直進しないで左右に分岐する道


薩埵峠を興津へ向かうとき、トイレのある駐車場から左へ下ります。そして、白髭神社駐車場横、墓地の前の東屋を過ぎて十字路に来ると、道標があって、右も左も「興津駅へ」の表示の十字路に至ります。右折が標識にもガイドブックでも紹介されている旧東海道です。左折は、本当はこちらが今まで来た薩埵峠越えの中道ですが、興津駅に至るとしか案内されていません。つまり、東海道ウォーカーにあえてこちらを歩かせようとはしていません。
右折は、じつは薩埵峠越え上道で、今までの中道からの変更になります。半円形に大きく迂回した経路です。左折は、急坂で、白鬚神社参道、海岸寺を経て下道に合流します。直進の舗装道もあるのですが、下の案内板のように、道自体が示されていません。
東海道は、なぜ直進しないのでしょう。




興津の津波高潮避難路
興津に現地調査に行ったとき、興津に70年在住の地元の人から、断片的ながら、本には載っていないいくつかの印象に残るお話を伺いました。その一つ、偶然、津波高潮避難路のことを教えていただいたので、東海道とは直接関係薄いかなと思いながらも、現地調査で訪れました。
地元の人は、津波高潮が来たときにどこに避難するのでしょうか。その径路が造られているのを教わったのです。東海道歩きの人でここを見る人は皆無だろうし、ガイドブックに載るはずもありません。しかし、東海道の地形としては無関係ではないどころか、上に述べた、「白髭神社でなぜ道が直進しないか」について、薩埵峠の地形による理由があることに気づいたのです。あくまでも私見の仮説に過ぎませんが。
上の道標に従い、右折して、薩埵峠上道の迂回路を歩いてきて、「興津川通り」(興津川に沿っている)に出ます。そして、興津川を西へ渡る手前、JRの線路の下をくぐります。このくぐるところは、くぐるために切り通しにしたそうです。少し雨量が多いと、水浸しで通行できないと表示があります。
その手前、自治会館斜め向かいに旧自治会館(地図の「公」のマーク)がありましたが、その脇に東斜面に入る小径が見つかりました。地形図で確かめると、明瞭な沢筋で、詰め上がりは老健施設「きよみの里」です。避難路標識にも行き先表示も「きよみの里」とありました。
小径を入るとすぐに、急斜面を登ります。径路が造られていて、数mおきに標高表示板があって、どれだけ登ったかがわかります。もし20mの津波だと、この斜面を20mまで登らねばなりません。ここは駿河湾から興津川へ入ってすぐの河口間近です。駆け上がらねば間に合わないかもしれません。


その日私たちは、30mまで登ってみましたが、他の取材もあり、引き戻りました。地図で確認すると、きよみの里のピークに至ります。そこからは、先ほどの左右分岐の十字路に直進です。つまり、十字路を直進すると、この経路で興津川に出られるのでした。
きよみの里は、昔はどんな土地だったのでしょうか。地元の人に尋ねても、あまり答えは明瞭でなく、森林地帯であったような形跡もありません。けれど、東海道が、この丘を避けたことは事実です。地元の人が、じっと考えて、きよみの里の丘上は絶えず強風が吹いていたと言っていたのは示唆的でした。ここは海からの地形風が強かったのでしょう。旅人は、ここを通りませんでした。
私は、たまたま、登山でバリエーションルート(整備登山道ではなく道なきルート)を楽しんでいますが、尾根先の下山によくあるパターンだと気づきます(尾根先が崖になっている場合が多い)。私たちの登った避難路経路は、急傾斜の沢で、江戸の旅人はここは下れません。それで、その前で早めに尾根筋を離れて斜面をトラバース気味に下降するのです。それで左折で下道に下りるルートができたのでしょう。それでも、このルートは危険だったのでしょう。そこで、水平道のままで興津川河畔に出られる迂回道を選んだというのが、私見の仮説です。上の明治の地図はわかりやすいですね。
薩埵峠から海岸道までの標高差は、駐車場を見下ろして撮影した上の写真をみればよくわかります。この標高差を、旅人は下りたのでした。
追記
尾根の先端で斜面をトラバース気味に前もって下りることについては、別項でメモしたいと思っています。権太坂では、江戸方面からはきれいに尾根先端から登り、品濃坂ではここと同じ斜面下山でした。
2013年11月29日 (金) FC2ブログ 風人社OHの編集手帳からの転載
該当マップ 『ホントに歩く東海道』第5集(元吉原〜清水<江尻>)
