2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」
2023年でドラマは終わりましたが、2024年3月3日現在、毎週のアップが追いつかず、48話まで続けていきます。

ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』『ホントに歩く中山道』などで、その場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。ドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

秀吉の朝鮮征伐(唐入り)の回。
秀吉と茶々の間に生まれた初めての子が死ぬ。
肥前・名古屋城に多くの武将を集め、朝鮮に10万人以上を送り込む。最初は勝利していたが、苦戦する。
停戦交渉しようかというタイミングで、秀吉と茶々の間に2人目の子どもができる。
舞台は、大阪市、唐津市

もくじ
●第38回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(唐津市)

●第38回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第38回「どこにいる家康」発展編(by(し))

  1.東京深川にある阿茶局の墓所
  2.宇喜多秀家と中山道板橋の東光寺
  3.流れ公方足利義昭

●ギャラリー(大阪)

第38回「唐入り」▼動静

▼00分(回想)天正12(1592)年5月
茶々との間にできた鶴松が死に、秀吉は朝鮮出兵を決意する。
博多の隣の小漁村に、巨大な肥前名護屋城を建築し、全国の大名10万人を朝鮮に送り込み、連戦連勝していた。

▼01分 肥前・名護屋城(唐津市鎮西町名護屋)
戦勝の宴の場で、「瓜売り」の踊りを踊る家康ら武将たち。
<ナレーション>秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、太閤となった。

肥前名護屋城のHP
http://hizen-nagoya.jp/

肥前名護屋に集結した武将(全国から160家の大名が集結)
http://hizen-nagoya.jp/busho/

佐賀県立名古屋城博物館HP 秀吉と文禄・慶長の役
佐賀県立名古屋城博物館HP 秀吉と文禄・慶長の役

▼03分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼05分 名護屋(唐津市鎮西町名護屋)
<ナレーション>朝鮮上陸から一ヶ月が経ち、秀吉本人の唐入りの準備が進められていた。
石田三成と大谷吉継に、朝鮮での戦況を報告させる。
石田三成「朝鮮は秀吉に従わなかったため、成敗することになった、小西行長、加藤清正らを筆頭に次々と半島に上陸し、釜山(プサン)、東莱(とうらい、大韓民国釜山広域市の中央部)などを瞬く間に陥落させ、漢城(現ソウル)も陥落、平壌(平壌、現北朝鮮の首都)も落とせそうだ」
秀吉「わしも上陸するぞ」
前田利家「我らも心を一つにし、殿下をお支えするのだ」
秀吉「唐入りを果たしたら、天子様に唐へ移っていただき、皇帝になってもらう。余は寧波市(ニンポー、中国江省)に隠居所を設け、大阪のような商都とする。ゆくゆくは天竺(インド)、南蛮も我らのもの。褒美は無限だ」
一同、喜ぶ。
浅野長政が「どうかしている、これは馬鹿げたいくさだ」と熱狂した雰囲気に水を差す。
怒った秀吉が長政を斬ろうとするのを、家康が止める。

▼09分 肥前・徳川屋敷(唐津市鎮西町名護屋)
夜、縁側で阿茶と酒を飲んでいる。
阿茶「殿下が狐(茶々)に取り憑かれているとは、言い得て妙」
※各武将の名護屋での陣跡は、「佐賀県立名護屋城博物館」のページをご参照ください。
https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/jinato.html

▼10分 名護屋城下(唐津市鎮西町名護屋)
渡辺守綱と本多忠勝は、島津の武士たちに、信玄との武勇伝を聞きたいとねだられる。
昌山(足利義昭)が家康を訪ねてくる。
昌山は将軍職を返上後、出家し、所領は1万石になっていた。
服部半蔵が「藤堂高虎の水軍がやられたとの噂を聞いた」と家康に報告に来る。

▼14分 石田三成の部屋(唐津市鎮西町名護屋)
家康は、朝鮮での戦況について、三成を問い詰める。
三成「殿下は今まで間違った判断はしていません」
家康「この戦は負ける。間違ったらご自身が殿下を止めると言っただろう」

