2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。
元康から家康と名を改めました。今回は一向一揆に苦しむ回。家康は百姓に身をやつし、三河一向一揆の拠点の本證寺(ほんしょうじ)を訪れましたが、同じく妻・瀬名と鉢合わせしていました。
今回の舞台は、岡崎城ぐらいしか「ホントに歩く東海道」ではカバーしておらず、申し訳ありません。
今回も大活躍の於大ですが、「ホントに歩く東海道」ではあまり登場しておらず、これも、申し訳ありません。於大が出てくるのは、第10集の随念寺(№39 mapC30)ですが、本人ではなく、家康が於大と生き別れた後に育ててくれた祖父・清康の妹久子を弔うために建立したというものでした。
もくじ ●第7回「どこにいる家康」▼動静 ●第7回「どうする家康」の舞台関連マップ ●第7回「どこにいる家康」発展編(by(し) 1.上ノ郷(前回の再確認) 2.東海道と三河一向一揆拠点との位置関係 3.本證寺 空誓上人と蓮如 ●ギャラリー |
第7回「どこにいる家康」▼動静
▼00分 上ノ郷城<今川方。蒲郡市神ノ郷>
東海道からは少し遠いがあえて言うなら、岡崎市舞木町の山中八幡宮(「ホントに歩く東海道」第10集 №38 mapA23)の約7㎞真南。
▼00分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
家康の実母・於大(おだい)、鍋洗いの指導。
「家康」と名を改める。
お方様(瀬名)、岡崎のみんなにモテモテ。
▼05分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」
▼08分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
夏目広次と木下藤吉郎登場。
▼10分 西尾<岡崎の南西>
東海道からは遠いがあえて言うなら、知立宿(「ホントに歩く東海道」第11集 №41 mapC26付近)から約13㎞ぐらい南。
家康、狩り場に織田信長を訪ねる。
狩り場は西尾城周辺?
西尾市観光協会HPに「徳川家康ゆかりの地西尾〜西尾歴史散策MAP」が便利。ダウンロード可。
「家康 西尾でどうした?」の関連年表もついている。
西尾市観光協会HP
https://nishiokanko.com/list/season/ieyasumap/
▼13分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
▼15分 本證寺<安城市野寺町野寺26>
東海道からは遠いがあえて言うなら、新安城駅(「ホントに歩く東海道」第11集 №41 mapAまたは第10集 №40mapD37)の南へ約11キロ。
本證寺、一向宗宗徒や寺内町の様子。
▼15分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
台所で於大が大活躍
家康、仮病を使う。
▼21分 本證寺<安城市野寺町野寺26>
家康、百姓に身をやつし「家太郎」となり、本證寺へ向かう。
本證寺第10代、空誓登場。
瀬名・於大も、来ていた。
安城市歴史博物館職員の方の「家康と安城 大河ドラマ『どうする家康』を楽しむために」のページが、安城市観光協会さんのHPにあり、参考になります。
安城市観光協会HP
https://kanko.anjo-tanabata.jp/ieyasu/curator/
▼39分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
▼40分 本證寺<安城市野寺町野寺26>
▼42分 1ヶ月後の回想?
