2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」
2023年でドラマは終わりましたが、2024年1月3日現在、毎週のアップが追いつかず、48話まで続けていきます。

ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』『ホントに歩く中山道』などで、その場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。ドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

秀吉の北条攻めの回。家康も先陣を命じられる。
秀吉と茶々の間に初めての子が生まれる。
家康は北条の戦いに勝ったが、三河を離れ家臣もバラバラに。江戸へ行くことになる。
舞台は、大阪市、小田原市、京都市、静岡市

もくじ
●第37回「どこにいる家康」動静 ▼紀行(小田原市)

●第37回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第37回「どこにいる家康」発展編(by(し))

  1.茶々、淀城で鶴松を産む
  2.小田原攻めと家臣団卒業式
  3.江戸入府 伊奈忠次登場

●ギャラリー(小田原)

第37回「さらば徳川家臣団」▼動静

▼00分 大阪城(大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
<回想> 家康、お市と浅井長政の子である茶々と再会。

淀君(茶々)小田原市説明板より
淀君(茶々)小田原市説明板より

天正17(1589)年5月、秀吉と茶々に子ども(鶴松)が生まれる。
<ナレーション>生涯初の我が子を得て喜び絶頂の秀吉。勢いそのままに関東の北条攻めを決行。

▼01分 小田原城<「ホントに歩く東海道」第3集 №11 mapA5>
北条氏政、お茶漬けを食べていると、息子の氏直と嫁のおふう(家康とお葉の娘)が訪ねてきて、「早く秀吉に会いに行け」と促される。

▼02分 京都・聚楽第(京都市上京区堀川下立売北西周辺)
家康「北条は間もなく京都へやって来るので、待ってください」
秀吉と織田信雄「東国を平定できないのは家康のせいだ」となじる。
西笑承兌(豊臣家外交顧問)「奥羽には伊達政宗もいる」
秀吉「すぐに小田原の北条を攻めに行け、3ヶ月で終わらせろ。北条の土地は全て家康にやる」と家康に命ずる。

※聚楽第、豊臣秀吉が1587年(天正15)京都に造営した華麗壮大な城郭風の邸宅。

▼03分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

▼06分 京都・旭の屋敷
旭は病床にふせっている。寧々と家康が見舞う。
寧々「秀吉は淀君の子を授かってからは、私の言うことなどきかない。旭殿と徳川殿だけが頼り」

▼07分 駿河・駿府城<「ホントに歩く東海道」第6集 №22 mapC18、第6集ケース裏の地図>
家康、家臣団に「3ヶ月で小田原攻め終わらせろ」と秀吉から言われたと告げる。
その後、側室の阿茶と本多正信と相談。
家康「北条領を褒美にくれるという話をどう思う?」
正信・阿茶「うますぎる。家康の三河の領地と国替えさせるつもりだ」
家康「このことは家臣たちが動揺するので秘密にする。速やかに戦を終わらせ、国替えを阻止する」
正信、大久保忠世を呼び出して何かを告げる。

▼10分 天正18(1590)年、小田原攻め
2月10日 駿府より徳川勢出陣
3月1日 都より関白秀吉勢出陣。
20万の大軍勢で小田原城を包囲するも、北条は籠城を続け、3か月が経った。
小田原城の氏政・氏直親子と家臣たちのところへ、伝令が「笠懸山に城が現れた」と駆け込んでくる。

小田原合戦の攻囲陣立図(小田原市説明板)
小田原合戦の攻囲陣立図(小田原市説明板)

ものすごく北条氏が包囲されているのがわかる。

小田原合戦の経過(小田原市説明板)
小田原合戦の経過(小田原市説明板)