▼16分 秀吉の部屋(唐津市鎮西町名護屋)
三成は、秀吉に「唐入りを延期してほしい」と頼む。
茶々「我的名子茶々」と中国語をしゃべりながら入ってくる。
家康「鶴松様が亡くなってから茶々様が寂しいのはわかるが、政治にもちこむな」
秀吉「余計なお世話じゃ!」
家康「唐入りするというなら、この場でわしが腹を切る」と言って秀吉を止める。

▼20分 秀吉の部屋(唐津市鎮西町名護屋)天正12(1592)年7月
秀吉は、母親の大政所の具合が悪いので大阪へ帰る。困ったら前田利家を頼れ、と茶々に言う。

▼21分 大阪城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
秀吉が帰ってくると大政所はなくなっていた。
寧々が秀吉に大政所様は、「息子が迷惑をかけてすまなんだとずっと謝っていた」と伝える。

▼24分 肥前・徳川屋敷(唐津市鎮西町名護屋)
茶々が家康を訪ねてくる。
茶々「殿下が、困ったことがあったら家康殿を訪ねよと。ずっと我が母(お市)のことを聞きたかった。北の庄城が陥落しそうな時、母は家康殿の助けを待っていたのに、なぜ来てくださらなかったのか?」
家康「すまないことをしたと思っております」
茶々「父と母を死なせた男(秀吉)の妻であることが時々辛くなります」と言うと家康に近づき「父と思っていいですか?」と手を握り色仕掛け攻撃をかます。
阿茶乱入。

▼30分 肥前・徳川屋敷(唐津市鎮西町名護屋)
大鼠と半蔵は、小西などの陣屋から唐とのやりとりの文を盗み出してきた。それによると、朝鮮攻めは滞っているようだった。冬の寒さは、日本とは比べものにならないほどつらいという。

▼31分 秀吉の部屋(唐津市鎮西町名護屋)
秀吉が大阪から戻ってきた。
秀吉「わしが狐に取り憑かれていると思われているらしい」
家康「茶々様は遠ざけるべきだ」
秀吉「茶々は離さん。図に乗るなよ」
昌山(義詮)が乱入。

<回想>大政所「息子は本当は何がほしかったんだ」
秀吉は「見捨てないで」と家康にすがる。

▼38分 秀吉と茶々の寝室(唐津市鎮西町名護屋)
秀吉は茶々に「京に帰れ」と言う。

▼39分 肥前・名護屋城(唐津市鎮西町名護屋)
<ナレーション>文禄2(1593)年5月秀吉は明との戦を中止させ、和睦の話合いを始めた。
石田三成、大谷刑部、増田長盛らが五奉行と五大老に報告をする。「満足な結果を得られず申し訳ありません」
前田利家は「明國の遣いを連れてきて、上出来だ」と褒める。
秀吉は「全てを三成たちに任せる」と言ったところへ、茶々から書状が届く。
それを読んで、「子ができた!」と喜ぶ秀吉。

紀行潤礼 佐賀県唐津市

名護屋城跡(唐津市鎮西町名護屋)
http://hizen-nagoya.jp/

名護屋城博物館(佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3)
大阪城に次ぐ規模の城を半年で作った。160人もの武将を呼び、陣屋を築かせた。家康も1万5千人を率いて滞在。最盛期には20万人以上がいて賑わった。
秀吉は、黄金の茶室を持ち込み、茶々を呼んで楽しんだ。
秀吉の死後、程なく廃城となった。

名護屋城博物館HP
https://saga-museum.jp/nagoya/

(こ)記録

第37回「どうする家康」の舞台関連マップ

ホントに歩く東海道 第17集

『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉~高麗橋)←大阪


どこにいる家康38 発展編(by(し)