三河一向一揆
「紀行潤礼」
●岡崎公園<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
家康のからくり時計
●八丁味噌・カクキュー<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA8 上>
家康が食べた味噌料理、八丁味噌を焼き味噌にして湯漬けにして食べたという。
●桶狭間古戦場<「ホントに歩く東海道」第11集 №42 mapB24>
豊明市と名古屋市緑区一帯。
カクキューの第19代早川久右衛門さんのご先祖は、今川家の家臣。桶狭間の戦いで主君・今川義元が敗れると岡崎の寺へ逃れ、そこで豆味噌造りを学んだのが、八丁味噌造りの始まりだったそう。
※桶狭間古戦場については、どこにいる家康 第1回「どうする桶狭間」もご覧ください。
(こ)記録
第7回「どうする家康」の舞台関連マップ
今回の特に関連マップ
『ホントに歩く東海道』第10集(御油〜岡崎)
『ホントに歩く東海道』第11集(岡崎〜宮・桑名)
どこにいる家康7 発展編(by(し))
1.上ノ郷(前回の再確認)
「上ノ郷城を落としたらウチの夫を城主に」と、前回於大が息子におねだりしていたと思ったら、さっそく実現、久松長家が新しい上ノ郷城主に。しかし於大は岡崎に入り浸っている様子。
上ノ郷城のある蒲郡から岡崎までは、東海道本線の新快速で10分程度(ただし、蒲郡駅から上ノ郷城址まで徒歩45分)。
残念ながら『ホントに歩く東海道』マップには入らない位置だが、上ノ郷城の場所は、「どこにいる家康第6回」で解説。
https://fujinsha.co.jp/doko-ie06/
2.東海道と三河一向一揆拠点との位置関係
三河一向宗の拠点、本證寺は安城市。東海道も安城市の北の方を通るが、本證寺の最寄り駅、名鉄西尾線の南桜井駅のあたりは残念ながらマップの範囲外。
愛知県の東海道は、ほぼ名鉄本線に沿って、岡崎から知立、桶狭間古戦場の前後・鳴海、竹千代人質交換の碑のある笠寺を通り熱田神宮へと進む。今回の舞台は、名鉄本線から新安城で乗り換える西尾線沿線と思われる。
名鉄西尾線の、本證寺のある南桜井駅のもう少し先が西尾、信長が家康たちを呼び出した所で、さらに海に近い所が吉良。また、西尾の東側で、岡崎のすぐ南にあたる幸田町は大草郷といい大草松平氏の拠点だった。
大草松平氏は、同じ松平一族ながら、桶狭間の戦い直後、大樹寺で家康たちと敵対した、あの一族。岡崎から少し離れたあちらこちらで、モグラたたき的に叛旗を翻す連中がおり、尾張の信長の方がその動静を正確に把握しているという展開は納得である。
3.本證寺 空誓上人と蓮如
本證寺の空誓上人は蓮如の曾孫。やはり曾孫の証如から、顕如⇒教如と続くのが嫡流だが、蓮如は5人の妻との間に13男14女の子女があったということなので、曾孫も数え切れないほどいたのだろう。
蓮如の史跡は、京街道にいくつか見られる。
15世紀半ば、蓮如は、衰退した浄土真宗本願寺を再興するべく布教活動を行っていた。文明7年(1475:足利将軍は9代義尚)61歳の蓮如は越前吉崎から海路で古浜へ、陸路で丹波・摂津を経て京へ入る前に河内の出口村に立ち寄った。当時の出口村は葦の茂る低湿地で、住民はわずかに9軒であったが、蓮如は門徒住民に請われて説教を行った。すると川の淵に住む龍女が、蓮如の説教のおかげで成仏できたとして、龍池を献上し、そこを埋めて寺院とするよう願った。この伝説が「淵埋山」の由来。蓮如は龍女の願いを聞き入れ近郊から信者を集め、有力門徒を中心に光善寺を創建し、拠点として、摂津・河内・和泉など各方面に布教した。
▼淵埋山(えんまいざん)光善寺(出口御坊) 第17集 MapNo.66 mapA4
図版(解説p.2)河内名所図会「出口」光善寺の御堂の裏の龍女池、サイカチの樹(龍女が成仏して登ったと伝えられる)
光善寺境内 蓮如の自筆の歌碑「夏はきのふけふ秋きりの一葉おちて 身にしみてしる 南無阿弥陀仏」 ここで虫歯が抜け落ちて詠んだと言われる。
▼「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」の碑と蓮如の腰掛け石 第17集 MapNo.66 mapA5
村人たちに蓮如が講話をした場所と伝わる
▼「道真と蓮如 街道は時代を超えて」 第17集 コラム66
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