(ご注意:このブログは、現調備忘録メモですので、校正や確認をしていません。参考にしていただける場合は、そのことに十分ご注意ください。お気づきのところは、お教えください。)
原宿を出てから見る「富士山と愛鷹山」
「海の日」の連休、本来なら所属山岳会の夏山山行「北岳~農鳥岳、白根三山」だろうとは思うが、仕事のマップ現調のことを思うと、そちらに気が向かない。絶対行かねばならないのは、炎天下の東海道道中である。
連休の真ん中の日曜日、早朝に家を出て、新幹線代をケチって私鉄・在来線を乗り継ぎ、JR東海道線原駅に降り立った。原駅は、今回で3度目で、もう馴染みである。渡辺精肉店原店で前回買ったのと同じコンビーフと、今日は試しのベーコンも、高嶋酒造で先日買って人に差し上げた「酒造ご推薦の焼酎」を宅配便で送ってもらおうとの計画だったのに、両店とも今日はお休みで、いきなりの肩すかしだった。せっかく持ち帰りのための大きなクーラーバッグも持参したのに。
高嶋酒造の横道で、大きなボトル数本に「富士の霊水」の水を入れている人に挨拶をすると、「酒屋さんの水だからおいしいよ」との声が返ってきた。酒造がサービスで提供していると店の人から聞いた。一口、手で口に含んだ。まだ、私の体は水分を要求していない。

高嶋酒造正面前に原宿西木戸見附跡の案内板がある。さて、これから原宿を出て元吉原に向かう。沼川の桜並木が気になった。ここは人に紹介したいスポットなので、再確認に行った。来春、桜と富士山、それから愛鷹山裾野トレッキングの計画はどうだろうかと考えてみた。

浅間神社の木陰で一呼吸。涼しい風も通って、休憩にはとてもいい場所だ。歩き出してすぐ、「とうふの渋田」の建物が目立っていた。一里塚跡は案内板があるのみで、何も残っていない。歩きながら右方に目をやると、富士山と愛鷹山の姿が美しい。沼津で見えなかった富士山がここからずっと見ながら歩くことになる。雪の富士山だったらもっと美しいだろうなと、熱い陽射しを浴びながら思う。
沼川第二放水路を新田大橋で越えて、小池薬局の大きな看板が格好の目印になっている小径に入る。ここは車は通れないほどの細い道で、このときちょうどハーレー・ダビッドソンのような大型二輪車と出くわした。踏切を渡ってふり返ってみると、富士山はやはりここでも写真に収めずにはおられない。

先日見た要石神社を再確認した(要石神社については前回のブログを参照)。馬頭観音もそばにあった。村社三社宮の立派な標石柱の向こうに、いかにも村の鎮守神の構えの鳥居と社殿が見える。創建が慶安三年(1650)とあるから、東海道がこの付近に整備され、人が住みつき、村落が出来てからの鎮守の神社なのだろう。要石神社のような小さな山神社は、新田開発ごとに建てられていったようだ。東海道沿線には、たくさんの山神社がある。
大通寺は、スルガ銀行創業者の碑のある門前から入って、左側の庭には、五百羅漢像が集まっている。
このお寺の先に、広い敷地のカインズホームというホームセンターがあって寄ってみた。モスバーガー、たこやき、ラーメンなどの軽食堂があって、醤油ラーメン280円という廉価だったのでそれを昼食にした。

ここの車出口の十字路の角は、愛鷹浅間神社の裏手だった。東海道沿いの玄関へ行くと、鳥居のそばに桃里改称記念碑がある。鈴木助平衛親子二代の新田開発で、このあたりは助平衛新田と名づけられていたが、明治41(1908)年になって、今の桃里新田に改称された。もちろん、明治22年の地図には、助平衛と記されている。
東海道は海と沼の間の微高地を走る
「ホントに歩く東海道」蛇腹折マップの制作過程、最初の段階で、国土地理院の1万分の1地形図や市町村の行政1万分の1地図をスキャニングして、その画像からマップ用のコース図を切り取る作業をする。マップの縦幅は8cmで、コースのラインがマップのほぼ中央に位置するようにしている。その縦幅からコースが外れるところで、マップを区切っているのだ。第4集のこの作業で、今までと違った不思議な印象を持った。そのことは、この新田開発とも少し関係する。
第4集マップNo16は、原駅から吉原駅まで、蛇腹マップの9折分90cm約9kmである。No15の沼津市街を出た後、片浜駅の前くらいまで含めると、さらに30cmを加えて120cmになる。じつはその区間、マップを一度も区切らずに一枚図にすることも可能なのに驚いた(実際にはマップNo16は2図にしている)。それほど一直線であるということ。そして、一枚図になるだけでなく、方角もほぼ北向き地図の東西一直線なのである。


