2023年のジョン・フォード没後50年に合わせ、ジョン・フォード関連の話題が多くなってきています。『ジョン・フォードを知らないなんて』(2010年、風人社)の著者、熱海鋼一さんにその魅力を語っていただきました。

今回は、その第8回目です。
※赤字「」は映画作品名

熱海鋼一 ジョン・ウェイン

ジョン・フォード復活8 「捜索者・The Searchers 」1 映画史を飾る


マーティン・スコセッシの「タクシードライバー」、ジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」、スティブン・スピルバーグの「未知との遭遇」、フランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」、マイケル・チミノの「ディア・ハンター」の原点を探っていくと、一本の映画、ジョン・フォードの「捜索者」に辿り着く。

フォード 熱海鋼一 映画画像


「捜索者 The Seachers」は、フォードにとっても映画史においても、特異な位置を占める映画だと思う。
封切り(1956年)当時、このようなことは知りようもないが、アメリカでも日本でもありふれた西部劇と片づけられ、多くのフォードファンもその過激な描写に乗れない感じだった。高校生だった僕は、従来のフォード映画とは違うダークさに戸惑いながらも、心に強烈な何かが残った。
当時、海外の映画は一定期間の日本上映を終えると、リバイバルされない限り二度と見ることは出来なかった。たとえ短縮されたとしても、テレビでのOAもなかった。

だから25年後に、ニュー・ヨークで「The Seachers」のビデオを見つけた時のときめきは忘れられない。帰国後に見たら、ビスタサイズではなく、画面の両サイドがカットされたスタンダードサイズ、これではフォードを見たことにならない。ビスタビジョンを収録したレザーディスク版が出るまで我慢した。僕が外国映画で最も多く見ているのが「捜索者」、ちなみに日本映画では「7人の侍」だ。

映画にはいくつもの源流があると思う。

フォード 熱海鋼一 映画画像

D. H. グリフィスの「イントレランス」がセルゲイ・エイゼンシュタテインの「戦艦ポチョムキン」を生み、映画史の大きな流れを作った。映画の原点となるような映画、それぞれに意見はあるだろうが、例えばアベル・ガンスの「鉄路の白薔薇」、F. W. ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトウ」、ロバート・フラハティの「北極の怪異・ナヌーク」、バスター・キートンの「大列車追跡」、フリッツ・ラングの「メトロポリス」、カール・ドライエルの「裁かるるジャンヌ」、ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」、チャールズ・チャップリンの「街の灯」・・・等々、サイレントからトーキーへ、いくつもの源流はお互いに絡み合い、いくつもの名作を生んでゆく。その流れを想像しているだけでワクワクしてくる。

フォードで言えば、グリフィスを規範とし「4人の息子」(ドイツを舞台にした、第一次世界大戦時の母と子のやるせないが優しい愛の物語)のドイツロケの時に、ムルナウから光と影を学んだと言う。

フォード 熱海鋼一 映画画像

オーソン・ウエルズは、最初の映画「市民ケーン」を作る時、映像表現を学ぶため「駅馬車」を何度も観た。「市民ケーン」は、今も映画史上最大の傑作とよばれ、その構築力と概念の伽藍の様な映像表現の斬新さは見事としか言いようがない。「駅馬車」はその後のアクション映画の源流となり、ジョージ・ミラーの「マッドマックスシリーズ」につながるが、まさか「市民ケーン」を生んだとは? この不思議こそ、言葉という限定されたものではなく、映像という奥行も幅も限りなく広がり、深まる抽象的な表現=映画の醍醐味であり魅力なのだと思う。

「捜索者」は、西部開拓時代の神話となったコマンチ族の白人拉致、1836年にテキサスで起きた実話に基づいている。ピューリッツアー賞作家のグレン・フランクルが著した『捜索者・西部劇の金字塔とアメリカ神話の創生』に、その経緯が詳しく書かれている。

