スケッチ紀行3日目/その2
世田谷旧道後編、多摩川へ向かって

みなさん、こんにちは。
多少、朝晩は涼しい日も出てきましたね。あれだけ暑い日を経験すると、日中30度くらいだと
なんだか今日は楽だなって思うから不思議ですね。
暑さ寒さも彼岸までと言いますが、まだもう少し我慢でしょうか。

それからお知らせがひとつ。
大山街道スケッチ紀行5でご案内した「駒沢給水塔」、毎年10/1都民の日に見学会があるのですが、保存会の知人に聞いたところ、残念なことに今年もコロナ禍により中止だそうです。
但し、年末年始の点灯はありますのでこちらをお楽しみください。

では、スケッチ紀行3日目のその2
世田谷区にあるもう一本の旧道後半をたどりましょう。

*因みに、各スケッチはクリックすると拡大で見られますよ。

*ウォークマップ大山街道
道標跡ー大山道旅人の像ー野中地蔵・道標ー用賀追分ー田中橋ー延命地蔵ー大空閣寺ー瀬田教会ー慈眼寺ー瀬田玉川神社ー次大夫堀ー大山道の碑ー兵庫島公園ー二子玉川駅前

旅人気分になって

前回ご紹介した世田谷区立郷土資料館に保存された「大山道標」が、実際にあった場所はちょっと面白いというか複雑な四差路の三角地帯にあります。一見、道標そのものにも見えますが、ちゃんと説明があります。

その地点の前に駒留通り沿いにある「実相院」を訪ねましょう。
これまた前回書いたとおり、私が長年お世話になっている美容院への道のためよく通るのですが、実際に中へお邪魔するのは初めてでした。立派なお寺さんだなと思ってはいたのですけれど、伺ってみて本当にびっくりしました。
お庭の至る所にある数々の”石”といい、”ししおどし”や”江戸城の残石”、高橋是清の”髭塚”など、まぁ、とにかく驚きの連続なのです。
静寂の中になにかこう凛としたものが感じられる空間で、松丘小学校側にある門には気持ちのいい竹林と、ここが朱印寺であったことがわかる碑もありました。
庭の手入れだけでもさぞかし大変なことだろうと思いつつ、竹林前のベンチで一休み憩の時を過ごしました。

「実相院」は、勝光院中興開山の天永琳達大和尚の隠居寺として1588年(天正16)に創建されたそう。
当地は世田谷吉良家の吉良氏朝夫妻の閑居地で、夫婦の法名を山号院号としたとあります。

「実相院」を出て、「大山道標」の三角地帯へ行きます。
古道が交わる魅惑の三角地帯! 変形型のため、ちょっとわかりにくいかもしれません。目印は鈴正畳店ですが、私が行ったときはお休みだったのでちょっと探してしまいました。
でもなかなか古道の雰囲気が残る交差点で、当時を想像して旅人気分になりますよ。

さぁ、その旅人気分を盛り上げる「大山道旅人の像」へ向かうとしましょう。
やはり少々細い道は、いかにも昔の街道ですね。ゆるやかな坂を下ると公園が見えてきて・・・いましたいました、一休みしてキセルをふかす旅人が!なんでも大山詣をする商家の主がモデルだとか。
なかなか渋いお顔をしています、ふふっ! 1985年(昭和60)にたてられたとのことですが、普段の道にこういうものがあると、改めて大山街道への興味がわくかもしれませんね。

ここで、江戸時代の旅について少々お話ししましょう。
江戸時代にもなんと!旅行マニュアルというのがあったようで、その名も『旅行用心集』。八隅蘆庵(やすみ-ろあん)著で、旅の心得や荷物、諸国の温泉などのほか、遭遇すると危険な虫についても書かれていたとか!
現代のようにすぐさま対処できないでしょうから、なるべく道中の危険からは遠ざけるのがいいですよね。
みなさんご存じ「控えおろう!この紋所が目に入らぬか」でお馴染みの印籠。まぁ特別な紋はなくとも、薬などを携帯するための容器ですが、持病があればもとより多少の怪我など含め用心していたということです。
旅に出るときはできるだけ持ち物を少なくするのが基本ですが、これだけは必需品として矢立、扇子、糸針、懐中鏡、日記手帳、櫛、鬢付け油、ちょうちん、ろうそく、火打道具、懐中付木、麻綱、印板、鉤(かぎ)、手拭い、風呂敷、薬、合羽、笠などがあげられています。
鬢付け油は関所や城下を通るときに髪の乱れがないようにする、麻綱は旅館で荷物をまとめる、先が曲がった金属製の鉤は、持っていれば何かと道中重宝するのだそうです。