▼12分 笠懸山(石垣山一夜城)<「ホントに歩く東海道」第3集 №11 mapC24入生田駅から南東へ崖の上。早川を渡る橋が「太閤橋」である>
秀吉「小田原から見えない所に城を作り、出来上がったところで木々をザーっと斬って、まるで一夜で城ができたようにした」と家康に自慢。
秀吉、小田原城に向かって放尿。
家康が、「北条家の所領の安堵と和睦を提案しては」と秀吉に話していると、茶々が現れる。
秀吉「4か月が経った。北条領は全て家康のものだ。旧領の三河、駿河、遠江、尾張、信濃は別の者に治めさせる。家康は、江戸。街道の交わるところ、東国の要として相応しい。お前は江戸」
秀吉「家臣も独り立ちさせろ。本多忠勝は上総、榊原康政は上野館林……」
家康「我が家中のことに口出ししないでほしい!」
茶々「天下の武将は、関白殿下の配下でしょう」
秀吉「そのとおり、東国をよろしく」と言って茶々と去って行く。
正信「江戸に町を作らせて散財させ、徳川の強みである家中をバラバラにさせようとしている」
家康「くそ〜」

国指定史跡 石垣山一夜城
国指定史跡 石垣山一夜城
一夜城からの眺め。小田原城が見える
一夜城からの眺め。小田原城が見える
一夜城展望台。ここから秀吉は放尿したのか
一夜城展望台。ここから秀吉は放尿したのか

▼17分 小田原城<「ホントに歩く東海道」第3集 №11 mapA5>
天正18(1590)年7月5日 5代目当主北条氏直が降伏。
7月10日、家康が小田原入城。
家康は抵抗を続けた氏政に「なぜ早く降伏しなかったのか」と問う。
氏政「我が妹の糸(北条氏真の妻)に誘われ、平和共栄圏の夢を見ていたから。関東の片隅で犯さず犯されず、民と豊かな暮らしをしたていたかった」。家康に小田原の民のことを頼んで切腹をしに去って行く。

小田原駅近くの北条氏政、氏照の墓
小田原駅近くの北条氏政、氏照の墓
北条氏政、氏照の墓
北条氏政、氏照の墓

▼22分 小田原・家康陣所(小田原市寿町4-14-15、酒匂川に近いあたり)
石田三成、「関東へのお国替え、おめでとうございます」と言いに来る。
「信雄様も国替えに異を唱えたところ、改易となりました」
家康「織田を取りつぶすのか!」
三成「徳川様は、どうかご辛抱を」
家康「戦がない世にするために秀吉に従ってきたが、もうついていけない」
三成「殿下はこれまで間違ったことはしていない。もし間違った時は、この三成が止めます」

※小田原市・徳川家康陣地跡の碑
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/cultural/building/k-ieyasuzinnchiato.html
家康の陣所跡とされる碑が個人宅にあり、小田原市文化財に指定されている。

小田原合戦、徳川家康と家中布陣エリア
小田原合戦、徳川家康と家中布陣エリア

▼25分 小田原・家康陣所(小田原市寿町4-14-15、酒匂川に近いあたり)
夜、徳川家臣たちに領国授与式が行われた。
家康が関東に国替えになったと言っても、素直に従う家臣。
本多正信→大久保忠世→家臣 と伝言で、ガス抜きが行われていた。
<回想シーン>国替えの怒りを忠世にぶつける家臣たち。

家臣に土下座して詫びる家康、家臣等は「この乱世を生き延びただけで十分」と応じる。
【国替え一覧】
井伊直政=上野箕輪(群馬県高崎市箕郷町)
榊原康政=上野館林(群馬県館林市)
本多忠勝=上総万喜(千葉県いすみ市万木)
鳥居元忠=下総矢作(千葉県香取市)
平岩親吉=上野厩橋(群馬県高崎市)
大久保忠世=相模小田原(神奈川県小田原市)
徳川家康・服部半蔵=江戸

※天正18(1590)年に箕輪城に入城した井伊直政は、8年後の慶長3(1598)年に高崎城を築城し、初代城主となった。<「ホントに歩く中山道」第14集 №54 mapA11(乾門)>
写真54A11

高崎城乾門
高崎城乾門

▼39分 大阪・羽柴秀長屋敷(大阪城西の丸庭園、大阪市中央区)<「ホントに歩く東海道」第17集 №68 mapA>
秀吉が天下を取った、と病床の秀長に家臣が伝える。
天正19年8月5日 秀吉の子、鶴松が病没。