フォード 捜索者

映画は、その実話を小説にしたアラン・ルメイの『捜索者』を軸にした。フォードは、この語り継がれた拉致の神話にかつてから興味を持ち、映画化を狙っていたと言う。白人とインディアンの数奇の運命をたどる神話に秘められた、アメリカ開拓の残酷な悲哀を存分に感じ取っていただろう。
映画「捜索者」を有名にした、暗闇からドアが開くと映画が始まり、ドアを閉じると暗闇に戻って終わるこのシーンは、実はロケ中に追加撮影された。このシーンはシナリオには無い。シナリオでは一人の男が荒野からやって来ると書かれ、そのシーンは撮影されていて、メイキング映像に出てくる。それだけでは、フォードはアメリカのダークな歴史を暗喩するには平凡過ぎると思ったから、もっと深い何かを描こうとして浮かんだドアのアイディアを新たに撮影したのだ。

フォード 熱海鋼一 捜索者

女性(マーサ)がドアを開くと、荒野の遠くから一人の男が近づいて来る。ジョン・ウエイン演ずるイーサン・エドワーズだ。南北戦争が終わって3年も経つ。その間、イーサンは、クリント・イーストウッドの「アウトロウ」の南軍の生き残りの残虐な窃盗集団の様なところに属していたのだろうか。突然の帰宅は、昔恋人であったマーサの家族に波紋を投げる。家族は西部開拓のテキサスで牧場を営んでいるが、白人に土地を略奪されたインディアンの報復攻撃をたびたび受けていた。

マーサの家族は虐殺され、次女のデビーがコマンチ族の酋長スカーに拉致されてしまう。スカーも騎兵隊に自分の子供を殺されていた。そこはフロンティア、まさに開拓の最前線なのだ。
イーサンは、マーサ家に養われているインディアンとの混血マーティン(ジェフリー・ハンター、「キング オブ キングス」でキリストを演じる)と共に、デビーの奪還を目指し、未知のインディアン・テリトリーをジョセフ・コンラッドの『闇の奥』のように、6年もかけて奥地へと捜索し続けるのだ。

アメリカを描き続けたフォードが、年齢と共に「荒野の決闘」「黄色いリボン」のような開拓の美しい理想では物足りなくなり、苦渋に満ちた開拓の非情な現実がアメリカを築いたとの思いを「捜索者」に映し出したと思う。
「捜索者」はドアの向こう側と内側、アメリカそのものを暗喩した暴力と差別と偏見と希望を、実に美しいモニュメントバレーに描きこんだ類稀な傑作となった。

フォードが、画面の両サイドを暗くする象徴的なカットをこの映画の他の要となるシーンにも生かしていることは、フォードが映像詩人といわれるゆえんと僕は思う。カメラが闇の中にいるそれらのシーンは、奥行のある陰影を含み、映画を豊かにしていると思う。

フォード 熱海鋼一 捜索者

マーサの家族がコマンチに虐殺され、放火された家のシーン。イーサンが駆け寄る。カメラは家の中に切り替わる。ドアの両サイドは暗く、そのドアの枠の中でイーサンは陰惨な室内を見る。ジョン・ウエインが「マーサ」と叫ぶ表情の悲痛さは、コマンチへの絶対的復讐を誓うにふさわしい激情がみなぎる。イーサンは復讐の鬼と化し、報復への旅が始まるのだ。

そして映画のクライマックス、イーサンが逃げるデビー(ナタリー・ウッド。前年に「理由なき反抗」)を追う。そのロングは洞窟の内部、暗闇から撮られている。洞窟の暗部が画面の両サイドを暗く切る。イーサンは、拉致されたデビーがすでにコマンチ化したとして、殺そうとさえした。その砂丘での見事な描写にも息をのんだ。イーサンは追い詰めて殺すのか? 誰もがデビーの命を思う。
ジャン・ルック・ゴダールが涙したシーンがこの後に起こるのだ。このクライマックスシーンも、洞窟を探して撮り直したという。両サイドに暗い縁取りのある闇の奥行が欲しかったのだ。
これによって、拉致された娘デビーの帰還が惨殺された母マーサの絶望的なシーンと呼応し合うことになるのだ。

