スケッチ紀行3日目/その3
世田谷旧道続編、玉電砧線と玉川三業地

みなさん、こんにちは。
いつのまにか金木犀の香りがひろがって、あぁ秋の始まりだなぁなんてね。
最近は気候変動が激しいので、春と秋はとてもその時季が短くて ちょっと淋しい感じですが、今年の金木犀は、なんと2度咲きしました!
そんなことを言っている間に、今年も2カ月と少し。
来年は、もう少しコロナが沈静化してくれることを祈って 大山を目指します。

では、スケッチ紀行3日目のその3。
今回は世田谷旧道の続編です。
多摩川越えを目の前にして、次週に続く・・・みたいですが、やはりこの2テーマは欠かせないものなので、おつきあいください。

*因みに、各スケッチはクリックすると拡大で見られますよ。

玉電・砧線

 世田谷区内旧道のスケッチ紀行では、時々ご紹介してきた玉電
いよいよ多摩川を目の前にして登場するのは「砧線」です。
玉電ファンには、渋谷から玉川までのなかでもこの短い砧線に特別な思いを抱き続ける方が多いのだと聴きます。また、現在でも当時を思い出させる貴重な痕跡が残っているのも、興奮のタネとなっているのかもしれません。

前回のスケッチ紀行で、ココの詳細は次回に・・・と言ったところが何カ所かありましたよね。そちらも含めてご案内しましょう。

上のスケッチMapにあるように、玉電・砧線二子玉川から砧本村までの全長たったの2.2kmほど。
多摩川河川敷で採れるジャリを東京の中心部へと運ぶのが大きな目的でした。
だから、砧線は別名”ジャリ電”
日清戦争の好景気によるビル建設や道路整備に続き、関東大震災後の復興のため建設ラッシュになったこともあり、コンクリートに欠かせないジャリの需要が急激にアップしていたのです。
こうして初めはジャリの運搬がメインだったものの、1934年(昭和9)多摩川のジャリ採取が禁止され、次第に周辺の人口増加に伴い旅客輸送に代わっていったようです。そして、高度経済成長で日本中が勢いづく1969年(昭和44)、地下鉄工事などによって玉川線ごと廃止されました。
現在は三軒茶屋から下高井戸を結ぶ世田谷線が残り、元気な姿を見せています。因みに、私は今日この時点でまだ、白いまねきねこ車両と遭遇していません!!
いつか会えることを信じて、今回はまちのあちらこちらで見かけることができる痕跡、そのいくつかを訪ねてみましょう。

まず、二子玉川駅から高架線に沿った小径(クランク状になっています)を行きます。
普段なにげに歩いている道ですが、ここでちょっと周辺を見回してください。そうすると、道の両脇にある、コンクリート製の鉄道柵に気がつくはずです。今はあまり見られませんが、昔は必ずと言っていいほど、線路脇にはこの柵がありました。実際の現物を見れば、あぁそうそう!って思い出すはず。
これ、立派な砧線の遺構ですし、ここを線路が通っていたという証でもあります。

そのまま現在の東急田園都市線・大井町線の高架をくぐり、旧246(二子のメイン通り)へと向かいます。交差点を渡り、世田谷信用金庫の脇道(はなみずき通り)へ。この道が二子商店街から直角に延びる道ですが、砧線が走っていたところで「中耕地駅」(現在は一本南側の中吉通りにバス停)などがありました。

前々回で載せたスケッチですが、改めてもう一度ご覧ください。
石畳には線路幅を示す工夫やタイル画、「中耕地駅跡」の碑もあります。
大山街道砧線跡の交差点の角にあるクリーム色の建物は、当時からのもので郵便局として長いこと営業していました。私も何回となく利用しましたが、中の雰囲気がレトロぽくって好きでしたね。残念ながら、今は違う店となっているようです。

この砧線跡の道は遊歩道のような感じになっていて車の往来もさほどありませんので、ゆっくり歩いてみるといいでしょう。
もう少し進むと、左側にコンビニエンスストアがありますけれど、その目の前にはベンチと一風変わったガードが。よく見れば、線路そのもの! 青くペイントされていますけれど、そうです砧線のレール再利用で、見事に甦ったまち景のひとつです。