それにしても、今のようなキャリーバッグがあるわけではありませんし、移動の殆ど全てが徒歩ですから、昔の旅は大変でした。
服装は手に手甲、上半身は合羽、下半身には股引、脛には脚絆を装着、そして足は足袋と草鞋(わらじ)、頭に菅笠が一般的なものだったようです。
着替えも持てる余裕はありませんので、下着のみ2〜3着で、しかも道中の川や池で洗濯していたんですって。

ではまたコースへ戻ります。像の脇道にはマンション一角に「八幡社」がありました。
ここから用賀まで一直線、旧道の雰囲気を味わいながら進みましょう。

弦巻四丁目交差点にあるのが「野中地蔵・道標」です。1682年(天和2)造立の地蔵は弦巻村の念仏講が立てたものだそうで、その下の台座が道標になっています。左り 大山道、右り 世田谷道・堀之内道。
その横には馬頭観音がありました。

この道は現在弦巻通り、先の馬事公苑通りにぶつかると陸上自衛隊の用賀駐屯地です。
Y字型の交差点には煉瓦色の大きなマンションがありますが、以前は昭和薬科大があり、その跡地だという説明板が。どうりで広大な敷地のはずです。

その交差点にお洒落な門扉を見つけました。屋根まで付いていて、とっても良い感じ!
時々、こういった昭和レトロのような家が残っていますね。手づくりというか、オリジナル性が高い気がします。囲いの塀はいろいろ継ぎ足されたようで一貫性がありませんけれど、門扉だけはOK。

そのおうちの隣が「衛生材料廠跡」。難しい漢字ですが、えいせいざいりょうしょうあとと読みます。
昔は一帯が畑でしたが、1929年(昭和4)に芝白金から陸軍が使う薬の製造や保管をする施設が移転してきました。太平洋戦争の頃には大勢の人が働き、玉電用賀駅からは通勤する人たちが溢れていたといいます。

旧道の雰囲気を感じながら

細い旧道を進んでいると、マンションのみどりに「大山道」の案内板がありました。このマンションオーナーが設置したのか?発信元が書かれていないのでわかりませんけれど、嬉しい光景です。
大山街道は信仰から段々物見遊山へと変わっていきますが、いずれにしても江戸庶民が楽しみとするもののひとつで賑わいをみせていたのですから、後世の人がそんな楽しみを受け継ぎ、当時の様子や歴史に触れるのは歓迎すべきコト。こんな案内板があれば、子ども達も記憶の片隅に留めてくれるかなって、思います。

さぁ、ここを進めば新道でご案内した「用賀追分」までもうすぐ! ですが、小ちゃくても気になる美味しそうなお店をみつけたので、ちょっと立ち寄り。
だって、もう13時をまわってお腹も空いてきましたもん!

ここしかないパンと謳うのは「panaderia coṕerie」。パナデリアとはスペイン語でパン屋のこと。
食べると内側から元気になれる、スペインの空と太陽のような、素朴な暖かさのあるパンを目指すと言っています。国産小麦100%の食パンやオーガニックレーズン酵母を使った美味しいパン、特製自家炊きあんなどなど、確かにここにしかないパンが並びます。
そして右側の階段を上がると「Cafe and Dining Paco」。野菜をふんだんに使ったヘルシー料理を気軽に楽しめます。人気のシャキシャキ食感のごぼうレンコン煮込みハンバーグや根菜サラダなど疲れた体にも嬉しいですね。ローカーボデザートもあるみたいですから、食後別腹のお楽しみも!

こういった小さな地元ショップがあるのも旧道ならではの楽しみ。
大型店ではなく、オーナーの心意気が直に感じられますよね。

世田谷の新道案内で来た「用賀追分」。前とは違う方向から来ると、雰囲気が違うものです。
今日はここを右折して「水道みち」へ入ります。

「水道みち」は、大正時代に渋谷方面へ水道を引くのに水道管を埋めたところです。
多摩川の水を砧で汲み上げ、岡本、用賀、桜新町を経て、前にご紹介した「駒沢給水塔」に溜め、高さを利用して渋谷へ送りました。
ここを通ると近道になることから段々人の行き来が増え、後に「水道みち」と呼ばれるようになったそうです。

そのまま進むとガラガラ引き戸が見えてきて、「火の見やぐら跡」とあります。
1913年(大正2)、玉川村に6つの消防組ができ、用賀はその第1部消防組でした。大山通り松本酒店横に消防器具置き場がつくられ、木造の火の見櫓が建てられたのだそうです。やがて、高さ15mの鉄製に建て替えられましたが、1935年(昭和10)に役目を終えたようです。
でも、この光景・・・ちょっと何かに似ていませんか? 私が思いついたのは、現在の歌舞伎座。昔風の外装の上に近代的な高層ビル、なんとも妙な取り合わせですが・・・それをつい思い出しちゃいました。

