ウォークマップ「ホントに歩く東海道」の現地調査で感じたことを、 風人社発行の通信誌「KAZESAYAGE<平地編>」巻頭文に記しましたので、それをブログの形で公開し、記録しました。
もう少し早く、このことに気づくべきだったと反省しきりです。

東海道 髭茶屋追分。京都53次(右)と大阪57次(左)への分岐点
東海道 髭茶屋追分。京都53次(右)と大阪57次(左)への分岐点

ウォークマップ「ホントに歩く東海道」は、全体の構成計画を綿密に立てることもせず、まず「歩きながら考える」で、出発しました。歩くことだけには、きわめて真面目。たんねんに現地調査(以下現調と略)を実施しています。

第1〜3集までは、「日本橋を出発して○㎞」という意識が強かったのですが、第4集で、この考え方にちょっとした変化が起きました。
東海道沿線の町や村には、その土地それぞれの郷土の物語があるのでした。だから東海道マップは、それぞれの土地の郷土本でもあるのだと気づいたのです。日本橋からの旅の道中は「晴(ハレ)の道」であり、住民の生活道は「穢(ケ)の道」という認識を持ちました。

変化のきっかけになったのは、今度の現調では、地元郷土史家や住民の方、市町村のご協力を得たことでした。沼津では、編集部現調に同行していただいてのアドバイスやご案内を受けました。それによって今までのガイド本に記載のない、しかしながら重要な歴史的建造物や、その土地の生活史なども教わりました。それらの取材をマップの編集に込めることができたのは収穫でした。

東海道も薩埵峠を過ぎると歩く人はぐんと少なくなって、マップの発行部数も減数しなさいとのアドバイスを受けました。たぶんその通りでしょう。日本橋を出発した現代の旅人も、箱根越えまでで止める人も多いのかもしれません。
けれど、前記の通り、東海道は日本橋から歩いてきた人たちだけの道ではなく、その土地に住み続けている人の生活道路でもあるわけです。普段いつも歩いている旧東海道を、日本橋から京・大坂につながっている主要街道「東海道」として見なおしてみると、その土地の人にも違った発見があるに違いないと、今度の第4集の編集で思ったのでした。

私は京都出身で、父の勤め先の山科にはよく行きました。そこで「追分」という地名はいつも耳にして、実際にもしばしば通っていましたが、このたび東海道を意識して歩いてみると、東海道53次が57次になる二股の分かれ道として、とても重要な場所であることがわかり、「追分」の意味を初めてよく知ることになったのです。

東海道 髭茶屋追分 追分町
公民館前に立てられた「追分町」の説明標柱

(ここには、次のように書かれている。「この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点にあたっていました。追分の名は、このような街道の分かれ道で、馬子(まご)が馬を追い分けることからきたものです。なお、江戸時代、付近の街道沿いには、髭茶屋町、南北追分町の三か町が並んでいました。」)

だから、まず地元の人に、よく知っているはずの道を、このマップを持って歩いてほしいと思いました。地元の書店さんで地元の住民の方が、自分の街の道のマップを買ってくださるのがいいなあ、と願いを込めて思いました。

2013年09月22日 (Sun) FC2ブログ 風人社OHの編集手帳からの転載

マップの制作に「変化」が起きた『ホントに歩く東海道』第4集