今回から主な舞台は肥前名護屋城になり、東海道とも中山道とも全くかけ離れてしまったが、耳塚など秀吉の朝鮮侵攻に関する史跡は、京都市内に今も残る。
前回の三河家臣団卒業式で、自分だけ城持ちになれずがっかりしていたところ「わしと一緒に江戸に行こう」と言われ、気を取り直した服部半蔵とその忍び軍団が、朝鮮に出陣した各大名家が現地と留守宅の間で密かに通信する最新情報をハッキングし、実態は負け戦であることをいちはやくつかむところは面白かった。大本営発表と実情との乖離は、現在もさまざまな所で発生する問題だ。

1.東京深川にある阿茶局の墓所

築山御前瀬名の死後、家康の実質的な伴侶は於愛の方西郷局であったが、彼女が若くして亡くなった後、それを嗣いだのが阿茶局である。阿茶は家康側近として、徳川家の政治・外交・軍事に関しても男性家臣と同等の働きをする一方、於愛に代わりまだ幼少の遺児たちの養育、側室達のとりまとめ(ドラマでは阿茶しか登場していないが、実際には尾張義直・紀州頼宣・水戸頼房ら家康晩年の子供たちにそれぞれの母がおり、子供を産まなかった若い側室たちもいた)、さらには、孫娘の和子を後水尾天皇に入内させる朝廷工作のキーパーソンとして、家康の死後も長く徳川幕府に貢献し続けた。

火坂雅志『常在戦場』(文春文庫 2015)の中の『馬上の局』は阿茶の生涯を描いた短編。家康の死後、他の側室たちは落飾するが、阿茶だけは家康の遺命により落飾せず、秀忠政権下でも現役勤務を続け、家康の死の21年後に京で83歳の生涯を終えたとある。墓所は京都の上徳寺(下京区下京区富小路通五条)のほか、東京の江東区三好の雲光院(雲光院は阿茶の法号)にある。

最近になって『阿茶』という長編も書かれた(幻冬舎 2022)。作者の村木嵐氏は京都大学法学部卒業後、会社勤務を経て司馬遼太郎家の家事手伝い・司馬夫人福田みどり氏の個人秘書を務めながら『マルガリータ』(第17回松本清張賞受賞)などの小説を発表してきた作家で、徳川九代将軍家重と田沼意次を描いた最新作『まいまいつぶろ』も話題になっている。『阿茶』によれば、父が武田家臣で今川との外交担当、夫は今川家臣で武田との外交担当という関係で、彼女の外交の才は血脈と環境によって育まれたようだ。阿茶の夫は若くして病死するが、今川家で人質となっていた家康の資質を見抜いており、武田氏は勝頼の代で滅ぶと予測して、将来は徳川家を頼れと妻に遺言。阿茶の名は、家康と対面した日が八十八夜であったことから与えられた。阿茶は、西郷局於愛の清らかで慈愛に満ちた人柄に心酔し、遺児秀忠を次期将軍となるよう懸命に育て、秀忠から母君と呼ばれる。最初反発していた江与も阿茶を慕うようになる。狩野永徳の長男、光信も登場し、家康のいわゆる「しかみ絵」を描いたのは光信で、三方原で負けた時でなく、織田信雄が勝手に秀吉と和睦したときの顔だというのが興味深い説である。

阿茶局墓
深川の菩提寺雲光院
阿茶局墓

2.宇喜多秀家と中山道板橋の東光寺

ドラマでは関ヶ原の戦後処理について2分くらいで説明された中、一瞬登場しただけの宇喜多秀家だったが、五大老の最年少でありながら朝鮮出兵の総大将を任命された秀吉の子飼いの武将である。妻は前田家の息女豪姫だが、赤ん坊の時から秀吉の養女として寧々に育てられ、秀家も息子のように秀吉夫妻に可愛いがられていたという。

諸田玲子『麻阿と豪』(PHP 2022)は、前田家の姫として同じ両親のもとに生まれながら対照的な性格を持つ、豪姫と麻阿姫(秀吉の側室となるが、秀吉の死後、京の公家に嫁いで男子(前田利忠)の母となる)の姉妹が、互いに反発しながらも強い絆で結ばれ戦国の世を生きる姿を描いている。

