なぜ歩くなぜ祈る 比叡山千日回峰行を撮る

今週初め、2005年発行の『なぜ歩くなぜ祈る 比叡山千日回峰行を撮る!』の注文が続き、何があったのだろうと不思議に思っていたら、朝日新聞の土曜版で書名が紹介されていたとツイッターのフォロワーの方から教えていただきました。

2015年4月18日(土)の「朝日新聞」be赤版の「みちのものがたり」という記事です。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11707787.html

著者の根本順善(ねもと・まさよし)さんもインタビューをされたそうで、大変興味深い内容でした。

『なぜ歩くなぜ祈る』は、編集部でも現調(この当時はこんないい方をしていなかったと思います)をしました。6月で雨と蒸し暑さが苦しく、比叡山山域を1000日歩くなんて、それどころか84㎞を一日で歩くなんて、とんでもない修行だと実感しました。
少し長いですが、KAZESAYAGE<山岳編>14号の現調の記事を以下に転載します。参考になれば幸甚です。

また、ご興味のある方は根本さんの『なぜ歩くなぜ祈る』も御覧ください。京都切廻りのコースなども掲載しています。

(こ)

比叡山千日回峰行
風人社編集部の現地調査山行

2005年に弊社では、根本順善著『なぜ歩くなぜ祈る−−比叡山千日回峰行を撮る!』という単行本を発行しました。このときの現地調査で、比叡山中の行者道を歩いたことを記したいと思います。

 千日回峰行とは、比叡山で1200年間途絶えることなく続いている荒行(あらぎょう)です。
この行(ぎょう)は、本書の著者・根本順善さんたちの撮影チームが、1986年にテレビのドキュメンタリー番組を作るまで、一般の人の目に触れることはほとんどありませんでした。
本書は、根本さんの取材記録も兼ねた千日回峰行と比叡山を紹介する本です。 その後、阿闍梨(満行した行者)自身の本も何冊か出版され、行者が満行したときは、テレビニュースにもなって、世間に知られるようになりました。
千日回峰は、比叡山中の行者道を1日30㎞、7年をかけて、千日間歩きます。これは地球一周に相当する4万㎞という距離になります。

この行を創始したのは、864年に入寂(にゅうじゃく)した円仁から天台密教の秘法を継承した相応和尚という人でした。 比叡山では、学問僧と修行僧が分かれています。入寂前の円仁は、この「行」の方面を継ぐことができる若い僧を探していました。相応は、山の中を歩くこと、花を見ることが並外れて好きな少年でした。

「・・・あいつは見込みがあるのではないか」

司馬遼太郎さんの『叡山の諸道』という本の中に、円仁がそう呟くくだりがあって、ちょっとゾクッとします。相応は以後、叡山の山肌の襞という襞をなめるように歩き回りました。
本誌にこの話を書こうと思ったのは、「山肌の襞(ひだ)を舐めるように歩く」というのが、バリエーション登山家と何となく結びつく気がしたからです。実際、現地調査に行く前は、行者道にそのようなイメージを抱いていました。

私たち編集部3人の現地調査では、京都のビジネスホテルに一泊して、2日間、比叡山を歩きました。千日回峰は7年かけて行うと書きましたが、毎日歩けば3年で1000日になります。それを7年かけるのには意味があって、行は年ごとにしだいに厳しくなっていきます。3年までは年に100日で計300日。4年目と5年目は200日で、これで合計700日。6年目は、雲母(きらら)坂を下って修学院の先にある赤山禅院に詣でて戻る、今までの30㎞の倍、60㎞を歩く赤山苦行に入ります。

最後の7年目。残された200日は、京都市内を1日で一周する84㎞の京都切廻りという行です。

取材1日目、私たちはその雲母坂を登りました。根本中堂を経て、織田信長が比叡山焼き討ちのときに駆け上がった本坂を、滋賀県の坂本の方に下りました。
6月の京都特有の蒸し暑さが体を締め付けるように包んだ2日間でしたが、さらに地獄となったのは、2日目は朝からの雨で、暑い上に、雨具をつけて急坂を登り、ぶっ倒れそうでした。

