どこにいる家康 ロゴ画像

石田三成を隠居させた家康は、大阪城で政治を意のままに行うようになり天下人と呼ばれるようになった。苦々しく思っている茶々や他の武将。
五大老の一人、会津の上杉景勝に謀反の疑いが出て、家康は会津征伐へ向かう。
舞台は、大阪市、京都市、彦根市、会津若松市、小山市

もくじ
●第41回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(三浦按針)

●第41回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第41回「どこにいる家康」発展編(by(し))

  1.謎の家康暗殺未遂事件と浅野長政
  2.ウィリアム・アダムス(三浦按針)と実現しなかった家康の夢
  3.狸はつらいよ

●ギャラリー(佐和山城跡)

第41回「三成の逆襲」▼動静

▼00分 
秀吉の遺言により、五奉行・五大老による政(まつりごと)を推し進めた石田三成は、混乱を抑えられず失脚。
大阪城西の丸に入った家康は、内府(内大臣)となり、天下の政を行った。
しかし、快く思わない者たちによる謀(はかりごと)が明らかとなる。

01分 大坂城西の丸(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
本多正信「浅野長政、土方雄久、大野治長は、重陽の節句(9月9日)の際、内府殿(家康)を亡き者にしようと企てた」
大野「私が全てやりました。治部(石田三成)への仕置きに納得がいかなくて」

<ナレ>謀には、前田利長(利家)の息子も加わっていたことが発覚。
浅野長政は府中に蟄居。大野と土方は流罪になった。

大野は不満顔。
家康「死罪を免じたのは、我が温情と心得よ」と大野に言い放つ。

05分 家康の部屋
家康は正信に肩をもんでもらっている。
正信「毛利、上杉、宇喜多。他の大老も油断ならない」
家康「たぬき(自分のこと)はつらいのう」

06分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

08分 近江・佐和山城(滋賀県彦根市古沢町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №9 mapB26佐和山城大手門跡、解説面6ページ>
慶長5(1600)年に隠居した三成のもとへ、大谷刑部(吉継)が干し柿を持って訪ねてくる。
大谷は、家康暗殺未遂事件などの近況を三成に知らせる。
大谷「内府殿は北政所に代わって西の丸に入り、思うままに政をしている」と三成に告げ口。

※佐和山に築かれた城。標高233m、麓から30分で本丸があった山頂まで登ることができる。中山道鳥居本宿からも歩いて行ける。

佐和山城跡(滋賀・びわ湖観光情報HP)
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/889/

佐和山城大手門跡
佐和山城大手門跡

09分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
家康に取り立てられた豊臣家臣たちでにぎやかな大坂城。茶々は、苦々しく見ている。

10分 佐和山(滋賀県彦根市古沢町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №9 mapB26佐和山城大手門跡、解説面6ページ>
大谷「三成は、家康のやり放題では面白くないだろう」
三成「家康のおかげで、天下静謐になればけっこうだ」

12分 大坂
大谷は、家康に佐和山にいる三成の様子を報告した。

▼12分 佐和山(滋賀県彦根市古沢町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №9 mapB26佐和山城大手門跡、解説面6ページ>
嶋左近「家康の周りを諜報活動してきます」と三成に進言。

13分 大坂
家康の元を、二代目茶屋四郎次郎(眉毛が濃くなった)が訪ねていた。
ちょうど流れ着いた海賊ウイリアム・アダムズが連行されてきた。
アダムズは、オランダ船リーフデ号に乗り込み、2年かけて豊後臼杵に漂着。60名のの乗組員のうち、24名しか助からなかった。
アダムズはイギリス人だったので、漂着先では、先行して勢力を広げていたポルトガル宣教師たちにいじめられた。

16分 大坂城・家康の部屋(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
「越後の上杉景勝が謙信の後を継ぎ、会津に国替えされたが、神指に城を築き、浪人を集めるなど不穏な動きをしている」などと話し合っている。

18分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
家康は茶々に「上杉が挙兵の準備をしているのか」と問いただされる。
茶々「太閤殿下が自ら軍を率いた小田原攻めが思い出される。内府殿もそうなさったら」
西笑承兌「上杉には、私が書状を書きましょう」
(西笑承兌=さいしょうしょうたい。僧侶。豊臣秀吉、家康の政治顧問などを務める)