そして、その先が緩やかなカーブになって多摩堤通りと交叉する「吉沢橋」です。ここには「吉沢駅」の痕跡として残るモノはないのですが・・・と見回していると、道路に面する民家入り口付近には、昔の東急電鉄マークが刻まれた石がいくつかありました。
今は、多摩堤通りの渋滞箇所となっている吉沢の交差点ですが、しっかりここにも砧線の跡があったというわけです。

先ほどのはなみずき通りにあった石畳が続く「吉沢橋」で野川を越えますが、ここの親柱には車輪とレールが施されていますし、砧線が走っていた頃の写真が添えられた説明板もあります。
のどかな田園地帯だった頃の様子が思い浮かびます。

この先は終点の「砧本村」
現在は路線バスが運行されているので、玉電・砧線の終着駅はそのままバスの発着所となっています。
そして、このローカルな終着点がまたおもしろい!
最初にお話しした鉄道柵もしっかり残っていますし、水色にペインティングされた待合は、当時の駅屋根が転用されているのです。
目の前には駒沢大学玉川キャンパスがあり、年始めの箱根駅伝の常連たちやサッカー、相撲などの体育系を学ぶ若者達がにぎやかに道を埋めますが、この発着所だけはなんだか当時の雰囲気を残しつつ、まちの喧騒とはひとつ隔てられた雰囲気があるのです。

ここに来る前にある三角地帯の三叉路は、砧下浄水所の古い建物も背景に古道のような味わい深さがあって、結構お気に入りのところ。
スケッチに描いたとおり、この右側を砧線が走っていたため三角地帯に建つ家々の玄関は大抵が左側に面しているのです。
そんなことも、なんだかおもしろいでしょ。

古い写真絵葉書には、多摩川へ向かって軌道が延びる玉電をとらえたものもあります。ひゃぁ〜!周囲は水田だらけですね。

忘れちゃいけない「玉電と郷土の歴史館」

 砧線の痕跡をご案内してきましたが、ここでもうひとつ! 玉電と言えば、決して忘れてはならない人と施設があります。
その名も「大勝庵 玉電と郷土の歴史館」玉電をこよなく愛する大塚勝利さん(以前は蕎麦屋店主)が、玉電に関するさまざまな資料を収集し、走るまちなみをも大事に記録・保存されてきて、そんな懐かしく楽しいものが所狭しと展示されています。
三軒茶屋の蕎麦屋で修業をかさね、そして二子玉川でご自身の店「大勝庵」を出しました。

蕎麦屋を営みながら、忙しい時間の合間を縫っては郷土の情報をひとつひとつ、本当に丁寧に集めてこられました。
気軽に伺ってみてください。
いろいろなお話しを聴くことができますし、とにかく楽しいモノがいっぱいです!
東急電鉄の帽子をかぶって、歓迎してくれますよ。

「大勝庵 玉電と郷土の歴史館」
開館日:火・木・土・日  *不定休、年末年始 開館時間 10:00〜15:00
住所 世田谷区玉川3-38-6
電話 080-1227-6158

三業地としてのにぎわい

さて、もうひとつご案内するのが世田谷区内に唯一存在した玉川三業地
三業地とは、芸妓屋(芸者屋・置屋)、待合茶屋(待合)、料理店からなる三業組合(同業組合の一種)が組織されている区域のことで警察署が認める指定地に限られていました。地域名を冠にして○○三業地と呼ばれていました。

江戸時代から多摩川の鮎は有名で、徳川将軍家と領主の彦根藩井伊家に献上品として納められていたそうです。1907年(明治40)、渋谷〜玉川間に玉電が開通して以降は客の足が確保され、遊園地のオープンや菖蒲園など、それはそれは賑やかな行楽地だったとか。その頃から淵に料理屋がどんどん建ち、屋形船を使った宴会なども盛んに行われるようになって、三業地としての条件が揃っていったのでしょう。
1920年(大正9)に三業地の指定地制度ができ、1927年(昭和2)に正式に三業地として成立したそうです。