根本中堂
根本中堂

相応は、「此の峰を巡礼し山王の諸祠に詣じて毎日遊行せよ」と、根本中堂の薬師如来の夢告を受けていました。
円仁が入寂した翌年に、相応は東塔の南谷に無動寺明王堂を建立し、回峰行の根本道場として、ここを起点終点とするコースを設定しました。これを「無動寺回峰」と言います。
現在、回峰行は、無動寺回峰の他に、円仁の修行地だった北山麓の飯室(いむろ)谷を拠点とする「飯室回峰」という別ルートがあります。

比叡山の回峰道
比叡山の回峰道

ドキュメンタリーの映像を見て驚いたのは、行者は深夜に行に出発しますが、提灯一つで、歩くというより跳ぶように山道を走っています。

 なぜ歩くか。
行を始めて最初の700日は、自分のために祈って歩きます。何を祈るか。他人のために祈れる資格を自分が得られるようにと祈るのです。

700日目と701日目の間に、千日回峰行中最大の難行「堂入り」があります。自利行(自分のために祈る)から他利行(人のために祈る)に移る節目の行です。9日間、断食、断水、不眠、不臥といい、つまり一切食べ物も水も摂らず、眠らず、体を横にすることもできない行です。
その行を終えて、701日目からは、ようやく人のために祈ることが許されるのです。今度は、ただひたすら人の幸せを祈って、歩き続けるのだそうです。

本書第二章の中扉の写真は、取材二日目に撮影したものです。無動寺谷大乗院に並べて吊されていた回峰行者の草鞋です。偶然ですが、雨滴がカメラのレンズにかかり、しかも雨筋も画のように写っています。

無動寺谷大乗院
無動寺谷大乗院

無動寺から根本中堂へ登り、西塔を経て、比叡山ドライブウェイを横切ると、京都トレイルロード、東海自然歩道の整備登山道に乗ります。
この東海自然歩道以外では、人を見かけることはまずありませんでした。しかし、「行者道はヤブ漕ぎや悪路、ルートファインディング」というイメージとは違い、全行程はしっかりした歩きやすい道でした。
それはそうです。行者が、ずっと1200年間も同じ道を歩き続けているのですから。そう思うと、時の流れ、歴史の空気がその道に漂っているような気がしてきます。
東海自然歩道のトレイルルートで、京都府山岳連盟の人たちと会いました。何の意図があってか悪い人がいて、このルートのあちこちの道標が引き抜かれたそうで、その再設置をしているとのことでした。

玉体杉
玉体杉

 玉体杉(ぎょくたいすぎ)では雨は上がり、その後、横川(よかわ)、飯室谷(いむろだに)を経て奈良坂を下り、滋賀県側の坂本に到着しました。
司馬さんの本に書いてあるだけで、いかにも由緒があっておいしそうに思えた蕎麦屋「つる喜」で、私たちもおいしいおろしそばを食べました。
そういえば、この現地調査の数年後、私は山岳会で同じコースの山行を企画しました。なんと、20人も参加者があって、その全員でこのつる喜で打ち上げをしたことを思い出しました。

そば屋「鶴喜」
そば屋「つる喜」

もし私がもう一度行くなら、まだ未踏の「悲田谷(ひでんだに)」と「横川行者道」を歩きたいのです。名前からして何となく比叡山のもっとも深い谷へ下りていくような想像をめぐらせています。 (お)

(画像、地図は『なぜ歩くなぜ祈る』で使用のもの)

根本順善著『なぜ歩くなぜ祈る』

叡山電鉄出町柳駅
叡山電鉄出町柳駅
雲母坂説明板
雲母坂説明板
雲母坂を登る
雲母坂を登る
叡山ロープウェイ
叡山ロープウェイ
ロープウェイ
ロープウェイ
飯室不動堂
飯室不動堂
奥比叡ドライブウェイの横を歩く
奥比叡ドライブウェイの横を歩く
ケーブル延暦寺駅
ケーブル延暦寺駅