2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」
2023年でドラマは終わりましたが、48話まで続けます。

ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』『ホントに歩く中山道』などで、その場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。ドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

秀吉が死亡し、石田三成による五奉行・五大老の合議制体制がスタート。
朝鮮出兵の後処理と仕切っている三成に対する不満が増長。
長老の前田利家が死に、家康と三成は対立。
舞台は、大阪市、京都市伏見、博多(39回とほぼ同じ)

もくじ
●第40回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(長浜市)

●第40回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第40回「どこにいる家康」発展編(by(し))

  1.五大老五奉行
  2.長束正家と水口城・姫塚
  3.石田三成と賤ヶ岳七本槍

●ギャラリー(水口周辺)

第40回「天下人家康」▼動静

▼00分 
<回想>星を見て語らう徳川家康と石田三成。死んだ酒井忠次。茶々。
<ナレーション>慶長3(1598)年秋、天下人に上り詰めた秀吉が逝去。泥沼化した朝鮮出兵をほっぽり出して。
今後の政務のために、五奉行と五大老を決めた。

五奉行=長束正家、増田長盛、石田三成、浅野長政、善徳院。
五大老=前田利家(83万石)、毛利輝元(112万石)、上杉景勝(120万石)、宇喜多秀家(57万石)、徳川家康(250万石)

▼02分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼05分 伏見城?
五奉行と五大老の会議が行われている。
石田三成「秀頼様が成長するまで、五人の奉行が政務を行い、五大老がそれを支える」
家康は、大変な役目を担った三成を励ます。
毛利輝元「気をつけられよ。話し合いで事を進めるのは同等の力を持った者同士でのみ成立する。突出した力を持った者がいれば、その者の意見が通る。治部殿(石田三成)は頭は切れるが、人心を読むのが苦手とみられる」
上杉景勝「徳川殿は狸と心得よ」と、二人は三成に家康について警告。

▼08分 家康の陣屋
家康と阿茶が、将棋を指す。
本多忠勝「殿が天下を取るべき」
本多正信「朝鮮出兵の始末が終わるまで、息をひそめるべき」
家康「三成がうまくやれ」

▼09分 博多
<ナレーション>慶長3(1598)年11月、7年もの長期にわたり多くの死者をもたらした朝鮮出兵だが、豊臣軍の撤退が始まった。
加藤清正、黒田長政らが博多へ戻ってくる。
清正「殿下が死んだとの噂は本当か?」
三成「……」「戦のしくじりは不問に付すゆえ、京都で茶会でも……」
黒田長政「おのれ◎※▽×△」
乱闘になる。
清正「わしらがどんな戦を戦ってきたか、何を食ってきたかわかるのか」と怒る。

▼12分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
家康と前田利家に、加藤清正・黒田長政・蜂須賀家政・藤堂高虎・福島正則が「三成が悪い」と告げ口にきた。
利家「三成を奉行に決めたのは秀吉様。軽挙妄動は許さない」

伏見城

▼13分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
寧々と三成がいる部屋
寧々「一言、加藤清正らに詫びを入れては?」
三成「なぜ私が?」
寧々「豊臣家中をまとめるのも、そなたの役目」
三成「私は間違っていない」
家康「腹を割って話してこい」
三成「やつらは私の話を理解したことはない」と言い捨てて出ていく。
寧々「あの子も真っ直ぐすぎる」

▼16分 伏見?江戸?
本多正信、本多忠勝、阿茶と家康が、諸国が乱れているという話をしている。
阿茶「黒田、伊達、福島、加藤、蜂須賀あたりでしょうか」
正信「影で工作を進めては? バレたら謝ればいい」

▼17分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
慶長4(1599)年<ナレーション>秀吉の遺言により、秀頼は大阪城へ移る。
茶々「石田三成では豊臣家中も大名もまとめられぬという噂が耳に入っている。朝廷も家康の言いなりになっている、と」
三成「徳川殿は我らを支えると、誓約を交わしております」
茶々「あのお方は平気で嘘をつくぞ」
嶋左近が来て「伊達、福島、蜂須賀、加藤、みな徳川との縁組みが進んでおります」と報告する。

