2023年のジョン・フォード没後50年に合わせ、ジョン・フォード関連の話題が多くなってきています。『ジョン・フォードを知らないなんて』(2010年、風人社)の著者、熱海鋼一さんにその魅力を語っていただきました。
今回は、その第6回目です。
※赤字「」は映画作品名
ジョン・フォード復活6 晩年の反神話「リバティ・バランスを射った男」など
ジョン・フォードは晩年の1960年代、7本の作品を作るが、そのうち5本が西部劇だ。しかもその殆どが、かつてアメリカを信奉し、理想を託し自ら描き上げたフロンティアの神話、「駅馬車」「荒野の決闘」「黄色いリボン」「幌馬車」等は虚偽だったと語る、反神話の映画だった。自分が築き上げた名声と名作の刻印を否定したのだ。
「リバティ・バランスを射った男」は、カウボーイのトムを演じる盟友ジョン・ウエインと、都会から西部へ文明を広めようとする法律家ランスに名優ジェームス・スチュアートを配し、老境を迎えたフォードが自身の心情を吐露した名作だ。
銃が支配する無法地帯の西部、そこに法で民を守る新しい波が近づいて来る。荒野VS文明をフォードは哀切を込めて描く。ランスはアメリカ建国の誇りを説いていく。トムはランスの目指す理想を応援する。そこに立ちはだかるのが、大地主の手先となり抵抗する農民を平然と殺すリバティ・バランスという極悪人(リー・マーヴィンが見事に演じ出世作となる)だ。曲折を経て二人は決闘することになるが、銃の名手リバティを倒したのは、相手が酔っていたとはいえ、銃など殆ど扱えないランスだった。彼はその後地方議員となり、州知事となり、上院議員へと出世する。しかも彼の妻は、トムの恋人ハリー(ヴェラ・マイルス)だった。
悪人リバティを射った英雄ランスは伝説となって語られたが、事実は違った。トムが二人の決闘の間合いを掴み、陰からリバティを撃ったのだ。トムを演じたジョン・ウエインは出番が少ないが、映画の中軸にいて、真の主役だ。フォードもインタビューでそう語っているが、応援した法律家に恋人を奪われ、結婚したら住む新築中の家を燃やし、野垂れ死んでゆく・・・こんな惨めな役を、強い国アメリカの象徴となっていたウエインが演じたのは、これ一本だろう。凄まじい演技を見せる。
伝説を選んだ西部は美しいが、実際に西部を作ったのはトムのようなカウボーイであり、名を残したランスではない。歴史に埋もれたカウボーイに哀調を込めた。かつて「アパッチ砦」で、インディアンを見下し間違った作戦で隊を全滅させた司令官が、ラストで西部開拓の英雄に祭り上げられた矛盾を、フォードは事実を描いただけと答えていたが、「リバティ・バランスを射った男」ではっきりと伝説の虚構を解き明かし、かつ事実の持つ苦さを描いた。この映画の持つ苦さに、フォードの老境を映した深い想いがあり、しみじみとした名作となったと思う。フロンティアの神話を創ってきたフォードが、自らを覆して反神話を描いた重さと悲痛さがこの作品にはある。
この後に作ったシネラマ「西部開拓史」の南北戦争の短い挿話も、戦闘より家族を戦争で失う悲しみが強調され、フォードの心境が反映されている。
「バッファロー大隊」は黒人の騎兵隊を描いた。黒人がヒーローとして描かれるのはハリウッドで初めて、とフォードは誇らしげに語っている。主人公のラトレッジ軍曹(ウッディ・ストロードが力演する)は、街で起きた殺人事件の犯人にされてしまう。黒人ゆえに、捕まったら裁判で冤罪は全く認められず、即刻死刑にされるだろう。彼は逃走し、さらに疑われてしまう。だがインディアンの反乱を目の辺りにし、捕まることを覚悟の上で隊へ戻り、勇敢に闘う。
この映画は裁判劇仕立てでサスペンスを盛り上げるのだが、端から黒人を犯人扱いする裁判で、「私も人間だ」とラトレッジが訴える場面は心を揺さぶる。フォードは白人の黒人差別を描く一方で、黒人部隊がいかに勇猛な戦いをしたかを称(たた)えた。インディアンは黒人部隊を見てバッファローに見立てて、怖れたという。公民権運動が高まっていた時代、フォードは敏感に反応したが、作品は評価されず客も入らずだった。ほぼ30年後、南北戦争での黒人部隊を描いた「グローリー」(エドワード・ズウイック)は、デンゼル・ワシントンやモーガン・フリーマンらが出演する良心的な力作だ。
インディアンの白人拉致について、フォードは自身の最高傑作と言われる「捜索者」で描いたが、晩年にも「馬上の二人」で再度取り上げた。コマンチ族に子供や妻を拉致された多くの家族が、騎兵隊に奪還を求めて集まった。コマンチ族とは銃など取引し、胡散臭いが根に正義感を抱く保安官(ジェームス・スチュアート)と、友人の騎兵隊員(リチャード・ウイドマーク)が、交渉にあたる。
