケース裏の地図>
家康は、16年過ごした浜松から今川館がある駿府に移った。
城を建設中の駿府に、真田昌幸、信幸、信繁父子が訪ねてくる。
酒井忠次「沼田を北条に明け渡していただけますか?」
昌幸「渡さない」
沼田は自分達が切り取ったので、徳川殿は北条へ与えることはできない、と説明。
本多正信「真田様は家康の与力です、従え」
昌幸「徳川は信用できない。信幸の妻に徳川の姫君をいただきたい」と要求。

駿府城
駿府城
駿府城東御門
駿府城東御門
駿府銀座発祥地
駿府銀座発祥地
駿府 十返舎一九生家跡
駿府 十返舎一九生家跡

▼42分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
於愛、生け花を教えている。本多忠勝の娘、稲も習う。

「紀行潤礼」長野県・上田市

上田城(上田市二の丸<長久保宿の北約20キロ「ホントに歩く中山道」第11集 №42 mapA20(道路元標))
上田城は天正11年(1583)、真田昌幸によって築かれた平城。
家康が、上杉への備えとして昌幸に築かせた。昌幸は「表裏者」と評判で、家康も裏切られている。
家康は、二度、上田城を攻めた(上田合戦)。
上田城の南には千曲川が流れていて、戦いでは徳川側に多くの犠牲者が出た。

上田市上田城総合サイト
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/uedajo/

北国街道柳町(長野県上田市中央4丁目)
上田は豊かな水で酒所に。
上田城から徒歩約10分。北国街道沿いの家並みが残る。
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/kankojoho/12530.html

(こ)記録

第35回「どうする家康」の舞台関連マップ

どこにいる家康35回 map

『ホントに歩く東海道』第6集(江尻〜舞坂)←駿府
『ホントに歩く東海道』第8集(袋井〜藤枝)←浜松
『ホントに歩く東海道』第10集(御油<小田渕>~岡崎<新安城>)←岡崎
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉〜高麗橋)←大阪


どこにいる家康35 発展編(by(し)

満を持して?石田三成、そして本多忠勝の娘の小松姫(稲)が登場。俳優さんの実年齢はあまり変わらないと思うけれど、ちゃんと親子に見えている演技力がすごい。稲は家臣の娘として、浜松城で於愛の指導のもと、侍女見習いをつとめているが、どうも侍女的な役目には全く向いていないようだ。「このままでは嫁入り先が無い!」と父親が咆哮しているが、それは父親の育て方にも原因があったのでは? 次回はこの父娘に焦点が当てられるようだ。

1.家康上洛・石田三成登場

德川実紀では、三成の描写は最悪である。「関白家に石田三成といふ功者あり。かれ讒謟面諛の奸臣にて、当時天下の諸侯諸士、かれが舌頭にかかりて、身をも国をも失ふものあげてかぞふべからず。」(東照宮御実紀巻四)
文禄4年(1595)の秀次事件は、直接家康とは関わりがないのでほとんどスルーされていたが、実紀では「石田等の讒臣青蝿の間言かさなりしかば、秀次終に失はる。」と、これも三成の讒言によるものとなっている(それにしても「青蠅」って・・・)。
今回のドラマでは、三河侍には無縁だった宇宙ロマンの世界を背景に家康と三成が初対面という、これまでの大河ドラマの「切れ者・能吏」的な三成イメージとはやや違った方向からの登場だったが、今後どういう展開になっていくのだろうか?
石田三成は永禄3年(1560)、桶狭間の戦いのあった年に、近江石田村で誕生した。家康よりもほぼ一世代下になるわけである。石田村は現在の滋賀県長浜市石田町で、三成が生まれた屋敷跡には「石田会館」(住所名も長浜市石田町治部!)があり、石田三成像・三成の生涯を描いた絵巻パネル・鎧・ゆかりの古文書・石田屋敷復元ジオラマなど数々の展示物がある。
https://kitabiwako.jp/spot/spot_13575

長浜は、米原から中山道とは反対方向になり、米原~長浜はJR北陸本線新快速で10分、石田まではJR長浜駅から湖国バス近江長岡駅行きで20分と、寄り道するにはややアクセスが微妙かもしれないが、石田三成ゆかりの地をガイド付きで巡る観光タクシー「三成タクシー」も利用できる。
家康と三成の出会いのきっかけとなった、家康の上洛・秀吉への臣従と、秀吉がそれをいかに喜んだかについては、德川実紀にも詳しく書かれており、公式の対面に先立って家康の宿舎を訪れ、「秀吉はよき妹聟を取たる果報のもの」と喜んでみせたり、諸侯たちへのパフォーマンスに協力してほしいと「君の御耳に口よせささやかれ」るなど、ドラマでもほぼこのとおりに再現されていた。
家康が「この後殿下には御鎧は着せ進らすまじ」と拝領した陣羽織のデザインについても「白き陣羽織の紅梅の裏つけ、襟と袖には赤地に唐草の繍したる」と説明されている。

家康はこの天正16年(1588)の上洛の時に、中山道柏原宿の西村家で休息したと伝わる。その後、将軍の上洛時の休息が慣例となり、二代将軍秀忠が、将軍専用の休泊施設「お茶屋御殿」を建て、御殿番を置いて守備した。野洲の永原御殿・水口の水口御殿と合せ「近江三御殿」と称されたが、その後江戸幕府が安泰になるにつれ、将軍の上洛機会も減少し、元禄2年(1689)に廃止された。

