ゴールデンウィークに、長津田~鶴間(4月30日)鶴間~厚木~伊勢原(一部カット、5月4日)を歩いてきました。ちょうど長津田~厚木間の組版・原稿整理をしていて、それを手に歩いたので非常に面白かったです。
 実は長津田~厚木間は昨年末に歩いたのですが(荷物が重かったのと風邪の前兆が出て疲れていたせいで、ひたすら厚木を目指して歩いていました。後半はほとんど写真を撮っていませんので、あまりいろいろなものを見る余裕もなかったのだと思います)、「こんなところを通っていたのか」という発見がたくさんありました。

 いくつか興味深い発見や出会いがあったので、分けて記していきたいと思います。
 まず、海老名市にある温故館という資料館です。海老名市の国分宿の中間に温故館という古い建物があります。もと、海老名村の村役場だったもので、現在は海老名市の郷土資料館です。ちょうどこの裏が相模国分寺跡になっています。続きはこちらからどうぞ

060504kanban 不思議な看板がありました。
 ちょっと大山街道からは外れるのですが、「お銀様の家跡とお墓」を見に行くため、赤坂バス停から少し西に行ったところにある道を左折しました。そこには「渡辺崋山ゆかりの道」案内板というのがあるので、目印になります。このあたりは海老名市と綾瀬市の市境を大山街道が通っていて、綾瀬市をどんどん南下しました。
 お銀様とういのは、渡辺崋山が仕えていた田原藩(愛知県東部)の第11代藩主三宅備前守康友の侍女で、友信を生んだ方です。その後、崋山は、藩の経済状態が悪く、裕福な藩から藩主を迎え入れるという不遇のために藩主になれなかった友信に仕えました。
 お銀は友信を生んだあと故郷に戻り所在がわからなくなっていましたが、友信の心中を察した崋山が、彼の実母お銀を探す旅に出た、というのが大山街道を旅っしたことを詳しく記録した「游相(ゆうそう)日記」ができたきっかけのようです。
 崋山は、無事、お銀さまに再開したそうです。

 前置きが大変長くなりましたが、そのお銀のお墓と家跡(中平さんによると、現在のJAさがみ早園支店あたり)を見たあと、大山街道に戻るために望地交差点めざして北上していた時にあった看板です(右)
 この575の言葉は、目標なのか客観的に世情を分析したものなのか、誰をどうしたいのだろう?と立ち止まって考えてしまいました。かえって反発したくなる気を煽るのでは、と心配になりました。