▼20 江戸? 大坂?
加藤、福島、黒田は、徳川との縁組みが進み喜ぶ。

▼21分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA> 
家康を除いた五奉行、五大老の会議が行われる。家康のフライング縁組みを問題にする。
三成「太閤殿下の置き目(掟)にそむくことは許されない。徳川殿には謹慎してもらう」

▼21分 家康の陣屋
三成により、家康へ糾問使が差し向けられる。
家康「うっかりしておった」
正信「ここには、血の気の盛んな奴らがたくさんいる」と糾問使を追い返す。

▼23分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
家康抜きの会議が開かれているところへ、糾問使が追い返されたと戻ってくる。
利家「わしが徳川にわびを入れる。治部も一筆書け」
三成「置き目を破ったのは、徳川殿」
利家「道理だけでは政はできない」
三成は、出ていく。

▼24分 家康の陣屋
三成が、訪ねてくる。
家康「わしはそなたの味方である。一時の間、豊臣家から政権を預かりたい。ともにやらないか?」
三成「たぬき、とみなが言ってたのは正しかった。徳川殿、天下簒奪の野心あり」
家康「天下太平の為」
三成、出ていく。

▼28分 前田利家の館
家康は、病床の利家を訪ねる。
利家「治部が生まれたのは桶狭間の年(永禄3年=1560)。貴殿が兵糧を届けたという話はもはや伝説。多くの者にとって、今川義元の下で育ち、信長、信玄、勝頼、秀吉とわたりあってきた徳川殿は、神代の大蛇に見えるのだろう」
<ナレーション>1ヶ月後、利家がこの世を去ると、世間が騒がしくなっていく。

▼30分 大坂
加藤清正らが鎧兜の装備で、三成の屋敷へ向かう。

▼31分 伏見・徳川屋敷(京都市伏見区桃山町板倉周防32)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD29乃木神社>
忠勝「三成のいる伏見城を軍勢が取り囲んでいる。加藤、福島、黒田、蜂須賀、藤堂ら」

▼31分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
伏見城に籠城する三成に対して「三成、出てこーい」とやじる加藤清正ら。
本多忠勝が「うるさい」と、止めに入る。

▼31分 伏見・徳川屋敷(京都市伏見区桃山町板倉周防32)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD29乃木神社>
5人を招き入れ、話を聞く家康。あちゃが湯漬けをすすめる。

▼34分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
家康が三成を訪ねる。
三成「全ての政務から手を引き、佐和山へ隠居します」
家康「納得いただき礼を申す」
三成「納得してません」
家康の次男で秀吉の養子となった結城秀康が「治部殿を佐和山まで送ります」
家康「佐和山を訪ねてもよいか」
三成「ご遠慮願いたい。私とあなたは違う星を見ていた」

▼39分 伏見・徳川屋敷(京都市伏見区桃山町板倉周防32)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD29乃木神社>
家康、自ら薬研で挽いた薬を飲む。
<回想>今川義元、信長、進言、勝頼、秀吉のこと。

▼41分 伏見城(京都市伏見区桃山町)<「ホントに歩く東海道」第16集 №64 mapD27>
家康は大名を前に「天下を乱す者あらば、この家康が放っておかない」と宣言する。

▼41分 大坂城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
秀頼は、家康が政をするという報告を受ける。

潤礼紀行40 滋賀県長浜市

石田会館(長浜市石田町576)
石田三成の屋敷跡で、地元の自治会館になっている。
明治時代に発掘された三成の頭蓋骨の写真がある。石田三成像は、その写真をもとに作られた。

観音寺(米原市朝日1342)
「三献の茶」の舞台とされる。
鷹狩をしていた秀吉が観音寺で休憩をした際、1杯目はぬるいお茶を大きな器に、2杯目は少し熱いお茶を器の半分ほど、3杯目は熱いお茶を小さな器に入れて出し、感心した秀吉に三成が召し抱えられた。その時に使用したのが、「こだかみ茶」というお茶だった。

