2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。ドラマで家康はどこにいたか? 出来事の場所は地図上のどこで、どんな地形か? 東海道は家康が定めた五街道の一つ。家康の関連史跡も多くあり、ウォークマップ『ホントに歩く東海道』でその場所を確かめることができます。マップで確認できれば、よりドラマを楽しめ、興味が湧きます。せっかくなのでドラマに沿いながら、マップに出ている範囲ではありますが、参考個所をご紹介していきます。私たちも「あそこがそうだったのか!」と再発見があり、楽しい作業です。マップを持って、ぜひ訪ねてみてください。

どこにいる家康 ロゴ画像

「伊賀越え」。堺見物をしていた家康は「本能寺の変」で織田信長が討たれたことを知り、伊賀(現・三重県)を通って、三河(愛知県)に逃れた脱出劇の回。
舞台は、堺市、京都市、京田辺市、甲賀市、伊賀市、鈴鹿市、伊勢市、岡崎市

もくじ
●第29回「どこにいる家康」▼動静

●第29回「どうする家康」の舞台関連マップ

●第29回「どこにいる家康」発展編(by(し)

  1.穴山梅雪退場
  2.ドラマには登場しなかった伊賀越えの同行者・協力者たち
  3.伊賀・甲賀の忍びたち

●ギャラリー(藤枝と四日市)

第29回「伊賀を越えろ!」▼動静

00分 <回想>本能寺の変、家康が堺から逃げるまでの流れ。

02分 京都
<ナレーション>信長を討った明智光秀は、天下人への足場を手際よく固めていた。
明智光秀「家康の首を取った者には褒美をやる。天下人明智惟任日向守光秀の命と触れ回れ!」
光秀は、ぐつぐつ煮えた鍋を前に、「三河の白ウサギ、煮てやろうか、塩ゆでにしてやろうか」と言いながら白い里芋を食べる。

02分 どこかの山の中
家康たちは、服部党に助けられる。
堺から岡崎まで約250㎞を逃げ帰る。
堺〜木津川〜朝宮〜小川城〜御齊峠〜加太峠〜白子浜〜<伊勢湾>〜岡崎

家康・伊賀越えの道
「お茶の京都DMO」さんHP家康伊賀越え経路

●京都府南部(山城地域)の観光情報サイト「お茶の京都DMO」さんHPに、家康伊賀越え経路が紹介されています。ドラマで出てきた地名がどこなのか、どのように進んだのか参考になりました。
また、伊賀越えが取り上げられている歴史小説の紹介リストもあります。
https://ochanokyoto.jp/news/detail.php?inf_id=178
●伊賀越えガイドマップ
https://ochanokyoto.jp/data/DA_178_1.pdf?20200708182250

04分 ♪音楽「どうする家康 メインテーマ~暁の空~」

06分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
大久保忠世「信長が討たれました」と報告。
於愛「まさか、殿がやりおるとは!」
鳥居元忠「……やったのは明智光秀」

07分 天正10年6月3日 木津川を越えたあたり<草内の渡し? 京田辺市草内大東>
家康らは野伏せりの襲撃を受け、あり金も尽きた。
服部党が手に入れてきた野菜を食べる。
服部半蔵「伊賀越えでいきましょう。伊賀は我が故郷。小川城の多羅尾氏を頼りましょう」
酒井忠次「追っ手を欺くために、三手に分かれよう。私は信楽の近江路をいきます」
石川数正「私は桜峠<三重県伊賀市と滋賀県甲賀市を隔てる峠>を」
家康は、「おとりになってくれるのか」と感激する。忠次・数正は、高齢で山中を早く走れないからという。
家康は「伊勢白子浜で待っている」と言い、別れる。

12分 近江・小川城<滋賀県甲賀市信楽町小川>
多羅尾氏は家中総出で「徳川様、城で休んでくだされ」と家康たちを誘い込む。
食べ物におびき寄せられる家康たち。
多羅尾光俊「伊賀越えは薦めない。皆、織田を心底憎んでいる。伊賀を避け、信楽を目指せ。大勢では目立つから、山伏の衣装を着ろ」
半蔵「親切が過ぎる、罠だと思う」
翌朝、みんなで逃げ出す。

●小川城跡 滋賀・びわ湖観光情報HP
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/4014/

18分 天正10年6月4日 御斎峠(おとぎとうげ)<滋賀県甲賀市信楽町多羅尾と三重県伊賀市西山にある峠>
峠の先が、伊賀。
<ナレーション>伊賀は領主もおらず、600を超える砦がひしめき、まさに修羅の様相。
家康が歩いていると、砦の領主の一人、百地丹波に捕まってしまう。