第4集マップNo15の沼津市街を出てからは、海岸は千本松原が延々と続く。それに平行して旧東海道とJR東海道線が走る。その北には、例えば明治22年の地図では、沼、湿地、水田のマークが愛鷹山裾野傾斜の始まるまで広がっている。いわゆる、浮島沼一帯である。
静岡新聞社の『東海道歴史散歩』によると、「この沼の周辺では昭和初期まで、腰、いや胸まで潜って田植えをしなければならなかった」という。
同書からの孫引きだが、柳田国男の『日本の伝説』によると、愛鷹山が富士山と背比べをしようとしたとき、怒った足柄明神に愛鷹山の山頂を脚で蹴飛ばされて、その土が海の中に散らばり、それを集めたものが一筋の台地を形成した。つまり、東海道は、海と広々とした沼・湿地に挟まれた台地上を走っているのだ。
東海道筋に沼川の方から通っている地元の方が話してくれた。自転車に乗って街道に向かうと、ペダルを漕ぐのがつらく感じられるほどに傾斜がわかるそうだ。
一直線道の区間、街道の右方向にずっと見える富士山が美景であることは有名なのだが、吉原に入って街道が急に北へ向かうことによって左富士が現れるのは、まるで作られたドラマのように劇的だと思う。長距離の区間、右手にずっと美しい富士を見ているからこそ、左富士が驚きを伴って美しいのだろう。
東街道が北へ方向転換するのも、じつは新田開発と同じく水害の問題を原因としている。東海道は、新田開発までずっと水浸しに難儀していた。吉原宿は、度重なる津波被害によって、元吉原から中吉原へ、そして新吉原へと移動して、東西「ふんどし」一直線道の東海道をここで北転させたのだった。
お洒落な本屋さん
昭和になって完成した昭和放水路の基礎を作った増田平四郎は、放水路脇に記念碑が建てられている。東柏原新田に入るところで富士市に入る。その直前に八幡宮がある。ラーメンショップの駐車場を挟んで、県道380号(千本街道)と旧東海道は合流する。
その北側、東海道線を越えた脇に山の神古墳と庚申塚古墳があるので見に行ってみた。説明板によると、庚申塚古墳は、全国に数基しかないという珍しい「双方中方墳」とあり、5世紀後半から六世紀前半のもの。山の神古墳は、前方後円墳。6世紀後半から七世紀初めのもの、とある。
二つの古墳は、小高い丘の上にある。古代にこの付近が少し高い砂州列になっていて、古東海道はそこを通っていたのではないかという説を読んだ。つまり今の東海道は、古東海道よりも新しい砂州列に造られたのだろうか。
旧東海道に戻ると、すぐに東田子の浦駅入口に着く。右側に第六天社、左に延命地蔵尊がある。私が訪れた日はちょうど地蔵尊の祭り日で、年に一回だけご開帳される地獄絵屏風を見ることができた。この屏風は別のところに保管されていて、この日だけ、この地蔵堂に展示されると、地元の人が教えてくれた。

延命地蔵の手前の旧東海道沿いに、とてもおしゃれな本屋さんgrow booksがある。ここは富士市柏原新田で、JR東田子の浦駅入り口交差点だ。沼津市の原宿ではなく、東京原宿の店舗みたいな雰囲気だ。オーナーの方に挨拶できて幸運だった。5年ほど前に書店員さんから脱サラしてこの店を開店されたという。ずっと以前からの夢の実現だったそうで、その思いは店内空間の雰囲気でよく伝わってくる。ぜひこのお店に、私たちのマップを展示してほしいとお願いした。オーナーのブログも雰囲気がある。