フォード 熱海鋼一 映画画像

「捜索者」には、俳優としてのジョン・ウエインの生涯のベストカットがある。
インディアンたちを捕らえて居留地へ追い返す騎兵隊部隊でのことだ。コマンチに拉致された奇声を発する白人の女性の姿を見るイーサンに、カメラは急速にトラックアップして近づく。このカットのジョン・ウエインの憎悪と怒りと絶望が入り混じる表情は、凄まじい。映画史に残る強烈なカットだ。

ジョン・ウエインを一躍スターにのし上げた「駅馬車」での登場シーンもまた、カメラは急速にトラックアップして、初々しい彼、リンゴ・キッドを映し出す、まさに印象的なカットだった。
「捜索者」のジョン・ウエインは、人生を重ね、一途で強烈な魂を持ち、重厚なのだ。復讐の鬼そのものの表情をイーサンの人生に重ねて演じた。カメラを殆ど動かさないフォードの独壇場、どこでカメラを動かすかのが極めつけだ。映画人生を共にしたフォードとウエインの関係が、この二つの映画のカットに現われていて、感慨深い。ジョン・ウエインはアメリカの偶像にのぼりつめたのだ。

フォード 熱海鋼一 映画画像

イーサンは、コマンチの酋長スカーと会うことで、両者が子供や家族を奪われ、報復、復讐しかない生き方を選び、虐殺をもいとわない暴力を振るう同じ人間、敵味方でなく、人として同類であることが示される。これはこの映画の肝の一つだ。

クライマックスが近づき、スカーとの最後の一戦を交えることになる。その戦いの前に、マーティンはコマンチのテントに忍び込みデビーを助け、同時にスカーを一瞬で射殺する。この後に乗り込んだイーサンは、スカーの頭の毛をはぎ取り復讐を遂げ、さらに逃げるデビーを追う。カメラは、洞窟の中からロングで砂ぼこりを上げて追うイーサンと逃げるデビーをとらえる。
洞窟の手前でデビーは躓き倒れる。そこにイーサンが馬を下り、デビーを抱き上げ、「デビー、家に帰ろう」と言う。ゴダールは「ジョン・ウエインがいかに右翼で許せなくても、このシーンを見ると涙がでてくる」と語り、20世紀の映画史に重要な作品として「捜索者」をいち早く取り上げ、評価した。

フォード 熱海鋼一 捜索者

封切り当時、ほとんどの評論家も観客も映画人も、この映画の時代を先取りした先駆性に気づかなかった。もはやハリウッドの古臭いベテランでしかないフォードが、まさか時代を超えた変身をするなど、信じられないことだった。堅苦しいが、よくある西部劇だとスルーした。
しかし、まだ映画界に入る前のスコセッシやスピルバーグなどの若者の心に、強烈に「捜索者」が焼き付き、前世紀後年に、ようやく歴史に残る傑作として認められるのだ。

次回でこの続き、ラストのドアが閉まるその時に起こるアメリカの暗喩について、また映画の影響など、モニュメントバレーとともに語ってみたいと思う。

熱海鋼一記 

熱海鋼一(あつみ・こういち)

1939年生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。映画・テレビのドキュメンタリー編集・フリー。 「The Art of Killing 永遠なる武道」(マイアミ国際映画祭最優秀編集賞)、「矢沢永吉RUN & RUN」「E. YAZAWA ROCK」、「奈緒ちゃん」(文化庁優秀映画賞・毎日映画コンクール賞)、「浩は碧い空を見た」(国際赤十字賞)また「開高健モンゴル・巨大魚シリーズ」(郵政大臣賞、ギャラクシー賞)、「くじらびと」(日本映画批評家大賞)、ネイチャリング、ノンフィクション、BS・HD特集など、民放各局とNHKで数多くの受賞作品を手がける。

twitter(熱海 鋼一) @QxOVOr1ASOynX8n

熱海鋼一著『ジョン・フォードを知らないなんて シネマとアメリカと20世紀』(2010年、風人社、3000円+税)

もくじ
https://www.fujinsha.co.jp/hontoni/wp-content/uploads/2017/07/fordmokuji.pdf

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