●御斎峠 JAFナビHP
https://drive.jafnavi.jp/facility/251125X00431

22分 明智光秀屋敷? 京都?
家康の首が届けられたが、明智光秀は「首違い」と怒る。

23分 伊賀・音羽郷<三重県伊賀市音羽>
家康たちは百地丹波の牢に入れられる。
百地は光秀に家康の首を届けるため、家康の首を斬ろうとしていると、井戸から三河一向一揆の際に家康が追放した、本多正信が現れる。
正信が「信長が生き延びているという噂が広がっている」と言うと百地は怯み、家康を解放する。

35分 伊勢・白子浜<三重県鈴鹿市>
音羽郷を抜け出すと、家康は井伊直政や本多忠勝らと合流、さらに白子浜で、酒井忠次と石川数正が待っていて合流。
家康は服部党に御礼を言い、服部半蔵を武士にすると約束する。

39分 岡崎城<「ホントに歩く東海道」第10集 №40 mapA12>
堺を出て3日後(6月4日)、岡崎城にたどりついた。
迎えた大久保忠世が「穴山が討たれました」と家康に報告。
光秀に届けられた首は穴山信君だった。

40分 山陽道・姫路付近
明智光秀を討つため、大急ぎで京をめざす豊臣秀吉たち。

40分 京都小栗栖<京都市伏見区 『ホントに歩く中山道』第16集 №61 mapA29光秀胴塚の南5㎞>
本能寺の変から11日後(天正10年6月13日)、光秀は戦に敗れ、逃げていた。
竹槍で刺され、「わしは明智ではない」と言って、さらに刺され死亡。
秀吉の元へ首が届けられた。

明智薮 京都市歴史資料館HPフィールドミュージアム
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu008.html

「紀行潤礼」滋賀県甲賀市、三重県伊賀市・鈴鹿市

小川城(滋賀県甲賀市信楽町小川)
織田信長に仕えていた多々良光俊の居城。家康は助けを求めて頼った。

御斎峠
滋賀県甲賀市信楽町多羅尾と三重県伊賀市西山にある峠。眼下に伊賀の町を見る。

徳永寺(三重県伊賀市柘植町2318)
家康が休憩したと伝わる伊賀の寺。御礼に葵の紋の使用が許される。
https://www.kankomie.or.jp/spot/8563

明王寺(滋賀県甲賀市甲南町磯尾)
家康以降、徳川4代の名前が刻まれた位牌が残る。

白子浜(三重県鈴鹿市)
ここから海路三河へ。

(こ)記録

第29回「どうする家康」の舞台関連マップ

今回の特に関連マップ。ほとんど東海道と関係なく、光秀が殺された明智藪付近ぐらい。

ホントに歩く東海道 どこにいる家康マップ29

『ホントに歩く東海道』第10集(御油〜岡崎)
『ホントに歩く東海道』第16集 京街道(山科追分〜樟葉)


どこにいる家康29 発展編(by(し)

「弱いからこそ天下が取れた」という今年の大河ドラマのテーマが最もよくあらわれた回の一つで、漫画的な展開もあったが、本能寺回より面白く見られた。武力だけでは天下は取れない。洞察力と交渉力、そして「運の良さ」も大きな要因かもしれない。

1.穴山梅雪退場 

あっさり退場と見せかけて、「家康の首と間違われて明智に差し出される」というオリジナル展開になった穴山梅雪。詳しいいきさつは省かれていたが、もともと德川家臣でもない梅雪が、忠臣夏目吉信のような「身代わり」を演じたとは思えないので、襲われた梅雪が土壇場で「これで家康までやられてしまったら、悲願の武田名跡復活の可能性は消えてしまう」と考え、とっさに「自分が家康だ」と名乗った、ということだろうか?

梅雪がなぜ家康一行と行動を共にせず、襲撃され落命してしまったのか? というのは今も謎らしい。混乱の中で家康に討たれるのを恐れていたとか、逆にこっそり家康を討って土産にし、明智につこうとしていたとか諸説あるようだが、今回のドラマではそこには踏み込んでいなかったので、陰謀好きな人には、講談社の決戦!シリーズ『決戦!本能寺』の中の宮本昌孝『水魚の心』がお勧め。
平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望――天正壬午の乱から小田原合戦まで』(戎光祥出版、平成23)に、京田辺市にある穴山梅雪の墓の写真が載っているが、梅雪の墓はこのほか、山梨県の韮崎市と静岡市にある。

静岡市の墓は清水区の霊泉寺にあるが、薩埵峠を通る東海道(『ホントに歩く東海道』第5集MapNo.20)から少し離れた、新幹線線路の近くである。
https://sengoku-map.com/anayama-baisetsu/

また、中山道武州路からは微妙にずれているが、東浦和の清泰寺には、穴山梅雪の正室で武田信玄の次女、見性院の墓所がある。
https://www.stib.jp/info/data/seitaiji.html