宇喜多秀家は関ヶ原で西軍に与して敗退、八丈島に配流され、その後大名に復帰の機会もあったが拒否して島で後半生を送り、戦国武将の誰よりも長く、なんと四代将軍家綱の時代まで存命したという異色の人物である。これだけの長寿にもかかわらず、肖像も現存せず謎の多い人らしい。

宇喜多(浮田)家は、守護赤松家、守護代別所家・浦上家などの支配下にあった備前の領主で、安芸の毛利、備中の三村、出雲の尼子などと争いつつ戦国大名として台頭する。秀家の父、宇喜多直家は戦国の梟雄として名高いが、後に千姫の再婚を巡って家康と敵対する坂崎出羽守(秀家の従兄)や、大坂の陣で活躍の明石全登など、親族や家臣にも異色の武将たちが多い。上田秀人『梟の系譜・宇喜多四代』(講談社文庫 2015)は、宇喜多直家を中心に、能家・興家・直家・秀家の宇喜多家四代の人々を描く。

また、デビュー作『宇喜多の捨嫁』でオール讀物新人賞を受賞した木下昌輝氏の、その続編となる『宇喜多の楽土』(文春文庫 2021)では、宇喜多家をとりまく厳しい状況と家臣たちの不協和音の中、豊臣家・前田家との結びつきにより若くして栄光を得るものの、秀吉の死で一変した情勢に翻弄される秀家の生涯が描かれている。宇喜多秀家が八丈島に配流されたのは、小西行長や石田三成の処刑と同時期のことかと思っていたが、実はその前にしばらく薩摩(大隅)に隠棲しており、島津家との関係も興味深い。
鹿児島県垂水(たるみず)市には、「権中納言宇喜多秀家公潜居地平野屋敷跡」が残っている。

宇喜多秀家の墓所は、生涯を終えた八丈島にあるが、
https://www.town.hachijo.tokyo.jp/culture/%e5%ae%87%e5%96%9c%e5%a4%9a%e7%a7%80%e5%ae%b6%e5%a2%93%e3%80%80%ef%bc%bb%e6%97%a7%e8%b7%a1%ef%bc%bd/

中山道沿いの板橋の東光寺にも供養塔がある。説明板に「明治になって子孫が供養のために建立した」とある。板橋には前田家の下屋敷があり、今も加賀という町名が残るが、明治政府が秀家の流罪を免じた時、子孫たちが、秀家の妻であった前田の姫、豪姫との縁で、この地で前田家の支援を受けて帰農したという。

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/jidai/1004882.html

東光寺 『ホントに歩く中山道』第17集 MapNo.66 mapC43

板橋東光寺 宇喜多秀家供養塔

3.流れ公方足利義昭

足利幕府十五代将軍、義昭は、これまでの大河ドラマでもいろいろな俳優が演じて来たが、作品ごとにかなり違ったキャラで描かれている人物である。足利義昭が主人公の小説を探したが、半世紀以上前に書かれた水上勉『流れ公方記』しか見つからなかった。『流れ公方記』は、昭和46年(1971)に雑誌「淡交」に連載され、朝日新聞社から刊行された(1998年に学陽書房から文庫の復刻版が出ている)。作者あとがきにもあるように、水上氏と足利義昭には深い縁があった。水上氏は13歳の時から、足利将軍家の菩提寺、京都の北西にある等持院で修行をしており、毎朝、僧たちが等持院の霊光殿に安置された歴代将軍の木像に向って誦経する時、十五代義昭の像(霊陽院殿)の前が氏の立ち位置であったというのだ。 

等持院とは、足利幕府初代将軍、尊氏の法号であるが、後醍醐天皇と敵対した尊氏は、戦前教育においては大悪人とされ、太平洋戦争中は菩提寺等持院も「国賊の寺」と蔑まれたと、水上氏は書いている。足利尊氏は1991年の「太平記」で初めて大河ドラマの主人公として登場、ヒーローとは言いがたいが人間味のある悩めるリーダーという、悪人や国賊ではない等身大の姿が、戦後半世紀近くを経て描かれた。