さて、ここから用賀駅前を通り、「田中橋」「延命地蔵」までは新道と同じ道のり。
「延命地蔵」から今度は「慈眼寺」へ向かう右の道へと進みます。
その前に環八を渡るひとつ前の道に、またまた美味しい立ち寄り処をみっけ!
BUTALIAN」その名の通り豚料理の専門店です。こちらも、これでもかとボリューム満点ですよぉ。

崖線トップから一気に下る

環八を渡る際は、ちょっと北にある信号を利用してください。「BUTALIAN」前を過ぎて左折すればちょうど信号に出ます。

環八を渡れば、今日の終点多摩川まであと少しですから頑張って。

信号から一本南下した道を行くと、右側に「大空閣寺」。虚空蔵菩薩を本尊とする真言宗豊山派如意山福智院。1912年(大正元年)に虚空蔵行者聖慶大僧正が豊多摩郡戸塚町(新宿区高田馬場)に創建、1935年(昭和10)当地へ移転しました。玉川八十八ヶ所霊場の三十八番です。

道なりに進むと視界が開け、崖線のトップに出ます。
左側に「瀬田教会」、坂道をはさんで向かい側に「慈眼寺」があります。
「瀬田教会」はとてもシンプルですが、だからこそ清楚な美しさが漂います。そして中へ足を進めると、「将監山遺跡」の碑をみつけました。
1974年(昭和49)の発掘では縄文土器など、更に1982年(昭和57)の神殿建築による緊急発掘では、先土器時代の石器、縄文・古墳時代の土器など230点あまりが出土したそうです。
将監山とは、中世の頃この辺りに住んでいた柳田将監を偲びこの台地一帯をそう呼んでいたことからと言われています。

そして、ここでも可愛らしい”おうち”という形容がぴったりの住宅に遭遇。こちらも門扉がなんともお洒落で玄関が印象的でした。

この崖線の上から急坂を下っての一帯は、お寺や神社のオンパレード。
先ず「慈眼寺ルート」と呼ばれる、その「慈眼寺」へ。

「慈眼寺」は、瀬田村で最も古いお寺。開基は1306年(徳治元年)、権大僧都法印定音によるそうです。初めは修験の地で崖線の下にあったそうですが、後に今の場所に移りました。山門には四天王が睨みをきかしています。
参道入口脇には江戸中期の「笠付庚申塔」馬頭観音があります。

急な慈眼寺坂を下りながら、「瀬田玉川神社」「玉川寺」(見延山関東別院)、下って左へ行くと「日蓮宗敬親玉川教会」(両親閣東京別院)に「玉川大師」と続きます。

「瀬田玉川神社」は、私にとっては初詣にもよくお参りする身近な神社ですけれど、なんと古墳の上に建っているそうな。大山の夏山開きの7月27日には境内に大山灯籠を立てていたそうで、日照り続きの雨乞いでは村人が集まって、代表が多摩川で身を清め、大山のお水をいただき、神社に納めて慈雨を祈ったといいます。

「玉川大師」は1932年(昭和7)に建てられました。昭和6年が日蓮上人の入滅650年で、それを記念して本山で別院をつくる予定だったのを、ジャリ電こと玉電が人を呼ぶために借地を無料で提供してもらい、ここに建立することとなったとか。
玉電駅名に、確かに「見延山関東別院」がありました。この駅は、新道で行ったR246沿い近くでしたが、今はなにもありません。

「玉川寺」は真言宗智山派で創建は大正時代。龍海大和尚によって大師堂、その後6年の歳月をかけて1934年(昭和9)竜海阿闇梨が地下仏殿を建てました。地下5mの場所に長さ100m、日本でも有数の地下霊場です。本当に真っ暗!!壁を手探りしながらでないと歩けません。

そして崖線を下ったところに「次大夫堀」。この先は、なんとなく懐かしい店が並ぶ二子玉川商店街です。

この商店街と同居する二子玉川小学校、そのフェンスにはしっかり大山道の標識がかかっていました。先ほどの「次大夫堀」の橋にも大山道のレリーフがあるので、子ども達にとっても身近かな歴史のひとつですね。

スケッチでは、はなみずき通りを右折して、玉電砧線の懐かしい跡をたどるイントロと「諏訪神社」を描きましたが、玉電の痕跡をたどる寄り道は次回にご案内しますね。

多摩川のオープンエリアを目指して

二子玉川商店街を突き抜けると、R246高架の真下に私も大好きな老舗の和菓子屋「西河製菓店」があります。早朝この前を通ると、もち米を蒸す豊かな香りが漂うのでなんだか幸せな気持ちになります。餅は日本人にとってはルーツな食べものですね、きっと!
実は、最近この和菓子屋の通りはさんだお隣に、桜新町の洋菓子店がオープンしました。前は床屋さんでしたが、閉店したのでどうなるかなと思っていたのです。
オープン当時は物珍しいのかお客さんの行列が出来ていましたが、今はいつもと変わらぬ行列が出来るのはこちらの和菓子屋「西河製菓店」。固定ファンがいっぱいなんです!