清泰寺は平安時代の高僧、慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)によって開かれたと伝わる天台宗の寺で、本尊の十一面観音立像(市指定有形文化財)は、江戸時代初期の作で秘仏とされている。また境内には、天明期及び蔓延元年の庚申塔が351基もずらりと並んでおり圧巻。一カ所にこれだけ存在するのは非常に珍しいそうだ。

見性院は、穴山梅雪の死後、家康の庇護を受け、武州安達郡大牧村(現在の東浦和)に住んで元和8年(1622)に没し、清泰寺に葬られた。見性院は、前回の「武田系の側室たち」で述べたように、家康が武田の名跡を継がせた五男信吉の後見をしており、その後また、二代将軍秀忠が侍女に生ませた男子幸松丸を七歳まで養育する。幸松丸は旧武田家臣の信州高遠藩主、保科正光の養子となり、さらに会津藩松平家の祖で名君の誉れ高い保科正之となる(大河ドラマ「八重の桜」でも言及されていた)。このため清泰寺にも会津藩に由来する文化財が多く納められているが、その一つに市指定有形文化財の「有泉勝長木牌」というものがある。
https://www.city.saitama.jp/004/005/006/001/017/009/003/p000414.html

井原忠政の『三河雑兵心得』シリーズの伊賀越えの巻に、穴山梅雪と共に野盗に殺害されそうになった有泉大学助という人物を、植田茂兵衛が危機一髪で救う場面が出てくるが、有泉勝長は彼の親族? 穴山梅雪の家臣でその後幸松丸について会津へ赴き、会津藩士となった人らしい。木牌には有泉家と穴山梅雪・見性院・会津保科松平家などとの関係事績が記されており、有泉勝長の弟の家系が大牧村に居住して代々見性院の墓守をつとめていたという。

見性院墓所(清泰寺) JR武蔵野線東浦和駅より徒歩8分

中山道はほぼ京浜東北線(宇都宮線・高崎線)に沿って、大宮・さいたま新都心・与野・北浦和と進み、浦和からは少し線路より西の方へ離れ、蕨市へ入る。東浦和は、南浦和で京浜東北線から武蔵野線に乗り換えて一駅。

見性院墓地
見性院墓地
清泰寺説明板

2.ドラマには登場しなかった伊賀越えの同行者・協力者たち

【伊奈忠次】 家康の関東入り後、戦いで功績をあげる武将たちとは違う場面で活躍する家臣たちが多くなるはずだが、利根川と荒川という二大河川の治水工事を行い、子孫代々にわたって関東の代官職をつとめる伊奈忠次・忠治父子はその筆頭である。伊奈氏はもともと三河で德川家に仕えていたが、三河一向一揆では家康に叛旗、その後戻って長篠の戦で功績をたてるが、信康事件を機に再び出奔するなど、家康家臣団の中では決してメジャーな存在ではなかった。しかし、伊奈忠次は本能寺の変の時、堺に居住しており、家康一行の伊賀越えに貢献して再び帰参が許され、駿・遠・三の奉行職として活躍。小田原征伐や文禄・慶長の役における兵站や街路整備など、戦の裏方を一手に担う。家康の江戸移封後は東代官頭として家康の関東支配、新しい町づくりに貢献することになる。
関東地方には「伊奈」の名を持つ町が多いが、『ホントに歩く中山道』第16集では伊奈忠次・忠治父子が大活躍。伊奈忠次の墓は鴻巣市の願勝寺にあり、ドラマに登場したら、改めて紹介したい。

【長谷川秀一】 小説ではたいてい伊賀越えシーンに登場する人物で、信長に小姓として仕え寵愛を受け「長谷川竹」と呼ばれていた(「森乱」的な感じ?)。森乱と違い、本能寺で宿泊した信長の側にはおらず、家康・梅雪の堺見物の案内役を務めていたため命拾いすることになった。長谷川は天正8年の高天神城攻めで徳川陣に派遣されているので、家康とは顔なじみで案内役を拝命したのだろうか。茶屋四郎次郎から本能寺の知らせを受け、長谷川はそのまま、京都脱出の案内役も担うことになる。近江信楽の多羅尾光俊は長谷川の親族で、そのつながりにより家康一行を助けたとも言われる。
その後、豊臣秀吉の臣下となり、小牧・長久手戦では家康と敵対。長谷川の娘は、池田恒興・森長可と共に戦った堀秀政の嫡男に嫁ぎ、堀家は德川政権下で大名となるが、長谷川秀一には息子がいなかったため、長谷川家は途絶えた。