滋賀県HP「三成ゆかりの地めぐり」
https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324455.html

(こ)記録

第40回「どうする家康」の舞台関連マップ

どこにいる家康39回 マップ

『ホントに歩く東海道』第16集(京街道 追分~樟葉、奈良街道)←伏見
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉~高麗橋)←大阪


どこにいる家康40 発展編(by(し)

虎や狼は狸にはなれないが、白兎が年齢を重ねれば狸になる、というのをうまく描いていた回だった。「自分ではわからないのだろうが、皆に恐れられる存在になっている」という前田利家の言葉は、団塊世代には特に響くものがある。従軍体験や焼夷弾の下を逃げた体験を語る親世代に対し、自分たちは永遠に「戦争を知らないヘタレ世代」だと思いこんでいたのが、いつのまにか「ネットもスマホもなく、コンプラ無縁のあの過酷な昭和時代を生きてきた人々・・・」と距離を置かれていることに気づいて、とまどうばかり。

利家の言葉の裏付けを、家康自身に代わって本多忠勝がやっていたのが最高。姿を現しただけで、それまでイキっていた加藤清正たちが「うわ~~本多忠勝だ」、そしてもちろん、あの最強(最凶?)家臣団の存在もレジェンドとなっている。でも、あれだけ「おのれ偽本多~」とわめき正信を嫌っていた忠勝が、酒井忠次・石川数正無き後の最も信頼できる相談役ポジションとして、正信を認め(いや認めてはいないのかもしれないが、とりあえず喧嘩はせず)W本多で殿の脇を固め、せっせと働いている様子が何ともいえない。本多忠勝と言えば、娘の小松姫(稲)はドラマでも活躍するが、ドラマには登場しないであろう忠勝の妹も、もっと知られてほしい人物の一人である。

1.五大老五奉行

徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝という、各地の有力大名「五大老」に対して、五奉行(浅野長政〔甲斐甲府22万石〕・増田長盛〔大和郡山22万石〕・石田三成〔近江佐和山19万石〕・前田玄以〔丹波亀山5万石〕・長束正家〔近江水口5万石〕)は、大名としてはそれほど大家ではないが、管理能力に秀でた豊臣政権事務局的な存在だったようである。

もっとも、小和田哲男氏は、五大老五奉行という名称について、当時の古文書・古記録では「五大老」という言い方はしておらず、五大老にあたるメンバーは「五人之奉行」と呼ばれたと述べている。従来いわれてきた「五大老」が実は五人の「奉行」であり、五奉行といわれてきた石田三成たち5人は「年寄五人」と呼ぶべきという説もある(『豊臣秀吉軍団100人の武将』新人物往来社2009)。

大老か奉行か年寄はともかく、メンバーの中で徳川家康が、実力の上でも、官位官職(正二位・内大臣)の上でも、特段の地位を保持していたことは明らかだった。秀吉の死後、家康が伏見城下で政務をとり、前田利家が大坂城で秀頼の後見をするという形でいちおう安定を保っていたが、老齢の利家が死去すると、家康は大坂城西の丸に入り、対抗する勢力を弱体化させていく。

家康と五奉行の関係の推移については、ドラマ放映後に、考証担当の平山優氏が超詳細な解説ツイートを上げ、家康の多数派工作には、大名たちのほうから接近してくる事態も多かった(そりゃ皆、実力ある方になびくよね)とか、これまで何度も映像化されてきた、いわゆる三成襲撃計画・徳川屋敷逃げ込み「窮鳥懐に入れば殺さず」の逸話は実際には起こっていないが(ドラマでもやらなかった)、これに関してはいろいろと興味深い経緯があった(例えば佐和山に帰る三成のボディガード役が結城秀康だったとか、これはドラマにも反映されていた)が説明されているので、是非、検索してみてほしい。

嬉しいことに『ホントに歩く東海道』別冊美濃路の売れ行きが最近伸びているが、MapNo.5で扱う稲葉宿のある愛知県稲沢市は、五奉行のうち3人に縁のある所だ。浅野長政の義父、浅野長勝は六角堂(現在の北市場本町)、増田長盛は増田村(現在の増田南町)、長束正家は長束町に、それぞれ屋敷があった。

