左富士とは

左富士とは、東海道を江戸から京へ向かうとき、普通は富士山は進行方向右手に見えているが、それが左に見えるところが2か所あって、その珍しさを言うものだ。その2か所は、茅ヶ崎の南湖(なんご)と江戸時代の中吉原宿付近(富士市)である。いずれも、東海道の有名な名勝として、旅人に親しまれてきた。

東海道 吉原 左富士
東海道 吉原 左富士
広重 吉原 左富士
広重 吉原 左富士

東海道は富士山の南側を通っているので、富士山が右に見えるのは当然だ。それが左に見える理由も決して難しいものではない。西方向へのまっすぐな道では 北は常に右側だが、道が北へ向かうと、富士山が北西に位置するときには左手に見える。
問題は、なぜ道がまっすぐ西方向ではなく、わざわざ北へ方向転換しなければならないかという「道の理由」にある。南湖の左富士については、以前に記述した(かわら版5号掲載)。

要略すると、東海道が直進すると柳島の湿地域に突入し、相模川を渡れない。明治の地図の小出川の流れは、コの字型に東に突出して、東海道はそれに押されるように北転している。これを「道は偉い」と書いた。

南湖(茅ヶ崎市)の左富士地形
南湖(茅ヶ崎市)の左富士地形

では、吉原の左富士の場合はどうだろう。じつは、地形図では南湖のように一目瞭然の了解はできない。明治時代の地形図でも、等高線は判然としない。わずかに和田川の流れが東へ湾曲しているのが、南湖と同様の理由づけを可能にしている。

中吉原の迅速測図
中吉原の迅速測図

左富士に至る直前の東海道は、すでに北上してきている。南湖と同じ経度なら、左富士はすでに北上したときに見えたはずだが、ここでは富士は正面に見える。左富士が見えるためには、道は北方向ではなく、もっと北東方向に湾曲しなければならなかった。そして道をそうさせたのが、和田川の東への突き出た湾曲であるといえる。

ここまでは南湖の場合と同様の理解が容易である。ではなぜ、中吉原地区へ西へと向かっていた東海道はここで北上したのだろう。

中吉原の水没

その理由は単純で、中吉原が北の新吉原に移転したからである。延宝8(一六八〇)年、江戸時代最大級の台風が中吉原を水没させた。この水没によって東海道の道筋は変わり、吉原の左富士を見ることができるようになったのである。台風当日の様子は、『田子の古道』に詳しい記録がある。富士市教育委員会発行の「富士の災害史 過去に学ぶ」から孫引用する。

「屋根に上がって四方を見れば、寺町や依田橋あるいは宿場のあった場所は家一軒もなく、また人影も全く見えなかった。ただ悪王子(左富士神社)の森だけが残って、あとは海となってしまった。ひらた舟4艘に運ばれた140-150人がこの森に避難していた。」

左富士神社辺りがいちばん小高かったのである。そして、新東海道はここから分岐して、左富士を見て、土地の高い新吉原へと向かった。
高潮で中吉原の六軒町にあった家2軒が流れて止まったところを潮境として、そこに新宿の東木戸を定めた。現在標柱がある。天和2(1682)年、中吉原宿は陣屋などの宿屋だけでなく、寺社も全て宿全体を移動したのである。現在は、中吉原宿の面影はまったくない。これほどきれいに消滅するものなのか。

「ホントに歩く東海道」の現調で、この中吉原宿跡の道筋を確認できた。たった一つ、左富士橋先の交差点角に中吉原宿遺跡発掘調査説明版があって、それが宿の跡の証拠を示していた。

中吉原宿の水没
中吉原宿の水没

1万分の1地形図に旧東海道の道筋を描きいれてみた。弊社発行予定の「ホントに歩く東海道」第5集の地形図にも描き入れる予定で確認中だ。

中吉原宿・新吉原宿
中吉原宿・新吉原宿
現在の中吉原の旧道のあたり
現在の中吉原の旧道のあたり

中吉原が移転しなければならなかったのは、この地域が水浸しになったからだ。低湿地だったので、道も宿も、もっと高い場所を求めた。新宿ができてから17年後の元禄12(1699)年の高潮では、延宝の高潮より60~90センチも高かったのに、新宿は浸水はしても再移転の必要はなかった。ちなみにこのとき、蒲原宿では、水没のために北の内陸部へ宿も東海道も移転している。

中吉原宿の中心部は、荒田島付近だっただろう。上掲の明治の地図にも集落が残っている。周辺一帯は水田で、島とつく地名が多いのは、その辺り一帯が低湿地であることを示している。明治の地図に荒田島だけが集落として残っているのが、印象深い。

2013年11月22日 (金) FC2ブログ 風人社OHの編集手帳からの転載

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ホントに歩く東海道 第5集