▼41分 江戸
天正20(1592)年正月。高台から見えている大河の台地上の町が江戸? 右手に富士山などが見える。
伊奈忠次(江戸普請奉行)が家康を案内している。
伊奈忠次「神田山を削り、その土で日比谷入江を埋め立てる」
関白(秀吉)からの朱印状が家康に届く。「朝鮮を従え、明国を取る」と書かれていた。

「紀行潤礼」神奈川県小田原市

小田原城<「ホントに歩く東海道」第3集 №11 mapA5>
小田原城は周囲9キロを堀と土塁で囲んだ難攻不落の城。

石垣山一夜城<「ホントに歩く東海道」第3集 №11 mapC24入生田駅から南東へ崖の上>

一夜城の穴太衆による野面積み
一夜城の阿納衆による野面積み
石垣山一夜城説明板
石垣山一夜城説明板

(こ)記録

第37回「どうする家康」の舞台関連マップ

どこにいる家康37 関連マップ

『ホントに歩く東海道』第3集(大磯〜箱根関所)←小田原
『ホントに歩く東海道』第6集(江尻〜舞坂)←駿府
『ホントに歩く東海道』第17集(京街道 樟葉~高麗橋)←大阪


どこにいる家康37 発展編(by(し)

いよいよ家康は江戸へ。三河から苦楽を共にしてきた家臣たちも皆各地の城持ちとなって、家臣団がわいわいと意見をぶつけ合ってきた場面から、家康が本多正信を相手にいろいろと策を練るという形に変っていく。これまでの大河ドラマでもおなじみの、腹黒〃狸〃謀略シーンである。新顔の阿茶局も加わり謀略トリオになることも。武田が家康を脅かしていた時は、信玄・山形昌景・千代の謀略トリオがよく登場した。今川義元・雪斎・義元母の寿桂尼が密談していた「風林火山」も懐かしい。戦国には謀略トリオが欠かせない。

1.茶々、淀城で鶴松を産む

「若君が誕生してから淀城にばかり入り浸って私の言うことなど耳も貸しませぬ」とぼやく北政所寧々。秀吉の第一子鶴松は、天正17年(1589)淀城で生まれた(次男の拾=後の秀頼が生まれたのは大坂城)。

淀城には、①古城、②秀吉の淀城(茶々の淀城)、③江戸幕府の淀城と、三つの顔がある。淀古城は室町時代中期に築城されたと推定され、山城の守護所として、河内・摂津に対する抑えの役割を果たしていた。戦国時代に入り、細川政権から三好政権に移行して三好長慶が畿内を統一した後、長慶の甥に当たる三好義継が淀城主となるが、度々の抗争で城主は変遷。最終的に永禄11年(1568)織田信長が上洛を果たすと、淀古城は織田軍により落城した。その後、足利義昭ら反織田勢力の拠点となったり、本能寺の変後、山崎の戦いでは明智光秀の拠点になったりするが、秀吉の天下となってから、秀吉の弟秀長が淀古城を改修し、秀吉が茶々に与えて産所とした。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになった。最後の近世淀城は、二代将軍徳川秀忠が、伏見城の廃城に伴い、寛永年間に、松平定綱に命じて築城させたもので、現在の淀城遺構はこの時代のものである。

淀城跡・淀城跡公園 『ホントに歩く東海道』第16集 MapNo.62 mapB 36 写真36

淀城の石垣
淀城の石垣

唐人雁木跡 同 mapB 34 写真34

唐人雁木跡

與杼神社 同 mapB 37

淀は「與(与)杼」「與等」「與度」「澱」などさまざまな表記があるが、もともとは水が澱み滞っている水郷のような地形であったことから来ている。唐人雁木跡は、朝鮮通信使が淀川から上陸した船着場。與杼神社はこの地の産土神で、明治時代の河川工事で桂川右岸から現在の位置に移設された。水上運輸の守護神としても崇敬されている。

淀は、東海道57次の宿場でもあるが、東海道の宿の中で唯一、本陣も脇本陣も無かった。旅籠も少なく、京街道四宿(伏見・淀・枚方・守口)の中で最も小規模な宿場で、旅客の多くは距離の近い隣の伏見で宿泊したが、淀には河川交通の重要地という特色があったのである。