現在は名古屋市のベッドタウンとして繁栄している稲沢市だが、古代には尾張の国府が置かれ、大河ドラマ「光る君へ」に登場する赤染衛門・大江匡衡夫妻ゆかりの歌碑公園もある。大江匡衡は尾張の国司としてこの地に赴任していたことがあり、川の開削や教育機関の充実などに功績を残した。

五大老・五奉行の10人が集まった伏見城は、よく知られているように、関ヶ原の前哨戦の舞台となった城で、第19回「どこにいる家康動静」でも紹介している。

伏見城 『ホントに歩く東海道』第16集 Map No.64 コラム

2.長束正家と水口城・姫塚

長束正家は、五奉行の中では一番後輩になるが、計数に長け、北条攻めでは大軍の兵站を担当するなど、秀吉に重用された。前項で述べたように、稲沢市に「長束町」があり、正家もこの地の出身だと言われているが、長束正家を主人公とした小説『天下を計る』(岩井三四二、PHP研究所2016)によれば、長束家はもともと近江商人の地、近江栗太の土豪で、正家の経理の才もその血脈が培ったものだという。

正家は、織田家の長老、丹羽長秀の家臣となり、長秀の死後は嫡男の長重に仕えるが、弱年の長重では丹羽家を持ちこたえるのが難しく、丹羽家存続とひきかえにヘッドハンティングされたような形で、秀吉の直臣となる。正家は石田三成のもとで、秀吉の蔵入地(直轄地)の年貢などに関する算用の仕事に才を発揮する。その頃、秀吉の後継者と目されていた秀次を始めとする甥たちが次々と死亡、その所領が五奉行たちに与えられ、長束正家も文禄4年(1595)に近江水口城5万石を拝領。奉行として大坂に詰める夫に代わって水口城の留守を守ったのは、本多忠勝の妹にあたる妻の栄だった。

天下人を狙う家康の野心を警戒し、なんとか抑え込もうとする正家だが、家康は五奉行や堀尾吉晴・中村一氏らいわゆる中老たちを懐柔、さらには、秀次からの借金で困っている細川忠興を援助して味方につけるなど、多数派工作を進め大坂城に居座る。ついに正家は、上杉征伐のため江戸に戻る家康を水口城で討つことを決意する。「討たれる前に討つ!」

石部宿に家康を訪ね、応対した服部半蔵に、鉄砲の献上と翌日の朝食を水口でふるまうことを伝えるが、家康は「急ぎの用事ができたので」と、夜中に東海道を駆け抜け水口を離脱。「なんと腰の軽いこと、さすが百戦錬磨、逃げる時は恥も外聞もなく逃げる」と感心?する正家だったが、実は計画をこっそり家康に知らせたのは妻の栄であった。家康の忠臣本多忠勝の妹だからではなく、家康を討てば必ず夫も討たれると案じての、愛情ゆえの行動だった。

家康の留守中に挙兵した三成と行動を共にした正家は、伏見城攻めでは水口の地元、甲賀の地侍たちを使って松ノ丸に内応者を作り、勝利に貢献する。関ヶ原では毛利家の吉川広家と共に南宮山に布陣するが、五奉行のうち、浅野は德川方、増田長盛・前田玄以は様子見、毛利も結局動かず、三成と行動を共にしたのは正家のみだった。敗走して水口城に籠もる正家を、池田長吉(輝政の弟)らが囲む。正家は妻と最後のひとときを持ち、家康に内通したことを知っていたと告げ、離縁するので安全な所へ落ちのびるようにと手配した後、開城すれば命は助けるという申し出を拒否して自害。栄はこの時臨月の身で、家臣の家に匿われて男児を出産したが、産後の肥立ちが悪く間もなく死去した。正家は妻の死を知らずに自刃したからだろうが、栄の死はこの小説では描かれない。

