江戸時代の初めに東海道の原・吉原宿の間にある間の宿柏原で起きた刃傷事件は、日が経つにつれて忘れられていった。ウォークマップの現地調査中に富士市のウォーキングコースの道標をふと見たことから、400年前の事件いや物語を、偶然にもそして不思議な展開で、知ることになった。

愛鷹神社参道の標識。葉隠塚とある
愛鷹神社参道の標識。葉隠塚とある

今井公園北の愛鷹神社横道に「葉隠塚0.2km」の道標を見た。オヤっと首をかしげる。現地調査の予習で読んだ数冊のガイドブック、東海道関係本のどれにも葉隠塚のことの記載はなかった。これはいったい、なんだろう。

200m先に行ってみたが、それらしきものはなかった。ちょうど二人連れの男性とすれ違ったので、聞いてみたが、「ここの住民だが知らない。聞いたこともない」とのことで、また首をかしげる。

この日から最終現調の日まで、市役所や地元住民の人など大勢に聞いたうち、葉隠塚を知っていた人は、なんと次に記す一人以外は墓のある毘沙門天の人だけだったという怪事件になってしまった。この調査の成り行きは、もしかしたらまだ終わらないかもしれない。

この日は先を急ぐため、調査は後日に回して打ち切ったが、木之元神社でちょうど祭りに集まっていた長老の方たちに聞いてみた。そこでも誰も知らない。氏子会館に詳しい人がいると聞いて行くと、その中の一人がご存知だった。「昔、武士が切腹した。その墓のことだろう。今はたぶん藪を分けないと見つからないかも知れない」とのことだった。

帰社してから富士市教育委員会に問い合わせると、調べていただけることになった。数日して、事件のながーい物語を記した資料をファクスで送っていただいた。6ページにも及ぶ長文の物語だった。

事件の顛末は、佐賀鍋島藩の古文書「焼残反故」に記録されており、『佐賀県近世史』に所収されて、活字化された。富士市の郷土史家、鈴木富男氏が平成7年発行の『東海道 吉原』(静岡新聞社)のなかで、その「焼残反故」の原文を現代文で物語風に紹介した。FAXしていただいたのがそれである。
その文の末尾には「――いつか忘れられて、その墓のいわれを知る者はいない」と結ばれていた。この結び文も怪しいニュアンスを伝える。

慶長14、5年(1609、10)、参勤交代制が始まったばかりの頃だった。佐賀鍋島藩の藩主10男左近の一行が、江戸屋敷にいる左近の母を訪ねた帰路のことだった。
6月の暑い日で、柏原宿東端に辿り着いたとき、左近の草履持ちの剣之助は、茶屋の前の大甕の水を柄杓で飲んだ。それを同士の挟み箱かつぎの吉左衛門もほしがって、剣之助が水を汲んで渡そうとしたとき、ちょうど馬で通りがかかった京都二条城の勤番鈴木又左衞門に、柄杓の水がかかってしまった。
激怒した22歳の又左衞門は、躊躇する家来の槍持ちに剣之助を突き殺すように厳しく命令して、殺させた。それを見た剣之助の同士吉左衛門は、こらえきれずに、槍持ちにではなく、馬上の又左衞門に脇差を突き出した。又左衞門はそれを避けきれずに手に傷を負ってしまった。
左近の家臣も駆けつけ、又左衛門とのやりとりになるが、周囲は人だかりとなった。その夜に宿で話し合いをすることになって、騒ぎは一時はおさまった。
左近宿泊先の吉原宿の宿主人や、吉原宿本陣に宿泊していた佐賀藩と縁のある尼ヶ崎城主青山大膳の力添えで、仲介によりなんとか平穏に収めようと談判が続けられたが、又左衞門は断固許さない。「たかが下郎一人の無礼打ちで大勢が荷担するなら考えがある」との直参旗本の権威をかさにきて、左近の胸中に鍋島藩お家取り潰しの危機感を抱かせるほどだった。
結局、大膳の顔が立てられ、吉左衛門一人の切腹で収まることになった。その切腹が、武士道「葉隠」の従容とした立派な死に方だったので、剣之助と吉左衛門の二人の遺体を切腹した場所に並べて、墓を設けた。それが毘沙門天裏の林にある葉隠塚である。


私たちはテレビの時代劇で、江戸時代の喧嘩やチャンバラや切腹をよく目にする。現代の私たちの毎日には、殺人事件など珍しくないほどにニュースが溢れている。しかし、以前、東海道現地調査の二宮で、「昔、ここで本当にチャンバラがあったのですよ」と江戸時代から続く家の人の話を聞くと、そのような事件は江戸時代でもさも珍しいことのように思われてしまう。もしかしたら、今より江戸時代の方が、こんな事件は少なかったのかもしれないとも思ってしまうのだ。

葉隠塚の物語は、まるでフィクションの時代劇のような筋運びで、東海道ウォーク中に、こんな江戸時代の現実の事件の跡を知ると、タイムスリップした気持ちになって、葉隠武士の墓に手を合わせたくなるのだった。

しかし、それが手を合わせることは叶わなかったのである。
昨日(2013年7月29日)、第4集最終現地調査では、もちろんここの確認が重要課題だった。道標は、あった。場所も、今度は調べてある。しかし、行っても、見つからないのだ。おかしい。あるべきその前で、人通りのないその場所に珍しく人が来たのできいてみたが、その場所で聞いても知らない。

予定にはなかったけれど、こうなったら毘沙門天に聞くほかない。受付から内線電話で取りつないでもらったのだが、突然の取材は受けられない。確認だけでも、とねばったが、墓は台風で倒れた大木の下にあり、案内できない。見学も遠慮してほしい。もし、マップに塚のことを触れるなら、「非公開」と書いてほしいとのことだった。

私たちは、もう一度、塚付近の現場に戻り、富士市教育委員会の設置だろうと思われる「葉隠塚」表示板を撮影することで満足するほかなかった。でも、この標識があってよかった。この奥に、二人の武士の墓が大木の下にあるのだ。

富士市の葉隠塚標識
富士市の葉隠塚標識

塚(墓)は、もちろん富士市の文化財指定などではないどころか、市史資料関係にも、たぶん上記の鈴木富雄氏の記述しかないのだろう。言ってみれば、別に忘れ去られてもいいB(C?)級史跡(墓)?なのだろう。
しかし私は、政治史上の史跡でなく、街道の道ばたで起こったばかばかしい事実の事件のあとが、わが現調で出会えることの不思議さに胸打たれたのだった。400年前のこの街道で。

この調査の展開は、まだ続くかもしれない、と書いた。ここから東海道マップからは離れるが、これからの調査に少しわくわくするものを感じる。なぜ、この事件は古文書に記録され、大木の下に眠る墓になっても、調査する私たちが現れてしまうのだろう。
「焼残反古」とは、何? なぜ、その書にこの事件が重要だったのか。墓を葉隠塚と名付けたのはだれで、どんな意図、あるいは気持ちがあったのであろう。この先、そんなことが報告できると楽しいけれど。

2013年07月30日 (Tue)FC2ブログ 風人社OHの編集手帳からの転載

追記
2013年7月30日現在、葉隠塚について、唯一見ることができる富士市の公式HPサイト
http://www.city.fuji.shizuoka.jp/ct/other000036700/mappumotoyosi.pdf

上記リンクは無効となっています。下記リンク先に記述がありました。(2025年6月7日追記)
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/documents/13940/rn2ola000004p650.pdf