四季を通じて楽しめる多摩川では、鉄道会社と料理屋の協賛で酒肴付乗車券を販売したり、屋形船での鮎料理などいろいろな趣向で客を呼び寄せていました。
周辺の住民にとっても、料理屋や旅館の開店、屋形船の船頭や鮎釣り漁師になるなど経済的にも大きく潤うようになったことでしょう。
当時の写真葉書などを見ると、本当に大勢の人たちがやってきて楽しんでいたようです(但し主には男性)。
下のスケッチ地図は三業地として栄えていた頃のものですが、たくさんの料理屋や待合があったことがわかります。

柳屋と水光亭では大型の屋形船、なんと50人も乗れるものを所有していたそうですから宴会の大騒ぎが目に浮かびます。それぞれ屋根のカタチに特徴があったため、遠方からでもどこの料理屋が出している舟か見分けがついたと言います。これも立派な宣伝ですね。

玉川駅に近い入口には「三業地入口」という看板があり灯篭が置かれていました。指定後は街区に柳が植えられ風情をかもし出していたそうです。この柳が、今の二子玉川柳小路という名の飲食店が集まる地域に活かされているのですね。

当時の店は、すでに無くなりましたが、オーナーは変わってもその名を残したのが「玉川やなぎや」
四季の味わいを料理で楽しめるようです。

残念ながら、粋な数寄屋造りの待合や広い料理屋など、当時の面影を残す建物はありませんので、かつては行楽地として栄えた多摩川流域を想像するのは難しいでしょうけれど、これも大山街道をめぐるには欠かせないものとしてご承知いただければありがたいです。
建築的にもなかなか興味深い造りでしたし、玉川のまちが発展するきっかけともなったわけです。
玉川三業地は1959年(昭和34)に廃止されました

尚、多摩川では和紙(玉川和唐紙)の紙漉きをして和紙製造や染め物工場などもあったようで、さきほどの三業地地図にもいくつか染め物工場が記されています。どちらかというと、玉川側より川を渡った川崎市溝口や登戸方面に多かったようです。
また「二子玉川」とは、多摩川をはさんで神奈川にあった二子村と東京側にあった玉川村の名前が組み合わさったものとされています。つまり、多摩川は河川の正式名称、玉川は玉川村から活かされている町名や河川以外で使われています。

このへんで寄り道・旧道続編はおしまい。
次回からは いよいよ、二子橋を渡って神奈川県・川崎市へと入ります。

さて、次回スケッチ紀行は4日目のその1。
ここでしばし東京都とはお別れ、神奈川県へ進みます。先日お知らせした「大山街道ふるさと館」のある溝口宿までを行きますよ。お楽しみに!
みなさんのご意見・ご感想もお待ちしています。

岡本和泉/Izumi Okamoto

さまざまな「デザイン」を通して、社会や地域、環境、食、観光、ものづくり、文化などをつなぎ 新たな展開をするプロデューサー&クリエイター。 2015年からは”暮らしのデザイン”の一部として、地域に密着し日々の楽しさを広げる 地域独自のイベントや企画、地域活動も手掛け、長年住む世田谷の文化や知的資源、 自然を活かした地域ツーリムなども多く開催している。
http://www.imincosmos.com https://www.facebook.com/Setayui/

2022年8月、新たに合同会社Produce any Colour TaIZを設立。従来の企画デザインやプロデュース業などに加え、画像技術による画像処理分野に手を広げ、文化財や古い写真の修復・保存、天文写真再現、画像技術開発、講座なども展開する。
https://taiz.jp

【参考図書】

中平龍二郎著『ホントに歩く大山街道』(2007年、風人社)
改訂新版ウォークマップ『ホントに歩く大山街道』(2021年、風人社)
中平龍二郎+編集部著『キャーッ! 大山街道!!』(2011年、風人社)

ウォークマップ ホントに歩く大山街道キャーッ! 大山街道!!