19分 会津・鶴ヶ城(福島県会津若松市追手町1−1)
上杉景勝は、家康の意向を伝える西笑からの書状を受け取る。
上杉「何と無礼な書状! 家康に屈した覚えはない」
直江兼続「(家康は)太閤の教えに背くたぬき」

※上杉景勝は上杉謙信の養子。鶴ヶ城には、蒲生秀行が宇都宮へ去った後、慶長3(1598)年、越後から会津へ120万石で入封。慶長5(1600)年に鶴ヶ城近くに神指城(会津若松市神指町)を築城し始めたことが(未完)、家康の上杉討伐につながったとされる。

20分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
直江が書いた返答が家康に届く。喧嘩を売っている内容。
家康「戦となれば、わしが出陣するしかない。大軍勢を差し向け、速やかに降伏させる」
阿茶「殿のお留守は、男勝りの阿茶におまかせを」

22分 大坂城 6月15日
家康は、茶々と秀頼に会津へ行くと報告する。
茶々は家康に、金2万両と兵糧2万石を授けた。

22分 6月17日 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
家康は、結城秀康(家康の次男、お万の方の子)に「お前に期待している」と言う。
大谷刑部「佐和山に寄って、三成の三男をこの軍勢に加えたいと思っている」
家康「この戦が終わったら、治部には政務に戻ってほしいと思っている」と返答。

伏見城

25分 伏見城別室
家康は鳥居元忠を呼び「あれとはうまくいっているのか?」と尋ねる。
鳥居元忠「あれとは?」
家康「千代じゃ。ところで、もっとも信頼できる彦(鳥居)に、この伏見を任せたい。わしを憎んでいるやつが、三成の挙兵に加わるかもしれない」
鳥居「伏見は秀吉が造った堅牢な城。三千も兵がいれば大丈夫。私の殿への忠義は誰にも負けない」

31分 佐和山(滋賀県彦根市古沢町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №9 mapB26佐和山城大手門跡、解説面6ページ>
回想している三成のもとへ、深夜に嶋左近が訪ねてくる。

33分
<ナレーション>慶長5年6月18日、伏見を出発した家康は、7月2日に江戸へ入り、秀忠・平岩親吉の軍勢を加え、7月21日には会津へと進軍を開始した。

33分 佐和山(滋賀県彦根市古沢町)<「ホントに歩く中山道」第3集 №9 mapB26佐和山城大手門跡、解説面6ページ>
大谷が三男を三成の連れて行こうと待っていると、三成が甲冑を着て出てくる。
大谷「無理だ」
三成「私は家康を信じていない。殿下(秀吉)の置き目(決め事)を次々と破り、北政所を追い出し、あらがう者をとことん潰し、ほしいままにしている。野放しにすれば、豊臣はいずれ潰される。家康を取り除く」
大谷「我らだけの手勢で、何ができる」
石田「奉行と大老が我らにつけば……」と床下の金塊を大谷に見せる。
大谷「これはどこから出た? まさか大坂?!」

37分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
7月17日 毛利、宇喜多、小西などの軍勢が伏見へ向かっている。

37分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
鳥居元忠「急いで軍勢を集めろ」
千代「いそげ」と指示を出す。

38分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
三成、宇喜多、毛利らが、茶々と秀頼を訪ねる。
毛利「秀頼様の安泰のため、家康を打ち払う」
三成「逆賊家康を成敗いたす」
酒を飲んで杯をたたきつけ、気勢を上げる。

39分 下野小山・徳川本陣(小山市役所、小山市中央町1-1-1)
出兵中の家康の元へ三成の挙兵の知らせが届く。
家康「わしは逆臣に仕立てられたか!」
大坂の茶々から書状が届き、「三成が勝手なことをして怖いから、なんとかしてくれ」と書かれていた。
関ヶ原まであと53日。

潤礼紀行41 ウイリアム・アダムズ

黒島(大分県臼杵市佐志生)
アダムズが漂着、帰国を許されるも、死ぬまで家康に仕え、長崎で死ぬ。

臼杵市観光協会「黒島」
https://www.usuki-kanko.com/sightseeing/%E9%BB%92%E5%B3%B6

横須賀市逸見村(へみむら)
家康から横須賀逸見に領地と、三浦按針の名が与えられた。

逸見観光協会
https://hemi.yokosuka-kanko.com/

浄土寺(横須賀市西逸見町1-11)
按針の菩提寺。

(こ)記録

第41回「どうする家康」の舞台関連マップ

どこにいる家康41回 参考マップ

『ホントに歩く東海道』第16集(京街道 追分~樟葉、奈良街道)←伏見
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉~高麗橋)←大阪
『ホントに歩く中山道』第3集(高宮~垂井)←佐和山城