柏原御殿跡 『ホントに歩く中山道』第3集 Map No.11 mapB17
復元された柏原一里塚から200mほど東の四つ角にあり、北へ折れてしばらく進むと、芭蕉句碑「折々に伊吹を見てハ冬籠り」のある伊吹山のビュースポット。御殿跡の後ろに「問屋役 年寄 西村勘左衛門(?)」の名も見える。

柏原御殿跡
柏原御殿跡
問屋西村
問屋西村
伊吹山芭蕉句碑
伊吹山 芭蕉句碑

2.秀吉の故郷、尾張中村 

秀吉の母大政所は、これまでの大河ドラマでは、いつまでも庶民的人情を持ち続ける素朴で大らかな母親で、権力に毒されていく息子を口喧しく叱り、視聴者の共感を得る存在だった。ちなみに大河ドラマで最初に登場した大政所は、NHK朝ドラ「おちょやん」のモデルになった浪花千栄子さんである(「太閤記」1965)。その後赤木春恵さん(「おんな太閤記」1981)・市原悦子さん(「秀吉」1996)等が演じたが、今回の大政所は、彼女たちよりずっと少ない登場でありながら、最も強いインパクトがあった。これまでの大政所像と違い、息子秀吉との距離感がリアルだった。実母でありながら、モンスターに育ってしまった我が子が恐ろしい、本当に自分の産んだ子なのか?という慄きの表情は、昨今の青少年犯罪なども考えさせ、今の時代ならではのキャラクターになっていた。
秀吉が、後の大政所「なか」の子として生まれ育った地といわれる尾張中村郷は、現在の名古屋市中村区である。加藤清正の誕生地でもあり、中村公園に「秀吉清正記念館」がある。前回紹介した旭姫の前夫、副田甚兵衛も中村区の烏森の出身だった。豊臣秀吉を祭った豊国神社や加藤清正誕生地と伝えられる妙行寺など史跡が多く、区内の学校や通りには太閤・千成・日吉・豊臣などの名が目立つ。
https://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000010622.html

佐屋街道 太閤秀吉ゆかりの中村
佐屋街道 太閤秀吉ゆかりの中村

中村公園 『ホントに歩く東海道』別冊佐屋街道 MapNo.1 mapC34
mapC34の「豊国通6丁目交差点」を北へ向かうと地下鉄東山線の岩塚駅であるが、岩塚の一つ先が中村公園駅である。mapCの一番左、庄内川にかかる万場大橋(MapNo.2, mapA1)の、一つ北側の新大正橋の通りが「太閤通り」。中村公園は、中村公園駅から太閤通りを越えて北へ徒歩約10分。
秀吉の母は、秀吉の姉(とも、後の日秀尼)・秀吉(日吉)・弟(小一郎⇒秀長)・妹(旭)の4人の子を産んだ。従来は、上の二人、ともと秀吉の父は、織田家の足軽と伝えられる木下弥右衛門で、弥右衛門の死後に再嫁した竹阿弥(織田信秀に仕えた同朋衆)の子が秀長と旭だと言われていたが、最近は、4人とも前夫弥右衛門との間の子という説が有力のようである。
杉本苑子が秀吉の姉の視点から豊臣家の栄光と滅亡を描いた『影の系譜』(文藝春秋社、1981)では、最初の夫には狂疾があり、それが秀吉と、ともを経てその息子の秀次に遺伝したが、二番目の夫の誠実で温和な性格は秀長と旭に受け継がれたとあり、非常に印象に残ったのだが、最近では秀次の乱行も作り話と言われているし、今回のドラマの大政所の慨嘆のように、秀吉ひとりが、なぜかモンスターに育ってしまったということかもしれない。

3.浜松から駿府へ

天正14年(1586)師走、家康は16年を過ごした浜松城から、駿府へ本拠を移転する。その後4年間は、家康の上洛中に浜松城で留守を守った菅沼定政がそのまま城代をつとめた。天正18年(1590)、家康の関東移封後は、秀吉家臣の堀尾吉晴とその子忠氏が浜松城主となった。德川政権下では、譜代大名が12人も次々と城主をつとめたが、在城中に幕府の要職に就いた者も多く、老中が6人も出たので「出世城」の名がついた。歴代城主の中には、天保の改革を行った水野越前守忠邦もいる。

浜松城 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 コラム31  mapB26 

見返り橋と見返りの松 『ホントに歩く東海道』第8集 MapNo.31 mapA17 写真17
浜松駅の少し東寄りにある馬込川にかかる馬込橋は「見返り橋」と呼ばれていた。家康が浜松を去って駿府に向う時、ここで見送りの人々と別れ何度も振り返ったという逸話による。橋の西側には「見返りの松」(駒止の松)がある。

浜松宿 見返りの松跡
浜松宿 見返りの松跡

どこにいる家康 第35回 ギャラリー

(し)さんの「豊国通6丁目交差点」に秀吉を見出す根性に触発され、交差点の写真を探していたら、佐屋街道が面白かったので、烏森から岩塚あたりまでの写真です。