仕事に関連して、国分寺のことを考えました。

伊勢国分寺跡(三重県鈴鹿市)

伊勢国分寺跡(三重県鈴鹿市)

聖武天皇「国分寺建立の詔」の訳文を読みました。

武蔵国分寺跡資料館HP内のpdf
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/239/explanatory_sheet.no.2.2016.pdf

そして、国分寺跡は、旧東海道沿線のどこにあるか、それを『ホントに歩く東海道』のマップと本文解説に記載のある個所をしらべました。そのリストは、写真と一緒に文末に掲げます。

東海道歩きでの国分寺跡地に立つと、歴史の知識もないくせに、跡地の広々とした空間・光景に、古代の空気のようなものが感じられるのが不思議で、それがとても好きでした。街道歩きの人は、たぶん同じように感じておられると思います。

詔には、「この数年は、凶作が続き、伝染病が流行している。私は恥ずかしさとおそろしさで自分を責めている」「おそれ多くも天皇という重い任務を受けている」のに、とあります。
天平の天然痘流行は735年〜737年で、死者は総人口の25〜35%の100〜150万人。国政を担っていた藤原4兄弟全員が感染死亡し、朝廷の政務が停止しました。聖武天皇は、「疫病は自分のせいだ」と恥じて国分寺を建立しました。

感染症の流行で民が困り果てているとき、為政者は何を思い、国家事業で何をしたか。国分寺建立、大仏の建立は、国家財政を破綻させかねない規模の事業だったとあります。仏教による鎮護国家を祈念するため、と教科書にはありますが、信仰や迷信とは別に、危機に対応する現実的な事業でもあったことも想像させます。

僧は僧医で名医であったとも、光明皇后の慈善事業・福祉事業などの社会救済事業のこことも教科書にあります。今日のコロナ禍での民に苦しみに対する国家事業は、何なのでしょうか。

「国分寺は、(訪れる人のために)国の良い場所を選びなさい」ともあります。東海道歩きで、建立地跡地に立つと、その地理と自然にも思いが巡ります。国分寺跡は、だだっ広いのに誰もいなくて、密ではありません。訪ねてみてください。
『ホントに歩く東海道』のこんな利用法もあるのかなと思います。

(お)記

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『ホントに歩く東海道』53次・57次+別冊(姫街道・佐屋街道・美濃路)、『ホントに歩く中山道』に記載がある国分寺リスト

マップをお持ちの方は、探してみてください。
以前にブログに書いた「三河国国分尼寺跡」は、一人ポツンとここに佇むと、コロナ禍に何かを思う体験ができると思います。

伊豆国分寺東海道4集 №14mapB38 天平年間建立の塔跡の礎石が残る。
伊勢国分寺東海道12集 №47mapD39 国分寺跡に疑問。伊勢考古学博物館がある。
尾張国分寺別冊美濃路 №5mapC 南図域外 国府宮C−36
遠江国分寺東海道8集 №29mapD44 史跡公園として整備。別冊姫街道 №7mapA 右端下
三河国分寺別冊姫街道 №1mapA14 礎石が残る。東海道10集 №37mapB13北 図域外
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