【小川孫三】 かなりの歴史好きでも「誰?」という感じだと思うが、東海道ウォーカーは記憶にあるかもしれない。藤枝市の、蓮華寺公園入口から一つ東寄りのバス停は「白子」で、このあたりが「白子地区」と言われるのは、「伊勢白子」に由来する。伊賀越えでようやく伊勢の白子(現・三重県鈴鹿市)へと逃れた家康一行であるが、ここで敵に捕まりそうになり、畑で麦を刈っていた小川孫三が麦の中に家康を隠し、命拾いした家康は、白子浜から対岸の三河床鍋(常滑)の正住院へ逃れることができた。しかしそのため小川孫三は白子にいられなくなり(岡崎城まで同行した孫三に追っ手がかかったためとも)、家康は小川孫三を妻子ともども藤枝に住まわせて新しい土地を開拓させ、彼の郷里と同じ白子の名を与えたという。
ドラマでは決死の伊賀越えのあと、ようやく伊勢白子まで来て安心、という感じに見えたが、この逸話からすると、白子も反德川勢力がメジャーだったということだろうか? あるいは前回「本能寺の変」の最後のシーンのように、信長が誰に討たれたのかということも含め、まだ情報が錯綜しており、少しでも怪しい者を匿えば罪に問われたのかもしれない。

いずれにしても、小川孫三は家康と出会って運を開いた。小川家は代々白子で医師を開業し、現在白子バス停の前にある小川眼科は15代目。小川家には家康の朱印状も保管されているという。
https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/kyodomuse/11/12/1445916490964.html

2009年にこの逸話が、町の保存会によって津軽三味線の弾き語りで上演されるというイベントが行われた。
https://ichigenkuyou.work/siroko%20sinbunkiji.htm
https://ichigenkuyou.work/siroko.htm

白子由来碑(藤枝市 小川眼科医院前)『ホントに歩く東海道』第6集 MapNo.24 mapC30 写真30

藤枝宿小川眼科 藤枝白子町

四日市思案橋 『ホントに歩く東海道』第12集 MapNo.46 コラム mapC

三河への海路で家康が舟に乗った場所としては、伊勢白子のほか、浜村(四日市)や津という説もある。JR関西本線四日市駅の近くには「思案橋跡」という史跡があるが、これは伊賀越えでこの地に達した家康が、このあと陸路で行くか海路をとるか思案にくれた、という逸話からだとされており、「御乗船場」と呼ばれる場所も残っている。もっとも、家康が認可した廻船権や、幕府直轄領としての利益などを重視する地元の人々が、家康とのつながりを強調するために、後代になって作った伝説とも言われているらしい。

ホントに歩く東海道第12集 コラム46
四日市 思案橋イメージ復元
四日市 思案橋イメージ復元

3.伊賀・甲賀の忍びたち

信楽庄小川の国人多羅尾光俊。ドラマでは、多羅尾を怪しげと感じた家康たちが避けた結果、伊賀で危険な目に遭い、多羅尾の親切には裏表がなかったことが後でわかるという展開だったが、德川実紀を始め、多くの小説や解説本には、多羅尾光俊らによる家康一行のアテンドが伊賀越を成功させ、後に多羅尾へは、家康から大きな返礼があったとされている。
ドラマにも多羅尾が赤飯をふるまう場面があったが、『東照宮御実紀』付録巻四には、「このとき赤飯を供せしに。君臣とも誠に飢にせまりし折なれば。箸をも待ず御手づから召し上られしとぞ」とある。ドラマでは、服部党の面々が「毒味」と称して赤飯をむさぼり食っていたが・・・

『東照宮御実紀』によれば、このとき多羅尾光俊は家康に勝軍地蔵も献上し、地蔵は愛宕山円福寺に安置されたとある。円福寺は、愛宕山六院の一つであったが、明治維新の廃仏毀釈や関東大震災を経て、現在、勝軍地蔵は愛宕神社本殿に非公開で祀られているという。
https://www.igaportal.co.jp/ninja/2143
多羅尾氏の信楽の拠点、小川城の土塁が、昭和49年に発見された。

今回は、伊賀・甲賀の忍者たちが活躍する回だったが、平山優『戦国の忍び』(KADOKAWA、2020)によると、忍びについては呼称もいろいろなものがあり、出自も任務も多彩であったらしい。服部半蔵が初登場のときから「忍びではなく武士」にこだわり続けていたのは、『戦国の忍び』の知見も取入れられていたようだ。戦いに不可欠なダークな部分を担当する忍びには、アウトローの者たちが多く、非正規雇用で使い捨て、「狡兎死して走狗烹らる」的な最後を迎えることも多かったらしい。21世紀のロシアの傭兵ワグネルなども、戦国の忍びと共通する部分があるように感じる。

どこにいる家康 第29回 ギャラリー

家康が舟に乗った場所。白子つながりの藤枝と、別説の四日市