長束町・長束正家屋敷跡 『ホントに歩く東海道』別冊美濃路 MapNo.5 mapD 42

水口城址 『ホントに歩く東海道』第14集 MapNo.53 mapC 34 写真34

水口城

姫塚・栄照寺 『ホントに歩く東海道』第14集 MapNo.53 mapC 42 写真42

正家の妻の死後、旧臣が密かに葬り一個の石を標識として、その霊を慰めようとした。現在の「姫塚」は明治26年、京都在住の一族の花輪氏が建立した供養塚で、その西方に栄照寺がある。生まれた遺児は仏道に入り、長じて水口大徳寺の三世還誉上人となった。還誉上人は亡き母の菩提を弔うために地蔵堂を改築し、大徳寺の末寺、栄照寺とした。姫塚の説明には、長束正家の妻としての概要は述べられているが、本多忠勝の妹というのは省略されているようだ。

栄子姫を供養する姫塚

https://koka-kanko.org/see/himezyka/embed/#?secret=YtiklIp7LR

水口大徳寺 『ホントに歩く東海道』第14集 MapNo.53 mapB 24 写真24

開山の叡誉上人は、本多忠勝の伯父で、德川家との縁が深く、家康の「家」と松平の「松」をとった「家松山」の山号を賜り、山門には三葉葵が刻まれている。家康が寺に立ち寄った時の「腰掛石」もある。天保義民を弔う五輪塔が境内にある。

大徳寺の天保義民慰霊碑

牛が淵 『ホントに歩く東海道』第14集 MapNo.53 mapB16 写真16

野洲川が巨岩に当たって渦を巻き、「渦が淵」と呼ばれた。長束正家がこの景勝地に茶室を作り家康を招待し、淵に落ちる仕掛けを使って暗殺しようとしたが、その仕掛けを知る百姓の密告で難を逃れたという説もある。

牛が淵跡(水口)
牛が淵のあたりか(注:編集部)
牛が淵のあたりか(注:編集部)

3.石田三成と賤ヶ岳七本槍

第35回で戦国時代に似合わぬピュアな人物として登場したのに、だんだん面倒くさい人になっている石田三成だが、SNSを見ていると世の中には三成ファンが非常に多いことがわかる。そうしたファンにとっては、三成を中心とするいわゆる近江官僚派と加藤清正・福島政則ら武断派の確執、現場の苦労を理解しない三成の人望の無さが他の武将たちもアンチ三成に回してしまったという通説は、あまり歓迎できないものだろう。

『八本目の槍』(今村翔吾、新潮文庫2022)は、そうした説を覆し、三成ファンで同時に虎之助や市松LOVE!という人々をおおいに喜ばせそうだ。徳川家臣団のような心許せる部下がいなかったと言われる秀吉だが、出世途上で小姓組として召し抱えた若者たちが、その後敵味方になろうとも、青春を共に過ごした思いを熱く共有していたという展開は、三成ファンならずとも心を惹かれる。そのぶん、黒田長政や細川忠興など、家康に近い武断派が嫌われ役になっているが・・・

本能寺の変の後、天正11年(1583)に起こった「賤ヶ岳の戦い」で、柴田勝家を破った羽柴秀吉のもと、功名を立てた七人の若武者が、賤ヶ岳七本槍と呼ばれるようになる。徳川家臣団のような代々の家臣を持たない秀吉にとって、子飼いの側近たちとして貴重な存在であった。『八本目の槍』とは、この賤ヶ岳七本槍からのタイトルである。7人のうち、加藤清正や福島正則は有名だが、その他はあまり知られていないと思うので、『八本目の槍』の登場の順序に従い、一覧にしてみた。

加藤清正(虎之助)1562-1611
福島正則と共に秀吉子飼いの武闘派の猛将とされるが、『八本目の槍』では財務や行政手腕にも長けており、豊臣家の屋台骨を支えようとする姿が描かれる。関ヶ原の戦いでは家康軍に与し、肥後熊本城主となるが、二条城での秀頼・家康会見の後、熊本に帰る船上で病を発し、盟友福島政則に先立ち死去。