どこにいる家康41 発展編(by(し)

どんどんシリアス度を増す展開の中で、やたらに長い直江状(読んでいる家康・阿茶・正信は怒髪天なのだが)や、家康と本多正信の狸ポンポコ談義など、笑いを誘う部分もあった。

「内府殿のお力で天下が静謐を取り戻すなら結構なこと」

秀吉の天下に臣従したときの家康の苦渋の決断――ライバルが天下を取ったとき、平和の代償として、自分が今まで守り抜いてきたものを手放せるか? という立場に、今、三成が立っている。しかし、数正出奔で「勝利の目はなくなった」と現実に即して判断し、秀吉臣従に踏み切った家康とは違い、まったく実利というものを考えずに「信念で動く」三成を家康は警戒する。はたして家康の言うように「信念は人を動かす」だろうか?

1.謎の家康暗殺未遂事件と浅野長政

前回、愛知県稲沢市六角堂にある、長政の養父、浅野長勝の屋敷跡(『ホントに歩く東海道』別冊美濃路MapNo.5)を紹介した。浅野長政(実際には「長吉」という名前のほうが長く、晩年近くに「長政」に改名したと言われるが、ややこしいので「長政」で統一する)は、尾張国丹羽郡浅野庄の浅野家の分家に生まれ、本家の養子となった。本家には、親戚筋の娘である「おね」と「やや」の姉妹も養女になっており、おねは木下藤吉郎、後の豊臣秀吉に嫁ぎ、長政が妹ややの婿となって浅野家を継ぐ。長政は養父長勝と共に織田信長に仕え、その後秀吉の与力となる。義理の弟でもある長政は、秀吉に最も近い立場におり、実戦ばかりでなく兵站(後方支援)・行政など他方面にわたって秀吉を支え、信長の死後は、京都奉行・所司代に任じられた。

ドラマでは第38回で、秀吉の唐入りを激しい口調で批判する人物として登場した。昨年再放送された「おんな太閤記」では、調整役に適任の腰の低い人柄に描かれており、かなり違ったキャラで驚いたが、こうした秀吉への直言(『常山紀談』に載っている実話らしい)など、剛直な気質もあったようだ。もっとも、これまでほとんど出番がなかったこともあって、いきなりキレる人みたいな印象もあったが・・・再来年の大河ドラマは秀吉・秀長の兄弟が中心となるとのこと、浅野長政の出番もぐっと増えるのではないかと楽しみである。

慶長4年(1599)に起こった「家康暗殺未遂事件」に浅野長政も巻き込まれるわけだが、原因・経緯とも謎が多い事件だ。家康が下した三成蟄居の裁定に不満を持った面々が企画したともいわれるが、実際の首謀者は大野治長あたりで、前田利家の嫡男、利長は担ぎ出されただけ? というのはわかるとしても、京都で長らく豊臣・德川間の調整役を担当していた浅野長政は、家康が殺されてはむしろ損する立場ではないのか? 『豊臣秀吉軍団100人の武将』(新人物往来社2009)の中で浅野長政の項を担当する小和田哲男氏が「増田長盛に讒訴され」とバッサリ断じているように、「アンチ家康派が親家康派の前田・浅野らを除こうとした謀略」という説が一番納得できる気がする。慶長5年(1600)正月に前田利長の母で利家の正室であった芳春院が、人質として江戸に赴いたことはよく知られているが、疑惑を受けた面々も生命まで失った人はいなかったらしいのを見ても、どの程度本格的な計画だったのかは謎で、結果的に家康が大坂城に居座るきっかけを作ったような事件である。

