『キャーッ! 大山街道!!』の現地調査以来、平塚へはけっこう足を運んでいます。しかし今日は、「東海道」の取材・現調です。東海道の目で平塚を歩きます。

平塚市の西部なのですが、江戸時代の平塚の中心部は今の駅前繁華街よりずっと西にありました。現在の繁華街は、JR平塚駅への人口集中によってこちらが発展して、街の中心部が移動したのですね。特に平塚の空襲後の戦後に、街の発展が駅近辺ですごかったのでしょう。
例えば京都市では、駅から中心部が離れていたために、今でも繁華街は、駅からずっと北の四条から三条あたりです。平塚市のように、もとの中心部と新しい駅が近いと、自然に人の流れが街の風景を変えてしまうようです。街は立地によって、経済の影響で、保守的ではなくなるようです。

「番長皿屋敷」のお菊塚は、この繁華街の路地裏の紅谷公園にあります。立派な墓は作れなかったと言われているので、ここは宿外れだったのでしょう。

平塚宿 お菊塚
お菊塚

江戸時代の平塚宿の中心部は、江戸見附から京方見附までのおよそ1.1kmで、この間には、江戸城の井戸枠、脇本陣跡、高札場跡、東組問屋場跡、本陣跡、西組問屋場跡などがあります。

東海道 平塚宿 江戸見附跡
平塚宿 江戸見附跡

しかし、市民センター隣の平塚小学校跡地というのは、昭和20年の空襲の焼け跡地で、ここに小学校が再建されずに記念碑があるのは、当時を経験した人には忘れ得ぬ記憶を呼ぶでしょう。日清講和条約締結記念で植えられた樟と言われますが、空襲で焼けずに大樟として残っています。

東海道 平塚宿 平塚小学校跡地の大樟
平塚宿 平塚小学校跡地の大樟

先に記した本陣跡などは、現在ことごとくその建物はなく、標柱があるだけです。東組問屋場跡の標柱のみが東海道の左側にあって、あとは右側にありますが、ガイドブックには「気をつけていないと見落としてしまう」と書かれていて、普通の東海道ウォーカーは、見落として通り過ぎても構わないでしょう。当時の建物の面影はありませんので。

しかしながら私は、マップの現調で歩いているので、それらの位置を確認するのが私のミッション(私が普段使用しないボキャブラリーながら)ですので、西組問屋場跡まで行ってUターンで戻り、東組問屋場跡標柱をどうしても見つけねば、先に進めませんでした。しらみつぶしにいろんな見所が見つかっていくと、それはそれでゲームのような楽しさもありました。

要法寺の隣が、「平塚の塚」。その隣が「春日神社」。その間に、「お初の墓」(未確認)。
そして国道1号線に戻り、古花水橋交差点の京方見附のところで、広重の「平塚」の高麗山の景観ですね。
この付近にチェーン店のなか卯と焼き肉の安楽亭があって、「ランチ」ののぼりにちょっと迷いましたが、結局入らずによかった。
花水橋を渡り、善福寺(左側)に立ち寄り、 次に高来神社(右側)も訪れました。どこのお寺も神社も、正月準備をしていました。高来神社では、参道の両脇の提灯設置作業が行われていました。「関東ふれあいの道」の道標が高麗山を示しています。この日は、山頂へは行けませんでした。

国道から旧道分岐の化粧坂交差点に、飲食店が2軒ありました。国道の方には、定食屋さん。大きな看板に、「刺身、焼き魚、煮魚」(しまったなあ。写真を撮らなかった、魚類はなんでもありますみたいな)。

旧道入口には「蕎麦処 車屋」があって、昼食はこちらにしましたけど、あっちも気になる。ソバ屋さんの品書きに、大磯の平目刺身、石鯛、小田原のカワハギとなどと刺身類がありましたが、ここで中間反省会の一杯とは、ちょっといくらなんでもできません。蕎麦の実入りの「化粧蕎麦(おろし蕎麦)」にしました。チェーン店に入らなくてよかった。

大磯 そば屋 車屋
化粧坂の蕎麦屋 車屋
東海道 大磯 車屋 化粧蕎麦
車屋の化粧蕎麦

記録が長くなりますので、今日はこのへんで。この後の大磯宿は、後日に。

2012年12月24日 (Mon)FC2ブログ 風人社OHの編集手帳からの転載

【該当マップ】 『ホントに歩く東海道』第2集(保土ヶ谷〜平塚・大磯)