糟屋武則(助右衛門)1562-1607
関ヶ原の戦いでは、加藤・福島とは袂を分かち西軍に加わり、戦後、改易されたと言われるが、詳しい事は不明で諸説あるようだ。『八本目の槍』では、関ヶ原で負け戦になった時、時間を稼いで三成を逃がし、自身は壮絶な討死を遂げる。吉川弘文館の『國史大辭典』には「糟屋武則」の項は無いが、「加古川藩」の項に、加古川城主糟屋朝正の養弟が武則で、秀吉の小姓頭として戦功を重ねたとの記述がある。

脇坂安治(甚内)1554-1626
賤ヶ岳七本槍の一人というより、関ヶ原では小早川秀秋と共に東軍へ寝返り、德川軍勝利に貢献した人物、あるいは忠臣蔵に登場する脇坂淡路守の祖、というほうが知られているかもしれない。関ヶ原の回で改めて取り上げたいと思うが、『八本目の槍』では、大蔵卿局との意外な関係が描かれる。

片桐且元(助作)1556-1615
これまでの大河ドラマでも何度も登場した有名人だが、七本槍の一人だったのか、というのは意外に知られていないかも。あまり闘う武将のイメージがなく、大坂の陣の前に豊臣・徳川間に挟まれて苦慮する姿が強烈な印象を残しているが、若い時は武闘派だったようだ。大坂の陣の時に改めて紹介したい。

加藤嘉明(孫六)1563-1631
七本槍の中では一番の若手で、最も長生きした。関ヶ原・大坂の陣で家康に従い、伊予松山藩および陸奥会津藩の初代藩主となったことは知られているが、『八本目の槍』では、家康や仲間たちとの関係において、さらに驚くべき展開が描かれる。

平野長泰(権平)1559-1628
『國史大辭典』に項目は無いが、「田原本藩」の項に、「文禄四年(1595)、平野長泰が十市郡に五千石を領し、以後代々交代寄合として、大名なみの処遇を受けた」とある。『八本目の槍』では、大坂の陣の直前に、一人で家康に会いに行き、石田三成の名誉回復をしようとする豪胆さを見せる。

福島正則(市松)1561-1624
『國史大辭典』では、福島政則は別格として七本槍に入れず、石川一光を入れる説もあると紹介しているが、石川は賤ヶ岳で討死してしまっているため、福島の入った七本槍が主流となったのだろう。ただ別格扱いされるような「大物感」が福島にはあるということか。『八本目の槍』でも大トリ登場で、伏線回収・まとめ役を果たす。囚われの三成を罵倒するのも、若い時からお互いをよく知る阿吽の呼吸で、家康に疑いを持たせないためだったとされる。そして佐吉・石田三成こそが「八本目の槍」であったという結びになっている。

「秀吉死後の豊臣体制の内実を、「文治派」と「武断派」の二項対立で理解するのがこれまで常態であったが、もっと複雑な離合集散、対立状況が絡み合っていることが指摘されるようになっているので、より精緻な基礎研究にもとづく人的関係と政治動向、権力抗争の諸相を明らかにしなければならない」と平山先生もおっしゃっているので、今後もいろいろな知見に注目していきたい。

佐和山城大手口跡  『ホントに歩く中山道』第3集 MapNo.9 mapB26 解説p.6

石田三成は、堀秀政・堀尾吉晴に次いで佐和山城主となった。北国・東国への街道を押える重要な場所にあった。鳥居本は佐和山城の城下町の役割を持った集落で、当時の東山道の宿場は、西の小野であった。その後佐和山城が廃城となり、井伊直政が彦根城を築くと、城下と中山道をつなぐ道ができ、鳥居本が宿場となった。

どこにいる家康 第40回 ギャラリー  水口周辺(2016年6月10日)

発展編用の写真を探していて、水口宿周辺です。朝、貴生川駅からバスに乗って甲賀市大野から、草津線の三雲駅までの現調の時の写真です。信楽が近いせいか、たぬきの置物がたくさんいました。動物も多めです。