いずれにしても、事件との関連を疑われた浅野長政が、嫡男の幸長に家督を譲り、武蔵府中に在住していた旧家臣、平田家の屋敷に、しばらくの間隠棲していたのは事実である。しかし翌年の関ヶ原合戦で、浅野幸長は東軍に参じて家康に近侍、その後初代紀州藩主に任じられ、娘の春姫が家康の九男で尾張藩主となる義直に嫁ぐなど、德川家と深い縁を結ぶ。さらに幸長の跡を継いだ弟の長晟(ながあきら)は、蒲生秀行に嫁いで後家となっていた、家康の三女振姫(母は武田系の側室)と婚姻、改易された福島正則の旧領である安芸広島42万石に加増移封される。なんだか家康が借りを返したような感じも受ける。浅野家は、赤穂の分家の騒動などがあったものの、幕末まで代々続いて、明治維新後は加賀前田家や肥後細川家と同様に侯爵となったのであるから、泉下の長政も満足していたことだろう。

関ヶ原古戦場の浅野幸長の陣(垂井一里塚跡) 『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo.12 mapC 42  写真42

垂井一里塚

浅野幸長は、南宮山の毛利陣に備え、この地に布陣した。垂井一里塚は、南側のみであるがほぼ完全な姿で残っており、中山道で国指定史跡となっている一里塚は、板橋の志村一里塚とこの垂井のみである。残念ながら不破関病院の所が町境で関ヶ原町から垂井町になるので、関ヶ原の観光案内所に置いてある古戦場巡りマップには浅野幸長陣は入っていないが、中山道ウォークでは必ず通るポイントである。一里塚の隣には、江戸末期の茶人で美濃派15世を継承した国井化月坊が建てた「日守茶処」がある。

長政の身を預かった平田氏は、どういう経緯で浅野家の家臣となっていたのか、なぜこの土地に居住していたのか等はよくわからないが、平田家は今もこの地で存続、現在は白糸台幼稚園(東京都府中市白糸台五丁目)の経営母体となっているようだ。京王線武蔵野台駅から歩いてすぐの所にあり、このあたりは「ハケ」と呼ばれる府中崖線のあるところで、「はけた坂」という坂もある。浅野長政隠棲の地という碑が幼稚園の敷地内にあり、敷地の周囲には土塁跡とされる土盛りもある。幼稚園の隣にある諏訪神社はもともと、屋敷内の鬼門にあった社で、脇にある溝は内堀の跡だという。小規模ではあるが中世城館として機能していたようだ。京王線は日常的に利用している線だけれど、こんな所にこんな史跡があったとは全く知らなかった。

はけた坂
はけた坂説明
白糸台幼稚園の中の「浅野長政隠棲の地」碑
白糸台幼稚園の中の「浅野長政隠棲の地」碑

府中は甲州街道四つ目の宿場で、『ホントに歩く甲州街道』がまだ発行されていないのが残念だが、全行程が完了したばかりの中山道マップ最終集の中の浦和にも、実は浅野長政ゆかりの史跡がある。

浦和宿二・七市場跡 『ホントに歩く中山道』第17集 MapNo.65 mapA7(写真7) 

大宮 二七市場跡

天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めの際、浅野長政は浦和に布陣し、民心安定のために市を開いた。月6回、二と七の日に六斎市が行われた。「御免毎月二七市場定杭」という柱石が慈恵稲荷参道にある。 
https://urawacity.net/4299

2.ウィリアム・アダムス(三浦按針)と実現しなかった家康の夢 

慶長5年(1600)、嵐に遭い漂流して豊後臼杵に流れ着いたリーフデ号ごと、大坂へ連れて来られた英国人航海士、ウィリアム・アダムスが、大坂城で家康と初の対面をした。目を輝かせてアダムスに質問を連発する家康。第14回で紹介した、三井記念美術館で展示されたコンパスとか鉛筆を見たのもこの時だったようだ。本多正信が何かをちょろまかして懐に入れていたように見えたが、普段から手癖の悪いイカサマ軍師は何に目をつけたのか?

