歌川広重の東海道53次「沼津黄昏図」(図)の中央に描かれた橋が三枚橋だとすると、現在の三枚橋はどこにあるのだろう。

沼津の郷土史家・仙石規さんに案内されて見た橋には感動した。現在の1万分の1市街地図の昭文社版にもゼンリン版にも、国土地理院の地形図にも、この橋名の記載はない。
東海道ウォーク関連の本を数冊あたってみたが、三枚橋城や三枚橋町の記載はあっても、橋の写真はもとより、名称さえ記されたものは、いまのところ見当たらない。(これから探す)。ただし、インターネットにアップされた写真はあった。
私は沼津市の地理・歴史についてほとんど無知状態なので、まず沼津城と三枚橋城の違いもわからない。歴史関係本にも、これを同一視している本もあったが、違いはすぐに理解した。
三枚橋城の名前の由来を知りたくて、沼津市文化財センターに問い合わせると、「そんな質問は受けたことがない。調べるので時間がほしい」との驚くべき回答だった。三枚橋城の名前由来が、三枚橋と直接関係あるのかを確かめたかった。しかし、数時間して電話でいただいた回答は、とてもよく調べてくださって、丁寧でわかりやすいご回答にとても感謝した。
沼津のどんな観光案内書にも記載のある三枚橋城という名前は、歴史の古文書の中に一切見当たらないという。これは最初にセンターの方がおっしゃったことだ。この地はもと北条の領地だったが、ここに築城した武田家側の築城に関する手紙の資料などによると、「沼津の城」と呼ばれていて、「三枚橋城」の名称はない。
一方、三枚橋という地名は、鎌倉時代からあったことがわかっているそうだ。元の領地であった北条側の文献には、この城のことは、「三枚橋の城」と記されているそうだ。
三枚橋城は、武田信玄生存中の1570年築城説(勝頼築城説もある)があるが、武田家滅亡後、徳川の家臣大久保忠佐が最後の城主となって、廃城した。その後の1777年に、水野忠友に城地を与えられて、沼津水野藩の沼津城となった。
城のことはいい。問題は三枚橋自体のことだ。三枚の石板でできた橋というのが名前の由来だが、ではどの川に架かっているのか。狢川という。狢川の水源地はどこか。センターの方がこれも調べて教えて下さった。
沼津市北東部にある門池から出ている何本もの幹線河川でなく、毛細血管のような支流として流れ出て、現在はほとんど暗渠となって川面を見ることができないが、東海道三園橋のすぐ脇に、開渠された川の上にかかる橋があるのを、仙石さんは案内してくれたのだ。

これが、歴史的に重要な橋なのである。同行してくれた毎日新聞沼津支局の記者もびっくりしていた。たぶん、どの東海道関連本にもこの橋のことは未掲載で、沼津市民にもあまり知られていない。仙石さんから、これから作る私どもウォークマップ「ホントに歩く東海道 第4集」に、この橋のことを記載するようにアドバイスを受けたのは嬉しい。

上の写真は、三枚橋の上から狢川を覗いたところだ。左の木は、伐られずに残されている。もと、トヨタ自動車の販売所で、現在は、フォルクスワーゲンの店舗だ。なんとも風情ある光景だ。この先でまた暗渠となって狩野川に注ぐ。
2013年06月19日 (Wed) FC2ブログ 風人社OHの編集手帳からの転載
該当マップ 『ホントに歩く東海道』第4集