「どうする家康」に登場した室町幕府最後の将軍、足利義昭は、「流れ公方」という哀れ深い趣とも、悩めるリーダーともかなり違う、生命力が強いというか、逆境も何のその、したたかに生き延びるキャラだった。水上氏も義昭の木像について「尊氏、義満、義政公などに比べて、品のない顔」「みけんがせばまり、神経質そうで、角ばった顔のあたりで、いまにも、肉がけいれんしそうないらだちがみえた」と、散々な言い方である。もっとも、それだけインパクトが強かったということであり、「なぜ、義昭公があんな顔をしていたのだろう」という思いが小説を書かせたとある。

水上氏も執筆の参考にしたという奥野高広著『足利義昭』(吉川弘文館人物叢書、昭和35年、新装版平成2年)によれば、各地の反信長勢力と協力して打倒信長を試みるも、戦い敗れて追放された足利義昭の帰京が、ようやく秀吉によってかなえられたのは、天正15年(1587)のことだった。義昭は出家して昌山と名乗り一万石の知行を与えられ、秀吉と共に参内して朝廷より准后の地位を受ける(室町准后)。秀吉は義昭の毛並みの良さを利用し、政治や軍事とは無関係の儀典官として使おうとしたようだ(江戸幕府の「高家」と同じような立ち位置?)。

天正19年(1591)、秀吉の朝鮮出兵に鹿苑院の塔主西笑承兌が供奉を命じられ、昌山もこれに同行して肥前名護屋の本陣に赴く。今回のドラマでの昌山の乱入は、これに基づくものだろう。「てっぺんは一人ぼっち」「使う者を間違えてはならん」など、苦い体験から紡ぎ出されたと思われる言葉をかけながら、飄々と武将たちの間を渡り歩いていた。記憶の限りでは、昌山になってからの将軍義昭が登場した大河ドラマはこれが初かと思われ、なかなか興味深かった。義昭時代の描き方は、もう少し掘り下げてほしかったが…。

慶長2年(1597)、昌山は腫物を病み、61歳で死去した。西笑承兌が大坂城の秀吉に報告し、等持院に葬られた。承兌は義昭の棺や火葬場設置のための大工を要請したが、1人しか派遣してもらえず、世が世ならば洛中洛外の大工をすべて召集したであろうに、人の勢いが衰えるとこのようなことになってしまうと嘆じる日記を残しているという。その3年後に関ケ原の戦いが勃発するわけだが、もし、昌山が関ケ原の戦い、さらには大坂の陣まで存命であったなら、どのような感想を述べたであろうか。
等持院は京都市北区、東海道よりかなり北にあり、竜安寺や仁和寺などのエリアである。

https://toujiin.jp/

暦応4年(1341)、足利尊氏が天龍寺開山夢窓国師を開山に迎えて、衣笠山の南麓に創建、足利将軍家歴代の菩提所となった。応仁の乱などの戦乱や火災に見舞われたが、豊臣秀吉が秀頼に建て直させた。現在の方丈(本堂)は、元和2年(1616)福島正則が妙心寺塔頭海福院に建立し、文化9年(1812)等持院に移築されたもの。

立政寺 『ホントに歩く中山道』第4集 MapNo.15 mapC 14 

永禄11年(1568)美濃を平定した織田信長は、明智光秀と細川藤孝の仲介で、美濃の立政寺においてで足利義昭と会見。六角氏や三好氏を追い払って上洛し、義昭は京における室町幕府の再興という夢を果たした。
この寺はまた、関ヶ原の戦いの前に徳川家康が立ち寄ったとして、岐阜の名産品の一つである柿に関する逸話がある。また寺の近くには、これも岐阜の名産である枝豆の入った「枝豆まんじゅう」を売る緑水庵という店がある。枝豆は岐阜で最も販売総額の高い農産物だそうである。

どこにいる家康 第38回 ギャラリー  大阪

今回の舞台は、ほとんどが肥前名古屋城と少し大阪で、「ホントに歩く」マップ的には、大阪だけでした。