「西河製菓店」をあとに、谷戸川緑道を抜けて西へ行くと、こんもりとした緑が見えてきます。なんだかこんなところに?と思うのが「諏訪神社」
昔は大きなけやきの林があって、多摩川を往来する舟や筏の目印でもあったそうです。今は車の通りが激しい多摩堤通りとR246高架にはさまれ、ちょっと気の毒な感じもしますが、多摩川の安全を見守ってくれているのかなと思ったりします。

そのまま多摩堤通りを二子玉川駅方面へ向かうと、玉川やなぎやの駐車場脇に「大山道の碑」が建っています。この玉川やなぎやは江戸時代から続く老舗の料理屋で360余坪もある大店でした。

玉川やなぎやを含む料亭がたくさんあった当時の話や地図は、次回玉電砧線と一緒にご案内しましょう。

ここからは西側に多摩川と河川敷緑地が広がります。
内側にある土手を越えて川の方へ進むと、多摩川河川敷へ下りられ、緑茂る小さな島「兵庫島公園」が視界に入ってきます。
実はこの一帯、今はマンションだらけになってしまいましたが、以前美味しいチーズケーキの専門店があって・・・確か「Cheesecake Factory」だったかな?!目の前に広がる多摩川の景色とチーズケーキに至福のひとときを味わったものでした(チーズ料理も食べられました!)。
「兵庫島」とは、1358年(正平13)新田義貞の子・義興が従者十三名を連れて鎌倉へ向かう際、登戸の先にある稲城矢口の渡しで江戸遠江守と竹沢右京亮に謀られ、川の真ん中で船底の栓を抜かれてしまいます。
そして両岸から攻撃を受けた結果、自害という結末に。鎌倉へ向かうことも出来ずなんとも痛ましい話なのですが、その従者の一人である由良兵庫助の首が流れ着いたことから呼ばれるようになったと伝えられています。
普段は多摩川河川敷のイベントや家族連れなどで賑わう「兵庫島」に、こんな言い伝えがあったとはねぇ・・・。
数年前のW台風によって、対岸含めこの辺りは川の水が溢れ浸水や死亡者が出るなどの被害に遭いました。そのため護岸工事が進められ、現在は昔のようなのどかな川の風景とは様変わりしています。

新道では「二子の渡し跡」が終着点でしたが、今回は多摩川に架かる「二子橋」親柱を見て終わりにします。
二子玉川高島屋がある旧246を東へ戻ると、R246高架の下にある小さな公園に初代「二子橋の親柱」(世田谷側)があります。1925年(大正14)に初代二子橋ができ、1927年(昭和2)からは溝ノ口まで繋がる電車も走るようになりました。現在電車は専用橋になっていますが、最初は電車も車や人と一緒に渡っていたのですね。1960年(昭和35)には幅を広げた現在の橋が建設されましたが、御影石を使った立派な親柱は、公園に保存されることになりました。
親柱を見ながら、当時の暮らしやまちの様を想像します。

はい、お疲れさまでした 今回はここまで。
世田谷の新道・旧道と2本のコースをたどってきましたけれど、いかがでしたか。
コースでは、いよいよ多摩川を渡り神奈川県へ入りますが・・・
ちょっとその前に、またまた寄り道を少しさせてくださいね。

さて、次回スケッチ紀行は3日目のその3。多摩川近く、料亭や染め物工場があった頃と玉電砧線の痕跡を追う寄り道紀行です。どうぞお楽しみに!
みなさんのご意見・ご感想もお待ちしています。

岡本和泉/Izumi Okamoto

さまざまな「デザイン」を通して、社会や地域、環境、食、観光、ものづくり、文化などをつなぎ 新たな展開をするプロデューサー&クリエイター。 2015年からは”暮らしのデザイン”の一部として、地域に密着し日々の楽しさを広げる 地域独自のイベントや企画、地域活動も手掛け、長年住む世田谷の文化や知的資源、 自然を活かした地域ツーリムなども多く開催している。
http://www.imincosmos.com https://www.facebook.com/Setayui/

2022年8月、新たに合同会社Produce any Colour TaIZを設立。従来の企画デザインやプロデュース業などに加え、画像技術による画像処理分野に手を広げ、文化財や古い写真の修復・保存、天文写真再現、画像技術開発、講座なども展開する。
https://taiz.jp

【参考図書】

中平龍二郎著『ホントに歩く大山街道』(2007年、風人社)
改訂新版ウォークマップ『ホントに歩く大山街道』(2021年、風人社)
中平龍二郎+編集部著『キャーッ! 大山街道!!』(2011年、風人社)

ウォークマップ ホントに歩く大山街道キャーッ! 大山街道!!