熱中症と腹冷やしの危機
さてこの日の現調の目的の一つには、東海道から遠く遠回りをして浮島ヶ原自然公園に行ってみることがあったのだが、結論からいうと、それは挫折した。
昭和放水路を広沢橋で渡った先の一里塚跡を見て、放水路に沿って北上し、ショッピングセンターのピアゴで右折してバイパスを東に戻れば、浮島ヶ原に行けると思ったのだが、それが大アマであった。
放水路沿いはもとより、他にも北上する道が見あたらない。西へ進んでも地図上に北上路はないし、もし西へ行くと、さらに遠くなる。それで、来た道を東に戻ると、西柏原交差点の秋葉常夜燈の北側に細い道を見つけた。見ると、なんと東海道線をトンネルでくぐっている。やったね、とそのときは思ったのだが。
前川に突き当たって、それを渡れない。右折して広い道に出て左折すると、バイパスを越える陸橋があって、ここでもヤッターと思ったのだが、すでに炎天下の長時間歩行で、日焼けも感じるし、汗だく状態で体調はかなりヤバイ状況であった。
若い人の車が暑さでエンストしているのを見ても暑いし、その脇に小公園があって、そこの水道の蛇口から水をがぶ飲みし、頭からも水をかぶった。でも、そんなもので体温は下がらない。
私はもうずいぶん以前に、本物の熱中症を経験している。8月の猛暑日に一人で数十冊の本を大きなバッグで両手に持って、取次のトーハンまで徒歩で納品に行ったときのことだ。喫茶店でアイスコーヒーや冷たい水を何杯も飲み、クーラーの吹き出し口で冷たい風に当たり続けても、体の火照りが冷めない。汗はだらだらとは出ない。夜になって気温も下がって、就寝してからも体温は下がらない。
それが数日も続いた。けれど、会社は休まずには済んだ。でも、そのときのつらさの記憶があって、このとき、水道の蛇口の水を浴びながら、今日はやばいかも、と熱中症のことを思い出していた。
歩道橋を渡ってバイパス沿いに行こうとすると、その先に側道の歩道はない。仕方なく北上すると、その道は行き止まりになる。この右往左往で、目的遂行気力は失せて、ギブアップを決めた。次には、ぜひとも行きたいのである。
今これを書くために地図を見返すと、前川まで戻り、前川沿いを東に行って、大通りで左折すればよかった。しかしこの場合、本日の終着地吉原駅へは6時を過ぎてしまうかもしれない。5時頃吉原の予定で、6時に沼津でのアポイントがあったので、ギブアップの決断は仕方のない正解だっただろう。
自動販売機が目の前にあって、冷たいジュースを一気のみしてしまったのがまずかった、ここから一里塚に再び戻り、道標、米之宮神社、淡島神社を確認し、愛鷹神社に来た頃に、冷え腹の苦痛が始まった。これ以降に休憩場所はどこにもない。しかし、とても吉原駅まではもたない。
地図でマークした富士マリンプールが目に入った。SOSでお願いしてみよう。果たして、幸いなことにプールの駐車場にトイレがあって助かった。ついでにエントランスからプールを見学させてもらった。
その後、庚申堂、天文堀顕彰碑を確認し、次の愛鷹神社に寄る。富士市には、愛鷹神社が8つあるという。その後、街道にまた一つ、秋葉常夜燈を見つけた。
よく残してくれているものだ。なぜか常夜燈の中にコップの水が置かれていた。

立場旅館前が毘沙門天妙法寺の入口だ。長い階段を上る。ここは日本三大ダルマ市の一つとして有名だそうだ。このとき突如夕立が来たが、境内の大きな木の下にいて雨にあたらず、3分もせずに雨はやんで傘は不要だった。
ビジネス鈴清を過ぎ、その先で左折して次の愛鷹神社へ寄る。そこの道標に「葉隠塚200m」と書かれてあったのが気になって、行ってみることにしたのだが、見あたらない。通りすがった近所の人に聞いてみたが、知らないという。そろそろ吉原への到着時間が気になり始めていたので、悔しいけれど、今日は断念することにした。

愛鷹神社から、東海道線向こうに日本製紙の大工場が見える。とても高くて大きな煙突があり、いかにも工場らしいベルトコンベアなど、巨大な軍艦のようにも見えて迫力がある。

時間を気にしながら、最後に木之元神社に寄ってみた。ここでも今日はお祭りで、氏子さんたちが打ちあげの宴会を境内で開いていた。
葉隠塚のことを聞いても、誰も知らない。そしたら長老の一人から、氏子会館に詳しい人がいるのでそちらで聞けと言われた。会館の中の一人がご存知だった。「武士が切腹した。その墓のことで、藪を分けないと見られないかもしれない」とのことであった。今、富士市のHPで見て、やっとわかった。現物は未見なので次の調査で確認したい。
富士市教育委員会が健康作りのためのウォーキングコースを作った。そのコースの一つのポイントにこの葉隠塚がある。寛永年間(1622~44)に起きた刃傷事件(切腹ではない? 要調査)で、二人の鍋島藩士が亡くなり、その二人の墓だという。鍋島藩士だったので、武士道の「葉隠」の名がついた。
東海道の旧道は、ここで木之元神社からさらに西へ行き、沼川の落合橋へまっすぐ北上するのが旧道らしい(廃道と赤道)。
そのあたりのことからは、次回第5集の調査になるだろう。今日は、予定通りぴったり5時に吉原駅に着いた。吉原宿の「つけナポリタン」?!は、次の調査のお楽しみとなった。「つけナポリタン」とは、スパゲティのつけ緬だそうで、吉原の新名物だと教えてくれたのは、散歩かふぇちゃらぽこさんである。
2013年07月16日 (Tue) FC2ブログ 風人社OHの編集手帳からの転載
該当マップ 『ホントに歩く東海道』第4集