アダムスと共にリーフデ号に乗組み、共に家康と面会したはずのオランダ人航海士、ヤン・ヨーステンは存在を消されていたが、かわりに茶屋四郎次郎二代目の見せ場があった。途中から通訳を放り出して、アダムスに寄り添った熱弁をふるう茶屋四郎次郎。初代はやや勘九郎さんの無駄使いだったようにも感じられたが、二代目は短時間ながら、ちゃんと活躍が描かれたのは良かった。オランダ・英国に先んじて日本に布教拠点を築いていたイエズス会の宣教師たちは、聖職者でありながら、敵対する英国の船乗りの処刑を求めるが、家康は拒否。西欧の政治事情に巻き込まれず、罪のない異国人の生命を救った家康の功績は、もっと世界的にアピールされてよいと思う。

ウィリアム・アダムスについては、ベルギーの日欧交渉史研究者による評伝『ウィリアム・アダムス 家康に愛された男三浦按針』(フレデリック・クレインス、ちくま新書2021)がある。この本は朝日新聞の書評(2021年5月29日)で見ただけで未読であるが、書評によれば、家康が〃鎖国〃とは真逆の、自由貿易による富国政策を考えていたこと、そのために外交顧問としてアダムスを重用したことを示す西洋側の資料が提示されているということだ。

四天王や十六将以外の、異色の家康家臣たちを取り上げた短編集『あるじは家康』(岩井三四二、PHP、2012)の中の一編『異国者』でも、アダムスたちを海賊船と印象づけようとするイエズス会宣教師たちに対し、異国人同士の対立に気がついていた家康は、対立に巻き込まれずキリスト教布教とセットにならない交易を実現しようとしたこと、最初は法螺話と思ったアダムスの話に明晰な根拠のあることを感じ「使える男」と評価するようになったことや、世界を自由に動き未知の地に挑むアダムスを羨ましく思う家康の姿が描かれている。

12月17日の「どうする家康」最終回の後に、「NHKスペシャル 家康の世界地図――乱世を終わらせた徳川家康がその先に見ていたもうひとつの夢」という番組が放送された。関ヶ原の戦いと大坂の陣の間の時期、家康はアダムスを片腕として自由貿易を推進し、鎖国とは反対の対外通商グローバル戦略を進めていた、というものである。日本全国を平定して、功労者に与える新しい土地がなくなった時、唐入りをもくろみ失敗した秀吉とは別の道を求めたのだ。

しかし、家康の予想以上に、キリスト教の布教は日本に定着しており、キリシタンがアンチ徳川勢力と結びつくことを怖れた家康は禁教令を布告、宣教師や改宗しないキリシタンは、マカオやマニラへ追放されていく。家康はそれでも、キリスト教の布教とは無関係の国々との貿易は続ける方針だったが、元和2年(1616)4月家康が死去すると、二代秀忠は外国船の港を幕府の直轄地である長崎と平戸だけに制限する。幕府による外国貿易の独占・統制のためだった。キリスト教に対する弾圧も激しくなり、元和年間には、京都・長崎・江戸などで、宣教師や信徒、さらに彼らを匿っていた者たちが処刑され、多数の殉教者が出た。そして家康の孫、家光の代、寛永18年(1641)には、ヨーロッパとの貿易を長崎・出島のオランダ商館だけに制限する“鎖国体制”が完成、家康が思い描いたグローバル交易の夢は幕を閉じてしまったのである。

共にリーフデ号に乗組んだウィリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステンの碑は、両方とも日本橋にある。「八重洲」の地名の由来となったヨーステンは東海道マップ、アダムスは中山道マップの範疇になるのも面白い。

ヤン・ヨーステンの碑 『ホントに歩く東海道』第1集 MapNo.1 mapA 5 写真5
道路の中央分離帯に「平和の鐘」と共にある。

ヤン・ヨーステン 東海道

三浦按針屋敷跡の碑 『ホントに歩く中山道』第17集 MapNo.67 mapB 48

三浦按針屋敷跡

横須賀市の安針塚は紀行でも取り上げられていたが、日本橋にも屋敷跡の碑がある。東海道マップでは、ぎりぎりの所でマップ外になってしまったが、中山道マップが京都から日本橋へ帰着して、ようやく載せられた。

10月29日に、横須賀の「三浦按針の会」が日本橋へ来てパレードを行い、ドラマで按針を演じた村雨辰剛さんも出演して大賑わいだったという。
https://www.townnews.co.jp/0501/2023/11/03/704906.html?yahoo

元和キリシタン遺跡 『ホントに歩く東海道』第1集 MapNo.1 mapC 26  写真26

元和キリシタン遺跡 東海道

東海道の芝から札の辻を過ぎ、高輪大木戸にかかる前に、右手に緑地帯の広がっている所があり、階段を上っていくと、「都旧跡 元和キリシタン遺跡」という石碑がある。元和9年(1623)、ここでイエズス会の神父や信者らが火刑や磔刑により処刑された。
https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20080508_fudanotuji.php

3.狸はつらいよ

「狸はつらいのう」
「気張れや狸、ぽんぽこぽん!」
家康と正信がトボけた会話を交わしていたが、そもそも「狸⇒ポンポコ」というイメージはこの時代からあったのか? などとSNSも賑わっていた。
「日本三大狸伝説」というのがあるそうだが、家康たちが心に描いていたのは、どんな狸だったのだろう?