2.小田原攻めと家臣団卒業式

天正18年(1590)の小田原攻めのきっかけとなった「名胡桃城事件」は、家康と直接の関係はないのでスルーされていたが、池波正太郎『真田太平記』(朝日新聞社版全18巻、新潮文庫版全12巻)に詳しく書かれている。また90歳まで生きた真田信之の老年期を描いた『獅子』の中でも回想で登場する。沼田領を巡る闘争はドラマでも描かれたが、結局秀吉の仲裁により、上野国の3分の2は北条氏、残りの3分の1は真田氏の領土ということでようやく決着した。沼田城は北条支配となるが、支城の名胡桃城は真田の父祖代々の墳墓の地として真田領となっていた。ところが北条家臣の沼田城代が名胡桃城の中に内通者を作り、名胡桃城に攻め込み城を乗っ取る。裁定を反故にされた秀吉は激怒して小田原の攻略に――という流れだが、実は、早く北条を滅ぼしたい秀吉の密かな挑発工作で、それに乗ってしまった北条が迂闊だった・・・というのがよく言われる解釈である。しかし伊東潤『城を噛ませた男』のように、すべては真田昌幸自身の謀略だったという、異色の説もある。

家康にしてみれば「早く戦を終わらせて北条の所領を安堵させることが德川の安泰でもある」わけで、氏直に嫁がせた次女督姫を通じて和平に力を尽すが、結局和平は成らず、氏政・氏照兄弟は切腹、氏直は生命だけは許され高野山へ入るが若くして病死、督姫は後家となって実家に戻る(その後池田輝政に嫁ぐ経緯は第32回で紹介した)。

「北条は民にも慕われております、北条をお助け下され」と家康が懇願していたのは、北条初代の伊勢宗瑞(北条早雲)が、関東を支配下においた時に年貢率を下げ、五公五民が普通であったところを「四公六民」とし、他国の農民たちに「自分たちの国も北条様の国になればよいのに」と羨ましがられたという逸話からだろうか。北条氏は現在の小田原市民にも慕われていて、小田原北条氏を大河ドラマに!という運動が長らく行われているが、鎌倉北条氏に先を越されてしまった。これまでの戦国大河ドラマでも多くの名優に演じられてきた北条氏だが、主人公となる日はまだ遠いようだ。

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p17445.html

北条家を助けたい家康の願いも、茶々が子を産んだ喜びに目がくらんでいる秀吉には届かない。その鶴松も、ラストでは早くも病死してしまうスピード展開だった。

ところで、関東の拠点を小田原でも鎌倉でもなく江戸に決めたのは誰の発案?
家康自身の案とする説もあるようだが、今回のドラマでは「小田原はいかん、江戸にせい」という秀吉案となっている。千代田区観光協会が発行、無料配布中の冊子「家康、千代田城入城」(平山優・柴裕之監修 すずき孔作画 ポニーキャニオン企画 戎光祥出版編集制作)にもそのように描かれており、考証者の意見の反映らしい。

また、これまでの通説では、家康の関東移封は家康の実力を怖れた秀吉の「意地悪」で、父祖の地を取り上げられ、全く縁の無い田舎の湿地帯に追いやられる理不尽に辛抱強く耐える家康の「我慢と忍耐イメージ」の一つになっていた。徳川実紀でも「(北條の所領を)ことごとく君に進らせられし事は、快活大度の挙動に似たりといへども、其実は当家年頃の御徳に心腹せし駿遠三甲信の五国を奪ふ詐謀なる事疑なし」「(長く北條に帰服してきた関東の民は)新に主をかへば必一揆蜂起すべし。土地不案内にて一揆を征せんには必敗べきなり。其敗に乗じてはからいざまあるべしとの秀吉が胸中明らかにしるべきなり」と、いかに秀吉が家康を怖れ、その力を削ごうとしていたかを強調している。