連れ戻したのは、どう猛な少年とコマンチの戦闘隊長の妻の一人となった女性(リンダ・クリスタル)だ。フォードは、白人の身勝手なインディアンへの偏見差別侮蔑に嫌悪を露わにする。少年は長年の拉致ですっかりコマンチ族になり、白人に激しく反抗し、結局リンチに近い形で縛り首にされる。少年との断絶は、彼を探し求めた姉に深い傷を残す。このあたりの演出は際立って過激で、絶望的だ。
一方女性は、保安官の応援で騎兵隊のパーティに参加する。しかし、インディアンの妻になった女性への周囲の偏見に満ちた興味と蔑視は続き、遂に彼女は「コマンチ族の方が優しく受け入れてくれた」と泣きながら訴える。白人よりインディアンの方が人間的に優れた文化をもっている。フォードは怒りを込めて、白人に最後通牒を突き付けた。ここには騎兵隊三部作で描いた優和な世界は全くない。
遺作の前の「シャイアン」は、インディアンを主体に描いた70ミリの大作だ。フォードは、アメリカの開拓を守りぬいた騎兵隊を賛歌してきたが、実際は違うことを遺言のように残した。インディアンを虐殺し、領土を奪い、居留地に押し込めた。しかも、彼らとの約束を破ったのは騎兵隊だったことを示してゆく。フォードはシャイアン族には自分たちの言語で話させたかったが、制作会社から拒否され、メキシコ系の役者が英語で演じた。英語などしゃべれないのが事実なのに。しかも善良な騎兵隊員(リチャード・ウイドマーク)と女教師(キャロル・ベーカー)が、横暴な騎兵隊と自らの土地へ脱走するシャイアン族の中を取り持つが、力不足で中途半端な存在になってしまう。所詮、国の偏見差別に、個人の良心はあがなえないのだ。
ケビン・コスナーの「ダンス・ウイズ・ウルブス」のように、インディアンの持つ文化を描いたわけではないが、フォードは彼らの威厳ある姿を、尊敬を込めてフォードテリトリーのモニュメントバレーに刻印する。感動的だ。かつ、白人のメディアがインディアンへの恐怖をあおるフェイク記事で、いかに歪んだ歴史を作ったかも皮肉たっぷりに表した。時代が時代、フォードに出来た精いっぱいの反神話の表現だったと思う。
晩年になるほど革新的になる。全盛期と言われた頃の覇気ある映像力には欠けるが、内容は深くなる。自己に正直なフォードの面目約如と言えるだろう。他にはと言えば、クリント・イーストウッドが後年、「ミスティック・リバー」「ミリオンダラー・ベビー」「アメリカン・スナイパー」などでアメリカの暗部をさらけ出してゆく軌跡が似ているだろう。
生き馬の血を抜くハリウッドに生きたフォードが晩年進んだ道は、もはやハリウッドへの神通力は失ったとはいえ、凄まじいと思う。しかし、往年の美しいフォード映画を期待する観客の多くは、フォードは衰えたと断じて、離れていった。評論家もそうだった。この時期の作品が見直されたのは、フォードが亡くなって相当経ったあとだった。
熱海鋼一記
熱海鋼一(あつみ・こういち)
1939年生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。映画・テレビのドキュメンタリー編集・フリー。 「The Art of Killing 永遠なる武道」(マイアミ国際映画祭最優秀編集賞)、「矢沢永吉RUN & RUN」「E. YAZAWA ROCK」、「奈緒ちゃん」(文化庁優秀映画賞・毎日映画コンクール賞)、「浩は碧い空を見た」(国際赤十字賞)また「開高健モンゴル・巨大魚シリーズ」(郵政大臣賞、ギャラクシー賞)、「くじらびと」(日本映画批評家大賞)、ネイチャリング、ノンフィクション、BS・HD特集など、民放各局とNHKで数多くの受賞作品を手がける。
twitter(熱海 鋼一) @QxOVOr1ASOynX8n
今回のお話は、『ジョン・フォードを知らないなんて』第13章 アナーキー 変革の予感「バッファロー大隊」「馬上の二人」「リバティ・バランスを撃った男」、第15章 「いつか・・・」の終焉「シャイアン」「荒野の女たち」などに詳しい記述があります。
熱海鋼一著『ジョン・フォードを知らないなんて シネマとアメリカと20世紀』(2010年、風人社、3000円+税)
もくじ
https://www.fujinsha.co.jp/hontoni/wp-content/uploads/2017/07/fordmokuji.pdf
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