狸伝説その1【證誠寺の狸囃子】千葉県木更津市

まずは「しょ、しょ、しょうじょうじ・・・」の歌でおなじみの、木更津・證誠寺の狸。ここの狸は、寺の周囲の森に棲む一つ目小僧やろくろ首などの怪異の支配者でもあったが、新任の和尚が全く怪異を怖れないため、ある夜、狸たちは大勢で腹鼓を打ち、和尚を恫喝しようと試みる。しかし和尚は自ら三味線で応戦、激しい演奏合戦が続く。とうとう四日目の夜、首領の大狸は腹鼓を打ちすぎ、腹が破れ死んでしまった。和尚は大狸を悼み、敬意を表して弔った。そして和尚と狸たちは協力して森を守り、狸囃子合戦の物語は證誠寺の伝説として語り継がれた。大正時代、野口雨情が木更津を訪れてこれを知り、作詞を児童雑誌「金の星」に発表、その後、中山晋平が曲をつけたのが童謡「證誠寺の狸囃子」である。

狸伝説その2【八百八狸】愛媛県松山市

天智天皇の時代より四国松山の森を守る守護者として、隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)という大狸がおり、八百八匹の狸たちを束ね、四国最高の神通力を有する者といわれていた。しかし時代は下り江戸中期、松山城にお家騒動が起こり、隠神刑部は謀反側に利用されて城内に怪異を起こしてしまう。その結果、隠神刑部と八百八狸は、宇佐八幡大菩薩から授かった神杖を持った稲生武太夫という武者と戦って敗北し、久万山の奥深くに閉じ込められて人々の前から姿を消した。

狸伝説その3【分福茶釜狸】群馬県館林市

茂林寺という寺の和尚が昼寝をしている間に、茶釜に頭・足・尻尾が生え、狸が姿をあらわした。和尚は不気味な茶釜だと、出入りの屑屋に売り渡してしまう。狸は、自分は「分福茶釜」であると名乗り、丁寧に扱ってくれるならば見返りに芸を披露すると申し出る。屑屋は見世物小屋を開き、狸が行う綱渡り芸をプロデュースして大人気を博し大金持ちに。感謝の印に、得た富の半分を茂林寺へ布施し、茶釜も返した。千人の僧が集まる法会で、この茶釜で茶をたてたが、一昼夜汲み続けても釜の湯はなくならなかった。このストーリーを巌谷小波が御伽噺『文福茶釜』として発表し、広く知られるようになった。しかし現在も館林市に実在する茂林寺のHPに記された寺の縁起によれば、茶釜の湯が減らなかったのが先で、その後、うっかり手足を出して正体がばれてしまった狸が恥じて、自ら身を隠したとなっている。いずれにしても「福を分ける」分福茶釜として愛される存在であり、今も茂林寺に保管されているそうだ。

三話のいずれも東海道・中山道・大山街道から外れているのが残念だが、中では、館林の茂林寺が、『ホントに歩く中山道』第15集 MapNo.60 mapBに記載の忍城寄り道コースから、さらにもう少し日光脇往還を北上すれば行ける所である。館林はまた、徳川四天王の一人、榊原康政が領主となった地でもある。「狸はつらいのう」という家康の慨嘆は、人に恐れられ警戒されるキャラを作り続けていなければならないストレスもあるだろうが、腹が割けるまで戦わなければならなかった狸に、深い思いを寄せているように感じられる。

どこにいる家康 第41回 ギャラリー  佐和山城跡・中山道鳥居本宿周辺(2018年4・5月)

佐和山城は、大手口からは登っていません。佐和山からおりて、大正時代につくられた佐和山隧道の入口までいきました。隧道内には水が溜まっていて入れませんでした。佐和山城跡の下を通る佐和山トンネルをくぐり、鳥居本宿に出ました。