しかし最近では、秀吉にそこまでの悪意はなかったし、家康もけっこうポジティブに受け止めていたのではないか、という説も強いようだ。上記の「家康、千代田入城」でも、前向きで明るい家康が描かれている。第一、当時の江戸は言われるほどひどい土地ではなかったらしい。港もあり、陸上交通も要衝の地で、上杉氏や太田道灌にも重要視されていた。江戸城は新編武蔵野風土記にもたびたび登場している。ただ飲み水が悪いという大きな難点があり、多くの住民を支えることができなかった。その解決に大きな功績を残したのが、次の項で紹介する伊奈忠次・忠治父子である。

また、これは現在の転勤族などにも共通するかもしれないが、知らない土地への移転により、ある種のリセットが行われるのは、悪いことばかりではない。中山義秀文学賞・本屋が選ぶ時代小説大賞などを受賞し、戦国時代を舞台に多数の小説を書いている作家、岩井三四二氏の『あるじは家康』は、いわゆる三河家臣団とは少しずれた位置にいる家臣たちの視点から見た家康であるが、江戸入府をきっかけに、十八松平と言われる三河の松平一族が関八州の各地にバラバラに配置され、家康はうるさい分家たちを完全な家臣として支配できるようになった、家康は関東移封をうまく家中統制に利用したという記述があり、目から鱗だった。

今回のドラマでは旧説新説をうまくブレンドして、最初猛反発していた家臣たちを、兄貴分の大久保忠世がボコボコにされることでガス抜きしつつ、何とか合意をとりつけ、卒業証書のように各メンバーが関東各地の城を与えられ、別れを惜しむという展開で、事前に本多正信が何かを忠世にこっそり頼むようなシーンもさりげなく挟まれていた。秀吉の移封命令を拒絶して改易になった織田信雄(第34回)との対比もあり、オリジナル脚色成功の名場面だったといえよう。

「残りの命を小田原の安寧に捧げる」と誓う大久保忠世は紀行にも登場したが、これまで早雲寺のかげに隠れていた大久保家の菩提寺大久寺も、小田原名所・東海道名所の一つとしておおいにアピールしていかなければならないと思った。

小田原城址公園『ホントに歩く東海道』第3集 MapNo.11 mapA 5 写真5

小田原城
小田原城

大久寺大久保一族の墓 同 mapA 9 写真9

大久寺の大久保一族の墓
大久寺の大久保一族の墓

萬松院 同 mapB 22 写真22 大久保忠世の建てた信康供養塔がある(第25回参照)

萬松院。ふとんが干されている
萬松院。だれかのふとんが干されている

紀行に取り上げられていた石垣山一夜城はマップ外になるが、JR東海道線の早川駅と箱根登山鉄道の入生田駅(mapC 24 写真24)との間に位置しており、早川駅からは石垣山農道を経て徒歩約50分、入生田駅から徒歩約60分、春秋のウォーキングコースの一つとして人気である。戦国時代に思いをはせつつ、頂上の見晴らしを楽しみながら、登り道を歩いて来た疲れを癒すのは最高だ。

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/park/ishigaki-p.html

秀吉は一夜城築城の際、早雲寺に本陣を置いたが、その鬼門として築いたのが、厄除石垣神社。あうら橋という割烹旅館の奥に鳥居があり、由来の説明板がある(mapC 34)。

小田原以外にも東海道には、秀吉の小田原攻め関連の興味深い史跡がある。

御羽織屋 『ホントに歩く東海道』第6集 MapNo.23 mapC 22  写真22、解説p.6

小田原攻めで東に向かう豊臣秀吉が、宇津ノ谷峠(現在の藤枝市・静岡市境)を越える時、石川家の主、忠左右衛門に馬の沓を求めたが、四脚に足りない三脚しか渡されなかった。その訳を「四は〃死〃に通じる。一脚分は、戦に勝って戻られるまでお預かりします」と、また山の名を聞かれて「カチ山」、木の名は「カチの木」と答えるなど、機知に富んだ忠左右衛門の幸先良い対応に喜んだ秀吉は、凱旋の途中に再び立ち寄り、羽織(胴服)を与えた。その後家康をはじめ、大名たちが秀吉の運にあやかろうと立ち寄って触れたため、ボロボロになってしまった羽織だが、修復され市の文化財として有料公開されていた。

10年前の第6集現地調査で、風人社スタッフは、「御羽織屋忠左右衛門」の子孫にあたる石川ときさん(当時93歳?)に直接インタビューしている。現在だと百歳を超えていることになるがお元気だろうかと思い検索すると、しばらく前に101歳で逝去され、現在は御羽織屋の見学も出来ないということで残念だ。

古代から中世の東海道は、在原業平の『伊勢物語』にも登場する「蔦の細道」(mapC 20、MapNo.23コラム)であったが、秀吉は小田原攻めの時にこれを通らず、西側の標高・斜度の低い部分に道を拓いて大軍で通過した。江戸幕府が五街道を設定した時、これが東海道のルートとなった。

3.江戸入府 伊奈忠次登場

せっかく伊奈忠次が登場したのに、あまりにも短いシーンで、もっと家康の新しい町づくりを見たかったのに・・・と欲求不満が残るが、もしかしたら、町づくりに集中したいのに、秀吉の朝鮮侵攻のために呼び戻されてしまう家康の気持ちと同化させるための演出?(いやいや、前半にマラソンだのトライアスロンだの瀬名の平和大構想だのに尺を取り過ぎたせい)。視聴者としては、家康の留守中に町づくりに頑張った人々を見たいものだが、とりあえずは数年前にNHKでドラマ化もされた『家康、江戸を建てる』(門井慶喜、祥伝社平成28,文庫平成30)で脳内補完するしかないだろうか(この小説では、江戸を選んだのは家康案となっている)。

伊奈忠次・忠治父子の大事業は、神田山を切り崩して日比谷入り江を埋め立てるなどの江戸の町づくりにとどまらない。江戸時代初期までは江戸湾に注いでいた利根川・荒川は、たびたび洪水を起こしていた。この川の流路を変えるという大工事を、世代を継いで成し遂げた伊奈親子については、『ホントに歩く中山道』第16集、MapNo.61・MapNo.63のコラムを是非お読みいただきたい。

伊奈父子の墓は、前回ご紹介した、本多忠勝の娘で真田信幸に嫁いだ小松姫(稲)と同じ、鴻巣の勝願寺にある。(『ホントに歩く中山道第16集 MapNo.61 mapB 31 写真31』)。

五太夫橋 『ホントに歩く東海道』第2集 MapNo.6 mapA 8 写真8

五太夫橋(戸塚)
五太夫橋(戸塚)

江戸に移る家康を、石巻五太夫がこのあたりで出迎えたことから、五太夫橋の名がついた。石巻五太夫は北条の遺臣で、上述の名胡桃事件の時には、秀吉に事件の弁明を行う立場にあり上洛するが、弁明は聞き入れられず、駿河三枚橋城に抑留されてしまう。北条氏滅亡後、身柄を徳川家康に預けられて相模国鎌倉郡中田村(現在の横浜市泉区)に蟄居し、後に本多正信の推挙で徳川家康に仕えるようになり、中田村の領主となる。五太夫の墓は横浜市泉区中田東に残っており、横浜市登録地域文化財となっている。

https://kumin.news/yokohama/totsuka/articles/388878

ところで旧暦の8月1日を八月朔日、八朔といい、ちょうど稲穂が実り始める大切な時期で、古くから農家では稲の収穫を願いその年の初穂を世話になった人などに贈る慣わしがあった。家康の公式な江戸城入りの日が、天正18年(1590)の八朔の日で、江戸幕府にとっては、新年と並んで重要な日となった。この日は大名や旗本などが白帷子を身につけて登城、将軍家に祝辞を述べたのにちなみ、吉原でも遊女たちが白い衣裳で妍を競った。「八朔の雪」と言われ時代小説などでよく描かれている。明治以降は下火になるが、現在でも、熊本県の山都町では、旧暦8月1日に近い9月第一土曜・日曜に八朔祭が行われ、大きな山車が数十基くりだして多くの観光客を集めているという。

どこにいる家康 第37回 ギャラリー  小田原